コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

エンカウンターグループ 第1回

2010-09-30 18:00:24 | エンカウンターグループ
世話役としては初めて参加するエンカウンターグループが始まりました。

しばらくエンカウンターはお休みしてたのですが、どのくらい休んでいたか…あんまりそういう日にちだとか期間だとかを覚えられない私が居ます。
というか、あんまり覚えようともしてないし、そういう意味では無頓着。
「いつに何があった」ということよりも「今・ここ」を大事にしているんだな、と。(というかっこいい理由にしときましょう)

といいつつ、ブログの古い記事を読めばそういう昔のことがわかります。エンカウンターのカテゴリーを作ってるんで、それでみると2006年が最後の参加。
2007年に”いろいろあって”不参加にしたっていう記録がありました。
ある意味、まだ3年しかたってないのかっていう感じが強いですね。


さて、今回は1週間前になってやっと開催の最低人数が集まりました。
その後からの参加申し込みもあったので、結局6名の参加。
世話役3人が加わって、9名の開催です。


1回目の顔合わせってこともあって、静かな展開ではあったんですが、ひとつのささいな話題について、9人それぞれの考え方をゆっくり聞きあう時間がいきなり持てたことに、ある意味驚きを、ある意味当然な思いを、感じましたね。

この9人が顔をあわせるのは初めてだけど、それぞれにカウンセリングというものを何らかの形で経験されている方々。
安心できる場がしっかりと形成されていた感じです。


流れの中の話題で、Aさんの発言を通じて大いに刺激される私も居ました。

その中の私が言葉に残しておきたい部分は、先々週の月例会から流れのある話題なんで、そのことを記事にするときにまとめようと思います。

ただ、今回感じたのは、その月例会で私が感じたことを、先日の「学習会」で話題に、それを聞いていたAさんが今回の話題にされ、再び私の中で明確化されてきたというもの。

おそらく、私一人ではここまで深まり、明確化されることはなかったでしょう。
まさにエンカウンターです。

これからの10週間、とても楽しみです。

京都支部学習会 9月

2010-09-28 15:53:39 | 「聞き方・伝え方」学習会
相変わらず「やることがいろいろある」を理由にブログの更新をサボりぎみ。
この2週間だけでも、日曜礼拝、真カ研月例会、娘の学校の学園祭、京都支部学習会、PTA会議など、ブログの記事にしたい話題は山積みなのに…

で、ちょっと時間の余裕があるときに少しでもとっかかろうと思うんだけど、さてどれから手をつけるか。


ということで、今日は学習会の記録として。

8月に一度お休みした「聞き方・伝え方」の学習会。
今月は祝日に会場の空きがあったんで23日の祝日に開催。
参加はレギュラー4名に、久々参加の(とはいえ他の機会にしょっちゅう会ってるんで会うのは久々じゃない)1名。
まずはいつものように2分間の静かな時間を設けて、今の気持ちの分かち合い。
つい数日前の「聞法旅行」の話題があったり、日常のコミュニケーションでの問題表明があったりと、じっくり話を聞いていきたい話題には事欠かない感じ。

そのことも心にとどめて、迷いもあったけどちょっと試してみたかったセッションをしてみる。

それをしてみようと思ったのは、先日の「日曜礼拝」のときに「ほとけさまと聞いて、思いつくことを何でも言ってみてね」と投げかけたときに、子どもらからなかなか反応がなかったことから。
「思いつくこと」と言われてもなかなか難しいかもしれないので、お仏壇のほとけさまを見て「何でも言ってね」と問い直してもなかなか反応なし。
結局、M先生が口火を切ってくれて、大人の方がいくつか話してくださった後にやっと子どもから反応がちらほら。

で、みたままのことを言葉にするのも難しいのかな?ってことを考えて試してみたくなったワーク。

方法は、あるもの(絵でも花でも)をみんなで眺めて、見えることを見えるままに言葉にしてみようというもの。
今回はとっさの思いつきでもあったので、何も題材を用意してないから、会場の部屋のお仏壇の前にみんなで集まって、お仏壇を見ながら「見えるものを言葉にしてみてください」と。
ただし、そこに感想は交えず、見えている事実だけを言葉にすることを意識しましょう、と。
これは、以前参加した「心の天気」のワークのときに、皆が書いた「心の天気」の絵を、「見えるものを見えるままに伝える」というセッションを参考にさせていただいた。

やってみると、皆さん結構難しいらしく、一生懸命「形容詞」を駆使して表現しようとされる。
たとえば「きれいな黄色い花がある」という具合。
「黄色」というのは共通認識(まぁ、厳密には色も人によって取りかたに幅はあるけど)だけど、それを「きれい」と表現するのはその人の「感じ方」になる。

もしかしたら、私はその黄色い花を「きれい」だと思えないかもしれない。
でも伝える側の「きれい」と「黄色い花」という伝えたい「事実」があるのだから、こちらの感じとは別にそのことを受け止めることは大事だ。
だからこそ、「共有できる事実」と、「感じている事実」があることを意識しておくことが大事なんじゃないかなと。

