コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部法座 6月

2010-06-29 11:12:23 | 真宗
日曜日は華光会館での支部法座。
講師に増井悟朗先生をお迎えしての、法話と座談会。
遠くは四国からお参りの方や、初めてお目にかかる方など30名を越す参加者。

ご法話は「一切皆空」をテーマに、そこにつながる「真空妙有」をめぐって、「空」と「有」の関わりを。
わたしとしては流れの中での「称名」についてのお話が、最近の関心ごとにリンクしてありがたかった。

「称えもせずにぐずぐず言うな」
「ただ称えてるだけではあかん」
「称名は報恩、正因は信心」

時により、人により、「称える」ということについて真逆とも言える言葉に出会う。
もちろん、その言葉にいたるまでの流れや、相手の居所によるのだが。

先週の真宗カウンセリング・ワークショップでは、「称名念仏」する時間が設けられた。
あるときは各自自由に、あるときはリレー形式で順番に。
最初は「お念仏しましょう」との呼びかけに応えるものだったかもしれないが、いつしか「自分が称えているのじゃない」という感覚になり、やがてそんな「誰が」なんてことは意味がなくなり、そこには「南無阿弥陀仏」だけになってくる。

称え心を問題にするのは、称えることに価値を持たせたり、当てにしたりする心を問題にするため。
そういう「わたしの願い」はすべて「空」に帰してしまう。
どういう「称え心」が正解か求めるものではない。
なのでそこにぐずぐずこだわるのならば「称えもせずにぐずぐず言うな」という声に従い、まずは称えてみる。

じゃあ、と恐る恐る称えてみる。
何か変化が起こるのを待つ。
自分の身にわかる「功徳」があるはずだと。
お念仏の中身を問題にせず、自分の手ごたえを求める。
なので「ただ称えてるだけではあかん」と言われる。
でも、「じゃあどうすれば…」と困惑してしまう。

それまで一生懸命聴聞してきて「信心正因称名報恩」なんて言葉も知っている。
自分に信心がないのにお念仏しても意味がないと決め付ける。
信心をいただいてからの報謝の念仏でないと駄目だから、と。
これも自分で順番を決め、そういう自分の意に沿うか沿わんかで計る。

観るべきものはお念仏の功徳。
その「南無」のなかに長いご思惟やご修行がこもっている。
「阿弥陀仏」の名の中に、それが達せられた功徳がこもっている。

わたしが称えるのではなく、そのできあがった「南無阿弥陀仏」がわが身を通して現れてくるのに任す。
「それだけでいいんだろうか」
「わたしが変わらんといかんのじゃないだろうか」
そういう思いがわきあがってくる。
それがお念仏の功徳を疑う心。


誰にも邪魔されずに、また回りのお念仏の声に誘われるように、お念仏を称えるに任せる時間。
それは表から見ればただのワークなのかもしれないが、そこから飛び出してくる、周りにあふれる「お念仏」のなかにエネルギーがあふれている。

嫌いだと言いながらも、これでどうなると思いながらも、この口から飛び出してくるのは「真実」



こちらの求めるものは「一切が皆、空」であるのに、その「空」の身に「妙なる有」が用意されている。

ご法話の話と、わたしの思いが混じっているので、これがご法話の内容だと混同されないようにお願いしたいが、私がご法話に刺激されて、今キーボードに向かう刹那に味あわさせてもらっていることがこれ。


久々の参加者や、新しい出会いも楽しいが、そういう縁のところで喜ぶ身に、そういう縁を通して届く真を喜ばせてもらえる。
周りの人との関わりも、また「空」に帰していくのだから。

(でも、人との関わりの中でしか活きていないんだよなぁ…さびしがりやだから)

京都支部学習会 6月

2010-06-27 11:15:43 | 「聞き方・伝え方」学習会

 

会場となる華光会館の予定と、わたしの予定をすり合わせた結果、今回は平日夜の開催。
土日ならば…と参加してくださる遠方組も、仕事をされてる方々も参加できず、また終了時間が遅くなるため、家庭の事情や体調の面で夜はちょっとという方々も参加できず。
まぁ、予想はしてましたが。

