コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

受容 と ホスピタリティ

2021-08-13 15:57:26 | コミュニケーションワーク


いろいろあって入院中です
治療のため1回につき4時間ほどベッドで寝たままです
複数の人が同じ部屋で治療を受け、看護師さんは同時に何人ものお世話
大変なことです
患者は患者で身体的にも精神的にも弱っている存在
やはりわがままになったりします

4時間することがないので音楽を聴いていることが多いのですが、人間観察すると結構面白いってことに気づきました

私の隣は年配の女性が治療を受けてます
認知症もあるのでしょうか、同じことを何度も看護師さんに問いかけます
このときの看護師さんの対応がいろいろあります

腕に針を刺して機械につながれたままの治療なんですが、動いたりして流量が変わるとアラートが鳴ります
お隣さんはじっとしてるのが苦手で、数分おきにアラートがなります
そのときに、対応する看護師さんは複数なんですが、まずは同じ問いかけ「大丈夫?」
から始まります

序盤はどの看護師さんも
「大丈夫ですよ」
と優しく対応します
しかし数回繰り返されると
そのまま受容的態度をつづける方の中に
「なんども繰り返すと遅くなるだけですよ」
と苦言を呈する人も出てきます
あげくには
「大丈夫?」
「ダメです!じっとしてなさい」
と、否定・批判の態度に変わる人がいます

「大丈夫?」
の問いかけを受け入れられたと感じたときは、次の問いかけに移ります
「もう、ご飯の時間?」
午前中の治療なので終わればお昼ご飯になります
最初はどの看護師さんも
「最後まで終わったらご飯ですよ」

これも繰り返されるうちに回答が変わってくる人がいます
「あと2時間待ってね」
「動いて止まるといつまでもご飯にならないよ」

もう一つよく繰り返されるやり取りがあります
「お手洗いに行きたいわ」
機械につながれている間にはベッドを離れられません
点滴のようなものならつないだまま移動もできるんでしょうが
なので、年配の方はおむつをされているようです
(もし私が尿意を訴えたら尿瓶を渡されるでしょう)

これに対しては
「終わるまで動けないのであとでね」
という対応が多かったです
ちょっといいなぁと思ったのは
「大丈夫、したかったらそのまましてもいいわよ」
という”受け入れる”対応でした
一方で
「気のせいですよ、お部屋でもすっとでてないでしょ」
というものがありました
行為の制限ではなく、感じたことの否定です
医療的には事実なんでしょうが、受容という点では気になります
この看護師さんは、この回答を数回繰り返すことになったあとついに
「それは気のせいです。この治療方法はおしっこがでなくなります。昨日もその前もおしっこは出てないでしょ。おしっこがしたい気になってるだけです。だめです」
事実関係を早口でイラつき気味にまくし立てていました
その患者さんのベッドサイドだけじゃなく、離れたところからでも大声でこの回答をくりかえします

この患者さんもつらいでしょうが、周りの患者もこのイライラが伝わる状況は愉快じゃありません
おそらく大半は、わがままいう患者さんに対してイライラするかもしれませんが、私はこの看護師さんが違う態度でいれば全体の雰囲気は変わったと思っています

もちろん、この看護師さんの立場に立てば、多くの患者さんのお世話なのに一人に構っていられない、こなさなければならない作業は山ほどある、という風に理解はできます

でも、できれば弱者に寄り添ってもらいたい



傾聴の視点から行けば、少し受容的にやり取りするならば
「大丈夫?」
「大丈夫って聞きたいのね、何か心配なの」
「もうご飯の時間?」
「ご飯の時間が聞きたいの?おなかがすいたのかな」
「おトイレに行きたいわ」
「おしっこが行きたい感じなのね」
って感じでしょうか
カウンセリングワークなら、問いかけや想像を交えた感想は好ましくないでしょうが、実際のコミュニケーションはそこまでは難しく時間をかけられないので、このくらいが受容的態度で寄り添う対応でしょうか

機会があればこういう職業の方に基本だけでもお伝えできればいいんですけどね

違う側面で触れるカウンセリング

2013-06-08 16:46:13 | コミュニケーションワーク

この5月から6月は様々な会(主に総会)に参加してる。
また様々な研修会にもご縁があり、素敵な話をいろいろ聞かせていただいている。
そんな中、ある研修会での話題。

2ヶ月連続で受けている研修なので、先月に全体進行のレジュメをいただいている。
その中に多くの時間を費やして学ぶ所になじみの文言が並んでおり、とても楽しみにしていた。

基本原則と心構え
1)「今・ここで」Now and Here の原則
2)受容・積極的関心
3)個別性
4)共感的理解
5)ワーカーの自己一致
6)秘密保持
etc.

技法
1)注目、傾聴
2)受容
3)繰り返し、再陳述
4)質問
5)支持、はげまし
6)言い換え、要約
etc.

