コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカウンセリング 2月

2009-02-27 04:03:33 | 真宗カウンセリング
真宗カウンセリング研究会では、10回連続のミニカウンセリング研修会というプログラムがあるが、その連続研修のない時期に月一回のペースでミニカウンセリングの実習会がある。

来年度のパンフレットの打ち合わせもあるということだったので、久しぶりにミニカンに参加した。

過去にミニカンについてもこのブログで取り上げているが、私にとってとても心地のいい空間で、話を聞いてもらうことで自分で気づいていない(あるいは気づいていても隠している)自分自身に出会える時間だったりする。
逆にそのことが「自分に向き合いたくない」気持ちを持っているときは近づきたくない時間・空間になってしまう。
そういう感じがあったので、1年以上ミニカンから離れていた。

しかし「打ち合わせ」ということと、たまたま連れ合いが早く帰宅したことで「出られるときに出ておこう」という気持ちになった。
その時点では「近づきたくない」という気持ちを”忘れていた”

開始時間になり、部屋に入った瞬間は「あぁ久しぶりの雰囲気だな」という気持ちがメイン。
しかし、チェックインで順番に今の気持ちを話していくにつれて、私の「今の気持ち」は「しまった」というものに変わってしまっていた。
ただ、その気持ちを誤魔化すのではなく、そういう気持ちでいることを、ちょっとだけ意識して言葉にしてみた。
ある意味、それが自己一致の状態だったのか、少し楽になった気がする。

その後二人の方とペアを組んで、2回実習をした。
最初は昨日あった出来事を通して、具体的に現れていた感情の話を。
二人目には、ここの所ずっと感じている、漠然とした思いを。
聞き役のときはブランクがあるわりに、自然と話を聞かせてもらっていた。

しかし、二人目の方に話をしているうちに、どんどん自分の底の方にある気持ちに近づいている。
じょうごに水を注ぐと、周りのほうから渦を作りながら中心に流れていくように、漠然と周辺の話をしているうちに中心の方へ進んでしまうのだ。

結局、自分のやばい部分に向き合いたくないという気持ちまで到達したところで、そのやばい部分には触れないという確固たる気持ちを選択した。
そういう気持ちを持っている今の自分だという所までは向き合って、その中身はそっとしておく…
言葉にすると良くわからないかもしれないが、私の中でははっきりと限界点が現れている。

ある意味、そういう自分に”ならせてもらえる”というミニカンの醍醐味は味わえた。
とても素晴らしい時間だ。
だからこそ、今の自分にとっては怖い時間だ。

ミニカンの時間じたいは良かったのだが、その後出来事が起こった。
いつもは閉ざしている部分を結構むき出しにしている状態のときに、ある人から投げかけられた言葉…普段なら何気なく受け止める言葉が、妙な部分を刺激した。
あふれだすネガティブな感情。

自分を開いていくという快感と、無防備になってしまう弊害。
まぁ、問題は問題として向き合うとして、自己完結ではなく又誰かに聞いてもらうことで整理していければ…良いんだけどね。

こういうことを書いてしまうのも、無防備の現れの一つか。
まぁ、これも私の姿ってことで、さらしておくことにしよう。

「でなきゃよかった」とだけは思いたくないしね。

信心決定 ~捨て物~ (京都支部法座)

2009-02-24 00:24:18 | 真宗

22日は京都支部法座でした。

誓願不思議ということを通じて、「不思議」を味あわせていただきました。

衆生の七不思議として「生・老・病・死・罪・禍福・因縁」というのがあるのですが、これらは私の思いや力でどうにもならない、思議できないということで「不思議」なんですね。
一般的な「ミステリアス」というような得体が知れない不思議じゃなく、計ろうことができないという「不思議」