「平日でも夜ならば、学生さんや会社員もいけるかな」という皮算用も、「あまり遅くなると家族の世話されてる方が難しくなる?」なんて”配慮”も入れた「八方美人」の性格が災いし、17時スタート20時終了したことで、どっちつかずに。
いやぁ、勉強させていただきました。


で、参加はわたしを含めて3名。
いわゆる世話役の3人ということで(笑)

なので、予定通りの進め方をしながらも、この一年間でのお互いの成長や気づきを確認する会となった気がします。

2分間の黙想、それぞれの感じの分かち合いと進めた後、今回用意していたちょっとしたワークを三人で。
まずは、”腹底”から湧き上がる感情で震えた”心”の様子を眺め、それを意識して言語化することを説明。
また、そこに”頭”の働きで「いいかっこしたい」「うまく伝えたい」ということが混じって、口から出る言葉が本心と一致していないということの説明。
なので、できるだけ心の感じているメッセージをそのまま口にしてみる練習をしましょうというもの。
それは、話の流れ・つじつまを重視しないで、心に浮かんだ感覚・言葉をそのまま口にしてみるワーク。

たとえば、外を走る救急車の音が気になったら
「あ、救急車の音が聞こえる」
そこで、家で留守番してる家族が気になったら
「家のほうじゃないだろうなぁ」
その瞬間になんかニヤついてる自分を感じたら
「あ、なんでかニヤついてる…」

という具合に、コロコロ変わっていく心を、それまでの話題や思いに固執しないで「とにかく言葉にして出してみる」

今回は設定5分で、一人が思いのまま口にし、後の二人は「救急車の音が聞こえたんですね」とつぶやいていく。
黙って傾聴してもらって気づいていくことも考えたけど、つぶやいてもらうことで自分が発した言葉を意識して、自分にフィードバックしていくほうが刺激があるかなと。

新しい試みは当然不安があるでしょうし、「誰からやりましょう」という言葉にお二人の戸惑いを感じたので、まずはわたしから。
さっきの救急車の音から、ニヤついてる感じまで、その瞬間瞬間を言葉にしてみる。
その瞬間瞬間に放り出したもんだから、今振り返ってもあまり覚えてないけど。

続いてお二人に順番にやってもらうけど、やはり簡単にはいかず、基本「今、話できる話題」を軸に流れていく。
でもその合間合間に「でも、今こう気づきました」とその瞬間に現れたものを言葉にしていかれる。
これだけでもすごいこと。

休憩を挟んで、後半は「聞き手・話し手」の実践をと思ってたけど、休憩からの話の流れでそのまま3人での座談。

「話し手を大事にする」という意識は十分あったまってる面子だったので、そのまま1時間ほど。
その最中でも、この日意識した「今突然感じたことを自由に言葉にしていく」ことも実践されている。

理屈と体験が伴って、深まっていくのが感じられました。

来月は7月25日 日曜日。

お待ちしております。

 


わたしの気持ち

2010-06-25 10:08:58 | 親子コミュニケーション・Light

最近増えてるPTAがらみの用事…もうちょっと楽だと甘く見て引き受けてる私でした。
でも、そんな中で、いろんなお母さん方と話をする時間があり、いろんな子育ての様子を聞いて刺激を受けてます。

昨日もある方のお話を聞いてましたが、とてもお子さんといい関係だなと。
いくつかある話の中のひとつです。

最近お子さんの言葉遣いが気になってきたそうです。
一方ではその原因をいろいろ考える気持ちがあり、その辺を私と話していたんですが、もう一方でどう対応しているかという話になりました。

私を含め、多くの方は
「そんな言葉遣いはやめなさい!」
「なんでそんな言い方するの!」
あと関西特有の(ってこともないかもしれんけど)
「どの口がそんな言い方しとんねん!!!」とほっぺたをひねり上げる。
まぁこういう感じで、しかる・責める・しつける…

ところがそのお母さんの言い方は素敵です
「○○くんがそういう言い方すると、おかあさんとっても悲しいなぁ」
「そんな言い方されると、おかあさん怖くて怖くて泣きたなるわぁ」

