前々回触れた
「心を開ける場」を誤解
ということについて少し言葉にしてみたい
カウンセリングを学んでいて重要な要素のひとつに「心を開ける場・時間の提供」ということがある
受容、共感、純粋性などを学び、実践していくことで相手の方が「そのままのわたし」で居てもらえるように努力する
まぁ、努力しているうちはテクニックに固執して不自然なんだけど、相手の方を尊重するに越したことはない
なので、そういう学びの方が集まる場では、1対1のカウンセリングでなくても、その場にいる人を尊重しようと努めてくださる
が、こういう言葉を投げかけられる
「心を開いて話せる場を用意しましたので…」
グループの問題解決を図るミーティングなので、解答が求められる
そのために、心を開いて話し合おうというのだ
「心を開く」前提の場…
これは何かが違う
「私は心を開けているだろうか?」と自問の時間が続く
しかもその時は私が心を閉ざす要因となる人物も同席している
守秘義務などもあり、状況説明もままならない状態
自己一致のところで表明するならば「困ってます」の言葉になる
が、問題解決の場ではそれでは進展しようがない
「心を開く」ことを強要するのはとても危ういことだ
別の場面ではこういう言葉を投げかける方もいた
「私がこんなに心を開いているのに、どうして応えてくれないのですか」
まぁ、簡単に答を言うと、
「あなたが開いていると満足しているだけで、私が心を開ける状況を提供してくださってませんよ」
もちろん、言葉にはせず、ただ黙るしかなかったですけどね
相手の方が「心を開ける場」だと感じてもらうにはこちらも「心を開く」のは大事
が、そういたからといって「心を開く」かどうかは相手の方の自由だし、尊重すべきこと
もちろん強要することじゃない
カウンセリング、傾聴の学びを、テクニックが身についてことでマインドを見失う方が多いのは残念なことだ
まぁ、そこは皆が通る道ではあるけどね