コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

聞き方・伝え方 ~お知らせをかねて~

2009-08-31 00:05:57 | コミュニケーションワーク

来週の日曜日、「華光会 京都支部学習会」を行います。

5月頃から、いやずっと前から何らかの形でやってみたいと思っていた「聞き方・伝え方」を考える集まりです。

年に1回、京都支部法座として主に「聞き方」を中心に担当させてもらっていました。

過去に話題にしたブログなど
2009年
2008年
2007年(この年は気分的にブログを怠けてた時期なんで記録が残ってませんね。)
2006年
2005年

「仏教は聴聞に極まる」ということなので、皆さんの関心の多くは「聞き方」にあります。

どう聞いたらいいのか、悪いのか…
聞き方を変えれば進むんじゃないか…

当然の考え方ですね。
私も、自分が気付かせてももらったところでお話させてもらいました。

しかし、大事なのは、それが上手であろうと下手であろうと、「自分で気付いていく」と言うところにあります。
そのためには、「講義的に聞いて自分のやり方を検証する」のではなく、「何度も失敗しながら経験に学んでいく」事が大事です。
でも、実際に何度も失敗するのを繰り返す時間も余裕もありません。
なので「学習会」というかたちで、できるだけシンプルなところで実践していこうということです。

もう一方で、法座に限らず人間同士の関わりの中では「会話」ということが多くを締めます。
相手に伝えたい、相手に聞いて欲しい。
こういう思いを持ちながら、どうも伝わらないことにもどかしさを感じる。
やがて、聞いてくれない相手に原因を求め、責め、傷つけていく…
あるいは、自分の伝え方に自信をなくし、自分を責め、傷つき、閉じこもっていく…

どちらも、それがそのときの紛れも無い自分ですから、そのことを苦にする必要はありません。
でも、もし今よりほんの少しでも「伝える」事が出来たなら、傷つくことも傷つけることも避ける事が出来たなら。

じつは「伝え方」を意識するのは、「聞き方」を意識することの裏表にあります。
と、ここから先は言葉で学ぶのではなく、経験に学んでいっていただきましょう。

最初に、私が「やっていきたい」と思っていた集まりと書きましたが、実は他の方から「学んでみたい」と言う声をいただきました。
自分の「やってみたい」だけだと、独りよがりの気がして、なかなか一歩が踏み出せなかったんですが、ちょうど良いタイミングで引っ張っていただきました。
その分、責任も増しますが、それを糧にして動いてみようと思います。

日時:9月6日(日)
場所:華光会館
参加費:500円
主催:京都支部

案内を作成しましたので、パソコンからの方はこちらをご覧ください。
学習会案内(pdf)

学習会という名称にしましたが、講義ではなく、その時間と空間といっしょにいる仲間によって”学び習う集まり”です。

さてさて、楽しみです(いや、不安もいっぱいありますが…)


捨て物

2009-08-29 00:23:22 | 真宗

そろそろ1週間たとうとしてるけど、今日もWSにインスパイヤされた話題。

”わたし”と”ほとけさま”の関係って…

今までいろんな人と出会ってきたけれど、100人いれば100通りの「ほとけさま像」がある。
厳しいほとけさま、優しいほとけさま、上のほうで見守ってくれるほとけさま、下で支えてくれるほとけさま、内にぴったり入ってぴったりすぎて気付けないほとけさま。
どれが正しいとか間違いとかじゃなくて、この”わたし”の知識・理解・想像力に任せておいたら、自分の都合に合わせて「ほとけさま像」を作ってしまう。

