コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

因果応報 自業自得

2009-01-29 03:00:38 | 真宗

【因果応報】 大辞林 第二版より

〔仏〕 前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること。

【自業自得】大辞林 第二版より

〔仏〕 自分のおこないの結果を自分が受けること。一般には悪い報いを受けることにいう。
「―だからやむを得まい」

いきなり硬い言葉・おどろおどろしい言葉で始まりましたが、ここ数日に起こったことから感じる話を。

といっても硬い話ではなく、私の恥ずかしい失敗談であります。

この一週間で「嫌なこと」が続きました。

ひとつは駐車禁止をとられた事。
土砂降りの日だったのですが、用事で車を使った後、1時間後には子どもをお迎えに行く必要があったので家の前の路上に車を停めておきました。
「この雨だからまず取り締まりに来ないだろう…」というのが浅はかな考え方ですね。
雨の中、フロントウインドウに耐水性の紙で貼り付けてありました。
「しまった…運が悪いなぁ…」という気持ちと「他のときに来ないでなんで今日に限って」という気持ち、そして「あぁ腹が立つ」という気持ちで一杯ですね。

もうひとつは自転車の撤去。
その日は朝早くから遠方での仕事がありました。
普段は車で行くのですが、相手先が車だと混雑するところで、逆に駅の近くなんで電車が便利。
そこで駅まで自転車で行って、電車で向かいました。
もう少し遅い時間だと、ショッピングセンターの自転車置き場に停めて、帰りにはその店を利用して帰ったりするのですが、その時間はまだ開いてません。
そこで、他にも数台停めてある駅の歩道に停めてしまいました。
そこはよく撤去に来ているのも知っていたし、だいたい月の後半が多いです。
その日も月の後半の月曜日…撤去の看板には今月の「撤去しました」のステッカーが無い…つまり今日あたり危ないなと。
でも、「今日じゃなく明日かもしれない」という思いと、「早くしないと次の電車だと約束に遅れる」ということで、嫌な感じのまま駐輪して行きました。
仕事を終えて、本当ならゆっくり昼食を食べてから帰ってくるところを、自転車が気になり先に帰ってから食べることにしました…したんですが…午前中に撤去されてました。
これまた「嫌な気持ちがしてたのに」とか「運が悪いなぁ」「なんで自分ばっかり」という気持ちばっかりですね。

そういうことが続いたときに、いろいろ考えました。
あぁ、こういうときに「運気上昇」の水晶やお守りを買いたくなるんだろうな、と。
「ついてないから不幸が続く」
「なにかの災いが降りかかっている」
こういうときに、「玄関に黄色いものを置けば悪い気が入ってきません」とか言われたら、そんなことは無いと思いつつだめもとで話に乗ったりするんでしょうね。
まぁ、気持ちのものなんで、信じる人が悪いとは言いませんが。

でも、因果ということを考えると、駐車禁止をとられたのは「禁止場所に車を停めたから」という原因でしかなく、ちゃんと駐車場に停めれば避けられたことなんですね。
「いつもは大丈夫だから」なんていうのは、因果には何の関係も無く、それがいつであろうがどこであろうが、「禁止場所に停めた」という私の行為の問題です。

問題は、そういうときに「自分に原因があると思いたくない」という気持ちがあって、なんとか「他所」に責任転嫁したくなるところですね。
そういう気持ちは至極当然のことですから、占いや祈祷などという形で、一時的に「責任を逃れた」気持ちにさせて安心しようとする。

もしかしたらそういうことで今までの不幸が消えることがあるかもしれませんが…私はそうは思いませんね。
どんなに念のこもったお守りを持っていても、駐車禁止の場所に車を停めてたら、監視員が来れば違反をとられるんです。
お守りで車が勝手に監視員から逃げてくれれば別ですけどね。

自分で行ったことは、自分で受けていかなければならない。
それは親の恨みや祟りを受けていくことではなく、あくまで自分の行いのことです。
「親の因果が子に報い」なんて時代劇の台詞がありますが、これは間違い。
だから、先祖を供養しないから良くないことが起こるんじゃなくて、もし何らかの関わりがあるとしたら、そうやって先祖を敬わない自分自身の性格が周りに対して問題を起こす種を作っているかもしれないということ。
だから、先祖を敬ったり、今の自分を思うときそういう肉体の連鎖が無かったら存在しないということで、ご縁を大事にするすることはあっても、悪いことが起こったときに先祖のせいにしたりするのは、ねぇ…。