まぁ、限られた時間での研修なので、カウンセリングの研修会で深く3原則などを学ぶほどの話は出ないだろうとは思って
いた。
もちろん、これらの語句の意味として基本的な説明はしていただけた。

しかし、当日配布された資料の技法例には以下のようなものが並んでいた

1)傾聴 - 「ええ」「うんうん」「そうですか」「それで」など、動作、表情、態度など非言語的な表現にも注意する。
相手を偏見のない態度で理解しようとすることが基本。

2)受容 - 本人に対する○○の感情を、とりあえず評価や審判的態度を抜きにして自分なりに理解しようとする態度であ
る。
例「昨日、残業で遅くなっちゃったんです、最近残業続きで疲れてしまいます」に対して
 ○「そう、大変そうだね。だけどがんばっているね。この仕事はだいぶ続いているよね。やりがいを感じているのかな?

 ×「そう、だけど来訪をかかしちゃ駄目だぞ!」

3)繰り返し - 本人が重要な意味を込めて述べていると思われる言葉を繰り返す。特に感情がこもっていると思われる言
葉は見逃さないようにする。相手は、自分の言うことをきちんと聞いてくれているいう実感を持つことが出来る(言葉よりも
感情に焦点を)
例「父親は飲んだくれて遅く帰ってくるし、たまに家にいれば母親と喧嘩してるし…、まったく…だから…、自分には、親
父の方がなんだか悪い気もするけど、だって…、でもやっぱ原因を作ってるいるのは母親なのかな、わかんないですね」
 「そう…、父親は飲んだくれで、夫婦げんかはするし、君としてはそれが辛いのかな…、それで家に居たくなくなっちゃ
う…のかな」

こんな感じで続いていく。
うーん、こういうのが正解だと教えられた仲間が、こういう型の聞き方になっていくと思うとちょっとしんどい。

まずは「1)傾聴」の説明は、初めての方にはわかりにくいだろうけど、根っこは押さえていると思う。
”相手を理解”というのがポイント。

なのに「2)受容」にて「自分なりに理解」と変わっている。
評価や審判的態度を抜くのだから、自分なりではなく”相手のありようをそのまま”理解することが大事だ。
いや、理解という言葉に無理がある。
受容とはこちらが理解することではなく、相手の「今・ここ」を受け止めることから始まる。
そこを外して”理解”などと言うから、応答例のように言葉を置き換えた上に、こちらの理解を前に出し、それが正しいか
確認するような応答になってしまう。
(×の方が論外なのは当然として)
私ならばこの言葉の受け答えは「そう、残業続きで疲れてるんやね」とだけ。
大変だとも言っていないし、がんばっているとも言ってない、ただ疲れていることを訴えているだけだから。

さらに「3)繰り返し」となると、応答例で繰り返してるのは「飲んだくれ・喧嘩」という出来事だけで、「辛い」「居た
くなくなっちゃう」なんて感情は相手の言葉には出ていない。
「特に感情がこもっていると思われる言葉は見逃さないようにする」という説明だが、文脈から勝手に「こもっていると”
思われる”」というふうに、聞き手の思い(想像)で話を進めようとする。
だから「のかな?」等という風に、想像を確定させようとする動きになっている。
これだと、「辛い」という感情になっていない相手も「辛いのかな?」と、影響を受けた感情が芽生えてしまう恐れもある

私ならば、ここはそのまま「そうか、わかんないんですね」と、相手が使った言葉を返すだけで十分。
相手がここから沈黙に入るようなら、基本はそのまま沈黙を待ち、もし言葉を添えるとしたら「お父さんが悪いと思う、で
も原因はお母さんにある気もする。そこがわからないんですね」と最後の言葉を繰り返してあげるだけで、「そうですね…
」と肯定から続けるか、「いや、やっぱり…」と否定から続けるか、あるいはまったく別の話題に変わっても、そのまま相
手の話したい気持ちに任せて付いていく。


ただ、傾聴を基本にしながらも、この面談には目的があり、そこに向けてのゆるやかな誘導が存在する。
そのあたりを促進するために、結構”探り”や”踏み込み”も活用しようとしているのだろう。
その意図はわかるが、これから学ぼうという方にはやはり傾聴の基本を押さえて欲しいし、そのあとの「傾聴だけではうま
くいかない」体験をしてから、応用的なものを見につける方がいいと思う。
最初から、こちらの思いが介入する応対ばかりしていると、どんどんコントロールが上手くなって、自分のペースで進める
「来談者中心療法」の対極にあるものを見につけてしまいかねない。
一見、その方が目的に向かって早く進む気になるのだが、相手の成長を信じて待つことからは遠ざかっていくだろう。

 


ご案内を交えて、最近の思いを

2013-02-14 01:55:28 | コミュニケーションワーク

最近の興味の中心と、これからの活動をいろいろ考える。
やりたいことが経済活動につながるのが理想ではあるけれど、当面はボランティア的な動きが中心となりそう。
その辺は、なんどかミニカウンセリングなどで話題にして自分なりに整理がついてきているけど、ようは
「お金を稼いで、そのお金と余暇で好きなことをする」
「お金にはならないが、好きなことをする時間を持つ」
という二つのことは、最終的に「時間をかけてお金が手元に残らない」という点ではほぼイコールじゃないかと。
で、結果好きなことが出来ているのならば、人生としては楽しんでる方じゃないかなと。
もっとも、先にお金を稼いでおけば、お金が必要なときは楽しみを我慢してそちらにまわせるけれど、ボランティアで楽しんでいるだけなら、いざというときにお金がないという問題は残る(今はその状態…苦笑)
しかし、先に貯めることに集中して、そのまま年をとりいざというときにやりたいことがやり損ねるということもある。
まぁ、こういう考え方の人間はお金を貯められないんだろうなと。