これは捨て物。

そんなものを作り上げるから、今の自分の気分に沿っているとか沿ってないとかで「いる」とか「いない」とか「わからん」とか…

そこから少し聴聞が進むと、「その姿」ではなく「おはたらき」を観ていく事が出来るようになる。

罪悪など知れるはずの無いものが「罪悪深重」としれるのは、自分の力じゃない…

この世に産んでくれた親、育ててくれた関わりのある人々、先生やお同行たち、これだけのご縁やお育てを観ると、ほとけさまが働いているとしか思えない…

堕ちるしかない、堕ちて当然のこの身を、無条件でお救い下さるとは…

これらをして、「ほとけさま」は間違いなく働いてくださっていると。

しかし、その「ほとけさま」に任せる事ができるかというと、また話が違ってくる。

居られるのはわかるが、私を救ってくださるとは信じられない…

そう、こちらから信じようとしてしまう。

向こうの方から働いて、「お前が必ず聞き開くと信じている」とおっしゃっているのに。
わたしが聞くことを「信じて」おられるのだ。
こちらが信じるんじゃない。

じゃあ信心って?獲信って?

これは、私が信じたり獲ったりすることじゃない。
ただただ、仏願の生起本末を聞かせていただくことで、”結果として”信を得た状態にさせてもらえる。

私が救われる手立てをするのじゃなく、全部一方的に動いてくださっている。

わたしの頭に任せておけば、どこまで行っても「役に立つもの」が出てこない。
むしろ「役に立つもの」とおもっているものを何重にも積み重ねて、邪魔をしている。
それを剥がしてもらえば、そこには「生身のわたし」「お目当ての姿」しか残らない。

剥がされてしまえば、もうこちらがつくりあげた「ほとけさま像」や「こう救われい」とかいうものは欠片も無くなる。

「誰をいつどのように救うのか」という仏様の側の願いに従うだけ。

でも実際は、最後の最後まで、我に執着して手を放せないんだよねぇ。


作られた対応 第6回真宗カウンセリングWS-3

2009-08-28 00:03:29 | コミュニケーションワーク
以前の話題とかぶる部分もあるけれど、今までの法座活動で何度か出会ってきた、私によく似た「営業ぐせ」のお話。

ワークショップでいろんな話をしていくうちに、自分の”くせ”を人の姿を通して知らされたりする。
くせと言うと、”行動のくせ”って感じだから、思考のパターンと言ったほうがいいかもしれない。

これは個人的な素養なのか、あるいは来歴による刷り込みなのか、分析してみたら面白いかもしれないけど、それはパス。

でも、私の来歴から語ってみることは出来るかもしれない。

学生時代にアルバイトでホテルのバーテンダーをしていた。
全国系列のいわゆる高級ホテル(西本願寺の北側にある)で、アルバイトと言えど接客マナーを一から叩き込まれる。
それまでも客商売のバイトはあったが、徹底の度合いが違う。

そこには「自分を殺して、お客様のためにつくすことを第一義とする」と言うものが基本になる。
サービス業なのだから、飲食物を売るだけでは終わらず、雰囲気や会話を楽しんでもらうことに対してお金をいただくのだから。(サービス料なんてものもいただくしね)
多少、腹に据えかねるオーダーであっても、笑顔が基本だし、怒りなど気取られては”ならない”。
厨房の職人さんなどは感情をぶつけてくるが、料理を作ってもらわないと話が進まないのでこちらはひたすら頭を下げて頼む。
もちろん、その分、別の場所で発散するのだが(この時期は仕事後の麻雀やポーカーなどで発散してたかな)どんどんコントロールが上手になって、仕事中は感情を押し殺し、偽りの笑顔の仮面を常に表に出していた。

その後、営業職に就職すると、これまた自分の気持ちは後にして、ひたすら客先で頭を下げる日々だ。
もちろん、その見返りとして営業成績があり、それに応じて給与が手にはいるのだから、あたりまえのように自分の感情は殺す。

こういう日々が続くと、もうコントロールじゃなく、普通に感情を押し込める事が出来るようになる。
また、いつしか感情を押し込めていることすら忘れる。
それが都合がいいから。

法座やワークショップで、「どういう感じ?」と尋ねられるとき、頭が稼動して「適した答え」を紡ぎあげ、言葉にして返す。
「もっと自分を出して」などと言われても、こっちは精一杯「自分を出している」(つもり)
「腹底を」と言われても、こちらの”判断”では、それが腹底だったりする。

