コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン継続学習会 2月

2010-02-26 02:58:48 | 真宗カウンセリング

ミニカン継続学習会 2月

今月はいつも一緒に世話役してるSさんはご都合でお休み。
さらにM先生も急に用事が入ってお休みと朝に連絡。
真カ研の集まりを一人で世話したことなかったんでちょっとドキドキ。

でも、始まってみたらいつもどおり。
いや、ちょっと気負ってたかな。

参加はちょうど偶数、私を入れて6人。
最初のチェックイン・2回のペアを組んでのミニカウンセリング

私の中の中心は、先日のフォーカシング・エンカウンターを経験しての”感じ”をいろんな角度からなぞってる感じ。

一人でブログにして味わうのも意味はあるんだけど、こうしてミニカウンセリングとして、カウンセラーさんに聞いてもらうことで気付くことがいっぱいある。

そのうちのひとつは、フォーカシング・エンカウンターに参加しているときはミニカウンセリングの聞き方を意識しているけれど、ミニカウンセリングで聞いているとフォーカシングエンカウンターで味わった感覚が浮き彫りになってくる。

すでに、その両者が私の中でとろけこんでいる。
これは不思議でもあり、落ち着いた感じでもあり。

でも相変わらず、そういう感じをしている自分を
かっこつけてるんじゃない?
と見ているわたしがずっといる。

まぁ、今は深く相手をせずに、
そうかもね~、そこに居ても良いよ
と肯定している。

でも、そのことを聞いてもらっているときに、自分ではヘラヘラと笑いながら「どうしたいのかなぁ」などと、感じを言葉にしていたら、振り返りのときにカウンセラーさんが「頭を抱えている」という言葉で返してくれた。

自分では肯定していて、深刻でなくヘラヘラしているとしか思えなかったのに、「頭を抱えている」と映っている…

まだそのことを消化し切れてないけれど、とても大事なことを教えてもらった。

自分で感じる、自分の感覚に「?」を付けている今の自分としては、こうやって外から見てもらっている人の言葉は大きな手がかり。
ましてや、安心安全を大事にしてくれている場で、私に「これを言っても大丈夫」と信頼してくれている人の言葉。
これはとても大きなもの。

実際は、こういうこと書いている自分も「かっこつけてる」可能性が高いんだけど、まったくの虚構じゃなく、なにかしら感じてにじみ出るものを元にかっこつけてるはずだから。

うん、月に一度だけれど、かけがえのない時間・空間だ。


フォーカシング・エンカウンター 華光会司会者研修会

2010-02-24 03:11:53 | コミュニケーションワーク

先の週末は華光会で「司会者研修会」
といっても、司会術を学ぶのではなく、法座で司会をする機会のある人のための研修会。
(もうちょっとわかりやすい主旨はかりもん氏のブログで)
そう、他人との関わりを考えるには、自分との関わり方を見つめてみる事が大事だ。

そこで、今回は「心の天気を感じてごらん」著者でもある土江先生をお招きしての二日間。
私にとっては昨年に「真宗カウンセリング研究会」での研修会についで、二回目のご縁だ。

昨年の研修会では「円座禅」と称されていたが、「フォーカシング・エンカウンター」という呼称にされていた。

ワークの流れを書いても良いけど、あんまり説明が続くのも面白くない。

そこで、二日間の心の動きを振り返ろうかとも思ったけど、どうも気が乗らない。

今は振り返ることに気が乗らないわたし。

実は直後に特定の人だけが読める場(mixi)に整理しないでそのときの心境を書いてみた。
ブログにするときはそれをまとめようと思って。
そういう作業もやろうと思えば出来るし、別に隠すことでもないから。
でもそれもしたくない。

今、二日前に言葉にした気持ちをまとめなおすことをしたくないわたし。

ならば、その二日間を経験して、その上でさらに二日間仕事したり、人と会ったり、家族と触れ合ったり、同じく参加した人のいろんな言葉を受け取ったりした今のところで、何でも良いからブログにしておこうかと。