ということは置いといて、これまでの数十年間ボランティア的に活動してきたことに一区切りをつけたことで、その分ほかの事に時間・体力・気力を差し向けることが出来る。
その際たるものがPTA活動だけど、そちらはどんどん活動の輪が広がっている。
しかもまだまだやるべきことの余地はある。
この3月で一区切りをつけながらも、4月から新たな動きの予感(というか内定というか)もある。

そのほかに、個人的に動き出したいことが何点か。
私自身は「自分が動かしだす」というタイプではなく、周りからの要請に応えて動くことが多い。
幸い、そういうパズル的な感じで、要請の応えることで自分のやりたいことが充たされてきた。
これからもそういうことが中心になっていくと思う。

そのメインが「真宗カウンセリング研究会」の活動。
真宗との関わり方と一線を引いたとはいえ、私の中に大きな割合を占めているのは真宗-親鸞聖人-お釈迦様-阿弥陀様の教えを礎としたもの。
そこをダイレクトに刺激し、お念仏に返していただけるのは、カウンセリングの場で出会う”人”とのかかわり。
また、いろいろ動きながらも、やはり根底にあるのはロジャース氏のベーシックな人間肯定感。
真宗カウンセリングは、私の軸になるのは変わりない。
来年度もそこには積極的に関わらせていただきたい。
年間のスケジュールもほぼ決定済みで、案内パンフレットも近々校了する。
それにあわせて、真宗カウンセリング研究会のHPも更新するので、そのときは紹介させていただきたい。

もうひとつが、今年度実験的に進めてきた「新しい傾聴を生み出す会」
こちらも4月からは京都の新会場でも開催することが決まった。
今まで場所的に、興味はあるが参加は難しいという方々にも、少しは敷居が低くなるのではと期待している。
カウンセリングの実践的な部分で、「理屈的にはわかるけど基本的な対応で大丈夫だろうか」というような事例を検討しながら、一方ではベーシックなかかわりの大事さを、もう一方ではベーシックの枠を超えた実践的なスキルアップを学んでいける集まりだと自負している。
もちろん、”傾聴”を一から学びたい方にも対応できる。
「新しい傾聴を生み出す会」 (画像ファイルです)

また、ここ数年、学んで活動してきた「発達障害」についての活動も新たな展開を向かえそうだ。
今年度の活動を発展させた取り組みも始まるし、私自身一歩踏み込んだ活動の予感がある。
こちらも近くご案内できることと思う。

もうひとつ、学びを実践に移す場を考えている。
学びとしては私自身の中にインプットされてきている、宗教観・カウンセリングマインド・発達障害の関わり・PTAでの保護者の悩みなどを、気軽に話し合い聴きあい出来る場を作ろうというものだ。
これまである会で「聞き方・伝え方の学び」として、月一回の会を持っていたが、体調のこととその会との距離感の関係でお休みしていた。
そこで感じてきたことを元に、まずは場と時間を用意して、来られた方とともに場を作っていければという思いだ。
どのような発展をするのかわからないが、まずは2月と3月に開催してみる。
なにか目的を持って人を集める方が集まりやすいんだろうけど、ここはあえて「何が起こっても大丈夫」という精神でもって動いてみたい。
カウンセリング的に聞いてほしいという方もOK、宗教の話を語り合いたい方もOK、子育ての悩みを共有したい方もOk。
個人的には、他宗派の方のお話しも聞きたいし、講師を呼んで発達障害の話題をしてもらうのもいいなという、かなり欲張った企画。
ゆくゆくは希望者に合わせて枝分かれして、学習の会や音楽療法の会なんかにも発展させたかったり。
「ぐるーぷ ”わ”」(PDFです) 


ここ数年、物欲的なものは沈静化してる感じだけど、こういう方面はメラメラ燃えてきている気がする。
コップの水を空にしなければ新しい水が入らないように、一つを捨てることで新たな可能性が生まれてきている。
そんな流れを感じている。


一般的理解では足りないもの  ~「みんなで発達障害を考える会」~

2012-06-10 16:46:18 | コミュニケーションワーク

「みんなで発達障害を考える会」に参加してきました。
主催のサークル囲炉裏の方々、今回の講師の新田氏とは真宗カウンセリング研究会などで長くご一緒させていただいている方々。
新田氏のブログ 

「発達障害」と言うことに関しては、次女や次男の言動にいろいろと傾向を感じ、今までも何冊か本を読んだりネットで記事を読んだりしていました。
また、昨年小P連はぐくみ委員会が「発達障害」を年間テーマに上げ、いくつかの講演会・研修会も参加させていただいています。
発達障害についての講演会について書いたブログ
そんな中、新田氏と話しをする機会も増え、大阪での集まりにも参加させていただいたりしています。