そう、自分では違和感なく、普通に対応”できている”
頑張って対応してるんじゃなく、それがこちらの自然な姿だったりする。

これは相当根深い。
自覚症状が無いし、他所から指摘されても、その指摘をも取り込んで自分の物にする能力に長けているのだ。

世間的に、営業などで成功している人ほどこの傾向が強い(だから私は抜け出せたのかも…)
自分の気持ちを正直に出す人より、よっぽど付き合いやすいだろうし、飲み屋などで”よいしょ”されて嬉しがらない相手はいない。

しかし、そういうお芝居はバレバレなのだ。
世間でも、利害があるからそのお芝居を気付かないフリをして、腹底では「こいつも何考えてるかわからん」とキツネとタヌキが化かしあいをしているだけだ。


ここを揺り動かせるのは…
私なりに答えはあるのだが、出さないでおこうと思う。
こういう能力に長けた人は、その答えを聞いて、それに応じているフリがすぐにできてしまうから。

もう一度書くが、こういう人は決して誤魔化しているのではない。
本人は精一杯、自分を出していこうとしている。
自分でも気付かずに、自分を誤魔化しているのだ。
指摘されて、それを受け入れても、勝手に頭が作動してしまう。
ゆっくり、何度も何度も、剥がしてもらうしかないのかもしれない。

私自身がこのことから解放されたのは…ほんの最近のことだと思う。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 番外編(Sくんとの戦い)

2009-08-27 00:00:20 | 親子コミュニケーション

ちょっとワークショップの話題から離れて、息子とのひとときを。

昨日から夏休み明けの学校が始まった。
(以前みたいな3学期制じゃないから2学期でもないし、まだ後期になったわけでもないから新学期でもない…こういうときどういえばいいんだろ?)

思えば昨朝も次男(Sくん)は学校に行きたがらなかった。
口にするのは「眠い」と言う言葉。
でも、昨朝はお兄ちゃんが登校するのにあわせてなんとかいっしょに連れて行ってもらった。

で、今朝の出来事。
まず、朝一番なかなか起きない。
「ねむい~」を連発する。
それでもなんとか顔を洗い朝食を食べる。
この時点でおにいちゃんのほうは早めに学校に行きたいからあせって「はやくして」を連発する。
Sくんはだんだん機嫌が悪くなる。
食事を済ませておにいちゃんが「行こう」と促す。
「いや…」抵抗が始まった。
最初は小さな声、だんだんと声も大きく、床をたたくアクションが加わる。

ここからわたしとの戦いが始まる。

「おにいちゃんに先行ってもらおか?」
「いや」
「じゃぁ用意して行こう」
「いや」
「どうして行かないの?」
「しんどい」
「そうか、しんどいのか。じゃぁお家で寝とく?」
「いや」

このときの配置は、わたしが座っている右横に息子。
目線の高さは同じだけど、わたしが横向きの状態。

ここでとりあえず、おにいちゃんを先に行かせる。

「Sくんはどうする」
「休む」
「熱も無くて病気じゃないなら、お父さんは学校にいって欲しいな」
「いや」
「でも、おとうさんはおねえちぇんと約束があるし(病院に連れて行く約束)、ひとりでお留守番やで」
「いや」
「でも、学校を休む人を外に連れて行けへんで」
「う~」
このあたりから、言葉じゃなくうなり声に変わりだす。

「う~~も~~あ~~」
「お父さんはどうして欲しいか話したから、Sくんがどうしたいか教えて?」
「う~~も~~あ~~」
「言葉がつかえなくなった?」
「う~~も~~あ~~」
「動物さんにはお話聞いてもらえへんなぁ」
「う~~も~~あ~~」

このへんのやり取りを繰り返し繰り返し。
だんだん息子の声は張り上げる声に。

しばらく叫びたいように叫ばせといて放置。
ただし、目は見つめたまま。

「ちょっとこっちに来ようか」
ちょっと声が落ち着いて(疲れた?)きたので、膝に乗せからだを真正面に。
「さあ、どうしたい?」
「いかへん」
「じゃあ一人で寝ておく?」
「いっしょにいて」
「おねえちゃんを病院に連れて行かんとあかん」
「いや」
「学校行くか、寝とくかどっちか選んで」
「う~~も~~あ~~」

