コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研 月例会 3月

2009-03-21 23:24:24 | 真宗カウンセリング
木曜日は3月の月例会。
今年度最後の輪読会で、一年かけてきたロジャース著「対人関係:ガイダンスの核心」を通し読みする予定…でしたが、途中から各自の感想などに入って、後半はパス。
もっとも、一度は輪読しているところですから、中途半端な感じではありません。
むしろ、後半のロジャース氏の「仮説」を固めるための微にいり細にいりの配慮や丁寧なところを知った上で、もう一度大事な「三つの条件」をなぞることで、私の中の深みが増した気がします。
頭ではスウッと入ってきているこの「三つの条件」ではありますが、じゃあ実行できているかというと、とても出来ていない。
出来ていないことはいくらでもわかるのに、どうすれば出来るかはわからない。
いや、どうすればというテクニックを求めている時点でずれてきてしまう。
出来ることを目指すのではなく、その根底のマインドを身につけていけば、結果として出来上がるもの。

うーん、それも頭ではわかるのですが、これは経験を積むしかないです。
ただ、手探りで数をこなす経験は必要なく、これほどはっきりと「これが大事なこと」と示されていることを心に留めて経験する。
ちょっと知った、ちょっと形をなぞれたという「うぬぼれ」を気づかされ、剥がされるように「出来ていない自分」に立ち返ることを経験していくだけ。
そうすることで、頭でわかっている「大事」を、相手との関係において自然と尊重できるように。

「一致」「共感」「肯定的配慮」を目指すのではなく、相手を尊重することで生まれてくるもの。
「透明」になることを”拒む”自分自身には、「何が起こっても大丈夫」という部分で相手に任せていけるだけの尊重がない。
相手を信じきっていない。
相手を信じることが出来ないのに、相手に信じてもらえるはずがない。
でも、そこを「信じるように頑張ろう」と力を入れるのは”ずれ”てくる。
うーん、ここが難しい。

良い関係があれば「透明」になれるのか、「透明」になれば良い関係になれるのか。
ここがわからないというのは、「まざりっけなしの関係」を体感する経験が足りないんだろうなぁ。
「あぁいい感じ」というのはあるんだけどね。

どういう感じが「透明じゃない」「ありのままじゃない」というのはいっぱい経験してきてるけど。

ロジャース氏の到達した「三つの条件」については、まったく疑う余地がない。
むしろ、すでにそのことを大事にしている先達に囲まれて、身をもって教えてもらっている。
それだけでも、素晴らしいことだと思う。
いまさらロジャース氏が正しいかどうか検証する必要もないのだから。

しかし、何を書いてもここに戻ってしまうが…頭ではわかっても実行は難しい。
三つのうちのどれひとつとして。
やはり、まずは心に留めて経験を…

真カ研ホームページ完成 ~実はこだわる人なんです~

2009-03-16 23:52:38 | 日常雑感

今年はじめの真宗カウンセリング研究会の年間計画を検討する会議で、私がホームページ作成を担当することになりました。
一口にホームページと言っても、その用途も様々ですし、その作られ方も様々あります。
さらには、そういうことを専門職にしている「Webデザイナー」という仕事もあったりします。
日々進化するネットの世界ですし、閲覧方法もパソコンから携帯からいろいろあるので、常に最新の情報を得て、最新の機能を駆使するページ作りをするには、常に勉強し続けないと駄目でしょうね。

そういう状況の中で、私が請け負うのはどういうものか…
内容に関しては、決まっている情報を提供するというものですから、問題ありません。
「どういう見せ方をするか」というところが、問題になってきますね。
そういうときに、私にはひとつのこだわりがあります。


私がホームページ作りを始めたのは、1999年9月ですから(メインページに記録されています)今年の秋で10年ですか。
最初は知人のページにお邪魔して、掲示板を利用していろんな人とやり取りをしていたのですが「主張があるなら自分のページを持てばいい」というアドバイスを受け、華光会で聴聞していることを、自分なりの言葉で伝えていきたいという思いがありました。
その頃によくやり取りしていた方のホームページを参考にしていたのですが、その方のポリシーに共感しました。

