コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

お祝いの言葉 2012卒業式

2012-03-23 19:06:47 | PTA

年度末、いろいろ行事もあり、ブログにしておきたいこともいろいろあります。
が、同時に時間がない。
どうしても、先にすることをしておかないとってことで、ブログが後回しになっちゃいます。

今年一年、大きく変わったのはPTA活動との関わり。
このブログタイトルに「With PTA活動」とつけるようになったくらいですから。

そんな一年の活動も、今日行なわれた「卒業証書授与式」で一区切りです。
4月の入学式につづいて、最後の卒業式でも祝辞を送らせていただきました。
年度始めから分かっていたこととはいえ、実際に内容を煮詰めだすのは1週間まえくらい。
ある程度決まり文句はあるのでそれはそのままに、あとはいろいろ想いがめぐります。

たとえば、上手なことを言って、これから新しい環境になる子どもたちに「大人からのアドバイス」を贈ることも出来るでしょう。
私なんかの言葉では頼りないから、偉人の言葉を引用して贈ることも出来るでしょう。
が、へそ曲がりの私は、つたなくても良いから”自分の言葉”を投げかけたいという想いがあります。

中身を欲張ると、ろくなことになったためしがないので、できるだけ伝えたいことを絞って。
そこで、今回は「ありがとう」をテーマに。
「今・ここ・わたし」が”在る”ことは、当たり前じゃない、「在り難い」ことなんだと。
まぁ、私としてはいつもどおりのものです。
そして、この時期、子どもたちにも大きな影響を与えている東北大震災…ここへの想いを、単純に「震災」ということや、「絆」という言葉で終わらせずに、その事実を自分に引き寄せたところでぶつかる「いのち」ということを。
あぁ、十分欲張ってますね。
でも、何とかまとめてみました。

祝  辞

 ようやく寒さも緩み、木々の緑も春らしくなってきた、この良き日に、九条塔南小学校を卒業していく皆様に、お祝いの言葉をPTAを代表して贈りたいと思います。
 卒業おめでとうございます。お祝いとしてのこの「おめでとう」と言う言葉とともに「ありがとう」という言葉を届けたいと思います。みなさんのおとうさん、おかあさんの代表として、ありがとう。
 この「ありがとう」という言葉のもとは「ありがたい」という言葉です。「当たり前」ということの反対の意味です。
 みなさんが生まれてきて、この卒業までに十二年の日々がありました。この学校に入学してからだけでも六年です。その間、毎日のようにニュースで「死」という言葉を見ます。そうです、今日この日に生きていることは「当たり前のこと」ではないのです。
 毎日当たり前に食べている食事、そこには元々生きていた動物のいのちがあり、それを捕る仕事の人、運ぶ仕事の人、売る仕事の人、そして料理する人のおかげが必要です。
 当たり前ではない「ありがたい」ことなんですね。
 みなさんのひとりひとりの「いのち」は、そういう「おかげ」で出来ているんです。

 でも、そういう当たり前のような食事が出来ずに死んでいく人もいます。思わぬ事故や災害で死んでいく人もいます。
 だけど、今皆さんはこうして元気な姿を、お父さんやおかあさん、先生たちの前に見せてくれています。
 だから、ありがとう。ここに居てくれることは当たり前じゃないんだと。ありがとう。

 最後にひとつだけお願いをします。どうか、今ここに生きていることを大事に、いのちを大事にしてください。自分のいのちを大事にして、周りのいのちも大事にしてください。
 ひとりひとりに親の願いや多くのおかげがかかっています。ありがたいことです。

 保護者の皆様、お子様のご卒業おめでとうございます。
 六年前、大きな願いと不安とともにこの学校の門をくぐられたことでしょう。子育てほど難しいものは無く、ご苦労されたことだと思います。しかし、今日こうして大きく育ったお子様が居られることは、保護者の皆様の願いが結実している姿だと思います。
 こうして壇上に立たせていただき、立派なお子様がたの姿を拝見させていただけることは大きな喜びです。ありがとうございます。

(このあと、定型的な来賓への挨拶が入ります)

では、卒業生の皆さん、楽しい中学生生活を送って下さい。


  


まぁ、言ってる事は保育園時代の謝辞や、入学式の祝辞とあまり変わりません。
それだけ、私の中では末通ったテーマなんでしょうね。


「3.11」を迎えるために

2012-03-08 22:54:59 | 日常雑感

「3.11」今、日本でこの数字を見てピンと来ない方はいないだろう。
この日が近づくにつれて、新聞やテレビ、雑誌の記事や政府刊行物などで様々な特集や取り組みが知らされる。

実は、ちょっと違和感を持っている。

この災害が未曾有なものだったこと、まだまだ復興は終わっていないこと、なにより悲しみ・苦しみの中に居る人が一杯おられることは、なんら否定することでもないし、そのための多くの活動を批判するつもりは無い。
ただ、この「3.11」に話題が集中することになんともいえない感じをぬぐえないのだ。

このブログでも震災後立て続けに思いを言葉にしていた。
それと同じことを今も考えているのだなと振り返っている。

先日、あるキーワードでニュースを検索をしてみた。
「ニュージーランド 地震」
昨年の2月22日に起こった地震だ。
この頃、連日のように現地の様子がレポートされ、遺族の悲しみが伝えられ、救助隊の活躍が報道されていた。

3.11以降、報道の目は東北に向いた。
話題になることが無くなった。
では、ニュージーランドで被災した遺族の悲しみは無くなったのか…
「もっと多くの方が亡くなったのだから、私は我慢しなければ」なんて思えるだろうか。