うーん、元の木阿弥(こういう使い方でいいのかな?)
歌の歌詞でいうなら「Aパート繰り返し」って感じだろうか。

ここでお姉さん準備完了。
困りながら待機してる。
病院の時間も迫ってる。

「じゃあ、おとうさんは車を取りに行ってくる」
「う~~も~~あ~~」

膝から降ろし、下の階へ。
息子も服を引っ張りながらついてくる。
舞台は玄関へ。

「おとうさんは学校へ行って欲しい。そうか、寝て待ってて。」
「う~~も~~あ~~」
「Sくんはどうしたい?」
「おとうさん、いっしょに居て」
これで交渉決裂。
「無理」
といって、家を出て駐車場に向かう。

しばらく玄関で叫んでたそうだが、車を取ってくる間に、おねえさんが寝室に連れて行き、もう一人の留守番のお姉ちゃんのところへ連れて行く。

家に戻って、待ってた娘を車に乗せ、様子を見に行こうとすると自分から降りてきた。
「どうする?」
「学校行く。でも迎えに来て」
「じゃあ、学校に行って、しんどかったら先生に言って保健室で寝させてもらい。先生が帰ったほうが良いとおもわはったら電話してくれはるから。
さぁ、用意しようか」

いっしょに2階にあがり、着替えて、ランドセルと水筒持って準備完了。
この時点で始業時間、本当なら電話しとかなきゃいけないけど、とりあえず学校へ(先生、ごめんなさい)
学校へついたら、ちょうど先生が教室から出てきたところ。
おそらく職員室に行ってうちに電話しようとされてたんだろう。
「ちょっと調子は悪いようです。
少し話をしていて遅くなりました。
何かあったら、連絡ください、迎えに来ます」
先生は察してくれ、そおっと息子を連れて行ってくれた。

車の中で娘と話して、車を取りに行く間の様子を聞く。
以前なら「うるさい」「だまって」ときつくしかり口調の娘も、「いっぺん上行って待ってよか」と諭してくれたようだ(娘の成長にうるうる…)
「みんな何べんかこうやって泣いて学校行かへんって困らせてたなぁ」
「そうやっけ(苦笑)」
あぁ、娘も自分の時のこと思い出しながら、経験を元に(困らせる側の気持ち)対応してくれたなと。

結局、病院には20分遅れで到着。

うーん、なかなかにハードな朝でした。
まだ、先日のワークショップでいただいた充足感が体に残ってるんで、そこそこゆとりの対応が出来たのかな。
とはいえ、まだまだ受け止めきってないなぁ…

まぁ、いつも偉そうに書いてますが、わたしもこんなもんです。

児童心理に詳しい方、どこか指摘があればぜひ。

  42-追い込む言葉
  41-会話と言語発達
  40-31~39のまとめ
  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ

 


感情の様子を尋ねる 第6回真宗カウンセリングWS-2

2009-08-26 00:00:30 | コミュニケーションワーク
今日も先のワークショップでの話題から。

そのワークの時間は、仏法のことをめぐって話が進んでいた。
頭でうけとめ、なかなか進まない…
でも、本人はひとつひとつ理解していかないと先に進めない。
お勧めする側と受ける側がぐるぐる同じところをめぐっている。

ひとつのことを「聞いてもらえた?」と確認すると、「これこれこういうことを聞かせてもらいました」と。
しかし、それが頭の理解としか思えないと、問う側もどう伝えればいいかとうなってしまう。
問われる側は、これじゃまだ理解が足りないと思うのか、理解したと言う事が上手く伝えられていないと思うのか、次々と理解を補足して理論武装を強固にしていく。