もちろん、このやり取りだけで成立するのじゃなく、台詞以前に親子のいい関係が出来上がってるのだと思います。
男の子お二人だそうですが、隙を見つけてはくっついてくるそうです。
そのときの状況にもよるでしょうが、それをしっかり受け止めてあげている。
そんなにたいしたことじゃなくても、食事の後ひざに乗っかってきたらそのままひざに乗せたまま一緒にテレビを見る…そういう感じのことの積み重ねで、しっかりと関係が出来上がる。

一緒にお風呂に入ったり、こうしてひざに乗せたりの「からだのふれあい」はとっても大事ですよね。

だから、おかあさんの気持ちの言葉がしっかり伝わる。
相手に「どうしなさい」ではなく、自分のメッセージを伝えること。


普段、なかなかそういうことはできないかもしれませんから、最初は形からでも練習してみることは大事です。
今日行われる、「聞き方・伝え方の学び」ではそういう練習もやっていきます。
今回は無理でも、毎月行いますのでぜひご参加ください。

今日はこのお母さんの気持ちを、参加する皆さんで分かち合いたいなと思ってます。京都支部学習会 


第7回 真宗カウンセリング・ワークショップ

2010-06-22 06:42:37 | コミュニケーションワーク

土曜から日曜にかけて、真宗カウンセリング・ワークショップを開催しました。
当初は3日間の予定でしたが、参加希望者が少なく・・・
どうも金曜日は仕事があるのと、参加資格に「三日間参加の方」とあるのがネックな様です。
締め切りぎりぎりまで3日間の予定で勧誘しましたが、様子見もかねて「二日間にするかも」とアナウンスしたところ「それなら検討します」との声がちらほら。
それでも3名くらいなので微妙でしたが、「少ない人数でも開催したいですね」との先生の一言もあり二日間で開催決定。

その後も迷っていた方などから申し込みをいただき、最終的には6名、先生と私を入れて8名でのワークショップになりました。


京都は梅雨の真っ只中、しかも前夜から「九州からの大雨が本州全土に移動し…」などと言われていたので心配していましたが、二日間とも雨には影響されず(ワーク中に大雨になることもありましたが、食事に出かけるときにはやんでいます)蒸し暑いのは京都では仕方ないのですが、会場の部屋には空調もあるので快適です。

興正寺の中にある婦人会館が会場。
二つの部屋を「どちらかお使いください」と鍵をもらって、和室と洋室(テーブル席)が隣接した部屋を選択(ちょっとだけ部屋代が高いんですけどね)
ちょうど8人がけのテーブルが、絶妙の距離感を作っていい雰囲気。
休憩時は和室でごろごろできるし。


セッションは全部で5回。
数分間のお念仏(時にはリレー念仏)と黙想の時間を各セッションの最初と終わりに。
それぞれの今の味わいを分かち合った後、自由に話し聞く時間。

で、中身は…と、これはここでは書けないんですが。

仏の願いを各自の存在の根底に置いての、そこに居る人を大事にする関わり

宗教観も様々、カウンセリング観も様々。
けれど、ひとつになっている感覚をい味わいました。


仏法を求めていくと、その廃立を厳しく見ていくことははずすことはできません。
しかしその一方で、それを受け取る人間はコロコロ変わる感情を刺激されると、真仮が混在し見極めることができなくなります。
ましてや人の口から法が語られるとき、その人の態度や感情に、こちらの人の部分が反応して閉じたり守ったり、あるいは傷つき反発し…おたがい人だから仕方ないんですけどね。

相手からの「それじゃ駄目」という否定を浴びたとき、「今のままのわたしで居られない」という思いはすべてを閉ざすものにつながります。

でもゆっくり「今のわたしでいてもいい」と受け止めてもらうところからはじめることで、外からではなく今まで経験してきたところに居る仏願に出会っていけると思います。
そう、すでに働きがあり、働きを経験している。
それを押し付けではなく、自らの「気づき」で味わっていける。

相手のことを語るのではなく、その相手が居ることで響く私のところを語ることで、それがまた相手に響いて気づきになっていく。
響きあい、育ちあう人間関係の中で、それが法に願いに包まれていることを味わえる。
いや、法に包まれているから、安心して響きあい育ちあうことができる。