こうして書いてみながら、複数の”わたし”が出たり入ったりしている。
そのことはフォーカシング・エンカウンターの最中に浮き彫りにされ、サポーターや先生の言葉を通して「あぁ、確かにそんな動きしてる」と腑に落ちた感じ。

たとえば、
文章を書いている「今の気持ちに沿って」と考える”わたし”
と、
そんな”わたし”を「打ち込んでる時点でもう過ぎた過去の思いじゃん」と冷めてみている”わたし”
さらに「それって本当に素直な思い?冷めている自分を演出して何か判ったふりしてるんじゃない?」という”わたし”
その他時々刻々、あんな”わたし”やこんな”わたし”

あ、分裂症って言葉が頭をよぎったわたし。

こういう風に、いくつかの”わたし”が複雑に動いている事実がありながら、その時々の”わたし”が主役の時には前の”わたし”を否定して自分が”本物”と主張するから、「いくつかのわたしがある」という事実を認めようとしない、いや認める必要を感じていない感じだった。
それを、外の人の言葉で「今のあなたはこうじゃないですか?」と、言葉にして返してくださることで(この言葉も多くは私自身の中から断片的に出てくる言葉)少し離れた視点で自分を見つめることが出来る。
そういう作業を体験させてもらえたし、講義の中ではそういう「プレゼンス」のことを教えてもらっていた。
あ、今のわたしの見方が、その「プレゼンス」なのかどうかはよく判っていない。

気がついたら振り返りも含めたことを書いてるなぁと思ったわたし。

最近のカウンセリングのワークや勉強会を通じて、その時々に現れる感じ(否定的なものも含めて)を、肯定否定なしに「そのままの感じ」として受け止めることは出来てきた気がする。
それは、その時々の”わたし”がそれぞれ受け止めている…あるいは、その時々に受け止められる”わたし”になっている。
うん、いままではその「感じ」を大事にしてきている。
もちろん、そこに焦点をあてるアプローチは私にとって大事なものだし、中心に在るもの。
そこに、その「感じ」をしている「わたし」を見つめる感覚が加わった。

感じも刻々と変わるから、それを見つめて、言語化していく事が大事だけれど、その感じてる”わたし”自身刻々と変化しているんだから、それを俯瞰してみる。

このことは、今ひらめいた。

そんな時々刻々の”わたし”を見つめやすいように、象徴化していく作業とその補助。
そしてその刻々の変化(シフト)を、象徴の変化を通じて見つめていく。

これがフォーカシング・エンカウンターだと理解したつもりになると怖いけど、何かしらこの身の中に育っているものがあるはず。

ちょっといいかっこしてきたなと思ってるわたし。


他にも「甘え」や「つながり」ってことでいろいろと”学んだ”こともあるんで、書けたらそのことも話題にしていきたい。

全部じゃないけど、打ち込みながら瞬間的に浮かんできたそのときの”わたし”を言葉に出来たら、それも織り込んでみた(色違いで書いた部分)

そういえば、研修会の各セッションに5分間の黙想があるんだけど、次々浮かんでくる時々刻々の”わたし”をどんどん言語化する作業していて、目が回るような感覚に襲われていた。
それを分かち合いのときに話すために、黙想中に現れた5分分の”わたし”を覚えておこうと。
分かち合いのときには全部”過去のわたし”なのにね。
そういうクセがあることも、今回よりはっきりした。

かしこいと思われたいわたし。

結局、うまく取り繕ってるわたし(のような気がしてきた)


真カ研月例会 2月

2010-02-19 23:39:20 | 真宗カウンセリング

メインの仕事だけではこのご時世なかなか収入が心もとないので、今月に入ってから副業も始める。
今までなかった時間を作ろうと言うのだから、当然何かが犠牲になる。
まぁ無駄な時間があればそれを削ればいいんだけど…
テレビを見たり漫画を読んだりなんてのも私にとってはメリハリの”緩”で無駄とも言い切れない(と言う時点であやしいけどね)
まぁ、今の時間の使い方に慣れればもうちょっとやりくりできるだろうけど。
ということで、ネットの時間も少し削られてきていて…と、更新が少なくなってる言い訳でした。