そんなとき、「どういう気持ちが流れているんだろう」と言う事が気になる。
今回は、ちょっと合間を見て尋ねてみた。
「もし、言葉を重ねているときになにかの感情が湧き出てきたら、ちょっとそれを言葉にしてみてください」

結果としては、少し感情の言葉が出てきても、その感情を説明しだして、感情よりも知識や理解に流れていってしまう。
でも、一度そういう確認をさせてもらってからは、本人も気付かないところで感情の言葉が表に出だしてきた。
感情といっても、なにも激興したり、泣き叫んだりすることではない。
「ちょっとしんどい」とか「悲しい感じ」とか、そういった類のもの。
このときの関わりではここまでの言葉にもならなかったけど、「モヤモヤ」だとかそういう言葉になって現れていた。

ミニカウンセリングを実践させてもらううちに、話し手のトピックのことより、そういうトピックを話しているときに現れる感情の言葉に敏感になっている。
そういう言葉に触れることで、そこにいる方が鮮明になり、存在が感じられる。
逆に、どれだけ饒舌な言葉を並べても、理屈だけだとそこにその人が見えない。

思えばわたしもずいぶん理屈・理解・分析によって、多くの言葉を並べてきた。
自分のことをわかってもらうと思えば思うほど、言葉を重ね続け、自分でも言いたい事がわからなくなってくる。
それでも、言葉を重ねることを止められない。
そんなとき
「わかってほしい」
「伝わらなくてさびしい」
なんていう短い言葉のほうが、よっぽど多くの事が伝わる。

法座でも、しつこいように「それでどんな感じ?」と尋ねる事があるが、とても大事なことだなと。

もちろん、その感情を口にした瞬間、また違う感情に変わっていることもあるが、それでいい。
そんなことはお見通しで、口にしたことを自分の耳でもう一度味わってみる事が出来れば、そこに意味がある。


今回、この場面で感情の確認をさせてもらったときに、別の方から「感じを尋ねてもらって、すごく自分のことを気にかけてもらっている感じがした」というようなことを言っていただけた。
「こうしたら、ああしたら」と押していっても聞けないときに、ちょっと自分を振り返ってもらうためにも、大事なことだったんだと。

日がたって少しその場の正確な描写が出来なくなっているが、まぁ、わたしの受け取りを記すブログなんでご容赦を。

受け入れられたい 第6回真宗カウンセリングWS-1

2009-08-25 00:26:03 | コミュニケーションワーク
今回のワークショップで最初に表に浮き上がって来たのは「受け入れられたい・認められたい」という感情の話題。
その対象はいろいろあれど、多くの人が持っている感情じゃないだろうか。

「あるときに受け入れてもらった気がした」
というプラスの感情もあれば、その裏側で
「ずっと受け入れてもらえなかった」
という感情が苦しみとして残っていたりする。

もしかしたら、こういう「受け入れてもらっていない」というのは、こちらの思い込みで、相手側は「そんなこと無いよ」という場合もあるかもしれない。
しかし、こちら側の「こういう風に受け入れて欲しい」という思いと、相手側の「こういう風に受け入れているよ」という思いがぴったりと一致することは少ないのじゃないだろうか。

これは私自身も深い深いところで抱え続けている感情だったりする。
「双方の思いがそれぞれにあるのだから、仕方ない」という蓋で、ずっとずっと追いやっているものだ。

それでも、少しは「認めてもらう」ために一生懸命尽くしていく。
社会で頑張り、家庭で頑張り、認めてもらう種を次々と積み重ねていく。
それがなんら役に立たないという事実がもしあったとしたら…そんなことは絶対受け入れたくないから、どんどん積み重ねていく。
積み重ねる作業の間は充実している。
でも、ふっと一息つくとき、不安がよぎってきたりすると、それを振り払って頑張り続ける。

このことを「分析」するならば、「幼少の頃”認めてもらえなかった”ことがトラウマになって…」だとか、「不況で仕事を失ったら、目標がなくなって何をしていいかわからなくなる会社人間」だとか、様々な問題に直結していく。