そういうお話を聞かせてもらって座談会でいろんな方のお話を聞かせてもらうのですが、やはり気になるのは「信心決定したい」という力の入った言葉。

先日書いたことに思いがつながってきました。

信心決定したい
後生の一大事を解決したい
六道から離れたい
どうにかして聞きたい

これらはみんな「私」が主語ですね。

「諸仏に誓い、衆生に願う」のは阿弥陀仏なんですが、そんな弥陀の言葉に耳を貸さず「私が誓い、私が願う」ことをしてしまう。
誓願を”思議”しようとする姿です。

信心決定させる
後生の一大事を解決する
六道から離れさせる
どうにかして聞かせる

が誓いであり、願いであると言うのに。

それらを、今の今「ただ聞かせてもらうのです」と先生がおっしゃっても「どうやったら”ただ聞く”になるのですか」と自分で聞こうとしてしまう姿。

そうやって、自分でなにかアクティブに動いていれば近づけると錯覚、あるいは手ごたえを求めるほうが楽なんでしょうね。
だから「宿善を積め」と言われるとがんばって宿善を積もうとする。
それが財施であったり、聴聞にがんばることであったり、いいように踊らされてしまう。
そうやって宿善をつもうと躍起になる裏で、どれだけ宿業が深まっているのか…

弥陀の誓願は「宿善を積んで来い」でも「後生を解決しろ」でも「人生の目的を持って生きろ」ではなく、ただただ「任せろ」なんですよね。
「任せろ」と言えるだけの願と思惟と行を達成したのが「南無阿弥陀仏」の姿なんですから、もう先に用意されている。
そこに私が頑張る余地などないんですね。

いや逆に、そういう「頑張らなければ」という思いが、不思議に逆らい、弥陀の誓願を疑う「仏敵」の姿ですね。

「信心決定したい」という思いは”用がない”ということを聞かされてそのまま”用がない”と受け止める姿…それが捨てると言うことですね。
頑張ってなにかを手放すことじゃない。

「聴聞につきる」というのは、頑張って聴聞することじゃなく、頑張っても駄目だということを聞かされること。
何を聞くかを横において、形だけ聞くフリをしても駄目なんですね。
もっとも、一生懸命な方は、「フリ」だなんて思ってないでしょうが。

過去のコラムにも「聞く」をテーマにいくつか書いてますので、ぜひご覧ください。
コラムはこちら


真カ研月例会 2月

2009-02-19 18:43:31 | 真宗カウンセリング
1月の世話人会をはさんで、2ヶ月ぶりの輪読会。
この一年進めてきた「いかにして援助的人間関係をつくるか」の中の「ガイダンスの核心」最終回。
この論文を通じて、ロジャース氏の示してきた「仮説・実証・結論」の流れを振り返らせてもらい、当時は画期的だった「クライエント中心」の考え方をあらためて感じさせてもらえた。

私の場合、先に「関わり」ということを大事にし、実践し、導いてくれる先達の姿を追うことからはじめていたのだが、そのことで理屈や学習と言うものに後から触れてきた。
まず、そういう人たちが作ってくれる「関係」に心地よさを感じて、それを求めていたのだ。
次にカウンセリングを学ぼうと思ったときも、ミニカウンセリングの実践・体感を通じて「聞いてもらう」ことを身体で感じていった。

今回の輪読を通して、大事なことはカウンセラーの態度であり、それはカウンセラーの「頭」から生まれるものではなく、「クライエントの反応」をカウンセラー自身が「触れて」生み出されてくるものだということを感じた。
もちろん、そういう「クライエントの反応」を知覚すための経験も必要だし、そういう反応に対応していく経験も必要だろう。
しかし、それらは机上で作り出されるものでも、理論で想像されるものでもない。

すでに実践されている「態度」に触れること。

そういう意味で、私はもっとも正しい「進み方」をさせていただいている。
(道が正しいからといって、私の身に正しく染み込んでいるとは限らないが)

逆に、ロージャース氏がしっかり検証されているもんだから、それを消化したつもりになって先に進もうとしてしまう動きもある。
だからこそ、こうしてロジャース氏の元に返って、根本を見直すことも大事だろう。


今回、他の方と話し合いながら振り返っていくうちに、この流れと仏法を求める流れに非常に近いものを感じた。

すでに出来上がっている先達の姿に、ついついその手法や立ち居振る舞いを模倣しようとしてしまう。
手っ取り早く、結果だけを取り込もうとするのだ。
しかし、経験すべきはそういう外側でなく、そういう態度であらしめる「根本」のほうである。

カウンセリングの場合だと、クライエントを大事にしょうとする「人間観」、仏法の場合だと、なぜ救おうと願われたかの「生起本末」。
それらを抜かして、小手先に走っても得るものはない。