作り方によっては、閲覧できる環境と出来ない環境を作ってしまう…つまり、(意識せずとも)差別化してしまう恐れがあるということ。

それは、簡単にホームページを作成できるけど、”正しく”作らないと、問題がおきるというものでした。

これは、そういうことを意識した方のページに書いてある文章です
「視覚障害者であっても音声読み上げブラウザを使って、ホームページを『聴く』ことができるように作らなければなりませんし、 色覚障害を持つ方や、白内障の方でも容易に識別できる色使いを心がける必要があるのです。

  もうWebページは格好良ければいいという時代ではないのです。私たちは、使いやすさとデザイン性の両立をご提案いたします。」

これは逆に言うと「音声読み上げブラウザで聴くことが出来ない」「白内障の方には容易に識別できない色使い」のホームページがあるということです。

たとえば、何かを伝えたいときに、まず「タイトル」があり「大見出し」があり「小見出し」があり「本文」があるのですが、それぞれ正しいホームページに向けての決まりがあります。
しかし、目立たせるために、大きな文字の後に小さな文字や中くらいの文字を表現することでその順番が崩れてしまうものがあります。
本来「見出し」の意味で決められている文字の使い方を、部分的な強調のために中途半端な位置で使ってしまう…こういうものが「音声読み上げブラウザ」で正しく表現されることを妨げています。
また、本文の途中で太字強調したり、色を変えたりするのもそれなりのルールがあるのですが、市販の簡単にホームページを作成できるソフトでは、そのルールを無視して作ってしまいます。

他にもいろいろな事例があるのですが、そういう「正しくない使われ方」をチェックしてくれるページがあります。
Another HTML-lint gateway

私はページを作った後、このページでチェックして問題があれば修正するようにしています。

ためしに、よくご覧になるページのアドレスをコピーして、URLのところにチェックを入れて、アドレスを貼り付けて「チェック」ボタンを押してみてください。

広告の入っているページや、横や上にリストや見出しをつけているページなど、問題がいっぱい出てきて場合によっては「マイナス点」がつくかもしれません。
(ちなみにこのブログは-698点です…)
まぁ、ブログや掲示板のような便利な道具はほとんど駄目でしょうね。
そういう表示以外のプログラムを多数使っていますから。
でも、これはこれで利便性を重視している目的がありますから。

ややこしい話になりましたが、今回作った「真宗カウンセリング」のページは、情報を発信することを中心にしていますので、必要なテキスト情報以外は極力省き、シンプルなものにしています。
多少の表現手法もCSS(カスケード・スタイル・シート)を利用することで、読まれるべき本文にはできるだけタグ情報が入らないようにしています。

こういう作り方をすると、そのまま携帯でも閲覧できるところが便利ですね。

少し勉強すれば、イラストの表現や、音・動きを駆使したり、デザインに凝ったものもCSSを利用して作成できるようです。

おそらく99%以上のネット利用者が、こういうこだわりがなくとも普通に閲覧できるブラウザーを使用していると思いますが、ちょっとした工夫、ちょっとした妥協で、残りの1%の人にも伝えることが出来るのならば、無理に多くの情報を詰め込んだり、派手にしなくてもいいんじゃないかな…というのが私のこだわりです。

もちろん、その目的によってはより好印象で見てもらえたり、便利な使われ方をするページ作りも、時代の流れに合っているでしょうし、それを否定するつもりはありません。
物を売るページを作るにはカートなどの便利なプログラムを外せないでしょうし、フレームを駆使して多くの情報を得やすくする作り方もあれば、とにかく検索エンジンにひっかかって多くの人の目に触れやすい作りかたもあります。
ただ、私が作るものは、10年前に「そうなんだ」と気づかされたことを、「知らなかった」「別にいいじゃん」とするのではなく、こだわっていきたいなと。

