コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

社会活動…全部清算完了

2023-04-30 08:08:39 | 日常雑感


この4月末であるお役目の任期が終わる
2年更新で、問題なければそのまま継続するのだが、今回更新しない選択をした


保護司


更生保護を助けるボランティア活動であり、法務大臣から委嘱された非常勤の国家公務員(ただし無給)
主な役割は「保護観察期間」のある方と定期的に面談し保護観察をすること
分かりやすいところでは「執行猶予〇〇年」という刑を受けた方で保護観察付という条項がある方と執行猶予期間中お付き合いをして、再犯防止・更生のお手伝いをすること
仮釈放の方にも保護観察期間がある
また刑にはならない非行少年の更生保護もある


当然守秘義務があるので、具体的なことは書けませんが…


で、この定期的な面談は自宅を利用して行う
ここには家族の理解と協力が必要だ
「賛成はできないけれど、大事な役割だし…」というのが正直な家族の反応
この役を引き受けだした頃は、息子らはまだ中高生だし、年頃の娘も家にいる
更生を目指しているとはいえ、一度は罪に手を染めた方々だ
不安に思うのは仕方ないだろう


それでも、私が元気なうちは仕事やほかの役割もこなしながら、時間をやりくりして面談時間を作っていた
しかし、私が体調を崩し、週の半分を通院治療するということになると、家族に「世話になる」ことなしに生活できない
家族の時間や労力を私が奪いながら、「他人」の世話をするということは、理解を求めるにはハードルが高すぎる


この面談以外にも、「社会を明るくする運動」という更生保護の啓発活動や、知識・面談技術向上のための研修会もある
これも治療時間が午後から夕方にわたる私は不参加が続いていた


と、ここまでは時間・空間的な問題だ


もう一つ、内面の問題がある
更生保護というのは「加害者の社会復帰」を目指す活動でもある
ニュースなどで表に出ることを軸にすると「被害者救済」が足りず問題になっていることに直面する
その状態で「加害者」に向き合うことは、実はかなり精神的に追い込まれる
更生保護が「再犯防止」につながる…それはイコール新たな「被害者」を作らないことになる
ここが心のよりどころだ


だが、元首相襲撃事件や虐待を受けていた人が親を殺める事件など、「罪を擁護する」風潮が生まれることがある
間違ってほしくないのは、保護司は「罪を擁護している」のではない
それは裁判官が「情状酌量」の材料とすることで、私たちは罪の深浅で動いていない
罪は罪としてあったうえで、それを受け止めて社会復帰するお手伝いである
しかし「加害者の味方」と取られてしまう


私自身、昔から死刑に反対する立場だ(これは保護司以前から)
人が人の命を奪う行為は、どれも同じ罪悪だと思っている
被害者遺族が相手を殺したいと思うことは当然だと思う
だからと言って殺し返してよいかというとそれは違う
自らの意思で「一生罪を償う」ことを背負ってもらう


一方で、刑期さえ過ごせば「済んだこと」と誤認している加害者も確かにいる
そういう人にも「社会復帰の権利」があり、それを補助するのが保護司だ
ストレスとジレンマを抱えた問題だ


活動を続けることで、いつかこの答えが出るのだろうかと考えていた
しかし、答えは出ないまま、退任することになった


保護司が嫌になってやめるのではない
残された時間の優先順位の問題だ


いろんなところに保護司仲間がいる(みなさんあまり表立って言われませんが)
私はその活動を陰ながら応援させていただきます





尊厳死

2018-06-12 22:35:07 | 日常雑感

「尊厳死はせんといてな」
先日息子らと話をした時の息子の一言

まぁ、正確な意味からするとちょっと外れてるとはいえ、言いたいことはわかる。
そこからいろいろ話題が発展した

小学校高学年から中学にかけて、見近な人の「死」に触れた次男
特に、曾祖母はそこそこ元気な時から、病院で寝たきりになり、焼き場で骨になるまで見ている
彼にとって感じられる「死」はそこから来ているのだろう
また、小さいころから法座に出さしていたこともあるだろう