水曜日は真カ研の月例会。
今年度読み続けてきたロジャース氏の論文「十分に機能している人間」の最後。
(来月まとめの会はあるけど)

今回の題は「自由と決定論」
その詳細はかりもん氏がブログにされているので、私はまたまた省力。

今回、仕事の荷物の発送・家の用事などもあり、またまた遅刻。
いつもは最初のチェックインには間に合うけど、今回はすでに論文の検討に入ってた。
最初に自己紹介で一言でも発するのと違い、かなり流れに乗りにくい感じ。
それでも思ったことを言ってみるも、どうも受け入れられてない感覚。
何のことはない、私のほうが流れに乗りにくいから、その意識が場に投影されて、私のほうで勝手に壁を感じているのだ。
もっとも、そのときは「受け入れてほしいなぁ」と相手側に原因を持っていくのだが。

その後の皆さんの発言にも反応しながら、私の乗りやすいところと乗りにくいところがはっきりしてくる。

論文の言葉を理解することはとても苦手だ。
しかし、そこに書かれていることを自分なりに受け止めて、自分の感覚で味わっていくことは楽だ。

で、ここでちょっと考えてしまう。
やはり論文と言う形でロジャース氏が伝えようとしている大事な話があるのだから、私がどう受け止めるかの前に、「何を伝えようとしているのか」をきっちり理解するのが大事じゃないだろうか、と。
そういう部分が私には大きく欠けている。
学術的に受けとめる方々にとっては、感覚的な私の発言は浅いだろうなと思う。

もう一方で、体験的に受け止めた感覚を、論文に記述されている言葉で「あぁ、これだ」とうなずく場面がある。
もしかしたら、それは自分の体験・身体感覚に取り込んでいる姿かもしれないが、机上の理解とは違う深みがある。


そういうことを感じながら、この「十分に機能している人間」という事を振り返ってみると、自分の内から湧き上がるもの、外部の刺激から影響を受けるもの、それらを「今の私」のところで「これが私だ」と、憂いのない受け止め方が出来ている状態じゃないかと。

学術的なアプローチが苦手で、感覚的なところがすき。
それが言い悪いじゃなくて、そういう自分が今の自分。
それを、これからどうなっていこうとか、このままじゃ駄目とかじゃなくて、今の自分は今の自分。

「どんな選択をしようが、正しい選択が出来る状態」というほどの自信はないが、どんな選択のどんな結果も、一度は受け止めることが出来る私じゃないかな。
そこに後悔や憂いは起こってくるんだけど(起こらなければ完璧かもしれない)そういう後悔や憂いもネガティブなものじゃなくて、「そういう自分」と受けていける。

まぁ、何がきっかけで、そんな今の私がひっくり返るかはわからんけど。

完璧な「十分に機能している人間」にはなりえないけれど、振り子のふれ幅の中では結構いい状態かもしれない。

明日からは華光会の研修会。
昨年真カ研でお世話になった土江先生をお招きしての研修会。
いい感じで天狗になってる状態の腹底が暴かれるかもしれません(笑)
何が出てきても受け止められるかどうか。


京都支部学習会 2月

2010-02-14 00:48:55 | 「聞き方・伝え方」学習会
今日は京都支部学習会でした。

今回も遠方から広島・富山・三重から。
また大阪や奈良からも参加してくださいました。

はじめに2分間の黙想。

初参加の方も居られるので少し趣旨説明。
そのあと、今回は簡単なワークをしました。
ワークと言うとちょっと構えてしまう方も居られるのですが、私の場合はちょっとテーマを絞った”お試し体験”的な位置づけです。
取り入れたのは「自己紹介のワーク」(こういう名前かどうかは知りませんが)
ペアを組んで「私は、○○です」ということを話します。
最初は「私は高橋です」「私は男です」などというところから、「私はいまこんな不安な気持ちです」と言う風に、自分の内側を探って、感じたことを言葉にしていってもらいます。
これを5分間ずつ、役割を交代して。

今まで、紙に箇条書きしていく形のワークや、もうちょっとテーマを絞って「私の長所は…」「私の短所は…」という風にペアを組んでやったことがあります。
そういうときに、私は言葉にすることで、自分でも普段感じていない「意外な一面」に出会うことがありました。

