コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

先祖供養に想う

2022-08-24 05:29:27 | 真宗
京都の夏の風物詩、祇園祭からお盆を経て五山の送り火
もはや観光事業となってますが、もともと宗教行事
宗旨は違いますが、疫病除けや先祖供養など、平穏への願いがこもっています


それらを信じ、災厄を畏れ、祈り・願いをささげている方々を否定するつもりはありません
そういう需要があるからこそ、何百年も連綿として続いてきているのでしょうから


わたしの宗教観は、浄土真宗を軸としています
いまでは浄土真宗の寺院でも(法話では否定的な話をしながらも)お葬式や法事を通じて供養し、お墓の守をして「寺院経営」や「教団経営」が行われています
まぁ、それらを求める門信徒さんがあるので、需要に応える(という言い訳)のも致し方ないでしょう


(需要があるから霊感的な商法を宗教として提供しているのと本質な違いはないんじゃないかという懸念もありつつ)


話を戻して、ではお盆やお葬式などの法事を通じて「供養」することの意味は何だろうか…と考えることがあります


災厄などを含め、この”私”に起こる出来事は、誰かのせいや祟りなどではなく、”私自身”の行ってきたことを原因として、結果という形で現れます
これを「因果の道理」といいます
先祖を粗末にしたから、先祖が祟って悪いことが起こるとか、祀らないと土着の神仏がお怒りになって悪いことがおこるとではありません
「自分が原因で、自分に悪いことが起こる」という事実から目を背けるために、他所に原因を置く…その心理はよくわかります


「自分が原因じゃない、悪いことは相手がいて起こる」
ということもわかるのですが、それは「縁」であって、そういう縁を呼び起こすのも私に「因」がある


「あの人と出会わなければこんな思いをしなかった」
と思いたいのですが、そういう人と”出遭わなければならなかった”私の過去の行いがあるのです
その過去の行いとは、生まれてからの人生だけではなく、今の形に生まれる前の人生(輪廻)含めての話です


では、先祖は関係ないのか?


「今の私」を形作っている時間の流れは二つあります
一つが上で述べたような「輪廻」している、私の魂の歴史
ここは宗教的な話として、真実を聞き、自己を見つめることで顕かになってきます


もう一つが私の「肉体の継承」としての歴史
これは父母がいなければ「今の私」はありえません
その父母それぞれの父母、またそれぞれの父母…と、肉体の歴史は果てしないご縁で成り立っています
「先祖供養」というのは、祟らないために祀るのではなく、今の自分を見つめることでそのご縁に「感謝」することでしょう


もう少し拡大すれば、この肉体が今あるのの、生まれて以降食べ続けてきたものによって維持されています
それは「ほかのいのち」です
”食べ物”として自分をごまかして罪を軽減させていますが「いのち」を奪っていることは隠せません
ここにも「感謝」することが大事でしょう


さらには、こういう考え方が自然と生まれてきたわけではありません
”教育”を受け、会話を覚え、読み書きを覚え、そうやって「教え」に出遭ってきました
私一人では何もできません
多くのご縁


この感謝は、「この時だけ」というものではなく、息をしている四六時中感謝すべきです
でも、なかなかできない私です


だから、せめて法事や行事を通じて「立ち返らせていただく」ことが大事だと考えます


おそらくお寺さんなどもこういうことをお話しくださっているのだと思いますが、難しい話になると「お客さん」に逃げられてしまうので、口当たりの良い「ご先祖に感謝しましょうね」となってしまう
(なかにはお経をお勤めして「はい終わり」なんてこともあるようですが)


もちろん、先祖への感謝がないよりはある方が良い


そこから一歩踏み込んで「今の私」を見つめる機会として興味を持ってみるのも大事じゃないでしょうか