しかし、真宗カウンセリングの場ではそういうことは必要ない。
「受け入れて欲しいんですね」ということを受け止めてもらう。
「受け入れて欲しい自分なんだ」ということを受け止める。
あとは、周りの人がアドバイスすることも無く、探ることも無く、自分自身が「いまの自分」をゆっくりと味わって、そこに「こうしたい」というものが現れてくるならば、そのことを意識して口にして自分でもう一度かみ締める…そのことが、自身で成長していくことになる。

このことは法の話にもつながっていて、いままで積んだものが「役にたたない」ということは絶対に受け入れがたく、つぎつぎに頑張って「これならば受け入れてくれるでしょ」と…

と、そこのところは今日は置いておくとして、みんな「受け入れて欲しい」と願っているんだなぁ、と。

このことひとつでも、真宗カウンセリング・ワークショップでの二日間は「大丈夫ですよ」と、しっかり包み込んでもらった時間だった。
きっと、参加してくださった皆さんも味わってもらえたんじゃないかなと。
だからこそ、いいことだけでなく、マイナスの感覚もしっかりと口にしてもらえたんじゃないかと。




大きな流れの中の、トピック積み重ね

2009-08-24 11:10:07 | 真宗カウンセリング


この週末は金沢での「真宗カウンセリング・ワークショップ」でした。
二日間、9名のグループでのワークに、たくさんの出来事が詰まっていました。
ゆっくり振り返ろうと思いますが、あまりにも内容満載なのでブログにまとめるには時間がかかりそうです。
ですので、まずは感謝の意と私の受けている流れだけでも。

参加してくださったみなさま、ありがとうございました。
役割をあたえ、導いてくださった先生、ありがとうございました。
ワークショップでいろいろ話をする素地を作ってくださった、今までカウンセリングのワークで育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
法の部分でも育ててくださったみなさま、ありがとうございました。
これまでのすべての関わりに、ありがとうございました。
それらが、私という個に収束して、このワークショップの時間と場になっていました。
大事なのは「いま・ここ・わたし」
「いま・ここ・わたし」というのは点ですが、その点に至るまでは大きな流れがあります。

すでに、これを書いている私は、二日間のワークを経た「いま・ここ」で動いていますから、振り返ってもまったくそのときの「わたし」とは変わっています。
でも、その二日間がなければ、今のわたしはありません。

まぁ、書いてみて至極あたりまえのことだと思いますけどね。


で、流れとして考えると、このワークの前から連なっているものがあります。
(深いところのつながりは今は置いておきますが)

水曜日に伝道研究会に参加してことはまえの記事に書きました。
このときの気持ちは、その前の日曜日の京都支部法座から続いています。
木曜日に「ミニカン学習会」があり、参加したのですが、2回の実践でひとつはこの日曜の法座から水曜の研究会で抱えていることを聞いてもらいました。
ここで話できた事が大きなポイントになり、自分の中の問題を”そおっと”存在確認をし、「やっぱりまだそこにいるんやね」と。
もう一回の実践では違う話題をするのですが、「あえて触れない」という私自身の判断に、逆に「存在がある」(あるから触れないことができる)ことを浮き彫りにします。
”ある”けれど、置いておく事が出来るわたし。
この押さえが出来る出来ないは、大きな違いでした。

ついで、金曜日にちょっとした打ち合わせがありました。
9月に行う「京都支部学習会」の打ち合わせです。
この学習会では、法座の集まりに「カウンセリング」を取り入れるもの。
「カウンセリング」という言葉を前面に出さなくても、同様のことはできるのですが、提言してくださった方が積極的に「カウンセリング」を意識したいということなので、それは素晴らしいと思い、嬉しく思い、引き受けさせてもらうことになりました。

こうして、わたしなりの「カウンセリング」を十分に意識しての「ワークショップ」への参加です。

ここに書いたのは表面的な部分だけですがまさに”大いなる流れ”の中にいることが実感できます。

後日書くかも知れませんが、ワークショップの中で「仏法」中心の時間がありました。
一方では「法座」から意識されてきた「カウンセリング」
一方では「カウンセリング」の場から意識されてきた「仏法」
同じでも、違うものでもあり。
その中心に私がいます。