まぁそこまで行かなくても、パッと心に浮かんだことを言葉にする訓練的な思いがありました。

で、やってみて…
「私は…」というルールにこだわって、かえって話しにくかったとか、もうはなからルールは飛んでいって思っていること(話したいこと)をどんどん打ち出す方まで。
お聞きしていると、カウンセリング経験などがあって、「自分の内に浮かんできたこと」をすっと言語化できる方は、形の制約が無いほうが自由に自分を語れるようですね。
本当は、苦労してでもルールにのっとって、短い言葉で今浮かんだことを言葉にしてみる経験を味わって欲しかったのですが、そこまでがっちり固めない感じがこの学習会の雰囲気だと思ってますので、これもよしかなと。
まだまだ入り口ですから、なんでもまずやってみるところから、ほんの少しでも何かを感じてもらえればうれしいですから。

続いて、ペアを組んでのミニカウンセリング。
あまりペアを増やすと、狭い部屋で近く同士の声が気になるので、4隅に分かれられるように3人組二つ、4人組二つに分けて。
いつもの話し手・聞き手・傍観者・(4人の所は一人待機)の役割を決め、4回やるのでちょっと時間を短く7分間のミニカウンセリング体験。
初めて参加された方も、聞くことの難しさや、いままで自分の都合に合わせて聞いていたことを表明してくださり、大きな気づきをしていただけた気がします。

何度か体験されている方も、それぞれに新たな気づきをしてもらえる…こちらがあれやこれや教えるんじゃなくて、そうやって気づくことがうれしいですし、お一人お一人に任せておける私がいました。

一度体験してみること、続けることが大事ですね。
ここ数日の思いも交えて、もう少し書けそうな感じもあるんですが、今日はここまでにしておきます。

3月は27日の土曜日に行います。

日曜(祝日)礼拝 2月

2010-02-12 16:18:51 | 真宗

今月は日曜日にいろいろと行事が入っているため、祝日の11日が「日曜礼拝」でした。

この日を迎えるまでに、かりもん氏のブログでの記事が私の中で大きなテーマになっており、ちょうどご法話も座談の話題もそのことを深めさせてもらえる機会になった気がします。

そのブログの冒頭に書かれた、先日の仏教青年会のご法話

「仏法はなぜ難しいのか。それは、お経の言葉や用語が難しいというだけではない。私の願い(欲望)と、仏様の願い(本願)、つまり、私が日頃求めてるものと、仏様が私にあげようとおっしゃるものが、あまりにも違いすぎるからです」

私はその法座に参加してませんし、ほんの部分だけなのでそのご法話で先生がおっしゃりたかったことをしっかり受け止められているかどうかはわかりません。
しかし、このモニターを通して、その文章を通して、私の中に届いてくるものはあります。

仏法を「難しい」と思うこともあれば「難しくない」と思うこともあります。
前者はやはり「私に出来ることが無い」ということ。
「これをして、これを達成しなさい」と指示されるのならば、努力努力を積み重ねて、そこに近づいていくと言う道があります。
しかし、それらが一切否定される。
「役に立つものは何一つ無い」と。
すると、どうしていいのかわからない…難しいんですね。
後者は「何も変わる必要が無い、そのままの姿がお目当てなんだよ」ということ。
これも「何も出来ることがない」ということ。

このように、同じことなのに難しいと取ったり難しくないと取ったりしてしまう。
そういう部分を、悩んでいる方にお伝えするときに、どんどん言葉を費やせば費やすほど、言葉上の関わり、観念上の理解に陥ってしまう気がします。

そこをすっきりと言い切ってくださったのが、上に上げた先生のお言葉。

私が追い求めているもの…たとえば今の苦しみを何とかして欲しいとか、信心喜べる身になりたいとか、そういうものは今の私が「変わる」事を求めている。
欲の塊ですね。
しかし、仏様が願ってくださるのは、そんな変化の喜びではなく、また目先の苦の解決ではなく、苦しまなければならなかった大元である”迷いの身”の解決。