生活の話題の中にも法が存在し、法の話の中で人同士の関わりを感じる。
「真宗」と「カウンセリング」
私においてはこの二つは切っても切り離せないものとして。

時間・顔ぶれを含めた、この「場」で出来上がった関係の中で、「私が私で居られる」二日間でした。


あまりに気持ちよすぎて、終わってからの飲み会でかなり語ってしまったことが気にはなりますが…(笑)
そのことはもしかしたら言葉にして残すかもしれないけど、このままスルーする確立が高いかな。
しかも今晩ミニカンがあるから、今のわたしから何が飛び出すか、ちょっと怖いかも。

金曜日には「聞き方・伝え方」の学習会もあることだし、まだまだ「私が私で居られる」ことができそうです。


父の日

2010-06-21 16:55:27 | 日常雑感

昨日は父の日

そんな日にお父さんは真宗カウンセリング・ワークショップに土日の二日間参加してました。

とてもすばらしい時間をすごした後(この件はあらためて書きます)2人のお嬢様と一緒に打ち上げ兼分かち合いの飲み会へ。

途中息子から「今日は帰ってこないの?」と電話が・・・

 

ということで、おうちに帰ったら4人の子どもらから「父の日プレゼント」をいただきました。

まずはガンダムの置き時計。
息子はザクが当たるように念をかけてくれてたらしいですが、ガンダムが。
ただし、レアなブロンズカラーVer.


あとはワンピースの手ぬぐい2本

手ぬぐいは今年の子ども大会で活用しようかな。

 

しかし、ガンダムやワンピースで喜ぶと思われてる親父って…
しっかり喜んでるけど(爆)


真カ研月例会 6月

2010-06-18 11:53:50 | 真宗カウンセリング

ロジャース氏の「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」輪読も本文に入っていきます。

今回は私がレジュメ担当。
事前に内容を何度も読み込んでいると、学習会の本番で得しますね。
わからないところ、理解しがたいところが先にはっきりしてますから、皆さんの話のどこがポイントになっているかを把握しやすい。
と、毎回担当するごとに思っているのですが、次の月になると予習もせずにぶっつけ本番で学習会に挑んでしまっているという体たらくですが。

論文の主題となる「必要にして十分な条件」というのは有名なものだが、ここには六つの条件が示されている

1.2人の人が心理的な接触を持っていること
2.クライエントは不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること
3.セラピストはその関係の中で一致しており、統合していること
4.セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験していること
5.セラピストは、クライエントの内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努めていること
6.セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮が、最低限クライエントに伝わっていること

今回私が担当したのは、この六つが「必要にして十分」であり「他のいかなる条件も必要ではない」というロジャース氏の力強い宣言と、第一・第二条件の解説部分。

実は今まで「必要にして十分な条件」として話題にするときは、セラピストの三条件「自己一致・肯定的配慮・共感的理解」の三つを中心にしてきた気がする。
もちろん、この三つはとても大事だ。
しかし、今回レジュメ担当してみて、その前段階の二つにも非常に重要な要素が含まれていると感じた。

「1.2人の人が心理的な接触を持っていること」
考えてみれば「カウンセリングの状態」という時点で、2人が向き合い、相手の存在を知覚しているので、この条件はわざわざつけなくても成立していると思われる。
しかし、それが「当たり前」と流していけるかというと、「この条件が整っているからこそ成り立つ」ということを意識することはとても流して済ませられるもんじゃない。
たとえば、無理やりつれてこられてカウンセラーの前に座らされたクライエントがいるとして、カウンセリングに否定的で受け答えもおざなりだったとしても、「前にカウンセラーがいる・前にクライエントがいる」と潜在的にでも意識しているならば、これ心理的な接触をもっているのじゃないだろうか。
テレビの中の人物や、妄想の相手ではない、お互いに存在を知覚している相手がそこにいる。
これは「当たり前」ではないんじゃないだろうか。

心のどこかでいつも誰かとつながっていたいと願う(そのくせ表に出る態度では拗ねたり、攻撃したり)私にとって、そこに存在としていてくれることは「在り難い」ことだということをもう一度押さえなおす意味で、この条件にはハッとさせられた。

「2.クライエントは不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること」
これもカウンセリングが始まっている時点で、クライエントは何かしらの問題を持って「不安」だってことは当たり前のように思われる。
しかし、この「不一致の状態にある」ということをもう一度しっかり認識することで、表に出てこない(表出する出来事に一致していない)問題があるということを押さえなおして、相対することはとても重要なことだと。