今回の話し合いで、私の心身の不調を伝えた
彼の中で「死」とつながったんだろう
簡単に死んでほしくないってことがこの言葉につながったというのも想像できる

そのうえで、私の「死生観」を伝えたくなった


病気などが進むと、まずは投薬が始まる
自然な身体の状況(衰え、悪化も含めて)を科学的に補正する
これはイコール「不自然」
まぁ、薬の時点はまだ自身の身体ではある
もう少し進むと、「器具」によって補助する段階になる
これは私の身体ではない

人工血管だろうが、人工○○だろうが、脳が自前ならば「自我」は私のモノだと言える
がその時点でベッドに寝たきりになり、チューブにつながれ自由がない…
これは「死んでいるか」というと「死んではいない」
好きなものは食べられない、好きなことはできない
が、脳は働いている

あるいは、身体は支障がない
が、脳に損傷がありいわゆる植物状態だったら
「脳死」という言葉を使うのならば、これは「死んでいる」のか?

サイボーグ009、ハカイダー、仮面ライダー etc.etc.
全身が機械で、脳だけ元の人って時代はやってくる
それを異形の人とするならば、何%自然から離れたらその人でなくなるのか
整形などで元の姿を変えた人は、何%から「アンドロイドと同じ」になるのか

法を聞き、念仏を称えよ
と教えられることがある
補聴器、骨伝導、マイク…どこまでが聞いたことになる?
人工声帯、タイピイングして合成音声で発信…どこまで称えたことになる?

AIが発達して、ある程度の受け答えができるようになる
Siriが念仏称えたら、悟りになる?
(ややこしいんで、今は信心の問題は置いといて)

 

さて、私が「生きている」ってことはどういうことなんだろう
生きることをやめざるを得なかった妹や祖母は不幸なのか?


「尊厳死」に関して、延命のためだけの治療ならば不要だと息子らに伝えた

自死や安楽死を望んでいるわけではない
でも、周りのものが判断をゆだねられる苦痛を味合わせるのなら、それはちょっと嫌かな。

 


手塚先生の「ブッダ」や「火の鳥」をもう一度読みたくなってきた
「ブラックジャック」も今読んだらまた違った見え方するかな


まぁ、こういうことをうだうだ考えてる間は「活きている」といえるかな


「死にたい」とつぶやいた友人、高校時代の先輩の訃報
そんなことも飛び込んできたので、余計にいろいろ考えてる

当然、答えが出るとは思ってない


現況告白

2018-06-10 21:32:47 | 日常雑感

息子二人が高校生になったので、一度じっくりと話す機会を持ちたいと思っていた
それぞれ忙しくしていたが、やっと機会を持つことができた
話したいテーマはいくつかあったが、私の現況を伝えておきたかったのは大きい

いろいろ担っていた立場も。各種総会が終わり一段落したのでそういう意味でも
そして息子に話したことを自分なりに振り替える意味でも

まぁ、そういう「今まで表明できなかったことを開く」のがこのブログの元々の意図
なれど、立場と、周りの方の反応を気にして相変わらず「口を噤む」方に走っていた気がする

ということで、本題

健康のことを心配しだしたのはPTA活動の初期から
もしかしたらそれ以前から異変は感じながら、それに向き合わずにいた

大きな転機は同い年の義弟が急逝したこと
急逝とはいえ、兆候は知っていた
それを機会に診察を受けた
それまでも受けるべしだったが、経済的な要因で後回しにしていた

その結果は、予想以上にショッキングなものだった
疾病はおいておくとして(あちこち問題があるのでね)、それらの影響で一番インパクトがあったのが「血管年齢99歳」というものだった

いわゆる「動脈硬化」
そこに、「高血圧」「ドロドロの血」とう3拍子がそろっていた

入院はお断りし、その代わり食事制限と投薬で改善しましょうと
そして生活環境
「ストレスは大敵です」

その影響とも思える兆候で、視力の低下と手足のしびれは以前からあった
結果、「技術職」という仕事は断念した
指先を駆使した細かい作業、PCを凝視しての作業
これに支障があれば、お客さんに迷惑がかかる 
それは同時に経営者として「資金繰り」というストレスが増大することにも