さてさて、そういう私はどのあたりにいるのか…
それはほっといても、私自身からにじみ出てくるもので周りの人が判断してくれるだろう。
「どう見られるか」を磨くのではなく、「根本」を磨いていくだけだ。

仏像・お名号

2009-02-16 23:35:09 | 真宗

先日、インド旅行に行っていた知人からお土産をいただいた。
紅茶や織物といっしょに小さな仏様をいただいた。
今はパソコンモニターの上でいつも私を見つめていてくれるが、ちょっと出かけるときに荷物に忍ばせるのもいいかもしれない。

この仏様と出会ったことで、拝む対象と言うことを考えてみた。

いろんな社寺をお参りさせてもらうと「ご本尊」というものに出会う。
「本当に尊い」ということだろうか。
人々はそこにお参りすると、そのご本尊を拝む。
あるときは祈りの対象であったり、あるときは願掛けの相手であったり、頼るべきものだったりする。

私は浄土真宗を聞かせていただいているので、私を救う対象は「南無阿弥陀仏」という名号であり、そのお六字に込められた「願い」であり、「力(行)」の因によって、迷いから悟りの世界へ開いていただける。

じゃあ、その「名号」だけしか拝まないのか?
いろんなところで話題にされる諸問題の中に「六字名号」以外は拝むなと言うものがあるらしい。
さらには、そのお名号も「親鸞聖人直筆」に価値があるとか…もっとも本当の直筆など数えるしかなく、それをコピーしたものでしかないのだが。

この目の前にある「名号」というのは、ただの「形」であり、その「物」に用事があるんじゃない。
「南無阿弥陀仏」と言ったって、漢字の羅列であり、もとは凡字であり、その前はただの音だ。

本来、阿弥陀仏というのは形も音も匂いも何もないもの。
じゃあ、空想のものかと言うと、この私が認知できるものと言う意味では何もないが、「働き」として確かに”在る”。

しかもその働きは、私が認識しているときだけ”在る”のではなく、常にあらゆる場所で働き続けている。
そういう私が、ご縁にあったときだけ「あぁ」と気づかされ、南無阿弥陀仏と私の声となって”現れる”
(昔、「カーナビと阿弥陀様」なんてコラムをかいたこともありました)

そうすると確かにストレートに「お名号」という形で目の前にあれば一番ご縁につながりやすいだろう。
だから、木像より、絵像より、「名号軸」を尊ぶということもわかる。
でも、そのことをして、他を一切否定するのはいただけないと思っている。

そのお名号が「直筆」か「コピー」か、「真筆」か「他の人の筆」か、そんなところに価値を求めている時点で、本来の「南無阿弥陀仏」のおいわれ、お働きからはなれたところに思いが散っていき、ましてやそこに利害や争いが生まれてしまっては、なにをしていることやら。

モニターの上に鎮座している作り物の仏様を通じて、働きっぱなしの阿弥陀仏に出会わせていただき、忘れっぱなしの私を突きつけられて、一言「南無阿弥陀仏」と返させていただく。
ふっとかばんを開けたとき、出会う仏様もあるだろう。

パソコンのモニター越しに、誰かが書いた言葉のフォントにお念仏することもあれば、車を運転中に飛び込んでくる夕焼けの色に返らせていただくこともある。

物にこだわるのではなく、私の中にすでに働き続ける「願い」と「力」を思い起こさせていただく「よりどころ」が大事。

そう、こういうことをあらためて思わせてくださるために、この小さな仏様はインドの地で作られ(生まれ)、幾人もの人の手を通じて、今私の目の前に届いてくださった。
あぁ、まさに私に届く「願い」のつながりが具現化されたものじゃないですか。

南無阿弥陀仏


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 番外編

2009-02-15 19:57:39 | 親子コミュニケーション
今日は保育園の大行事「音楽フェスティバル」でした。
京都市内の保育園を6つのブロックに分けて、二日間で演じるフェスティバル。
うちの子の保育園は二日目の午前の部。
昨晩、熱を出していたので心配したのですが(私ら夫婦もインフルエンザで共倒れの週だったし)本人は朝になるとけろっとしており、心配の種はインタビューされたときに何と答えようかという問題(笑)