あるいは、わたしも含めて全部、大きな流れの中ですね。

今はここまでにします。

伝道研究会 8月

2009-08-21 19:30:55 | 真宗
水曜日、伝道研究会に久しぶりに参加しました。

前半は来月にある「聞法旅行」に関わる打ち合わせ。
しかし、私は参加できないので、ちょっと話題的に蚊帳の外。
その「蚊帳の外」感を巡って、わたしの中で微妙な感情が揺れ動いたりします。
でも、ただ単にその微妙な感情を引きずりかねなかったのが、昨日あったミニカンでそのことをクライエントとして話しする機会があり、今は納まるところに収まっている感じです。

まぁ、そんな動きがあったということで…
(この辺の感覚を言語化しようとすると、かなりいろんなものが絡まってきますから、取り掛かるときはじっくりと取り掛かるしかないですね)

つづいて、テキストの羽栗先生著の「心身の革命」の輪読です。
不参加だった間にかなり進んでおり、ほとんど最後のまとめに入ってきています。
「罪悪」ということをめぐって、本文に関わること、それぞれの味わうところを出し合って進んで行きます。
たんなる知識の学習会ではなく、普段の法座で現れるところを共有しながらの研鑽は、他では得がたいものがあります。

これが一人で読んでいるだけだと、違和感を感じるところがあっても、そこを深めることをせずに、「偉い先生が書かれていることだから」と収めてしまうかもしれません。
しかし、「腑に落ちないところがあるならば、それをはっきり出して確かめる」という座談をしている集まりですから、そこに出てくる話をもとに、自分の領解をハッキリさせていきます。

すると見えてくるもの…そこには普段華光で聞かせていただいている”要”が浮き上がってきます。

罪悪感ではなく罪悪観が問題になって来るということ。
そこには「罪悪を見つめる」に留まらず、そこをめぐって自身のなかでうごめくところに「廃立」をしっかりしていくことがハッキリしてきます。

先日の支部法座で、先生から「お叱り」を受けたという話を書きましたが、今回参加したくなった背景には、その日のことが先生の口からなにか聞かせて貰えるのじゃないかというものがありました。
しかし、この”要”の部分を聞かせてもらうにつけ、そういうこだわりの部分に見切りをつけ始めている私がいます。

「本願のこころ」にふれるということで、知識じゃなく身に応えるところで聞くことは、普段からハッキリしていますし、他の方へのお勧めの中でも味あわせてもらっています。
「罪悪がしれる・しれない」というところに留まるのではなく、そこはすでに「見透かされている」というところでもハッキリしています。
そこをさらに深めて「廃立」をごまかさない聞き方…

これが抜けると、「普段の生活ではお念仏もでない、あぁ凡夫丸出しのやつだなぁ」と自力を捨てた気になり、「だからありがたいよなぁ」と他力任せを軽く受け止めてしまう…
これは怖いことですね。

ちょっと、原点に戻らせていただくご縁でした。

妻有芸術祭 アートとセラピー

2009-08-19 15:45:42 | 真宗カウンセリング

お盆の休み中、家族を帰省先の上越に迎えに行った帰り、少し足を伸ばして十日町近辺で行われている『越後妻有「大地の芸術祭」』を観にいきました。

普段芸術鑑賞には縁が無い…というか心得が無いのですが、今回は知人が十日町で参加しているというので、顔を見に。
おそらく、隣町である上越にいなければ出かけることも無かったでしょうが、これがご縁というやつですね。

事前にホームページで概要を見ていましたが、かなり広い範囲で様々なイベントが行われています。
とても、「見て回る」というものではありません。
目的はあくまで十日町の「やさしい家」という会場です。

上越から十日町まで、隣町とはいえ、車で山を越えて1時間半かかります。
ですので、途中で食事休憩をとりながら…と計画し、車をゆっくり停められる「道の駅」を目標にしました。
すると、ちょうどその「道の駅」周辺が、会場のひとつになっています。
「食堂で食べるべし」の計画を変更し、コンビニでお弁当を買いこんでアートに囲まれた場所でいただくことにしました。