そして、転職を決意した
当初は「PTA活動も併用できる環境で」
しかし、そう簡単なものではない
多くの方に迷惑をかけながら、「身体状況がぎりぎり許される務め人」となった

同時に、いろいろ引き受けていた立場を放棄することも
中には人間関係でストレス源となり、身体以上に精神に負担を与えているものもあった
「時間が経てば変化があるかもしれない」
という淡い期待を元に我慢して続けていたが、「時間が経つ」ことを待っている状況じゃなくなった
それは同時に「大事な居場所」を奪われる、ストレスのたまる状況でもあったが、湯煎すべきは「今」の改善だった

ストレスといえば、昨年度末、引き受けていたPTAで立て続けに「トラブル」が起こった
なんとか収束はしたが、その期間に「眼球内の出血」に見舞われ、今も大きな影が残っている
ストレスによって、硬くなっている血管が破れる
場所によっては命にかかわる
(視力に影響あるだけでも大問題だけどね)


ほんとうは、こういうことを「開いて」話できる環境があればいいけど、一番信頼できるはずの「カウンセリング」を学んでいる人達もこの「心を開ける場」を誤解してたりする
(そのことはまた別の機会に)

ということで、取りあえず愚痴を省いたところで、現況を息子らには伝えた
彼らを一人前と認めているから

仏教的なお育てもあって、冷静に聞き、そこから生死観、倫理観なども話で来たことは望外の喜び

うん、読んでる人には迷惑だろうけど、ちょっと放せた気はする


彼岸花に思う

2017-09-19 20:30:22 | 日常雑感

ちょっと時間があったので、思い立って彼岸花を見に行った。
昔から好きな花で、秋になれば仕事でわざわざ山道を選んで走り、道端の花をめでていたものだ。

最近、歳を取ったか(体調不安もあるだろう)ふとした時に「懐かしいあの風景をもう一度見たい」という衝動に駆られる。


さて、この写真、皆さんにはどう写っているだろうか?

私の記憶の中の彼岸花は、「毒々しいほど鮮やかな赤」である。
今回見て回った花たち、遠くから眺めると鮮やかな色合いなのだが、近づくとなにかイメージと違う。
”淡い”のだ…

私の脳裏に残る記憶と、いま脳が認識しているものに違いがある。

まぁ、分析するならば、ここ1年で視力の問題が大幅に悪化した。
特に濃淡認識の衰えはきつく、パソコンも白画面に細い黒文字では読めず、黒背景に白文字にしてなんとか付き合っている。
プラモデルを作るにも、小さな文字の解説は全く読めず、タブレットで写真を撮り、引き伸ばしてみている次第。

だから、思っている「毒々しい赤」に見えないのだと思う。

右目はとうに見えなくなっており、ほぼ白霞状態
最初はその画像と、左目に見える画像が混在してつらかったが、最近は脳が諦めて、右目の画像は無視している。(左目を塞げば、普段意識していない右目の風景を認識できる

で、酷使している左目だが、見えているか見えていないかだと「見えている」
まぁ、乱視だったり老眼だったりは仕方ないけど。
じゃぁ、目の前にあるものを「そのように見ている」かどうかだと怪しくなる。
昔「見えていた」記憶と、今「見えている」ものは明らかに違う。

私の場合、かつて「見えていた」ものが衰えているから違い・差を意識しているけれど…

 

生まれつき、見え方に偏りがある方は、最初から「目で見て脳が意識しているもの」は、”一般的な見え方”と違っていることに気が付かない。

それを責められることはとてもつらいことだと思う。
だって「そのようにしか見えていない」のだから。
目の機能の問題だと、機械で測定して矯正することもできるかもしれない。
しかし、認識の偏りはそうはいかない。
それに本人も偏っていることがなかなか自覚できない。

 

まだ、目が見えるうちにいろいろ「見ておきたい」と願い、いろいろな役割をお断りし、わがままに時間を費やすことにしだした。
しかし、このような現実に直面すると、すでに遅いのかも…という気にもなる。

 

まぁ、思う通り見えなくとも、五感で触れて、出逢うことはできる。
ただ、一人で思いついてドライブに行くことは考えならんな…と。


朝に紅顔ありて

2017-04-29 15:56:14 | 日常雑感

 