昨年の2月の終わりに祖母を亡くした。
3.11の災害によって、「私は祖母を一人亡くしただけだから、多くの家族や知人を一度に亡くした人の悲しみより軽い」なんて思えるだろうか。

悲しみ、苦しみに、深い浅いの差はない。
その人にとっては、悲しみでしかなく、苦しみでしかない。


それと同じこととして、3.11に悲しみ・苦しみを味わった人も居る。
多し少ないではなく”居る”
そして、その悲しみ苦しみは終わっていないのだろう。

3.11を迎えるにあたって、その日をイベントのように扱って満足するのではなく、忘れていたものとして思い返す日になればいい。
それは報道のように、無理やり感情を喚起させるものではなく、悲しみ・苦しみに寄り添うことを思い返すだけでいい。
そして、3.11以外にも悲しみ・苦しみがあり、終わっていないことが一杯あることを思い返してみたい。

震災から1年だからって特別にしなくても、日々出来ることもある。
毎日同じ時間にそっとお念仏される方も居る。
何度も被災地に渡って、直接的な活動をされる方も居る。
そういう人が居ることを、なんらかの形で知らせてもらうことで、思いをはせることも出来る。

そういう思いも抱きながら、3.11というキーワードに合わせて、当日活動される知人たちと時間を過ごしたいと思っている。

京都では「京都マラソン」がこの日行なわれます。
いろんな寺院で追悼の鐘を鳴らすようです。
各地で街頭活動が行なわれるようです。
私は四条河原町で基金をするPTAのもとに、子どもと一緒に赴こうと思っています。

東北のことを軸に、多くの悲しみ・苦しみに寄り添う気持ちで。
そして、私自身の悲しみ・苦しみに寄り添う時間として。

1年前のエントリー
「死 ということ」(3/14)
「大丈夫、間違ってない」(3/15)
「今だから…ではなく」(3/16)

 


「伝える」と言うこと2題

2012-03-03 16:09:21 | PTA

相変わらず入力過多で、発信している暇がない。

FBなどで、こまめに思いを吐き出しているので、淀んでることはないけれど。

 

昨日は、朝から夕方まで小学校の職業体験のボランティア、夜はPTAと地域の交流会。

この二つのイベントで「伝える」ということが私のキーワードとして残った。

というか、この「伝える」は何に参加するにつけてキーワードにはなってるんだけど。

 

職業体験は「スチューデント・シティ」と言うプログラムで、廃校になった中学校校舎を利用して13の企業ブース(うちひとつは区役所)に、生徒たちが所属して仕事を体験するというもの。

企業ボランティアの方が指導し、各ブースで子どもらが店長や営業など役割をもって仕事する。

 

私は「京都銀行」で子どもらをフォロー(というか後ろで見てるだけ)するボランティアで参加。

 

プログラムの中で時間を区切って、ほかの企業を回るお客さまになるグループと、仕事するグループになるけど、その約束事や注意点をこまめにミーティングで企業ボランティアから提示される。

しかし、1から10まで話されることを子どもらは全部理解しきれないまま進んでいく。

 

「最近の子どもらは話をちゃんと聞かないからなぁ」という声が上がる。

しかし、果たしてそれだけが理由だろうか。

 

確かに話をしても返事がなかなかなく、聞いているのか、分かっているのか不安になる。

 

ならば、「今の話をどう聞いた?」という問いかけをしてレスポンスをもらうと言う工夫はできないだろうか。

大事なことを繰り返し3度言って伝えるよりも、一度言ったことを「なんて聞いたか言ってみて」と復唱してもらうほうがはるかに伝わる感じがあるのではないだろうか。

伝える側が工夫できることは工夫する。

 

一つの伝えたいことを、相手に伝わったことを確認するまでは次のことに移らない…そのくらいの覚悟を持って伝えないと、「伝えた」という満足で終わって、「伝わった」という相手の状況を尊重しないまま終わってしまう。

 

 

夜は、PTAと地域の方が意見交換する企画が行われた。

そのままの交流だと、言いたいことを”勢いのある方”が一方的に言いだして、時には否定批判が中心になり困ったことになるので、教育委員会からコーディネーターを派遣してもらってワークショップ形式で行う「子育てほっこリ広場」というプログラムを通じて行った。

 

構成的エンカウンターグループでもある。

 

その内容は「ここで聞いたことはここだけの話しにする」というルールのもとに行われたので控えておく。

 

 

障りのない程度で、私の感じた大事な部分を書くとする。

流れが進むと「伝える」ということに関して話題が成熟していった気がする。

 

地域と子育てを連携するためにどういう試みがあるか話していくうちに、「イベントはいろいろあるのに参加が少ない→イベントが周知されていない」という側面が浮き彫りになった。

せっかく良い企画があっても、参加してもらえないのでは後につながらない。

なので、その伝え方を工夫する余地はないかと。

 

ここでもやはり「ちゃんと伝えてるのに」と発信側が留まっていると後に続かない。

「伝える」と「伝わる」は違う。

相手に伝わったことを確認できれば良いが、体面告知ではない書面配布では難しい。

「昔はもっと対面のコミュニケーションがあった」という側面もあるが、時間をかけてそういう地域づくりをするのも行いつつ、現状に合わせた”少しでも効果的な”伝達方法を工夫することから考えても良いと思う。

 

 

 

ワークショップ、エンカウター、カウンセリングをしていると、「伝える」というコミュニケーションに最大限の配慮を感じているが、まだまだ一般コミュニケーションでは「伝わっているもの」として話が進められていくことを、この日の二つの関わりで再確認した。

私が学びで気付いたことを(影響は微々たる物だろうが)発信していくことは続ける意味はあるかな。