案内図

道の駅から望む場所にあるオブジェ

首の無いキリン


実際に入れる「スキマをすすむ」

先ほどの巨大オブジェ

中を覗けるだんだん小さくなる家

昼食を終え、目的の十日町病院へ行き、そのとなりの「やさしい家」へ。

空き家になった民家を会場に、いろんなものが展示されています。
しかし、この「やさしい家」の主目的は、隣の病院の中に様々なアート作品を飾るというところにあるようです。
(直接病院内を見に行くことはできませんが、様子はスライドで上映してくれています)
私の知人も、毎日決まった時間に病院を訪れ、そこに居る人たちの姿をスケッチし、そのいくつかを「やさしい家」会場に飾っています。
おそらく、スケッチさせてもらった本人にも渡しているのでしょう。

ほかにも、誰でも作れるように工夫した紙細工の”樹”を訪問者に作ってもらい、階段をその樹で一杯にするというものもあります。
ホームページで見ると、病院のほうもそんな樹で一杯飾られていました。

スタッフのおねえさんと

ひとつの側面からみると、”作者が作品を作っている”ということでしかないかもしれませんが、たとえばスケッチすることだけでも、その作業の時間、描き手とモデルが時間を共有している…そんな、コミュニケーションを感じます。

紙細工にしても、近所の子どもが毎日のように遊びに来て作品を作っていると聞きました。
私の子どもも楽しんで作っていました。
これだけで、芸術祭に参加したことになりますよね。

芸術的なものから外れて、その作業をするというところだけで、「アートセラピー」という事があると思います。
絵を描いたり、粘土細工をしたり、砂遊びや、箱庭遊びなどもあります。

今回拝見したのは、そこまでセラピーを意識されてはいなかったかもしれませんが、アートを通して、一つのコミュニケーションの形があったんじゃないかなと。

出逢い・ふれあい・つながり…
そんなことを感じたご縁でした。

病院の様子がわかるHP

やさしい家のwebカメラ

大地の芸術祭公式ページ


支部法座…でも法座の中身よりも

2009-08-17 00:38:25 | 真宗
華光会の京都支部法座でした

Mさまのお宅で、毎年お盆の法要を支部法座として開放してくださっています。
増井先生をお招きして、阿弥陀経のお勤めの後ご法話。
「本願のこころ」をテーマに聞かせていただきました。

ご法話のあと、座談で参加者がひとことづつ感想や味わいを述べていきます。
最後に先生に一言お願いした際、私にとっては鉄槌を食らわされたような一言をいただきました。

内容を書くかどうか迷ったのですが、それは今日の法座に参加した者だけが肌で感じているところなので、ここで言葉にしても本意が伝わらないかもしれないのでやめておきます。

私の感覚として、「お叱りを受けた」というものです。

その感覚は、おそらく私自身のここ数日の気持ちに連なっています。
先日の富山でのご法座でも先生のお話を聞かせていただき、座談もごいっしょさせていただきました。
その時から「不自然」なのか「自然」なのかが、自分でもわからない嫌な感じで、それでも法のことになると自分じゃない自分がそこに居て、そのことを通じて味わう事があります。
そんな私のもんもんとしたことをして、先生の叱責があったのかどうかはわかりません。
ただ、わたしとしてはそういう”我”に突き刺さります。

昨日の書き込みで「触れないでおこう」と書いた気持ちがぐらついてきます。
対峙しないといけないのか…
いやむしろ、その躊躇を振り捨てて、それを抱えたままの私でも”聞かせてもらう”という根本に帰れということなのか。
あぁ、こういう感覚自体が邪魔なものだろうなと。

これ以上は上手く言葉に出来そうにない…というか、こんな自分に付き合っていてもろくなことは無いので、この辺でやめておきましょう。

ただ「堪えた」というのは、深く深く刻まれています。