因果応報の前世とは、他の存在だった自分じゃなく、あくまで「自分」のことですね。
前世が侍であろうが貴族であろうが、いまさら祈祷やなんかで今まで撒いた種がなくなることは無い。
まぁ、私の場合はどう考えてもそんな偉いものじゃなくて、前世は地獄の底の方でうごめいてたのがせいぜいでしょうね。
自分じゃ浮かぶ瀬もなかったものが、南無阿弥陀仏のお慈悲で人間に生まれさせていただいた。

この手の話をしだすと、関連でどんどん深いところに話が流れちゃうけど、今日はこの辺で。

ようは…自分のせいなのに、他の原因を持っていこうとする、どこまでも浅ましいやつだなぁということで。


癒しのアート

2009-01-25 02:12:11 | 日常雑感

今日、息子が通っている保育園を会場にして、地区の保育園絵画展が行われていた。

うーん、子どもの書くものって、いいですねぇ。

一生懸命似せて書いてるのもいいけど、自由にイメージが弾けてる作品が好みです。

そんな中から、「おいも」というタイトルの作品が一番気に入りました。
他にも同じテーマの作品があったけど、ハッキリした赤紫と緑の作品が多い中、この淡い色使いが私の心に響きましたね。
こういう出会いって、目が勝手にそこに焦点を合わせるというか、なんかひきつけられるものがあります。

あと、某先生のお嬢様が通う保育園の作品がありました。
手形を使って後光や蓮の花を作ったののさま。
テーマは「絆」となっていました。
やさしい感じが素敵ですね。
(写真撮るから一緒に入る?と息子に聞いたら、勝手にこのようなポーズで…)



2009年度の真宗カウンセリング

2009-01-22 00:41:30 | 真宗カウンセリング
今日は真宗カウンセリング研究会のミーティング。
いつもなら月例会がある日に、来年度のプログラム打ち合わせです。

真カ研に参加しだして、なんとなく今年度から世話役をするワークショップなどが出てきだしたけど、来年度からはしっかり事務局員として関わりが深まってきます。

広報的な意味も含めて、ブログでもいろいろ宣伝して行こうと思いますが、今の時点でどこまでオープンにしていいのか不安もあったりして。

とりあえず、夏に京都と北陸(金沢)で1泊のワークショップを開きます。
北陸も世話役として参加しますしね。
あと、秋には九州でも1泊ワークショップの予定あり。
これも、参加する予定です。

他にも、勉強会のようなものも計画されてますし、いろいろ私の中でも動きがありそうですね。


その一方で気にかかることも出てきます。
それはタマタマのタイミングなのか、私が動くから起こってくるのかはわかりませんが、私がパズルのピースとして入っていくときに、逆にそこから離れていく人が居たりします。
ちょっとさびしいですね。

言われたらなんでも引き受けちゃう性格です。
頼ってもらえることがうれしいですからね。
もちろん、できることしか受けませんが、多少のことだと背伸びして受けることもあります。
でもそのことで、いろいろと葛藤を抱えることもあります。
引き受けることで私自身がしんどくなるのではなく、「引き受ける」ということを「他のためにならない」ということで指摘されるときにしんどくなりますね。

今までにそういうことがありましたから、今度は適度なバランスをとりながら…

自分がやりたいからやっていることを、諸事情で「やらないようにする」っていうのは難しいんですよね。
「やりたい」っていう自分の気持ちを押し込める必要がありますからね。
でも、そこを無理にやり続けることで、周りの人が困る結果になるならば、それはそれで私がしんどい思いをしないといけなくなる。
うーん、難しいことです。

ちょっと昔の私は、模範的な社会人として「言いたいことはぐっとこらえて、相手に合わせる」ことを美徳としていましたが、ここ数年で「自分が何をしたいか」をじっくり見つめて、その気持ちに正直になる「気持ちよさ」を知ってしまいました。
なのに、「自分が何をしたいか」を表に出すとまずい状況は苦痛です。
なので、その苦痛を避けるために「押し殺す」
しばらく、それらのことに悩まされていますね。

まぁ、そういうことが解決できたわけではないですが、ひとつの方向で「やりたいこと」を実現していける道が広がってきたわけですから、大きな救いではありますね。

プログラム原稿の締め切りまで間が無いですが、それが終われば具体的に発表していきたいと思ってます。

各地の皆様、お楽しみに。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 35

2009-01-21 00:46:40 | 親子コミュニケーション

親子コミュニケーションネタとしては1月半ぶりになりますか。
すっかりサボってしまいました。

先日、日曜礼拝という法座があったのですが、そこで座談会にご一緒した方のお話が心に残りました。
その方は、仏法に触れて自分の受け止め方が変わったということも含めてのお話でしたが、普段の親子の関わりにも通じることなのでこちらのカテゴリーで使わせていただきます。