そして今回の「考える会」となりました。
そこで話された内容に関しては、私が中途半端に抜粋して提示するのは怖いなと言う想いがあります。
というのも、今回一番感じたことは、いろんな本や情報、講演などで聞いてきたことで「多少なりとも知っている」と思っていることが一番怖いことだと痛感したのです。
おかげで、まったく知らない、関心が無い時期に比べると、かなりアンテナを張り巡らせて「より正しい」知識に向かっているとは思います。
しかし、「わかったつもり」というのは非常に怖く、下手をすれば当事者を傷つけてしまうことにもなりかねません。

定型発達の方の思う常識…「自分がこうだから相手もこうだろう」という思い込みから一歩はなれて、「違う視点、違うこだわりがあるかもしれない」という柔軟な受けとめ方からスタートすることは理解できますし、心がけることは出来ます。
しかし、そういう「傾向」だと知っているだけのことと、その傾向の元になる「仕組み」まで知っていることには大きな差があるようです。

今回の気づきの一つに、ある情景を認知するために「必要な情報で判断し認知する」ことが出来るとして、発達障害の方の中には「一部に固執する」傾向もあれば、「時間をかけて情報を集めて言語化していってから…というプロセスを踏まないと進めない」傾向もあるということを教えてもらいました。

実際に息子と会話するときに、ある指摘をしたあとすぐに反応が無いことで怒ることがあるのですが、もしかしたらこういうプロセスに時間がかかっているのを、こちらが待ちきれずに反応がないと判断してしまっているんじゃないかと。

そういったいくつもの「思い当たるふし」が、一般的な発達障害の「行動理解」では取り上げられない部分にあることを知りました。

その過程で、私自身にも当てはまる項目がいくつもあることに、妙に納得したりもしています。


中途半端に、知ったことを伝えていく怖さも感じてはいますが、同時に「少しでも知りえたことを広めていくことで、周囲の対応が変化すればいいな」と言う思いもあります。

たとえば、授業で黒板に集中できない子が増えていると聞いています。
そのすべてが発達障害の傾向のせいではないでしょうが、たとえば「黒板の周りにいろんな掲示物があると、そういうものに視線・気持ちがひきつけられて、黒板に集中できない」という特性があります。
ならば、集中できないことをしかったり、そういう労力をさせて疲弊させるよりも、黒板の周りの掲示物を取り払って、黒板しかないようにすることで環境が変わるのならば、大きな変化になりえます。
そういうことを、PTAへの関わりという私の立場で広めていけば、ほんの一つだけでも要因がとりのぞかれるんじゃないだろうかと。

もちろん、そういうことをしっかり正確に伝えるにはまだまだ学びが必要です。
深めてから動くことと、とりあえずでも動けること。
そこを上手くバランスとりながら、何か少しでも支援につながれば、と言う思いがあります。


この会に参加している途中から、無性に次男を抱きしめたい衝動に駆られました。
今までの無理解を知らされたのでしょう。
残念ながら、この会の後に別の会議に出席し遅い帰宅、さらにはその後夜勤で出かけました。
しかし、今日は日曜、夜勤明けで寝ているところにやってきた次男を、布団の中に招き入れてほんの数分ですが抱きしめました。
怪訝な顔してましたが、もともとくっついてくるのが好きな子ですから、向こうも腕にしがみついてきます。

こういう気分の時だけじゃなく、できるだけ常にこうありたいなと。


傾聴トレーニング研究会 第1回プレワーク

2012-02-20 00:15:40 | コミュニケーションワーク

 

 

金曜日に参加した新しい研究会。

びわこカウンセリングルーム」を会場に、4月からの本格開催に先駆けてプレワークが行われた。

 

真宗カウンセリング研究会でご一緒している「びわこカウンセリングルーム」の所長さんから半年位前にお話をいただき、私も世話人として名を連ねさせていただいている。

基本的な方針は定まっているが、その内容は参加者で話し合って進めていくことになりそうだ。

 

案内(こちら)にも記載されているが、「相談される立場」のかたのトレーニングが主体。

とはいえ、自分自身が「聞いてもらう」立場を経験し、相談者の気持ちに立ってみることがなければ、相談される立場として心もとない。

 

私なんかは、学術的理解より、先に現場で「聞く」実践を積んできたものだからそうは思っていなかったのだが、介護や福祉の現場に立つために勉強してきた方は、実戦経験が少ないまま現場に赴くことも珍しくないようだ。

そういう方には、実践形式で学ぶ場に参加することはとても大きな意味があると思う。

また、様々な相談現場に従事している方も、客観的に見直すことや、自らの経験を参加者で分かち合って、相互成長することも大事だ。

 

 

そういう意味では、単なる体験学習だけではなく、異分野間での”気付き”合いが、みんなが同じ方向に向かって学ぶのとはまた違う(時には回り道もあるかもしれないが)面白さがあると思う。

 

 

と、前置きが長くなったが、この日やっと動き出すこととなった。

 

今回のプログラムは、参加者代表2名によるロールプレイをほかの方が観察しコメントする実践、私が提供したアイスブレークのワーク、びわこカウンセリング所長による統合失調症の座学の3つ。