「見たまま」のあとに、一度「今度は感じることを言葉に」というセッションをはさんで、ちょっと「見たまま」と「感じていること」の違いを話して、もう一度「見たまま」を言葉にしてもらった。

その後、いつもより時間をかけてじっくりと分かち合い。
この学習会を始めてから「自分の・相手の感情の言葉をしっかりと受け止める」ことを大事にしてきたけど、自分を内省しながらや、人の話を聞きながら「自分の感情の言葉と事実」を分けて意識するのは結構経験が必要な気がする。
難しいけれど、ここが意識できれば、常に100%の意識を集中しなくても、「事実を事実として」受け止めながら、そこに起こってくる「感情」がでてきたときにスウッと入り込んでいける。

このことはカウンセリングの視点から行くと、相手の状況や境遇にこちらの感情が刺激されて「共感した気になる」「判った気になる」ということを避けることに関連してくると思う。(このことはいずれ「共感」という話題で記事にしたい)
また、仏法の視点から行くと、仏願や法語に自分の感情やつもりを交えずに、「知らされる事実」(機の真実・法の真実)をしっかりと聞かせていただくことにつながる。


そう、よほどのことがない限り、聞こえる(見える)事柄に対して、思い込みや想像を働かせて、刺激された感情を交えて、総合的に判断してしまいがち…というか、そうせざるをえないのがこの私なのだから。

そこにいる相手を、そこに居るままに受け止めること…
このことは、先日の月例会での「肯定的配慮」につながるんで、その記事はまた別に。


ちょっと記事にするには言葉足らずなきがするけど、躊躇してるとますますアップできないんでね。

来月は17日の日曜日に行います。

諸仏の救いからもれた身

2010-09-11 09:41:46 | 真宗

明日、12日に京都の華光会館で日曜礼拝があります。
今月は私がご法話の担当をすることになりました。
子ども中心の集まりでするご法話ってのはとても難しいもんです。

担当することが決まった直後、小学校のPTAの仕事をしているときに日曜礼拝に来てくれている子に会いました。
「こんどおっちゃんが日曜礼拝でお話しするけど、何のお話がいい?」ってたずねたら「ほとけさまのお話」と一言。

ほぼ毎年ご法話を担当してるけど、どちらかというと「罪悪」や「因果の道理」あたりを芯にすえた話が多かったように思う。
なので、いっちょ「ほとけさま」を子どもに伝えてみることに挑戦してみるかと…

ところがこれが難しい。
いろんな切り口があるけれど、あまり細かく説明する話になるのもよくないし、かといって子どもだからと御伽噺で終わるようなものにするわけにもいかない。
とりあえずレジュメを作成しだして、まとまってきたものを日曜礼拝担当の先生にメールしてみて意見を聞くことに。
そのアドバイスはとても的を得たものだったけど、どうも一番話したいこととちょっと違うところに力点が置かれたアドバイス。
逆にそのことで、何を話したいかが私の中ではっきりしてきた。

「ほとけさま」というのは一杯いて、そのなかの「あみださま」が私を救ってくださる誓いを立てたという話。(うーん、これだけじゃわからんよね)
で、アドバイスは「あんまり他のほとけさまの事に興味がいくより、あみださまにしぼっては?」というもの。
しかし、今回私の中にある大きなテーマは「諸仏に見放されたわたし」それを唯一「一切衆生」を救うと誓願を立てられた「あみださま」ということを話したかったんだと。
だから、あみださまのほかにも、力を持ったほとけさまが一杯いること、また、修行して仏になろうとしている「ぼさつさま」も一杯いるということ。
そのうえで、そのどのほとけさまも私を救えなかったしぼさつのように修行することもできない…迷い続けるしかないわたしだということをはずせない。

そして、そんな諸仏の救いからもれた身をめがけて、ぼさつとなって修行し「なもあみだぶつ」を成就した名であり、体であり、願であり、行である姿。

うん、この流れで話したい私がいるんだな。


あとは、複雑にならないように、盛りだくさんにならないようにちょっと気をつけて、話題が散漫にならないように逸話を削って…
うーん、それが難しいんだけどね。


ここを話したくなってるのは、伝道研究会で「法蔵の発願」をじっくり話し合ったことが強く残ってるから。
そのテキストより抜粋。

「選択本願は浄土真宗なり」とあるが、浄土真宗の根源をたずねれば、弥陀の発願よりはじまる
(五十三仏の出世)久遠の昔、錠光如来をはじめとして、次々に、五十三仏が出世され無量の衆生を教化し、ついには成仏させられた。
(世王仏と法蔵)五十四番目の世自在王仏が出世なされたとき、その説法に感激した国王は出家して法蔵比丘と名乗り、
(法蔵の選択)一切衆生を済度せんがための誓願をおこされ、師仏の指導を仰ぐことによりついに五劫の間思惟し、かっての諸仏のなしえなかった大誓願をおこされた。
(四十八願)そして、これを師仏の前にのべられたのが、四十八願とよばれるものである。

あぁ、今こうして打ち込んでみたら、これを伝えるのってすごく難しいんじゃないだろうか…
えーい、乗りかかった船だ、やってみるべし。


討ち死にするMANU.を見たい方はぜひお参りを。

日曜礼拝