コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

春期研修会 3回目

2006-05-24 00:07:51 | ミニカウンセリング
今日、研修会の帰り際に「ブログ読んでますよ。前回は会のその日にかかれてましたね」と声をかけてもらった。うれしいんで、今回もその日に書こうと思った。(単純だ…でも単純な感情だから大事にしたい)

今回の逐語録はKさんがカウンセラーで、Iさんがクライエント。
Iさんとは先のエンカウンターからのお付き合いだが、ミニカンだとどういう風に話をされるかという興味を持って聞いていた。また同時に、先にこのブログで話題になったレスの仕方について、Kさんがどう動くかという興味もあった。

ゆっくりと話をされるクライエントさんなので、カウンセラーは結構こまめにレスを入れられる。序盤は出来事中心だったが、その語尾にもレスがつくのが気になった。私なら相槌だけでレスはしないかなと。あとでクライエントさんは「ちょっと気になった」とおっしゃっていたので、ここは大事なところなんだろう。
しかし、これはレスが不要だということだとは思わない。徐々に気持ちを話されるようになったクライエントさんにカウンセラーがしっかりレスすることで、いくつかのポイントにたどり着くのを感じるからだ。なれたカウンセラーだと余分なレスは排してポイントを抑えていかれるのだろうが、勉強している私には「レスする自分を暖める」必要もあると思っている。1年前の私は、何処にレスが必要でどれが余分かということに捉われて、肝心の”聞かせてもらう”所から心が離れていた。また、一字一句もらすまいと力が入り、結局要を逃すこともあった。(今も多々あるが…)他の人の逐語録によって、少し外から自分の態度を見ることが出来る。そう、今は研修の時期なのだ。

後半はミニカン実践。今日はこの春から参加されたIさんとのペア。
まずはクライエントで話したのだが、いつになく”しんどさ”を全面に出して話していた。風邪をひいて体がしんどいところに、仕事でのもやもやがストレートに出てしまったようだ。話してるときはとにかく投げ出していたのだが、後の分かち合いの時間にしっかり聞いてもらっていたことがわかり、からだがホカホカしてきた。話しているときに興奮してホカホカしてくるならわかるが、聞いてもらったうれしさで「投げ出した達成感」が後からわいてきたようだ。
変わって、今度はカウンセラー。Iさんの話は今日あった出来事についてだが、もしかしたら「辛い」事柄を明るく話された。そのことを後で「切羽詰った感じはしなかった」と返したのだが、今になってそれは気持ちに添えていなかったかもしれないと気にしている。彼自身そのときはその言葉を普通に受けていてくれたようだが…
この実践のやり取りを皆の前で分かち合う時間が最後にあるのだが、私のホカホカしたエネルギーがIさんに残っていて、もてあましているってことを表明された。私としては不思議な感じなのだが、すごく感受性が豊かなのだろうと想像している。そのIさんに対して、先生が「持てあますものなら、ここにおいて置きなさい」と。その言葉に、胸に抱いていた塊を私のほうに差し出して「置いていきます」と言ったIさん。さらに帰り際に、「まだ残ってるんですけど、お返ししていいですか」と寄ってこられた。なにかわからないうれしさを感じて、「いいよ」と受け止めた。時間があればもっとその気持ちを尋ねて受け止めてみたかったが、今日はそこまで。

あと、今回もカウンセラー役の最後3分くらい、クライエントさんが沈黙される場面があった。その直前に「話辛い」と言う言葉を残されていたので、沈黙の序盤は「私のなにかが話し辛くさせてるんだろうか」と気になった(あとでそのことは正直に表明した)でも、私もその沈黙に任せていた。後で尋ねたら、「外のことは話できるけど、内面のことを話しようと思うと、今のあなたとの関係では言葉に出来なかった」と。正直だし、すごく深く自分を感じている方だと思った。

実際のカウンセリングの場だと、いきなり内面のことまで話できる「信頼の空間」を作ることが出来るのだろうか(もちろん、そういう力量のある人も知っている)
引き続きの課題だ。