 

今後、参加者が持ち回りで担当する時間も設けられていくので、様々な角度から学んでいくことが出来る。

 

まさに、これから育っていく研究会となるだろう。

私自身、新たな扉の前に立ち、そっと扉に手をかけた感覚でワクワクしている(私なんかが世話人で良いのだろうかという不安もあるが)

 

この研究会があるおかげで、PTAなどの集まりで学んでいくことがまた楽しくなってくる気がする。

インプットしたものをアウトプットする機会がもらえるのだ。

人に話すと言う行為ほど、自分が聞いてきたことを深められるものはない。

自分で聞いただけなら「自己流解釈」に留まってしまうものが、反すことによって確認されるし是正もされていく。

 

3月7日にもう一度、見学無料のプレワークがある。

興味のある方はぜひお問い合わせください。

manu.takahashi@nifty.ne.jp


学校保健会研修会

2012-02-13 07:40:07 | コミュニケーションワーク

先週、南支部学校保健会研修会の講師をさせていただきました。

 

養護教員や校長先生が対象ですから、専門的に児童心理などを学ばれて来られた方…「釈迦に説法」なんですが。

まぁ、私も学び・実践してきた部分もありますし、実際に子育てや、お母さん方の相談に乗っていることもありますので「カウンセリングに学ぶ、子どもとの向き合い方」というテーマで。

といっても、「子どもに向き合う」ということで何かを教えるよりも、「子どもと向き合う私」に向き合ってもらうことを中心にすえることで、私の中では方向性が定まりました。

1時間半、講師としてしゃべるなんておこがましいですから、実践的ワークをしながら「気付いたことを分かち合う」

これならいつものスタイルです。

 

流れは以下のとおり

 

2分間の静かな時間

(外の音を聞く・身体の様子を尋ねる)

 

「聞く」ということについて

(常に耳から音は入ってきている・意識化しているのはホンのわずか・聞いていないのではなくて、意識に停めない)

 

「流れ星」のエクササイズ実践

(話を聞き絵を書く・周りの人と比べながら分かち合う)

 

親子コミュニケーションの心がけ

(出来ていないと嘆かない・同じ目線・見本を示す「ありがとう」「きれい」「おしゃべり」・「しつけ」と「暴力」・わたしメッセージ)

 

5分間のミニカウンセリング実践

(うなづき、つぶやき、レス・テクニックじゃなくマインド・3つの設定)

 

ミニカンに学ぶコミュニケーション

(相手の話を最後まで聞く<受容>・自分の考えに置き換えない<共感的理解>・出来事より気持ち・話し手がありのままでいられる<自己一致>

 

2分間の静かな時間

(今の気持ちを、色や天気で意識してみる)

 

レジュメを配布しなかったんで、参加された方は思い返す参考にと。

 

 

私の心がけとしては、ゆっくりと話すこと。

やっぱり、人の前にでると緊張して早口になっていきますから。

間にワークを挟むことでそこそこ落ち着きながら出来た気もします。

それぞれの話やワークの目指すところはこのブログで今まで書いてきたことばかりです。

いろんなワークや講習会で聞いてきたことも、私の中に取り込まれた形で「高橋の考え方」として昇華されてる気がしますね。

誰かの考え方を持ってくるんじゃなくて、(偏った理解もあるかもしれませんが)私が今言葉に出来る形でのトピックとして。

 

あと、一方的な講習は面白くありませんし(ってか出来ませんし)なるべく参加者の声を聞く時間を多くすることも心がけました。

そういうときでも、発言された方の言葉をできるだけレスして、聞き方のコツを示します。

そのことは言葉にしませんでしたが、様子で感じてもらえたんじゃないかなと。

 

ミニカンの実践では、時間が短いのと、近くにいた方とのペアなんで、本当の「今、話したいこと」になったかどうかちょっと心配はありますが、「邪魔されずに話す」「傾聴する」のさわりは体験してもらえたと思います。

そいういうことを"普段していない”と気付いてもらうだけでも、大きな意味がありますもんね。

 

あらためて、「聞き方」の学びは、"気付き”に基づくことだと再確認しました。

 

 

ある参加者は「2分間、ゆっくりすること」でいつもと違う感じを体感してくださいましたし、ある方は「いい事を言ってあげようと思ってたけど、まずしっかり聞いてあげることなんですね」と言ってくださいました。

そういう声を聞かせてもらうこともうれしいですよね。

 

私自身、いろんなことを再確認できましたし、また同じ機会があればもうちょっと時間配分を考慮してできるかな、と。

 

できれば、この”さわり”だけではなくて、継続的にカウンセリングを学んでもらえるとうれしいんですが。

そのためには、私が発信し続けることですかね。

 

私のHPやブログを紹介させていただいたところ、多くの方が覗いてくださったようです(アクセスが一気に増えてました)

これからも覗いてやってください。


気持ちを受け止めるコミュニケーション 教育委員会懇談会での思い

2011-12-17 18:13:09 | コミュニケーションワーク

 