はっきり行って、そんな壮大な得体の知れない幸福なんて求めていないんですね。
口では「お浄土に生まれたい」なんていっていても、それは私が想像しえるお浄土と現実を比べて、「あぁ、はやくこの現実から逃れたい」としか願ってないんですから。

だから、そんなことに右往左往している私の望みというものに見切りをつけて、「今の私の現実をなんとおっしゃっているのか、それをどうしてくださると言っておられるのか」と、ご本願を聞かせていただく。

座談会でお話させていただいた方々も、「どうして今求めておられんですか」という問いかけをされても、「この身の変化」しか出てこない。
いや、当たり前ですよ。
私も偉そうなことが言える立場じゃない。
でも、そこばかり追いかけていては、聞こえてきているものも聞こえない。


もうひとつ、このお話をもとに私の中で味わっていたことがあります。
こちらは人間関係での話です。

AさんがBさんのことについて、意見を述べます。
AさんにはAさんの思いがあり、それをなんとかBさんに伝えたい。
しかし、Bさんは「こういう風に伝えて欲しい」という伝え方に問題を感じ、そうじゃない伝え方のAさんの思いを受け止められない。

そしてそのことをBさんが複数の方が目にすることが出来る場で表明された。
そのときのBさんが伝えたかった事があるでしょうが、どういう気持ちでBさんが伝えたのか確認されないまま、今度はそのBさんの行動を第3者があれやこれや話題にしだす。

伝えようとする側の求めているものと、聞いている側の求めているものに大きく違いがあるまま、第3者を巻き込んで話がすすんでいく。
なにも、この例に限ったことではなく、よく見かける場面です。
本人不在の井戸端会議や給湯室会議もそうでしょうし、飲み屋での話題もほとんどが人の噂話じゃないでしょうか。

と、話がそれてきました、この話題はまた別に機会にしましょう。
(人間関係のことは学習会に参加してくださるといろいろ気づけると思います
「聞き方・伝え方」の学習会 2月13日

つまり、そういう人間関係の話題も、私には冒頭のお話につながってきたんです。

人間同士でも(人間同士だから余計に?)相手の思いを正確に受け取ることは難しいです。
ましてや、仏様の願いは、それがさらに人間を通してでしか聞けないんですから、見かけや信頼度や相性や、そういったまさに人間的なところに影響されて、また同時に自分自身のものさしに合わせようとゆがめて受け取ってしまいます。

最初から正しく聞くに越したことはないのですが、まずは
私の求めているものと、仏様が与えてくださるものが違う
ということをしっかり受け止めることから始まるんだと思います。


人間同士の伝達 と それを超えて伝わるもの

2010-02-06 01:43:34 | 真宗

先日、ある方からメールをいただき、いろんなことを考えるご縁になりました。

法座での出来事を通して
○感情的に迫ってこられることにおどろいた
○お聖教をおろそかにしていないか?
○体験や実感で答えないで、お聖教についてしっかり答えて欲しい

本来ならばしっかりといただいたメールを引用して、それのお答えすべきかもしれませんが、このブログではあくまでそのメールをご縁に私が感じる・味わうところで書こうと思います。
ですので、上に書いた内容もブログねたのための大まかなあらましですから、実際のご質問と少し趣旨が違ってきていることをご了承ください。

もっとも、送信主にはすでにメールで返信していますし、他の方でもコメントで問いかけいただいたりしたらこのブログ上でもしっかり内容を引用して丁寧に答えさせてもらおうと思っています。

という前置きの上で…

まず、法座で感情的に迫ってこられる場面は私もよく目にしています。
というか、私自身そういう関わりを多くしてきました。
また、感情的に迫られて困る側のこともありました。

今はそのことを振り返って、「伝える」事が大事ならば感情的になるのは双方にとって良くない面があると思っています。
ただ、感情的になってしまうくらい、その方が持っておられる「思い」というものがあるでしょうし、そのことは大事にしたいと思っています。
また、驚く方の気持ちも大事ですから、私がそういう場面に出くわしたならば、できるだけ驚くことでとどまらないように、肝心の「伝わるもの」を丁寧に確認していく作業をしたいとは心がけています。