自己一致・不一致ということについても、なんとなくわかっているようで、いざ誰かに言葉にして伝えようとするとうまくいかない。
自分の中で「あぁ、一致してる」「うーん、不一致だ」とはなんとなくわかるようにはなってきたのだけど。

そのあたりを、この第二条件を学びなおしたことで、ちょっと深まった気がする。
といっても相変わらず自分の状態をどう表現すれば良いかは難しいけれど、「不一致の状態・不安がある状態を明白に近くされる必要はない。潜在知覚されるだけで十分」という言葉によって、「何がある」かを詮索しなくても「何かがある」とうっすら感じるだけでこの条件は満たされる。
心の状態を探るときに、「快晴…だけど、なんとなくうすーい雲があるような…」でOK。
まぁ、本当に快晴の人もいるかもしれないけれど、「そう思い込みたい」って人もいるだろうし、その「思い込みたい」という心を「なんかすっきりしない」って感じで味わっているならば、立派な「不一致」だ。

ここで「不一致」ということを意識することで、第三条件の話が大きな意味を持ってきそうだ。
(そこは次の担当者さん、お願いします)


今回輪読した全体像のなかで
「簡潔な記述が、論文を読み終えたときには、もっとずっと意味の深いものになるようにと希望している。」
というロジャース氏の語りかけがあった。
六つの条件をさらっと流してしまうけれど、簡潔な言葉だからこそ、そこに込められた意味をじっくり意識することはとても大事だろうなと。
序盤の二つでこれなんだから、3条件に至るとどこまで深いのやら…

仏法と同じで、わかったつもりはいくらでも訪れるけれど、本当のものはどこまでもどこまでも深いんだなぁ。


あと、ここには書けないけれど、参加者の生身の体験のところで「学び」の出来事を深めていけるって言うのは、とても味わい深いですねぇ。
真カ研の会員限定ですが、会員の方はぜひ予定をやりくりしてご参加を。
また、興味のある方はぜひご入会を。
詳細は真カ研HPにて
http://dbpca.web.fc2.com/


ミニカン研修会 5回目

2010-06-14 20:40:58 | ミニカウンセリング

先週だけでもブログネタはいくつかあったんですが…
なんというか、本業・副業・ワークショップ準備・PTAがらみ・ミニカン・家族サービスetc.いろいろある用事の優先順位がうまくつけられず、結果時間ばかりロスしていろいろ迫ってきてるという…

そんななか、ミニカン研修会だけはきっちり予定として決まってるので、しっかり参加してきました。

逐語録検討の後、ペアを組んでのミニカン実践。
今回の研修会に初めて参加されたKさんと初ペア。

初めてペアを組むと当然緊張が(先方にももちろん)あるのですが、前日に別件で50分のミニカンのクライエントをしていたこともあり、その余韻でかなり”開いた”状態。
先にカウンセラー役でしたが、気負わず、クライエントさんが自由にされるがままに寄り添わせてももらいました。
「心地よく話せた」ということを振り返りで言ってもらい、さらに楽になった状態でクライエント役。
今思い返せばかなり深い話を…むしろ初めてペアを組んだから話せるような、いろんなしがらみに関わる話をしていました。
実践として考えると、かなりきついものだったかも知れません。

そこまで深いところを話したのは、その前日のクライエント体験が影響してます。
カウンセリング先輩のSさんが逐語録が必要ということでそのお手伝いを。
いつものミニカン15分ではなく、50分のカウンセリング。
聞き役で50分以上の経験はありますが、クライエントで50分は記憶にありません。

話の導入は仕事であった出来事からなんですが、15分だとそこからの”気づき”で終わるようなところからさらに私自身の奥底にまで意識がダイブしていきます。
いままで何度か触れかけては「そっと」していた部分。
父親との関係…認めてもらうことがなかったことに対する、穴の開いた感覚。
そしてその穴を埋めるように、私を認めてくれる人の渇望。
さらにはそういう親代わりともいえる人との関係と…そこからさらにいろいろ、今こういうオープンな場所では言葉に残すのを躊躇するようなことにまで「直面」する時間でした。