義弟の一周忌

同い年の彼が、2回目の脳梗塞で倒れたのが一年前、そして5月2日にそのまま、目覚めなかった。

脳梗塞の治療過程で、脳内の血管に傷ができ、血をサラサラにする薬も常用していたので出血が止まらず。

そのことを機会に、私も(自覚しながら)だまし続けていたことを、観念して医者にかかった。

血管は硬く、毛細血管はボロボロ
そこにドロドロの血液と高血圧

昔から続いていた手足のしびれもその影響があるし、単なる視力低下と思い込んでいたものも目の中の血管が詰まったり出血したりする影響
もちろん、そのまま放置していたら、心臓か脳内で血管が詰まってアウト。
あるいはボロボロの血管が破れてアウト。
義弟と同じコースだ。

それ以降、元となる病気の治療、並行して血液をサラサラにする薬と、血圧を抑える薬を常用

 

血管が硬いままストレスで血圧が上がれば、いつどこで爆弾が破裂するかわからない。
なので、ストレス軽減のために「ストレス源」となる人間関係をできるだけ切り離し、役割も減らし。

そのストレス源は、本来一番ストレスから解放してもらえる居場所であり、大切な仲間が集う場所に深くかかわっている。
いつか、その人間関係の距離感が変わって、ストレスとは違う方向に向かうことを願っていたが、身体のほうが待ったなしになってしまった。
大切な居場所から離れることもストレスなのだが、夢や妄想にまであらわれて私を苦しめる「ストレス源」を軽減するには、中途半端な距離感・我慢では解消できない。

まぁ、普通に生きてもそう長くない余生
あらゆるストレスから解放されることはないだろうけど、大切にしたいものの優先順位を見直して、断捨離

体調考えると、いろいろな長期的責任もお断りしていくことに。
この春から夏までで、いろいろ終わっていくので、いったん落ち着こうかと。

でも、PTA・地域関係だけは一つ手放すと別のものが入ってくる。
ま、楽しんでるから、(いろいろ起こるけど)そんなにストレスにならないのが救いか。

 

人生の夕暮れ
義弟の法事を縁に、いままで言葉にしてこなかったことをちょっと「噤む」から「紡ぐ」にシフトできたかな。

まだまだ噤んでいる「コトバ」のあれこれ、紡ぐ日は来るのかな


変わるもの変わらないもの

2017-04-05 12:17:07 | 日常雑感

 

 

4月になりました
新しい仕事もなんとか半年をこなし、少しは慣れたかと。

年度変わりで色々変化もあります。

高校のPTA会長は今期はお断りすることにしました。
ただ、任期は総会までなので、まだ少し。
先月の卒業式祝辞に続いて、入学式も(まだ新会長が承認されてないので)私の役割にアンリます。

中学のほうは再びPTA会長をお引き受けすることに。
こちら者明後日入学式で祝辞です。

ということで、先月は18歳にお祝いの言葉を。
今月は13歳と16歳にお祝いの言葉を。
伝えたいことは同じなのですが、年齢に応じて長さや表現をちょっと変えて。


「目の前の人を尊重する」


この一歩から始めて、いつか全ての人が「目の前の人を尊重」することができれば。

 

認めあい、響きあい、育ちあう

I Hope Someday You’ll Join Us
And The World Will Be As One 




他にもいくつかの所属から離れたり、役職から離れたり。
手の届く範囲での活動にシフトします。


ブログリニューアルでもうちょっと頻繁に更新するつもりでしたが、私自身が大きく変わってしまったことがあり、ペースが上がりません。
何が変わったかは、またいずれ 


フライングでリフレッシュ

2016-12-30 19:35:35 | 日常雑感

いままで「真宗とカウンセリング(with PTA)」をご愛顧いただきありがとうございました。

前回の記事にあるように、いろいろな変化が起こってきたのでブログの位置づけも変えてみます。
求道者ではあるけれど「真宗」というものに固執せず、人に寄り添うものであるけれど「カウンセリング」という言葉に固執せず。、