他にも書きながら思いがあふれてくるが、ひとまずこれでアップしよう。

自分では知らないが、人が知ってる私

2006-05-21 02:21:21 | 真宗カウンセリング
18日に書いた「正解があるなら聞きたいが…」にいろいろコメントをいただきました。
ありがとうございます。せっかくなのでコメントへの返信を含めて今日のブログにします。

「haruki」さん、どーもです。
>僕は、正解はないと思っています。仮にあったとしても、一人の心を持った人間が、
>カウンセリングや何かの正解の中に収まりきるとは思いません。
私もそう思います。タイトルの「正解があるなら聞きたいが…」の「…」の部分は否定の意味でつけました。「そんなものあるはずないだろうしね」っていうことです。

>対人関係で、カウンセリングを用いれば武器にもなり、相手を傷つけることもあります。
これも痛感します。このあたりも、1年以上前にカウンセリングの「モノマネ」をしていた頃は誤解して、しらずしらずのうちに武器にしていたこともあったと思います。

>よくよく注意が必要です。・・仏法とおなじですね
はい。

「とのひろ」さん、どーもです。
>その場にいたものとしても触発されることは多くありました。
このテキスト情報以外の「空気」や「熱」を一緒に感じている方の言葉は、今の私には大変貴重なものだと思ってます。

>MANUさんの気持ちとは別のところでとらえたり、感じたりしている方がいる。
>そのところを感じていくことって僕はとっても大事なことなんだろうなって
>気がしています。
そうですね。別のところでのとらえや感じをじっくり聞いていません。軽く聞いてしまうと、また私の枠の中で聞いてしまいそうですし、聞かせてもらおうと思ったら腰をすえてしっかり向き合うことが必要だと思っています。そのときは、相手の方の感じより、そのことを通しての私の感じで終わってしまってますね。改めて気付きました。

>受けての方ではそう感じれない人がいる。そのずれを感じて、みていかれると、
>自分の中でまた新たな発見があるように感じます。
良い機会をもらっていると思います。明日、もしかしたら「耳障り」とおっしゃった方と法座でご一緒するかもしれません。こちらから蒸し返すような動きはしないつもりですが、もしかしたら顔をあわせることでなにか動きがあるかもしれません。

>今はちょうど型にはまってきておられる時で、そこからちょっと視点を変えて
>見ていかれる時期がきているのかなと思いました。
そうですか、型にはまってきている…自分ではなかなかわからないことですね。教えてもらうことが大事ですね。私のタイプ的に陥りやすいところだと認識してます。(すぐ調子に乗ってしまいます)「視点を変える」ことを心に留めて、実践してみたいですね。

ほんとうに、いろんな方の言葉で自己を知ります。自分で自分は見ることが出来ない。人との関わりの「鏡」で、初めて見せてもらうものだと。
ありがとうございます。

自己を知る

2006-05-19 00:46:30 | 真宗カウンセリング
前回の「正解があるなら聞きたいが…」に対して思わぬ反響があった。
一つの思いを投げ出して、そこに反応がある…それを受けて新たな思い(共感・批判・戸惑いなど)がでてくるのだから、ネットと言うモニター越しでありながら、モノに話するのではない、人と響き合う妙味がある。

で、今書きながら思うこと…時間経過で言いたいことが変わってることもあるかもしれないが、前回の書き込みではいいたいことが上手くあらわせていないんだろうなということ。

「耳障り」と言われたことの比較に、件の方は「故西光先生は、十数人の話を静かに聞いていて、全員の話が終わったら、『あなたはこうですね、あなたはこう思われたんですね』としっかり理解しておられた」という体験を出された。私もそういう先生の姿は何度も見ているし、時には寝てるんじゃないだろうかと思うときでもしっかり聞いておられる姿に感服している。