もちろん、私の個人ページもそのこだわりで作っています。

「真宗カウンセリング」のなかに「尊重」ということがあるかぎり、99%の人だけでなく1%の環境の人も大事に出来たらなと…。

もし、興味があるようでしたらこういうページがあります。

みんなのウェブ

ウェブコンテンツ・アクセシビリティ・ガイドライン 翻訳

ということで、こういうこだわりでもって作られた「真宗カウンセリング研究会」のホームページもぜひご覧ください。

真宗カウンセリング研究会


真宗 カウンセリング 生活

2009-03-15 23:24:45 | 日常雑感
週末に保育園の保護者会慰労会があった。
私の4人の子どもを預かっていただき、今は高校1年の長女が1歳になる前からだから、かれこれ16年、重なることはあっても途切れることなく、通わせていただいた。
保護者会のほうも「居るだけでいいから」と誘われたのを真に受けて、10年役員をさせてもらっている。
あと数日でこの関係も終わりかと思うと寂しくもあるが、登園するという立場が終わるだけで、今まであった16年分の関わりが消えるわけではない。
4人の子どもそれぞれの成長の中には、この園で経験した多くの時間が活きているし、私自身も多くの先生や親との出会い、なにより多くの子どもたちの笑顔・泣き顔との出会いはかけがえのないものとなって残っている。

そういうことも感じながら、一緒に役員を務めてくださったお母さん方と飲みながらしゃべっていたのだが、これもそれぞれの親子に”ドラマ”があり、今でこそ笑い話で話しているが、さまざまな苦労や悲しみの歴史があることを知った。

よくカウンセリングの話で「いま・ここ」ということを言うが、これは過去を関係ないものにして、「いま・ここ」の姿だけを相手にすることではないと思っている。
泣き・笑い・怒り・喜びを繰り返してきた上での、そういうさまざまな感情を積み重ねてきた上での「いま・ここ」に現れてきている”その人”と関わっていくこと…それが大事な関係。

大事にするのは「いま・ここ」の感情だけれども、そこに居る人まるまる受け止めるってことは、その人の歴史は切っても切れないものだから。

そう思うと、そのひとりひとりが背負ってきたものが愛おしくなってくる。

それはなにも、長い人生を送ってきた大人だけに言えるのではなく、ほんの6年ほどの人生だけど、今卒園を迎える子どもたちにもそれぞれの歴史がある。
その上で、泣き・笑い・怒り・喜ぶ子どもたちに対して、「泣くな・笑うな・怒るな・喜ぶな」とは言えない・
泣いていようが、笑っていようが、怒っていようが、喜んでいようが、それは今でしかなく、後からなぞりなおすことはできないのだから。

そんな一瞬一瞬の積み重ねで”居る”今の子どもたちを受け止めて生きたいし、出会う人たちと関わっていきたい…

とても難しい道だけれども、今そう感じることが、真宗と出会い、カウンセリングと出会い、生活の中で様々な人と出会ってきたものが混然と渦巻いている”私”なんだなと。

もし、この私を通して、真宗からカウンセリング、カウンセリングから生活・人生、生活・人生から真宗、そういう形で出会うご縁になってくだされば、こんなうれしいことはない。


今回の懇親会で、私を知ってもらうためにこのブログやホームページのことを皆さんに宣伝した。
保育園から進学する先はばらばらだけれども、なんらかの形でつながっていけたならこんなうれしいことはない。

日曜礼拝 3月

2009-03-08 23:49:49 | 真宗

今日は日曜礼拝でした。4月からは社会人になるM先生のご法話。
「悪いこころ」ということでのお話です。
小さい子が多いので、たとえもわかりやすい具体的なお話。

「友達の持っているものが欲しいという気持ちがある。
 そう思ったことは、もう盗んでいるのと同じ」
「他の人をうるさいなぁ、いなくなればいいのにと思うことがある。
 そう思ったことは、もう殺したのも同じ」