それらを捨てるのではなく、そういうものを内包した「高橋」という名で呼ばれる存在として。

関わり上の「守秘義務」であったり、立場上「発言を控えてきた」ことであったり。
そういう「口をつぐむ」者であり続けるのか、あるいは残り少ない人生、思い切って「言葉をつむぐ」者として自由になるか。

まぁ、どっちかに振るんじゃなくて、その時々で「出来る範囲で」ってことになると思いますけど。

新年に際して変える手もあるんですが、年末年始関係なくお仕事しますので余裕のあるうちに。

 

 おそらく、わたしのドロドロの内面が吐き出されると思いますが、相変わらずのペースで時々更新していきます(多分)

もうひとつのPTAの方は…年明けにいろいろ動き出しますが、来年度の立場はどうなることやら。 


すっかりご無沙汰

2016-11-15 19:23:12 | 日常雑感

すっかり更新しないまま数ヶ月…

FaceBookはちょこちょこと書き込んでますが、ブログにまとめて書く余力がありませんでした。
その間にいろいろと変化が起こっています。

その一番は体調の変化
おいおい書いていきますが、ずっと不調ながら病院を敬遠してましたが、同い年の義弟が逝去したことをうけ、診察を決意しました。
自己診断で予想していたとはいえ、思ってた以上の「ギリギリ」

少しでも改善の余地に賭け、いろいろと環境を変えている途中です。
一番の敵はストレス。
その元となるモノであったり人間関係であったりをできるだけ排除することを実行しました。

25年続けてきた自分の会社も、視力低下と手足のしびれが影響するので今までの技術職をあきらめ、整理することにしました。
それに伴い、今の健康状態でこなせる仕事への転職もなんとか。

転職が決まるまでは、上記のような健康不安は外部に吐露できませんでした。
いまどきは、入社希望者の状況を、ネットで調べるのは普通ですもんね 


すでに引き受けてるPTAの役はこなしてますが、時間的に自由が利いた経営者から、雇われの務め人になったので、いろいろ周りの方に迷惑かけてます。
しばらく務めたら有給休暇も取れるんですけどね。

まぁ、身体の方はこの年ですとどのみち衰えてきますので(苦笑)
でも、いろいろ断捨離したことで、ちょっと気持ちも安定。
(ブログタイトルも近々変えるかな)
新しい仕事もちょっと慣れてきたので、少し自分を振り返る余裕も出来たかも。


アズウィッシュの方は、毎月の「発達障がいを共に考える会」は続けてるし、「SST傾聴ワーク」も秋コースが開始。
大阪市部の方はお任せして、京都の方だけを無理ない範囲で。
NPO法人アズウィッシュ ホームページ

11月30日に「京都府高校PTA 市部ブロック指導者研修会」の「家庭教育とPTA」分科会担当を引き受けてるので、原稿作成をすすめ、なんとかパワポ原稿も完成
12月5日に、中学校PTAのほうで「発達障がい」についての家庭教育講座講師も引き受けてるんで、過去に行なった研修原稿を少し修整するのがこれからの作業。

 

うん、気持ちは前向きですね。
残された時間で、今まで吸収してきたことをできるところまで発信したいとか。
それから今までのご縁に対して、振り返る旅もちょっとしてみようとか。 

終息に向かって 収束していく感じ

余裕があれば、このブログももうちょっと更新していきますね。 


新旧交代の春、新たなスタートの春

2016-05-01 19:45:05 | 日常雑感

3月から4月はPTAやさまざまな団体の年度代わりの時期
昨年度までに大きな役は降りたので、ここ数年よりは負担が軽くなりましたが、その代わりに空いた分で引き受けたり巡ってきたりすることがありました。
ということで、なんだかんだであわただしい数ヶ月。

ここに来て準備も進み、連休が明けると総会が続きます。

で、この5月はいろいろなイベントがあったり、継続的なものが始まったりします。
自分の確認も踏まえてまとめておきましょう。

まずは親バカ事ですが、子どものダンスチームがイベント出演します。
5月3日 京都駅駅前広場
「Kids Day」イベントのひとつでダンスステージに立ちます。
14時からのステージが息子らの担当。
他にもお子様向けイベントが一杯ありますので、GWの予定のひとつとしてぜひお越しください。

http://www.kyoto-station-building.co.jp/kidsday/

 