4人の子どもがそれぞれ2回(年中・年長)参加してるので、もう8回目ですか。(実際は参加してない年でも役員として見に行ってることもあるから10回)
毎年、子どもらの名演に感動させられます。

中身も鼓隊やカラーガードを駆使する園や、器楽演奏主体の園までいろいろ。
そんな中で、各園の特色が現れて面白かったですね。

結構難しい曲(変拍子まで)を一生懸命クリアしようとしている園もあれば、完璧なアンサンブルをきちっとこなそうとする園もあるし、逆に数人の演奏上手な子をメインにして周りがサポートする感じの園も。
まぁ、考え方はそれぞれですから、どれが良い悪いなんてことは申しません。

ただ、どうしても自分の子どもの園は贔屓目に見ちゃいます。
ここは毎年、客を楽しませることで子どもらも一緒に楽しむ(思い出のインパクトが強い)ことを第一に考えているという…こういう発想大好きです。
(他の園からはやりすぎだと批判もあるらしいですが)
まぁ、指揮をする先生が扮装をしたりして受けを狙うんですから、やりすぎかもしれませんが…(笑)
でも、あくまで主体は「子どもらが楽しむ」ってことを外れてませんから、私は支持してます。

完璧なアンサンブルをこなして「充足感」というところで思い出を楽しむ子もいれば、イベントとして「面白かった」というところで思い出を楽しむ子がいてもいいじゃないですか。

その日の演奏した様子をネタに、食事のときに「良かったよ」とか「楽しそうやったね」という風に会話を楽しむ…そういう時間を持つことが、子どもにとっては何よりでしょうしね。

どの園の先生も「がんばった子どもを抱きしめてあげたい」と話されてました。
そういう単純なことが大事な気がします。

信心決定 ~どこまでも自力~

2009-02-12 00:04:08 | 真宗


暇があると、ネットでいくつかの真宗関係サイトを回ったりするけど、結構そういうところで刺激を受けて「私はどう聞かせてもらってるだろう」と
いうことを考える。

うん、やっぱ私が語れるのは「こう聞かせていただいています」というところでしかないですね。

で、最近見たサイトで「信心決定」が話題になっていた。
それを絶対の目標にする…あるいは、それはそういう目標を持たせることで思考操作している…などと。
もうこの時点で駄目ですね。
「信心決定」が目標?

弥陀の本願というのは、「お前を救わせておくれ」というものですよね。
知恵も力も無い、ただただ罪業を積み上げることしか出来ない私に向かって。
「信心決定せよ」などと、一言もおっしゃってない。

その「救わせておくれ」の声に、「あぁ、なにも私のほうに手立ては無かった、すべて用意されていた」と、「私の成すことはすべて地獄一定でしかない。堕ちるのが元々。お救いを沙汰する立場のものじゃない」と、自力が無効になる。
自力を捨てよといわれても、どう捨てようとかいうふうに、すぐに自力で自力を片付けえようとするものに、捨てようが無い。
用事が無いものだと、手放させてもらうだけ。

そんなやつが「信心決定」などと目標を持ったら、「なんとか」「どうやって」「あれがわかれば、これがわかれば」とどんどん自力の迷宮に落ちるだけ。

じゃあ、「信心決定」とは…
「救わせておくれ」の願いに討たれたなら、ああもこうもない、ただ「南無阿弥陀仏」にお任せ。
「ただ」も「お任せ」もいらない、「南無阿弥陀仏」
そんな身になった自分を振り返って「あぁ、これが信心なんだ」と定まること。
先に追っかけるもんじゃありません。

で、そういう身になった人は「信心決定しました」なんてうそぶかない。
そんな「信心決定」にはもう用事はなく、ただ「南無阿弥陀仏」

人に「あなたは信心決定したんですか」と問われると、そういう人のご縁を通して今一度「何を聞かせてもらったのか」と帰らせてもらうだけ。
「こう聞かせていただいています」と。

まぁ、あこがれて追いかけたい気持ちもわかりますけどね。

日曜礼拝 2月

2009-02-09 01:23:40 | 真宗
今日は日曜礼拝でした。
ご法話は、今回が日曜礼拝では初法話というOさん。
テーマは「無常」でした。

こうやって仏法にご縁があると、この「無常」というのは結構身近なテーマですね。
しかし、子どもたちに実感してもらおうと思うと中々難しい。
「死」ということと向き合うことですから。
今日のO先生は、そこのところをご自身の幼少の体験を通じて「死ぬかもしれないと思ったこと」を話してくださった。