目的として「グループの方の話をしっかり聞きたい」私は、先生のように静かにしっかり聞けるのならそうするのだろうが、出来ない。そう、うなづきやレスが目的なのではなく、”聞く”が目的だ。まず最初はそこに気持ちがある。そのために昔から出来事を理解しようとレスのようなことをしていた。メモを取る代わりにクチずさむことで少しでも頭に残そうとしていた。それを、カウンセリングを勉強しだしてから感情の動くところをレスする事の大事さを知り、出来事ではなく感情を押さえることを重視しだした。そのときにレスしている。今は、感情を逃さないために、感情と思われるところにレスをする心がけをしているので、研修会以外の場でも勝手にそのように動いている。(これをして身についてきたという表現になったと思う)
今回の春の研修会では、ただ感情を追うのではなく、”主題”を意識するステップに来ていると感じている。

もう一方で、聞いてもらうという体験を考えたときに、私はうなづきやレスをもらうと「沿ってもらっている」とうれしくなり、結果話そうと思っていなかった腹底の思いが出てくる驚きがある。まだカウンセリングとしての経験の浅い私は、自分がうれしかったことなら相手にも同じじゃないかという錯覚があった。

それを錯覚だと思ったことと、まだまだ未熟だと受け止めたことが今のところかな。
とりあえず、こんなところを書いてみたかった。
まだまだ、上手く言えてない気もするが。

正解があるなら聞きたいが…

2006-05-18 01:49:51 | 真宗カウンセリング
先日の研修会で、逐語緑クライエント役のときに話したことだが、今月はじめの永代経という法座の時にあった座談会(グループによる討議)で二つの気になる話題があった。二つとも同じ方の発言なのだが、そのことからいろんなことを考えた。

一つは座談会のあり方についての批判といおうか否定の表明というほうがいいのか。まそちらのほうはそのことに至までの経緯が色々あるので、ここに書くのはふさわしくないかもしれないし、経緯をうまく説明する自信も無いので割愛。ただ、私が「意味があると思い、大事にしようとしている」ことの意味がうまく伝わってないと思ったし、その方はそれよりも大事にしたいやり方があり、「そのやり方は嫌」ということを主張したかっただけだろうから、あえてその場で私が大事にしたい気持ちを理解してもらおうという気が起こらなかった。またそういう気持ちの自分を大事にしてみたかった。
幸い、私と同じように思ってくれているかた何人かが話してくれていたので、一歩後ろからそのグループを眺めていられたように思う。ちょっとしたことだが、私にとっては今までと大きく変わっている自分だと思う。

問題はその後で、一旦先の話題が落ち着き、方法論じゃない関わりのところで場が進みかけたときに、話を聞いている私の態度に対して「うん、うん、という相槌や、言葉を繰り返すレスが耳障りだ」という表明をされた。まあその方が気になるものは気になるんだろうし、別に批判されて困ったわけでもない。というか、意識してやっていることなら止めようもあるが、意識とは違うところで動いている私もいる。

そう、一年間のカウンセリングの学びの中で、最初は見様見真似だった”うなづき”や”レス”が、聞きたいという気持ちの起こるときに勝手にそういう態度になっている私なのだ。
それはカウンセリングの場だけでなく、普段でも自然とそうなっていることが多い。
私の気持ちの中では、そういう態度は相手にとって「聞いてもらえている」と感じる重要なファクターで、私自信そうやって聞いてもらうと気持ちがよく、どんどん自分の中のそこにある気持ちが沸きでて、新たな気づきになる。
ところが、横でそれを聞いていると「耳障り」な人もいるということは意識していなかった。

また、先日のミニカン実践のときに私のそういう聞き方を「警戒する」という方が居られた。その方の場合は、今この時でなく、冬の研修会のときの私の態度を元にそのような気持ちになられた。そのときと今と変わっているかどうかは自分ではよく分からないが、「傾聴」のはずが「耳障り」「警戒」ということに繋がるのなら、それはどういうことなんだろうか。
単なる私の経験不足?不器用?下手?…それとももっと別の私自身のイメージが起こす何かがあるのだろうか…(見かけが良くないってのは勘弁して欲しいが…)

先生方の態度や、故西光先生の姿には及ぶはずは無いが、それが単なる途上であれば良いが勘違いや違う方向に向いているならはやく方向転換する必要がある。
ちょっと心にとめて、思い出したときにじっくり考えてみたい。