真宗カウンセリング研究会のワークも始まります。
今年度は2本立て。
例年は春の研修はミニカンですが、今年はエンカウンターグループを行ないます。
5月10日から 毎週火曜日の10回コース。
自らの居場所としてのエンカウンターとして、またファシリテーターの学びとしての体感的学習として。
会は「真宗カウンセリング研修会」ですが、真宗や仏教のくくりはありませんのでお気軽に。
 

エンカウンターグループ(前期)
http://dbpca.web.fc2.com/details/20160510.html

もうひとつは基礎からの傾聴の学び。
私はサポート役ですが、初めて傾聴に触れたい方、基礎を見つめなおしたい方に最適です。
5月26日から毎週木曜(祝日は除く)の10週間コースです。

基礎から学ぶカウンセリング・傾聴学習会(前)
http://dbpca.web.fc2.com/details/20160526.html

発達障がい支援団体のNPO法人アズウィッシュも継続的に活動しております。
1月からの「発達障がい特性理解ワーク」もいよいよ第5回。

5月14日(土)  東山いきいき活動センター
大阪で行なわれる同イベントを京都でサテライト開催。
後半はグループワークです。


「発達障がい特性理解ワーク」(下記アドレス「京都支部のお知らせ」参照)
http://aswish.jpn.org/

また、発達障がい当事者向けの「SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)傾聴ワーク」の春コースも始まります。
こちらは 5月20日から隔週の金曜日で全6回。
傾聴のワークを通して、他人の話の聞き方、自分の声の聞き方を意識して学ぶ事で、コミュニケーション上達のきっかけにします。
同時に、自分を受け入れてもらえる居場所にもなりますのでぜひどうぞ。


「SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)傾聴ワーク」(下記アドレス「京都支部のお知らせ」参照)
http://aswish.jpn.org/ 


これらとは別に、新しく協力することになった企画会社のワークに講師としてお手伝いすることになりました。
5月29日に、京都駅近辺の会場で「発達障がい」に関するセミナーを一こま担当します。
詳細は近日公開



このほかに、まだ承認前なので記しませんが、あらたなお役も増える予定
まったく、なにが本業なのか(苦笑) 


いろいろな予定のおかげで、内省できます。

2015-10-29 20:01:20 | 日常雑感

明日は大阪の幼稚園でコミュニケーションを軸にした講演、明後日は京都でアズウィッシュの「寺院めぐりワーク」と、二日間の濃い時間をすごします。

それに先立ち、風邪で体調を崩したり、妹の三回忌を通じて”死”のことを考えたり、エネルギーが低迷する日々をすごしていました。
が、底の状態のときに、無理して浮上せずに、静かに底の状態を味わうことができました。
そういう状態をも「今・ここの私」と受け止められることは大事なことだな、と。

なので、肩の力を抜いた状態で、私の話を聞きに来てくださるかたがたの前に立てそうです。


幼稚園の方は、コミュニケーションの基本的な話から、発達障がいの話題に触れさせていただきます。
「コミュニケーションが苦手」というレッテルがありますが、そのレッテルに振り回されず、ゆっくりと理解につながる話ができればな、と考えています。
思い返せば、保育園に16年通い、そこの保護者会会長を引き受けたのが今のPTAにつながってます。
当時は講演のような形でなく、いろんな話題共有や相談事の中でコミュニケーションのことを話させていただいてました。
それが「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」という形でこのブログ記事になってますね。
こちらの更新やまとめも滞ってますが、無理せず少しずつ動いていきましょう。

あさっての寺院めぐりワークは、当事者の方が仲間と協力しながら、お寺めぐりと臨機応変に出来事に対応するワークです。
これが、お一人お一人の得意と苦手を浮き彫りにしてくれます。自身の特性を客観視したり、気づいていなかった「得意分野」に気づいたり。
年に一回のワークですが、とても効果があるものです。

私の課題は、しっかりと体調を整えることですね。
明日の準備を確認して、休んでおきましょう。

「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」はこちらにindexを作ってまとめています。

http://homepage1.nifty.com/MANU/others/blogindex.html