もうちょっと早く書きたかったけど、少し風邪気味だったんで、できるだけ”なければならない”ことを優先してたので。

この1週間だけでも、エンカウンターグループ参加、教育委員会との懇談会、小P南支部会長会議、ミニカン継続学習会、他に普段の仕事などもあって、風邪気味でスローペースな体調とは裏腹に気持ちはハイ状態。

(単に、熱に侵されてるのかも)

他にも、新たに始めたFacebookも楽しくて、限られた時間の割り当てが難しい。

 

なんてことを書いてる暇があったら本題へ。

 

今日書いておきたいのは、「教育委員会との教育懇談会」のお話。

今年参加した小P理事会の中で「教育環境部会」というのに所属したんだけど、その中のメイン行事。

事前に何度か会議を重ねて(「教育懇談会 準備会議」参照)きたけれど、いよいよ本番。

 

 

当日、懇談会1時間前に集合して、最終チェック。

私が座る席は質問者側の中央よりで、真正面は「答弁のメイン」になるであろう方(という風に、昨年から参加してるお隣さんに聞いた)

そういえば、小P連会長も「お、真正面ですね」と言っていたが、そういうことか?(笑)

 

内容を触れるのは割愛するけれど、質問事項の骨子は事前に決まってるし、相手にも伝わっているので(そうでないと質問に対応する担当者が出席できないしね)何らかの形で伝達されていることを、委員会の担当者から説明を受ける形になる。

概ね、「その後質問に対しては、これこれの取り組みをしています」というもの。

で、それは非常に正しいことを正確に伝達していただけると言うことで、とても大事なプロセス。

 

PTAの保護者はこういうことに関心を持ち、こういうことを心配しています。

教育委員会では、こういう取り組みをし、こういうプロセスをふみ、こういう対策をしています。

 

 

が、私はかなり物足りない。

あとで振り返ってみたけど、そこに現場の「教師」が居ない。

子どもの代わりは「保護者」が勤めるけれど、私らが見ている現場にいる「先生」に対することを(私の関心はそこが大きかったが)「委員会ではこういう取り組みをしてます」とだけ言われても、「で、先生はその取り組みをどう考えてますか、その結果どうなりましたか」と言う部分は、お互いに想像でしか話せない。

 

と、こういう説明ではうまく伝わらないと思うけど、私の普段のコミュニケーションワークでの流れと比較してみると良いかもしれない。

 

先生の負担が大きいんじゃないかと思うのですが?」

「その対策として、こういうシステムを導入し、仕事の簡潔化をはかり、対応を進めています」

「はぁ、そうなんですか…」

 

「先生の負担が大きいんじゃないかと思うのですが?」

「どうしてそう思われるのですか?」

いつも遅くまで作業されてますし、子どもと向き合う時間があるのかなと?」

「先生がそうおっしゃってましたか?」

「いえ、こちらの見ている感じです」

「そうですね、負担があるとするのならば事務作業の多さもあるかもしれません。今、教育委員会ではシステムの見直しを図っていて、作業の簡潔化を図っています」

「でも新しいシステム導入となると、そこへの習熟にも時間が必要じゃないですか?」

「そうですね、最初は負担があるかもしれませんが、改善につながると思いますよ」

「はやく余裕が持てるようになると良いですね」

*どちらも、雰囲気のたとえで、実際のやり取りではありません

 

まぁ、書いててかなり極端な書き方になっちゃったなとは思いますが、イメージとしてはこれくらいの違いがありました。

こう、こちらの気持ちを受け取ってもらうプロセスが省略されて、説明(これが長い)が続くと、深めていく言葉を奪われてしまって、「そこまで対応していることを知らなくてごめんなさい」となっちゃいます。

もちろん、この手の懇談会はそうした心の交流が目的ではないので、私の望む物と違うのは致し方ないんですけどね。

 

 

時間の都合で私もかなり聞きたい部分を我慢しましたが、学校の統合問題や、先生へのメンタルケアについても、説明されることと現場で聞いている事とに”ずれ”があるように思いました。

そういう「ずれがあるよ」ってことを投げかけることが出来、それを受け止めて「じゃぁ、対応はしているけど現場の声はどうなんだろう」と、”降りてきてもらう”ことが出来れば、いろんなことが進んでいくじゃないかなと。

 

もちろん、多岐にわたる問題を、まずは対応・対策と励んでおられることに敬意を表し、応援することには変わりありません。

むしろ、今回のことで”実情”に始めて触れることが出来た私が、今後何を考えて何に動いていくかが大事ですし、そのきっかけにはなったでしょう。

本気で何とかしたいのならば、今後こういう場だけじゃなく、普段から委員会の方々に関わっていく道もあることでしょうしね。

 

1年目から高望みしすぎると、張り詰めて折れてしまいますから、その辺は役員さんたちに任せて、まずはこういうことを支部や自校に伝えると言う大事な役割を全うすることから。

 

 

しかし、こういう会議に参加することで、目の前の”人(Parson)”を大事にするコミュニケーションの重要性が、改めて深まりますね。

 

明日は月1回の「聴き方・伝え方の学び」学習会です。

(興味ある方、気軽にお越しください)

このタイミングで開催するのも意味がありますね。

 

 