春期研修会 2回目

2006-05-16 23:44:15 | ミニカウンセリング
今日は2回目。前回欠席のMさんがミニカン初参加。代わりに2名の女性がお休みだった。当初欠席されるかもしれないと聞いていたM先生も参加され、総勢11名。

最初は逐語録検討。前回のカウンセラーとクライエントが交代して、私がクライエント役として話した逐語録だ。
すでに録音したときから10日経っているので、その時の気持ちから離れている自分は、結構客観的に聞いていた…いや、やはり当時の気持ちを思い出している感じのほうがしっくり来るか。
今回、検討の前にM先生から初参加の方たちに向けた検討の留意点を話していただいたが、「内容の段落ではなく、そこに流れる主題の段落」を大事にすることを教えていただいた。その点では、私の話は話題は大きく3つに分けられるが、前半の二つに流れる主題は一つ。「カウンセリングによって刺激を受け、気付く楽しさ」
それを二つの事例で表明していた。
そのことを話しきったことでもう一つ、話をしている中で気付いてきた「自分の身体の不安」が顕れてきた。最後の数分はそのことに言及しだしたのだが、時間ぎれでうやむやになってしまった。

あとでカウンセラーの感想を聞かせてもらったのだが、普段から良く知っている間柄なのでその「身体の不安」に驚かれ、カウンセラーとしてより知人として心配になったということだ。申し訳ないと共に、勿体無い気持ち。

後半の実践は、初参加のMさんとペア。彼とは冬のエンカウンターでご一緒したので、私からすすんでペアを申し込んだ。最初に私がカウンセラーで10分間の実践だったが、彼は沈黙で過ごした。以前なら、あるいは他の場なら、その沈黙のうらにある気持ちを問いたくなったであろうが、今、カウンセリングの学びをしている私は「10分間はMさんの時間」という前提を尊重したく、沈黙を選んだMさんを尊重したかった。そしてその気持ちに従い、表情や手の動きを見せてもらいながら10分を過ごした。後の分かち合いで、その気持ちを聞かせていただいたのだが、私への警戒感があったということだ。私自身への警戒感と言うよりは、エンカウンターの時の私の態度に対するもののようで、そのことをそのままMさんの気持ちとして受け止めている私がいた。ただ、一つの課題として大事に考えて行こうとは思っている。
交代して今度はクライエントとして話をしたが、昨日の出張で見るからに疲れが残っている私は、そのことを話させてもらった。初めて実践される方なので、少し配慮しようと言う気持ちもあったのだが、「底にある主題」から外れないようにしようと言う気持ちだけ残し、後は自由に話した。聞いてもらってるなという感じが安心できたので、結構しゃべった気がする。身体の疲れは取れないが、聞いてもらったことで「疲れてることを気にしている自分」というところを受け入れられたので、気分はいい。

帰ってからお風呂に入り、ビールをいっぱい飲みながら遅い夕食を食べた。
ちょっと落ち着いてブログを書くことが出来たが、今回の逐語録でも話し、Mさんからも指摘された、私のカウンセリングでの態度と言うことについて、今一度考えてみたいと思う。今は書かないが、少しずつ書いていずれアップしようと思う。

春期研修会 1回目

2006-05-10 16:20:25 | ミニカウンセリング
いよいよ春の研修会、ミニカンが始まりました。
初めて出会う方3名、エンカウンターから引き続きの方が4名(うち一人は今回お休み)秋のミニカン以来の方が2名。あと、先生と世話人二人に私を入れて13名の集まりになります。

すでに逐語録(前回の書き込みは字を「蓄語録」としていましたが間違いです。そのままにしておきますが)をしていたので、私の中では研修会はすでに始まっている感じですが、いざ顔合わせをすると新鮮なものがあります。

先生のあいさつと趣旨説明、世話人の挨拶に続いて、順番に自己紹介です。私から始まったんですが、まあまあリラックスしてたんじゃないでしょうか。
思えば初参加からまだ1年なのですが、私自身に大きな変化と気付きがあったのでそのことを話し、楽しみにしていると言う気持ちを表明しました。その後各自の自己紹介を聞くのですが、やはり一度でも経験された方は「今、ここの、気持ち」を上手く捉えて話されるなと。また、初めての方も「緊張している」という気持ちをちゃんと表明されますから、これからが楽しみです。