自分なりにがんばっている
認めてほしい
もっとがんばれといわれる
自分の頑張りでは駄目だと否定される

やってきたことが変化する
自分のやってきたことが認められない
自分の頑張りでは駄目だと否定される

おそらく相手側にはそういうつもりがなくても、私にとってはそういうことでしかない…
これが、親に認めてもらえなかったことが奥底に黒い塊として存在して、いろんな人との関係に投影されていることを、言語化することで見つめる時間でした。


月曜のクライエントでたどり着いたもの。
それを火曜日に再び味わいなおす。

すでに数日たって、また違う見方もできるのですが、いまなおこの腹底に居座ってる”影”に「触れても大丈夫」という感覚は残ってます。
あまり積極的に触れにいこうとは思いませんが。


明日はミニカン研修会
水曜日は月例会
そして土曜日からワークショップが始まります。

なんか、ワールドカップどころじゃありません。
っていうか、昔ほど燃えてなかったりもしますが…
その辺はまたべつの機会に。


緊急告知 真宗カウンセリングワークショップの件

2010-06-11 09:17:37 | コミュニケーションワーク
先日お誘いを書き込みました6月の「真宗カウンセリング・ワークショップ in京都」ですが、正式に二日間の日程に変更されました。

19日(土)10時半から 20日(日)16時半まで
会場は興正会館です。

なお、通いの研修会として開催しますので、宿泊が必要な方は各自手配いただく必要があります。
会場の興正会館も宿泊施設がありますので、こちらをご希望でしたら手配のお手伝いはさせていただきます。

研修費 15,000円(学生14,000円、研究会会員13,000円)

今週末まで受付しますので、ぜひご検討くださいね。

なお、案内は真宗カウンセリングのHPに掲載しております。
http://dbpca.web.fc2.com/details/20100618.html

休日参観 と PTA

2010-06-07 21:49:41 | 親子コミュニケーション
息子らの小学校で、日曜参観とPTA総会でした。
思い返せば、昨年のPTA総会に参加したことで、いろいろと変化がありましたから。
日曜参観の日に総会があることで、どちらかというと「おかあさんの役」ってイメージのPTA活動にお父さんが興味を持ってくれれば。
私は、「せっかく日曜参加に合わせて開催されるのだから」ってことで昨年参加しましたしね。

でも…総会の部屋にお父さんは私一人でした。
参観にはいっぱいお父さんが居られたんですけどね。


PTA役員は9時に集合して、まずは総会会場の会議室のセッティング。
その間、ほかのお母さん方といろいろ子育てトーク。
こういう時間が結構好きです。

私自身が、スクールカウンセラーさんや、ニート対策の講習などで知りえたこと…それらの中には当たり前のようで知られていないこともいっぱいあります。
そういうことを「知ってて当然」としちゃうんじゃなくて、「ご存知かもしれませんが」っていう気持ちではなしをすると、結構「それを忘れてた!」って感じで気づきにつなげてくださるんですよね。

で、いろんな面でがんばってるお母さん方は、「もっとこうありたい」って願いを自分にも子どもにも向けて、そんじゃない「現状」を嘆いたり怒ったりしてしまいがちのようです。
だから、そういう理想は理想として、今の状態を「そっと認めてみる」って事が大事ですね。
いやぁ、私自身こういいつつも、普段はそういう余裕はなかったりしますけれど。
でも最初から「そんなん無理」って決めずに、できないなりにもフッと思い出せたら、自分を周りを「そっと認めて」みる、そして「やさしく抱っこ(自分自身も)」してみれば、きっと何かが変わってきます。


ある程度準備が整ったら、子どもらの教室で参観。
最初に4年生の部屋に行き、あとで2年生の部屋へ。
まぁ、参観に来てる親を気にしたり、すぐに周りの子らとおしゃべりしちゃうのは仕方ないですかね。
最近では「歩き回って授業にならない」って話も聞きますが、私が見た範囲ではちゃんと授業が成り立ってる感じでした。
ただ、ふっと思ったのは、先生の質問に手は上げるんですが「はいっ」って声があまり聞こえないんですね。
2年生のほうは結構声だしてましたが。
なんとなく私のイメージは、うるさいくらいに「はいっ」「はいっ」って競うように手を上げてた記憶があるんですが(で、いざ前に出て間違ってたりするご愛嬌も含めて思い出ですね)