第13回真宗カウンセリング・ワークショップ

2011-11-01 06:08:19 | コミュニケーションワーク

土日の二日間、真宗カウンセリングワークショップが行われました。

もう13回目。

年に4回行われますから(休止の回もありますが)3年以上、他の方が世話役をされる回もありますが、10回くらいは参加してるでしょう(きっちり調べればいいのでしょうが)

当然のごとく、毎回参加者の顔ぶれが変われば、雰囲気も話題も変わります。

「何が起こるかわからない」のが楽しみであり、「何が起こっても大丈夫」なのが素敵で、私を成長させてくれます。

 

具体的な内容は書きませんが、今回も話題が豊富で、あっという間の二日間です。

 

そんななか、真宗カウンセリングをどう捉えるかのキーワードがいくつか現れてきました。

それは問いかけであり、回答であり、立ち位置を確認させてくれるものです。

 

「構成的エンカウターグループ」と「非構成的エンカウンターグループ」

「真宗の話をベースにする」と「誰でも参加できる話題を心がける」

 

答えを語るのは簡単ですが、そこは体感する中で気付きとなって現れるもの。

 

私自身は、こういう問いかけも含めて「ダルマ-ベースド-パーソン-センタード-アプローチ」ということを改めて味わっていました。

 

横に居る人の存在を感じる…それは肩の辺りから感じる温もりであったり、息遣いであったり。

前の人の存在を感じる…それはふと目があったときの表情であったり、少し前のめりになったときの”動いている”感じだったり。

発言があるだけではなく、”居る”という感覚。

空間と時間を共有している世界。

ひとつの宇宙とさえいえるもの。

 

また、”個”ということについても。

表に現れる現在の問題。

内省していくうちにたどり着く生育暦や自性。

それらを語ることで、見つめなおす自分自身。

決して、抱えて問題が解決するとは限らないけれど、その問題と自分の距離・位置が変わることで、新たな視点が開けてくる。

 

そんな「今・ここ・わたし」が出会うことで、あらゆる時間、あらゆる人がつながっていく感覚。

 

そういう時間・空間を創り上げるには、「安心」ということは大きなテーマになる。

もちろん、参加者一人一人への信頼ということも大事だ。

ただ、そういう感覚を超えたものが、”法”に根ざした「ありのままでいていい」という感覚。

これが、部屋中に満ち満ちている…それが根底にあるもの。

 

話題はきっかけにすぎず、その話題で動かされた自分自身を感じていくところで、自分自身を観、周りの人を観る。

 

こんな得がたい時間は他にないだろう。


感情を経験しきる

2011-04-05 00:28:35 | コミュニケーションワーク

あらためて3日間の「真宗カウンセリングワークショップ in 広島」のことを。

 

年間スケジュール的には私は世話役ではなかったけど、急遽ピンチヒッターで参加することに。

この1ヶ月、祖母の死からいろいろと「すっきりしない」ものを抱えていたのは何らかの形でブログにしてきている。

なので、ゆっくり自分と向き合うワークショップは楽しみでもあり、ちょっと心配でもあり。

 

定員いっぱいの参加者は、多くは8月にもご一緒した皆さん。

初めてお会いする方もちらほら。

会場の神田山荘は、まだ2回目だと言うのになんだかなじみの場所の感じ。

全体のワークから始まり、2日目の午後から3日目の午前までは二つに分かれてのワーク。

 

と、内容には触れないので、外殻だけだとこんな味気ないレポートになっちゃう(笑)

ところが、その書けない内容のところでいっぱい”大きな動き”があり、そのことに浸り、そのことに学ぶことが出来た。

 

 

今回、先に書いたとおり祖母の死のことがあった私は、それまでその「死」と向かい合うことが出来ず、その”死”によって受けているであろう感情をしっかり”経験”することができていなかった。

月例会で学んでいるロジャース氏の論文を通じて、「その経験に開かれている」ということがとても大事だと学んでいるのにだ。

なので、この「経験に開かれている」というのは私にとっては大いなるテーマとしてあった。

私の個人的理解かもしれないが、この「経験に開かれている」というのは、それがマイナスのものであっても、しっかりその経験(感情)を”やりきる”ことだと思っている。

悲しければ、無理に悲しみをこらえるのでもなく、ごまかすのでもなく、しっかりと「私は悲しいんだ」と浸ること。

カウンセリングでは、問題を解決するために指示したり操作したりすると思われがちだが、そうではなく当人が自分で”成長”することを寄り添い見守ることしか出来ない。

その”成長”のためには、時間をかけてでも(むしろしっかり時間をかけて)当人が「今・ここ・わたし」を経験することだ。

 

 

そのことが、私の問題ではないところで展開されているのを感じた。

流れの中で、参加者同士の関わる問題が話題になり「すっきりしない」状況が生まれた。

その「重たい感じ」なことを、自分の言葉で表明された方がいた。

目の前には、そうさせた当事者も居る。(もちろん、わざとそうさせたのじゃなく、受け答えの流れの中での問題だ)

ここはカウンセリングのワークの場でもあるし、じっくり時間をかけてお二人を解きほぐすと言うことも出来たのかもしれない。

おそらく、世間的な「まぁまぁ、ここはひとつお互いに水に流して」なんて表面だけでの解決をとることはしないだろう。

 