似たような事は先月のエントリーでも書いていますね。

やはりこの部分は今の私には大事なテーマで、法座であるからには「伝えるもの」がありますし、表に出る人間関係はこだわるべきものではないはずです。
しかし、人間同士のコミュニケーションでしか伝え合うことが出来ない。
ならば、コミュニケーションを意識していくこと、学んでいくことは、双方のためになるはずです。
だれも傷つきたいとは思っていないし、傷つけたいとは思っていないはずです。
「言いたいこと」を第一にするのもいいですが、それが上手くいかないときに「感情」に巻き込まれてしまうのは双方が傷つくことになりかねませんもんね。

ただ、いつも冷静でいろなんて言うつもりはありません。
感情の中に伝わるものも確かにあるんです。
聞く側がそれを受けられる状態ならばそれもいいのでしょうが、多くの場合は感情的に迫られると困ってしまい閉じてしまうんじゃないでしょうか。

私が始めた「聞き方・伝え方」の学習会は、まずはそういう「困る」場面とそうでない場面を体験していくことで、自分でいろんなことに「気づいていく」ことを考えています。
それほど、この「伝え方」は今の私にとって大事なテーマなんですね。


さてもう一方の「お聖教」の問題です。
最近出合う多くの方は、長年にわたってお聖教を学んできておられます。
頭が下がります。

じゃあ、私はお聖教を学んできていないのか…
比較で言うと、そういう方々ほど覚えていないですし、確かに弱いですね。
ただ、私は覚えたり理解したりという「学ぶ」ものでは無いと思っています。
根本は「南無阿弥陀仏」にあります。
それひとつがあれば、全部具足しているのですから。

ただ、その「南無阿弥陀仏」が「誰が何のために」作られたのかということを知るために、先人の言葉を頼りにします。
だって、仏様の言葉を聴く術を持っていませんから。
そうするとお釈迦様が初めて人間の言葉で伝えてくださったお言葉を残されたものは当然大事にしなければなりません。
それは最初インドの言葉で、そのままでは私はわかりません。
なので、いろんな方が伝えてくださる中で日本語にしていただき、さらにただの文字の羅列である「南無阿弥陀仏」にこめられたお心を聞かせてもらうしかありません。

ここで大事なのは、その伝わる言葉を一字一句間違えないようにしたり、一生懸命解説して理解することではなくて、「誰が何のために」と聞き「今・ここ・わたし」と「南無阿弥陀仏」の関係が仕上がることが大事です。
もちろん、その関係が出来上がった上で、より多くの「こめられた願い」を知ることが出来れば、大いなる喜びになるでしょう。
逆に、その関係なしに知識を重ねても、それは命切れるときに「役にたたない」、火葬場で焼かれて消える「脳漿の働き」でしかありません。

話を戻しますが、法座でお同行さんが「体験」や「感じ」で伝えようとすることが多いのは、「知識」では救われないから、「今湧き上がるもの」を感じて欲しいという思いからです。(私はそう思ってます)
それは「実感している」人の言葉であり、お聖教のことばと見かけは違いますが、むしろ生きて働いている仏様の力です。

お聖教が正しいとかわかるとか、この人が信用できるとかできないとか、好きだとか苦手だとか…ついついそういうことに気持ちが行ってしまいますが、その後ろに「南無阿弥陀仏」がああることを聞いてください。

人を見ずに、南無阿弥陀仏に触れたならば、勝手に「私の心」は動きます。
「わかった」とか「覚えた」とかいう頭・知識の動きでなく、また回りの人に影響されて怒ったり泣いたりする単なる感情の動きでなく、「あぁ…」と勝手に湧き上がってくるものがあります。
ふれれば動くんです。


明日から華光では仏教青年会の宿泊行事があります。
私は参加しませんが(もう仏青はとうに卒業してますし)、その前にこのブログを見る方がいるかもしれません。
ふれれば動くんです。

お聖教は理解しようとがんばるのではなく、勝手にその言葉からあふれる「願い」が働いていますから、浴びるように、その刹那刹那に打たれてください。

仏法を浴びて、打たれてください。
南無阿弥陀仏が勝手に働いています。