自分ではそうは思えなく、「いや実際には盗ってない」「殺してない」としかいえないけれど、私の姿を調べつくした仏様の目には、そういう「意業」が悪い種となっていくことを見透かされている。

そういう罪悪深重の身だということを脅しているのではなく、そういうものをお目当てに南無阿弥陀仏を作ってくださったという、お慈悲のお話までしてくださった。
(私の頭の中で言葉をすりかえているところもありますけどね)

お話の最期に子どもらと一緒にお念仏させてもらうことがありがたかったですね。

その後は座談会。
今日は大阪で増井悟朗先生の法座があり、常連の大人の方はほとんどそちらへお参りされたよう。
遠く関東や北陸からお参りされる方々は、高山の増井信先生の法座に行かれたのかな。
結局、私とOさんの二人だけ。

それが逆に良かったですね。
いやぁ、私より若い女性と二人きりで法座というのは、なかなか緊張するものもあるのですが、家族ぐるみでもう数年お付き合いのある方ですので、そこは大丈夫。

2時間ほど、じっくり聞かせてもらえたし、法にかかわるところはいくらか思ったことを話させてもらったりね。

で、感じることが、まずはゆっくり時間をかけて、今胸にあることを聞かせてもらえたら、そのお気持ちに応じて、私の中の「今の思い」をゆっくりお伝えすることが出来るなということ。
これは昨年の真宗カウンセリング・ワーク・ショップでも感じたことだけれど、短い座談の時間で多くの方と関わり合いすることの限界を、少ない人数でじっくりと時間を持てれば変えていくことができるんだなぁと。
もちろん、ご法話をいただいて多くの方と同じ話題を共有する大事さもあります。
その形でしか生まれない味わいもありますしね。

ただ、目の前にいる一人の方にじっくり寄り添うことが出来れば、こちらがあせって動くこともなく、ひたすらご本人の気づきのところで、相手の方の成長を待てるし、信じることも出来る。
まぁ、だれでもかれでもというわけには行きませんが。

うん、カウンセリングというものがあり、また真宗というものがあり、その両方を我が身で体感させてもらえたことから生まれる、「法座の在り方」というものに浸れた感じがします。

真宗カウンセリング・ワークショップや、月例会での学びや体感を、相手に向けることで自分自身で深めていくという時間でしたね。

表に現れる”個”と”個”が、水面下で”法”でつながっている感覚。
真宗カウンセリングならではの醍醐味ですね。


子どもの発表と宮沢賢治

2009-03-02 00:01:18 | 日常雑感

今日は子どもの保育園で「生活発表会」がありました。
真宗園ですので、まずは仏参。
先日の「音楽フェスティバル」の演目を再現したあと、乳児組から順番に歌やお遊戯の発表、後半は劇やダンスなど、一年間いろいろな学習の成果を発表してくれます。
どの演目もただ単に上手下手ということじゃなく「今」の子どもの姿が現れて、さまざまな感慨にふけらせてもらいました。

そんな中、私の子どもが所属する年長組が、ピアニカ演奏、歌の披露に続いて、朗読を聞かせてくれました。
まだまだ頭が柔らかく、しみこむように覚えた詩です。

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

(宮沢賢治)

人間の生き様として道徳的に感じることも出来ますし、真宗にご縁の在る生い立ちから仏教的な意味を読み取ることも出来ます。

これから小学生になる子どもらにはどのように受け取られたのか…もしかしたら難しい言葉だけど意味を追うのではなく、そこにある言霊を追いかけるようにしていたのかもしれません。

今日の私のところでは、「そういうものにわたしはなりたい」のだけど、そうなれていない私の「今」というところで味わっています。

まだ若い子どもたちには、できるだけ目指していってもらうことが素晴らしいことだと思いますし、そういう願いが先生にあったのかなという想像もあります。
しかし、ただ足元を見ずに「理想」としてだけで語られた言葉じゃないんだろうなと。
煩悩に悩まされ、死を恐れ、苦を拒み、どこまでも自分中心でしかないわたしの姿…。
さらには、そんな自分の姿をすら普段はまったく気づかずに、「少しはいいところもあるだろう」と見誤っている姿。