思い・想い・願いというものは、普通は私が持てば私だけのもののように思うのですが、人との関わりの中でそういう「思い」が水が流れていくように連鎖して通じていくことを感じます。

Aさんには2人の子どもが居られます。
実際はどうか知りませんが、Aさんの目にはいつも喧嘩している姉弟と映っているようです。
あるとき、Aさんは姉のほうにゆったりと関わる時間を持ったそうです。Aさん自身に気持ちの余裕があったと聞きます。
その後、弟に優しく勉強を教えている姉の姿があったそうです。

自分が優しい気持ちになれるとき、その気持ちを受け取った姉が弟に対してもその優しさで接していく…「思い」が伝わって流れていくんですね。

私も子どもたちを見ていると思うのですが、親が誰かにきつくあたると、その子は下の子に対してきつくあたっています。
上の話とは逆の連鎖ですが、こういうことってありますよね。

また、そういうときの姉から弟への言い方が、母親や私の口調にそっくりでドキッとします。
私の伝えた「きつさ」がどんどん流れていくんですね。

ですから、まず私が「優しさ」を流してあげることが出来ればいいですね。
でも、まず誰かからもらえれば、容易に次の人に流せていけそうです。

Aさんは、仏法と触れ合うことで、仏様からのあたたかいものを受け取っていることを喜んでおられました。
そのことは、また別の機会に。

 

 34-「まず家庭で話し合ってみる」
 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ


報恩講 振り返り ~ 今

2009-01-17 22:50:50 | 真宗
前回、報恩講の1日目終了後に書いてから約一週間。
翌2日目にもいろいろと思いを馳せることはあったのですが、疲れていたり、その後気分的に落ち込んでいたりで、なかなか言葉にまとまりませんでした。

そのうち、その時々に感じたことも薄れて、日常にまぎれてしまうんですけどね。

そんな中、断片的に心に残っていることもあります。

順番が前後するんですが、一番最後に「報恩講の歌」を全員で歌わせてもらったのですが、私の少し前で歌にならずに号泣されている方がお二人。
とても尊い姿で、その歌に込められた「恩に報いる」心一杯で味合われていたのだと思います。
しかし、それを冷めながら見ていた私がいるんですね。

それはその号泣された方を冷めてみているのではなく、私自身のそのときの気持ちの問題で、「恩に報いる」心よりも、それまでの座談会で関わってきた方に心が捉われていたんです。

”縁”というものがあって、今この時間に偶然に顔をつき合わせている数名が、座談会という形で関わりあいます。
そこにはそれぞれの歴史がありながらも、「ここに居る」という動かしがたい事実があり、自分の力では「ありえなかった」ことの結晶なんですね。
この肉体が在るためには、産んでくれた親が必要ですし、育ててくれた家族もいれば、関わり合いになって自分を形成してきた教師や仲間もいる。
また、具体的に生きつづけるために奪ってきた「食べ物」という名の多くの命もある。

それを知ったことじゃないとは言わせません。

そうしてやっとこの場で法に出会えているというのに、まだ「今の自分じゃないもの」を探したり待ったりしている。
条件が整う、変化がある、心が動く…
そういう理想や想定されたものと今の自分を比べる。

そりゃあ、葛藤は生まれますよ。
理想と現実を埋めようとすればするほど、「これが到達点じゃない」と自分の内側を問題にしますから。

それだけならまだしも、その葛藤をして「求めている」「苦しんでいる」と、渦中にある自分を護ってしまう。
あるいは、そういう自分を横において「特に何も感じません」と想定どおりの自分にならないことから距離を置いて護ってしまう。

見当違いの方向に力を入れるか、失敗を恐れてじっとしているか。
それを突き詰めて、”空”になったり”無”になったりできれば、そこにも悟りの道はあるのでしょうが…

そこを選択して、拓いてくださったのが、宗祖の”易行道”なんですけどね。
出来上がっているものをいただく。
聞かせていただく、聴かせていただく、効かせていただく。
自力は無効で、がんばって捨てるのでもない。
自力が役に立たんという”知恵”の言葉を聞く。