そのあと、子どもらは学年ごとに、大人は一まとめで分かれての座談会。
そこでご法話を振り返りながら話し合うんだけど…

「無常」という言葉は、真宗を求めだすと当然のようにぶち当たる言葉で、自分の命が「いつ尽きるやわからない」というところで「とり詰めて」聞いていくことを大きな課題としていかれる。
しかし、そうやって「無常をとりつめて」と口にする人ほど、無常を人事にしてしまうんじゃないでしょうか。

「無常」と聞かされ、それがわが身に突きつけられたならば、「無常」をどうこうしようなんてことは矛盾のきわみで、そんな悠長なことを言っておれないということに驚き、哀しみ、困惑してしまう。

自分で頑張って取り詰めるものではなく、ましてやこの身はどこまで行っても無常を無常と知れない身であると、そこに極まってくるところに「だからこそこの願を成就した」という弥陀の光が降り注いでいるんですね。

今日のご法話で、「無常のことをインドでは”非常”とも言います」ということを教えてもらいました。
非常事態…もうとんでもない状態になっていることを、自分で知るんじゃなく「大変だぞ!」と知らされているんですね。
自分じゃ何とも無いと思っていても、もう事態は起こっているんですね。

また、座談に始めてこられた方ともいろいろお話するご縁がありました。
「信心決定したい」「後生の一大事の解決がしたい」
いろいろお尋ねしていく中で、やはり「無常や罪悪をとりつめて…」ということをおっしゃる。
こちらが頑張って「決定」とか「解決」とか「とりつめて」なんて言っている間に、もうまっさかさまに堕ちている。
すでにそんな私はお見通しで「だからこそのお救い」と南無阿弥陀仏が用意されている。
どうか「帰命」しておくれよと。
「あれがわからないといけない」「これが納得しなけりゃいけない」なんてことは何一つ無いし、そんな暇も無い。

じゃあ「決定」とか「解決」とか「とりつめて」なんてことは無駄なのか…
いえいえ、そういうことを問題にして、こうして法座にお参りされて、座談と言う形で言葉を交わすことがどれほど稀で、どれほど尊いことか。
そういう問題にひっかからずに、「救いを必要としない」人もいれば、「もう勝手に救ってくださるから」と帰命を投げる人もいる。
それぞれの人がそれぞれの人生を歩んできて、その問題にぶち当たり、求めだすこと。
ただ、いつまでも「どうにかして今の自分から変わろう」というところを振り捨てて、この私は「どうしようもない」というところに実機を見る(見せられる)
そうするところに自他力廃立があるんですね。
まさに「求め、捨て、転ぜられる」

ある方が「すぐに間違ってしまう私を教えてもらいに来ました」とおっしゃいました。
どこまで行っても、自分中心に取り込んでしまう自分に気付けたら、あとはそんな自分を頼りにせず、相手にせず、本当の自分お姿と、そこにかかる願いを聞かせてもらうだけですね。

なんか、久しぶりに熱く書いてしまった気がします。
やっぱり、法座はいいですね。

厄・災い

2009-02-07 00:05:00 | 真宗
先日、ある人と話していたら「前厄だから…」と気にされていた。
今年になってからお子さんが入院したり、体調が悪かったりしているらしい。
「やっぱり前厄だからかなぁ」と。

以前、因果応報で書いたけど、その年齢だから災いが起こるというところには、何の因果関係も成立していない。
つまり迷信である。

たとえば今年日本で新成人となる人は133万人だと言われて言われています。
仮のこのうちの何人かがこれから20年間で死亡するとしても100万人からの人が厄年を同時に迎えるという…

これだけの人数がいれば、”嫌なこと”がその前後3年間に一度でも起こる人もいるでしょう。
そういう人の話を聴いて「やっぱり厄年だから」と気にしてしまう。
起こることは「自分に因がある」ということを受け止めるのは辛いので、外に原因を持っていきたくなる。
「厄年だから」というのはそういう言い訳にうってつけなんですね。