その後、いよいよ総会です。
昨年のイメージや、伝え聞く「問題提議」などから、多少活発な意見交換が(まぁ平たく言えばもめるってことですが)あると予想していて、ほかの役員さんたちも緊張されてましたが、肩透かしを食らったようにスムーズに進行。
むしろいろんな意見を「聞かせてもらおう」と思ってた私としては、物足りないくらい。
私みたいなのが前に出て司会進行してたんで(議長は教務の先生でしたが)みなさん臆したのかも知れませんね。
(二人ともどちらかといえば怖そうな第一印象の風貌ですから)
だとしたら、それは総会としてはよくない。
無言の圧力で声を封じたのなら、申し訳ない話です。
まぁ、終わったものは終わったものとして、別の機会にサロン的な意見交換の場があってもいいかなって思ってます。
あんまり新しいことを始めるのは、学校側は好まないかもしれませんが。

終わってから事務連絡もかねて校長先生と少し話する時間があったんですが、ちょっと意識のすれ違いがある感じも。
PTAなんですから”T”である先生方がもうちょっと総会や行事に関心を持ってくれたらいいのにって思いがずっとあり、そのことをちょっとぶつけてみました。
まぁ、こちらが知らないだけで意識を持ってくださってる先生も居られるでしょう。
また、近年は先生も忙しいですから、役割分担の線引きをして、活動はできるだけ保護者サイドに投げたい気持ちもあるでしょう。
そういうことならそれでもOKなんですが、どう思ってるかの様子がつかめないってのが面白くありません。

「先生もPTAに協力」ではなくて、「先生も一緒に活動」が本来だと思うんですけどねぇ。
まぁ、私はイベント担当にもなってるんで、どこかで巻き込むイベントをしてみてもいいかもしれません。
新しいことをやるときの負担をどう考えるかですけどね。


などと、昨日のことを通じていろいろ思わされていますが、やっぱ「声を聞く」ってことがないと関係はできないですね。
誰かが間に入って声が聞こえないだとか、声を出しにくい雰囲気を作ってしまうとか…
話の中身以前に、コミュニケーションしてる実感がほしいかな。
そういう問題をいろいろ感じた一日でした。




真宗カウンセリング・ワークショップのお誘い

2010-06-06 00:01:53 | 真宗カウンセリング
ふと気がつけばアクセスカウンターが10万を超えてました。
のんびりと「知る人ぞ知る」状態でやってきましたが、最近常連さんが増えてきてるようで…うれしい話です。

今月は真宗カウンセリング研究会のワークショップが京都であるのですが、思いのほか参加希望者が少なく困っています。
今年度は広島で2回、京都で2回、ワークショップが計画され、昨年行った北陸と九州はなし。
なので、京都での開催に参加してくださるかなと思っていたのですが、北陸は別行事と日程がかぶってしまい…
ならば近郊の皆さんが参加してくださればいいのですが、どうも3日間というのがきついのか、あるいは金曜は仕事があるから難しいのか…などといろいろ考えています。

そこで、まだ本決定ではないのですが、このまま中止にするよりは2日間に縮小して、費用の負担、仕事の兼ね合いの負担を減らせば参加してくださる方が出てくるのでは…と考えたりもしています。
どうでしょうかね。

それなら参加してみようかなって方はぜひご連絡を。
manu.takahashi@nifty.ne.jp

真宗カウンセリング・ワークショップはとても不思議な空間です。
京都でミニカン・エンカウンターの研修会もありますが、それとはまた違った雰囲気があります。
また、私が「聞き方・伝え方の学習会」をやっていますが、それともまた違います。

2日間(あるいは3日間)、ゆっくりと流れる時間の中で、仏法の話をしたければそれもよし、世間話をしたければそれもよし。
ただ、そこにいる数人の中に現存する「仏法に根ざした」思いがベースとなって、意識するしないにかかわらず、法に思いをはせることがあります。

自由である、願われている、許されている…
言葉にすると様々ですが、「いま・ここ・わたし」でいられることを体感できると思います。

ということで、皆様にお勧めします。

今の時点での詳細はこちらでご確認ください。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20100618.html