後半は早速逐語録を使用しての検討ですが、私なりにうまくカウンセラーが出来ていたように思います。おおむね褒めていただいたのですが、気付いていなかった点も指摘され、また私と違う受取りかたを示され、いい勉強になりました。褒めてもらうのはうれしいですが、そのために参加してるんじゃありませんのでね。「できていない自分」を知ることに成長があります。

あと、クライアントさんが話されたところで、取り違えていたと知ったところがいくつかありました。話される内容の事例でなく感じられたところを中心に聞いていたのですが、事例に出てくる登場人物の感情の言葉と、クライアントさんの感情の言葉を混同したり、そのため前後の感情を取り違えたりすることがあるようです。
このミニカンという研修の大事なところですね。

蓄語録打ち込み終了

2006-05-09 00:50:46 | ミニカウンセリング
今日は予定していた出張が延期になり、連休中に溜まったメール問い合わせの返信や、発注などで一日追われていました。その後夕方から蓄語録の続きをはじめ、先ほど打ち込みが終わりました。あとはもう一度最初から聴きながらチェックです(結構、ここで直しが出てくるので時間がかかります)

打ち込んでみて、結構レスが抜けているところがありましたね。逆にうなづきは相手の声にかぶったりしています。

実は、この録音の日の午前にあった座談会で、私の相槌やレスが「鬱陶しい」と指摘されました。「そんなんせんと人の話が聞けんのか」と。まぁ、その前から別の件で、その方もヒートアップしていましたのでとばっちりと言えなくもないのですが…(苦笑)
ミニカンを始める以前から、人の話に相槌を打ったりレスしたりすることはしていました。自分なりの話の確認と、カウンセリングされている方の姿勢を真似てのものです。
その後、ミニカンを学びだしてから、その心地よさ、聴いてもらっているという安心感を感じた私は、逆に聴く時に以前とは違った形で相槌とレスをするようになっています。もちろん最初は意識していましたが、今は勝手にやっています。
以前の私だと、そういう指摘を受けると妙に意識して止めようとしたりしたのでしょうが、今回は意外と「そういう人もいるよな」と冷静に受け止め、流れに任せていました。
ま、その方も「やめて欲しい」というより、「鬱陶しいと思っている」ことを聴いて欲しかったんだと思います。
あとで普通に話もしてましたし、別際には「さっきはごめんな」と言ってこられます。(そのときは「謝る位なら言わなきゃいいのに」って心があったのも事実です)

しかし、そのことで、今の私とカウンセリングの関係…その顕れをカウンセリングだからとか仏法だからとか意識することなく、そういうものも内包して「今の私」だと強く感じました。
もはや、目的でも手段でもなく、あるがままにいます。

もうすぐ2006年春季ミニカンが始まります。

2006-05-08 03:48:11 | ミニカウンセリング
第1回の蓄語録の依頼を受け、5日の日に録音しました。
その日は3日間の法座「永代経法要」の終わった日で、その3日間にも座談会の司会や先生役をし、また前日の2日から毎晩懇親会と仏法談義で2時3時まで飲んでましたから、かなり疲れが溜まった状態でした。ま、それはそれでその時の「私」として、カウンセラー・クライアントをしてた気がします。
で、結局その日も、録音の後に反省会で遅くまで飲んでましたから…

翌6日は、GW中だというのに仕事をせざるをえない状況で、広島まで出張です。
子ども達は休みの日なので、途中の相生にある友人のお寺まで送って、仕事を終えて帰りに相生まで戻り、泊まらせていただけるので友人達と遅くまで楽しく飲んでました…5連荘ですね…

そして今、後悔しながら蓄語録を作成してます(涙)今で半分くらいでしょうか。
明日は、また福井まで出張予定。帰ってきてから、続きをします。

でも、蓄後録作成しながら、私の中にあるカウンセリングマインドと向き合えますから、飲み会同様至福の時間だったりします。

初参加も多いと聞いている春季研修会、楽しみです。
私の研修会はすでに始まっています。