たまたま何も起こらなかった人は「厄払いをしたから」と安心する。
いや、たまたま自分の業縁がその3年間に花開かなかっただけなんですけどね。

では「厄払い」をした人に”嫌なこと”が起こったときはどう思うのか…
「やっぱり厄なんて迷信だし、厄払いも関係ない」などとは思わないで「お払いが足りない」あるいは「お払いをしたからこれくらいで済んだ。○○さんはもっとひどい厄が降ってきた」などと、決して役に立たない厄払いしてくれた神仏を恨んだりしません。

まぁ、こういうのも気の持ちようで、「厄払い」ということを通じてポジティブに考えられるのならそういう効果はあるでしょうね。
でも、体調に不安が出てきたりするのは、その3年間の厄のせいではなく、年齢を重ねるに伴って衰えてくる自然のことです。
30を過ぎた頃、20代のときように無理が利かなくなってきますし、仕事と責任がのしかかってくる40代前半は一番辛い時期なんじゃないでしょうかね。
そういう統計的なものと、心理操作で「厄」と言って祈祷やお守りなどの商売につなげる…
いや、元々は真剣にその人の不安を解消するために方便で使われていたのかもしれませんがね。

おなじように、先日の節分でどちらかの方角を向いて巻き寿司を食べると一年間健康でいられるという…まったく、その方角や巻き寿司と、私の健康にどういう因果関係があるのか…
しかも、聞くところによるとこれは関西だけで言っていたそうな。
住むところで災いが変わるというのも…ねぇ。

しかし、こういうことをただ迷信だからと切り捨てるのではなく、そういうことにすら頼ってしまいたくなる「私の気持ち」の問題を見つめる必要がありますね。

元気でいたい、健康でいたい、幸せでいたい…
裏返せば、良い状態のままで居続けられない私の悲しみ。
無常ですよね。
苦ですよね。

そういうことを遠ざけるのじゃなく、わが身に引き寄せて「事実」として見つめていく。
仏教の基本は釈迦族の王子が四つの門を訪ねたときに出会った「苦しみの姿」を見つめて受け止めるところからは始まっています。
祈祷やお守りで誤魔化さず、無常を無常と知らせてもらうことから…

南無阿弥陀仏

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 36

2009-02-06 00:48:25 | 親子コミュニケーション

目に付いたニュースの話題から

赤ちゃんを抱きながら、携帯電話などに夢中のパパやママはご用心--。生後5か月の赤ちゃんは、人の顔を正面からは「顔」と認識できても、横顔では認識できないことが、中央大と自然科学研究機構生理学研究所の共同研究でわかった。

 米専門誌「ヒューマン・ブレイン・マッピング」の最新号に掲載される。

 研究チームは、5か月児と8か月児計20人に、知らない女性の正面からの顔と横顔の画像をそれぞれ5秒間見せたときの脳活動を計測した。

 その結果、5か月児も8か月児も正面の顔を見せると、顔の認識に重要である右脳側頭部の活動が高まった。

 だが、横顔を見せても5か月児では変化がなく、活動は8か月児で高まった。

 実験を行った同大の仲渡江美研究員らは「特に月齢の低い赤ちゃんとは、目と目を合わせて接することが大事だ」と話している。

読売新聞

こういう学術的な裏づけが出てきたわけだが、そういう研究的な観点じゃなくとも、目と目を合わせることは大事だということは今までも話題にしてきた。

認識するからとかしないからとかじゃなく、コミュニケーションをとるときは、じっと目と目を合わせておくようにしたい。
だって、子どもの顔って見飽きないじゃないですか。

ということを思いながら、でも実際生後数ヶ月のことを思い返してみると、時間関係なしに泣いたりする子どもに、徐々に余裕がなくなり、ゆっくり向き合うよりも片手間になってくるのは仕方ない気がする。
仕方がないからこそ、ちょっと意識して、ゆっくり向き合うことを考えて欲しい。

そういう意味では、「こういう研究結果があるから、正面から目と目をあわせましょう」というこのニュースにも大事な意味が出てくる。

年齢関係なしに、時々は正面からじっと見つめてあげてくださいね。
ついでに、ギューっとだきしめてあげるのも一緒に。

 

 35-「流れていく思い」
 34-「まず家庭で話し合ってみる」
 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