そのとき「十分”重たい感じ”を味わって、その上で変わってくるものを感じてもらいたい」と思っている私が居た。

そのためには、当事者が居る場面だとお互いに「そんなつもりはなかったのよ」と言う感じのいたわり・慰めが入ってくると、経験がゆがめられるかもしれないと言う思いもあった。

ちょうど時間的なものもあり、二つに分かれるかどうかと言う話になったので、私は分かれたいと言う意思を表明した。

この時点では、もしお二人が同じグループになったらなったときでその場面に任せておけるし、分かれたとしてどちらの方と同じになってもそのときのその方の「今」に任せておける気がしていた。

果たして、お二人は分かれることとなり、「重たい」と表明された方とご一緒することになった。

 

その出来事に関しての思いや、そんな気分のまま二つに分かれたことに対する思いなどもじっくり聞かせてもらえた。

二つに分かれたことで、もうおひと方がどういう表明をされたり変化されて行ったかがわからないという問題もあったかもしれない。

しかし、二つに分かれたからこそ聞かせてもらえた時間が出来たと思っている。

十分かどうかは分からないが、「経験に開かれた」時間になったのではと。

 

その方のストレートな表現に、周りの方は心配したりする場面もあったかもしれないが、私はその方が信用できるし、信頼できるし、関係作りが出来ているし、いろんな意味で安心している。

 

ちょっと配慮的なところで他のやりようもあったかもしれないが、「私で居られる」時間を過ごしていただけたのではかいかと。

それをゆったりと受けながら味わえてる私でも在った。

 

ただ、私自身がそうありたいと思っていた「経験に開かれている」状態で居れたかどうかは…またゆっくりと振り返ってみるとしよう。

 

 

マイナスの感情があったとしても、そう感じる自分でもいいんだと。


第9回真宗カウンセリング・ワークショップ in京都

2010-11-05 00:31:05 | コミュニケーションワーク

先週末、二日間の「真宗カウンセリング・ワークショップ」が行われた。
私は世話人としての参加。

締め切りギリギリまで最低開催人数に達せず、開催が危ぶまれたけど、直前に申し込みが集まり、さらには締め切り後あと定員まで1名というところでお二人同時に申し込みがあり、結果定員を1名超える9名の参加。
地域は広島から福井まで、年齢も20代からウン十代、何度もワークショップに参加されてる方から初めての方まで、実に多彩な顔ぶれ。
それぞれは初対面の方も居られるが、私にとってはみな旧知のかたがた。

各セッション、基本的には「3分間のお念仏-2分間の黙想-今の気持ちの振り返り(順番に回す)-自由な交流-今の気持ちの振り返り-3分間の念仏」という構成。
お念仏も、そのときの気持ちに応じて称えるも聞くも自由。

私としては、自分の腹底に響く自分のお念仏と、周りから耳に届いて意識に働きかけるお念仏が交じり合って心地よい時間。
ゆったり、自分の内なる声に耳を傾ける時間。
様々な話題を、語り合い聞き合いしながら刺激を受けている時間。
どれもゆっくりゆったりできた。

時には具体的な人間関係の問題、時には仏法に関わる信の問題、また時には男女問題や世代問題などの一般的な話題。
どれがメインで、どれがサブと言うことなく、その時々に、その時だから語り合える「ご縁」の具現化されたものとして、自由に話題が進んでいく。
最近の私の感じとして、「私が今望むもの」にとらわれることなく「今、そのままのありよう」というところで様々な場に触れている気がする。
この二日間もまさにそういう感じで、話題が自由に動き回れば私の心も自由に動き回るところで、無理なくその刻々を活きている感じがした。
もちろんファシリテーターの先生がしっかりと流れたしまった時は引き戻して「発言者」を第一にする配慮をしてくださっているからこそ、自由にさせてもらえていた。
自由で居られる安心と、任せておける安心と。
だからこそ、何が起こっても心配することなく、その場をありようのまま経験できている私が居た。


具体的な話題は記さないが、例えば「法座」でよく見かけるような「信に関して外せない真実」をやり取りする場面でも、「発言者を大事にする」カウンセリングマインドが場で徹底されているために、発言者本人が自由に語りたいまま語り、自身の発言を周りのものに確認してもらうことで、自分から気付いていく。
時には長い時間をかけ自身の内なる声を気付いていくこともあれば、時には困惑していることを表明して無理しないことも出来る。
刺激を受けて語りたいものがでてくれば、自身の話として語ることで、最初の発言者も、語っているものも、新たな気付きが生まれる。
まさに響き合っていく。


この心地よさは、やはり言葉では表しつくせない。
体感してもらうしかないものだと思う。

今年度のワークショップは今回で終了。
これから年末にかけて、来年度の計画に入っていく。
少なくとも広島と京都では開くことが出来るだろう。
出来れば、多くの場所にお邪魔して、その場所場所での出会いを果たしたいものだが…


かるーく雰囲気を味わいたい方は、京都で月1回行っている「聞き方伝え方の学び」にご参加ください。
今月は27日(土)午後に行います。