そういうことを伝える力の無さを痛感するとき、一方では「よくそんなものを聞かせてもらえた」という喜びもあるのですが、そう自分のことを喜んでばかりはいられない複雑なものもあります。

力の無さ…
いや最初から力があるなどとは思っていないのですが、ひがみモードに入ってしまうと、「他の人ならばうまく伝えてあげてたんじゃないか」という気持ちに引きずられます。
自分は駄目じゃないかと。

そうなるともう恩徳も報恩もふっとんでしまう。
あぁ、やはりちっぽけなやつはちっぽけなままで、何かを成し遂げようなどとおこがましいことですね。

ひとり静かに、「南無」と帰っていくこともひとつの道ではありますが…
さてどうしたものやら。

報恩講 1日目

2009-01-12 00:39:25 | 真宗
年末年始、なにかと仕事が立て込んだり、疲れや寒さのために夜遅くパソコンに向かうのを避けてたりすると、ブログ更新がままならないなぁと感じております。

ということを言い訳しながら、今日をきっかけにまたできるだけ更新していきたいなと。

で、今日は華光会の報恩講でした。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の御恩徳をしのびながら、でもただ感心したりありがたがったりするのではなく、そのご苦労によってのこされた「法」の相続をわが身を通じて確認する大事な法座です。

法要のあと、2座ご法話があり、それぞれに座談会があります。
奇しくも2座とも「いかに自分というものが駄目なやつか」ということを、損得や驕慢の心を通じて見せ付けられるお話です。
座談でも、そういう自分を懺悔する流れが多くなるのですが、ひとつ間違えるとそういう「懺悔する自分」というところに価値をつけてしまい、正しい方向に進んでいると勘違いしてしまいます。

ひとつ大事なことが抜けるんですね。
そういう「懺悔しなくてはいけないよな自分」というのは、どこへ行くのか。
法話で照らし出されて、懺悔している(フリ)など私のしてきたことのほんの一部であり、このみに宿った業というのはとても自分で振り返れるものではない。
「出て行く後生」はちょっとやそっとの懺悔でホッとできるようなものじゃないんですね。

そんな「宿業」のかたまりの私がここに「在る」からこそ、仏願を起こさずにおれなかったということ。
ただ単に「救ってくれる」からありがたがっている場合ではないんですよね。

そのことを明確に伝え残してくださったから、今ここにある浄土真宗に出会える…

恩に報いるのは、ただ感謝したり崇める事ではなく、誰でもないこの私が「南無」に応え「南無」と返すことだけですね。

南無阿弥陀仏

一年の計

2009-01-02 03:35:00 | 日常雑感
世間的には「一年の計は元旦にあり」という言葉もあり、新年となって心新たにってことがあります。
私としては、あまり「元旦だから」って気分はなかったりするのですが…まぁ今の自分の気持ちのところで内省してみるのはいいのかもしれません。

で、ちょっと思いを内に向けてみると…

いやぁ出てくる出てくるネガティブな感情(苦笑)
未解決のまま、棚上げにしていることが多すぎますね。
じゃぁ、今年はそれを解消していこうと前向きに「計」を練るのかというとそうではなく、基本は「流れに任せる」ということのままですね。
あるいは「流れに任せる」が「計」でしょうかね。

多少、そういう抱えているものを手放そうということは考えています。
ただ、状況を手放すことはしても、そのことで抱えている感情も手放せるかどうかはそうしてみないとわからないですし、手放したつもりで「引きずる」ことも十分考えられます。
また、そういう風に考えてしまう今の自分がネガティブだと思えますし、自分で動かずに「流れ任せ」の根本なんでしょうね。

根本といえば、やはり傷つくことを恐れて行動しないということもありそうです。
自分が関わって変えてきたことが「うまくいったためしがない」というような言葉で評価されるといい気分じゃありませんし、どんどん行動したくないという判断に支配されてきます。

かと言って、まったく引きこもるのかというとそうでもなくて、「流れ」という言い訳を用意したうえで…ね。

とまぁ、読んでて面白くないだろうなということばかり書いていますが、自分としてはそういう部分も「押さえ」として受け止められているところに救いがあると思っています。
今の自分の奥底にあるものを黙殺するのではなく、「そのように」受け止めて見る作業ですから。

逆に言えば、流れに乗っているときは「法座」でも充実しているし、カウンセリング関連の流れには新たな出会いの予感に満ちていますし、昨年から始めたもうひとつの柱にも期待を持っています。

外からの刺激に対して、そのときのありようで動いていく…結局、そういうことになりますかね。