そこに思いが到るとき、「そういうものをこそ、救わずに居れない」という弥陀の本願に立ち返らせてもらえます。

もちろん、宮沢賢治がどういう思いで作ったのかはわかりませんが、その言霊に出合った私には、この詩からも「駄目な自分」と「南無阿弥陀仏」が浮き彫りにされます。

がんばって「そういうもの」になるのじゃなく、「そういうものになりたい」けれどなれない今の私を、「そのまま救うぞ」という阿弥陀仏との出会い。
あとは、お任せの世界ですね。


おそらく意味が良くわかっていないであろう子どもたちの「純粋」で「一生懸命」な言葉だからこそ、ぐっとしみこむものがあります。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 37

2009-03-01 00:06:01 | 親子コミュニケーション

またまたニュースを元に。

 乳幼児期に親からよくほめられる子供は、他人を思いやる気持ちなどの社会適応力が高くなることが、科学技術振興機構の長期追跡調査で明らかになった。育児で「ほめる」ことの重要性が、科学的に証明されたのは初めて。3月7日に東京都内で開かれるシンポジウムで発表する。

 筑波大の安梅勅江(あんめときえ)教授(発達保健学)らの研究チームは、2005~08年、大阪府と三重県の計約400人の赤ちゃんに対し、生後4か月、9か月、1歳半、2歳半の時点で成長の度合いを調査した。調査は親へのアンケートや親子の行動観察などを通して実施。自ら親に働きかける「主体性」や相手の様子に応じて行動する「共感性」など、5分野25項目で評価した。

 その結果、生後4~9か月時点で父母が「育児でほめることは大切」と考えている場合、その子供の社会適応力は1歳半時点で明らかに高くなった。また、1歳半~2歳半の子供に積み木遊びを5分間させたとき、うまく出来た子供をほめる行動をとった親は半数程度いたが、その子供の適応力も高いことも分かった。

 調査では、〈1〉規則的な睡眠習慣が取れている〈2〉母親の育児ストレスが少ない〈3〉親子で一緒に本を読んだり買い物をしたりする--ことも、子供の適応力の発達に結びつくことが示された。

読売新聞

調査の詳しい方法はわかりませんが、単純に結果を読んで「あぁ、やっぱりほめて育てるのがいいよなぁ」と思いました。
自分自身、怒られるよりほめられるほうがいいですもんね。

ただ、頑張って子どもをほめることで「これでこの子は大丈夫」と決め付けるのは怖いこと。
「ほめることは大事」ということだけ心にとどめて、出来るだけほめてあげようと心がける。
これは、子どものためだけじゃなく、「あぁ、ちゃんとほめてあげられた」という私への気持ちのご褒美じゃないですかね。
「また怒っちゃった」と落ち込むより、ほんの些細なことでも「こどもに優しくしてあげられた」と自分自身を認めてあげたり、ほめてあげることがいいんじゃないでしょうか。
それが「母親の育児ストレスが少ない」につながっていくでしょうし、そうすると「親子で一緒に本を読んだり買い物をしたりする」ことも出来るじゃないですか。

結果として「他人を思いやる気持ちを持つ」子どもになってくれることはうれしいですけど、そういう子どもを「育てる」目的じゃなく、「今・ここ」のところでほめてあげる。
そうすると自分自身が育てられるじゃないですか。

子どもの様子を鏡にして、自分自身の様子を振り返ってみる。
ほめてあげることが、自分自身をほめてあげることにつながれば、親子で「育ちあい」が出来るんじゃないでしょうか。

 

 36-「目と目を合わせよう」
 35-「流れていく思い」
 34-「まず家庭で話し合ってみる」
 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