コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

仏の子ども大会 1

2009-07-31 23:57:24 | 真宗
今日から京都の華光会で4日間の「仏の子ども大会」が始まりました。
ここ数年、毎年お手伝い参加してましたが、今年は外れます。
もう、娘がスタッフ参加の歳になりましたから、バトンタッチ…
もっとも、娘も部分的にしか参加してくれませんが
(部活と両立ですから、難しいところですね)

子ども大会は、小学3年生から中学3年生まで。
(兄弟が既参加ならば、小学2年生でも参加出来ることもあり)
卒業した高校生や大学生中心に、お世話役のスタッフとなり、50年以上続いています。

子ども向けの宿泊キャンプかというと、そうではなく、しっかりご法話があり座談会がある。
華光の法座で座談会を「分級座談会」と言ったりするのは、子ども大会での年代ごとに分かれて座談会することの名残なんですね。
そのご法話も、子ども大会育ちの学生や若手が受け持って、自分自身の「聴聞」してきたことを、一生懸命、次代の子どもたちに伝えてくださる。
見事な「お取次ぎ」として、お働きを体現してくださいます。

私は、常駐スタッフからは外れましたが、会場が近所のよしみで、移動時の車を提供したり、法話のビデオ取りをしたり。
堂々とそんな法話を聞きにいける、役得をいただいております。

今日は開会式の中で最初のご法話。
今年のテーマ「ほとけさま」と言うことについて、子ども大会育ちの大学生が担当してくださいました。
「ほとけさま」にどんなイメージを持っているか、「ほとけさま」はどんな方だと聞いているか…
参加した子どもらに一生懸命尋ねてくださいますが、まだ始まってすぐで子どもらが硬く、あまり返事が返ってきませんでした。
最後に、この4日間で大事にして欲しいことを伝えてくださいます。
「わたしは、どういう存在なのか?」
「ほとけさまは、何を願われているのか?」
「ほとけさまとわたしの関係は?」
正確にはもうちょっと違う言葉で伝えてくださったと思いますが、こういう感じの問いかけだったと思います。
子どもにもわかる問いかけでもあり、根本の深~い問いかけでもあります。
4日後、子どもらが何を受け止めて帰って来てくれるか、楽しみですね。

また、初めて参加したり、毎年参加してる若い先生方が、子どもらの姿を通じて、自分自身何を受け止めてくれるのか、機会があったら聞いてみたい気がします。

そして、私自身が何を聞かせてもらえるのか…

「尊重」をめぐる話 -5  「職場とうつ」を通じて

2009-07-30 11:20:24 | 真宗カウンセリング

ネットでいろいろなニュースを見ていたら、フッと目に泊まる記事がある。
関心ごとのキーワードが私の中にいくつかあり、そこに響くのだ。
最近はカウンセリングの関連することの比重が増えている気がする。
この記事もそんな中のひとつ。
タイトルは
「怠け者」「脱落者」――うつ患者8割「職場に偏見ある」
(誠Biz.ID)

「うつ」とどう向き合うかという本人の問題も大事だが、周りがどう対応するかは結構間違った考え方が広まっている気がする。
そういう関心から「職場の偏見」というのは、カウンセリングの学びの中でいろいろ考えさせられる問題だ。

まず、回答者の意識に触れられている。

 「あなたがうつ病になる可能性はあると思いますか」という質問に対し、診断経験も症状経験もない人でさえ、「うつ病になる可能性は、まったくない」と言い切る人は15%にとどまった。しかし、「身近に治療経験者がいるか否か」で回答者を分類すると傾向は大きく分かれる。家族や親しい友人に治療経験者がいる人は、48%が「自分がうつ病になる可能性は、大いに/ややある」と答える一方で、近親者に経験者がいないと74%が「あまり/まったくない」と回答した。

身近に「うつ」と診断された人の半分は自分も可能性があると考えており、回りに経験者がいないと74%が可能性が無いと答えている。
ひとつには、周りに治療経験者がいないと答えている人が持っている「うつ」のイメージがかなり深刻な「うつ」のことしかないんじゃないかと思う。
休職しなければならないほどの「うつ」をイメージして、「自分はそこまでならない」という意識なんだろう。
しかし、そこまで周りから見てそこまで深刻じゃなくても、「うつ」に悩んでいる人は多いはずだ。
一方では「仕事をしているなら、まじめにやれ」と「うつ」で困って通常の動きが出来ない人を思いやることが出来ておらず、その程度は「うつ」じゃないと判断している人がいるだろう。
もう一方で「『うつ』と見られたら困る」と、実際はしんどいのにそういう自分を受け止めず、無理をして、さらにしんどくなってしまう人がいるだろう。

「うつ」を正しく把握できない、周りであり、本人であり、その誤った認識が双方をしんどくさせている。

周りの正しい認識があれば、本人も「うつ」である自分とゆっくり向き合えるし、「うつ」と付き合いながらも仕事を続けていくことが出来る。
しかし、成果主義であり、深刻な不況の現在の社会では、ゆっくり立ち止まることを許してもらえない。
結局、無理に無理を重ねて「休職」を選ばざるを得なくなる。
それならばまだましで、「退職」を迫られる場合もある。

京都市がおこなった「ニート対策」の講習を受けたときに、若い時期にそういう「仕打ち」をうけた人たちの状況を聞いた。
とても大きな「心の傷」を負い、壁を作って閉じこもってしまう。
自分で自分が許せず、向き合うことを放棄して、無気力になってしまう。
周りはそれに困惑し、責める。

「うつ」でもいいんだよ、それが今のあなたの等身大の姿だから

と「今・ここ・わたし」を周りも自分も認めることが出来れば、そこから何かが始まるはずなのに。

「うつ病が快復しやすい職場像」としては、「快復したら復帰できると思える職場」「(過保護と思われるほど)周囲が“優しい”」といった意見が出た。

という話も出ているが、ここも少し間違った考え方がある気がする。
「周囲が“優しい”」ことが良いと思われているかもしれないが、ここに「腫れ物に触る」ような感じがあるのじゃないだろうか。
「触れないようにする」「理解に勤める」というのは、「『うつ』は駄目なこと」という考え方からスタートしているのじゃないだろうか。
きっと、「自分は『うつ』にならない」「『うつ』になると困る」という怖れの気持ちがあるんだろう。

「うつ」であるあなた(わたし)であっても、それが今の姿

と受け入れることと、それが駄目なことじゃないと言う認識。
それが偏見から抜け出すことじゃないだろうか。

じつは、程度の差があるだけで、みんな「うつ」の傾向はある。
周りと比べる「わたし」ではなく、いまのありのままの「わたし」をまず見つめてみて、その「わたし」を認めてあげてもいいんじゃないだろうか。
そうすれば、他の「わたし」も受け入れてあげられるはず。

そういう職場作りには、些細なことでも「聞いてくれる」「言っても良い」関係が大事なんだろうなと思う。

残念ながら、企業が求めるカウンセリングは職場復帰や現状回復を求めるカウンセリングで、短期間で結果が求められるもののようだ。
本当に、「そこに居る人」を大事に尊重するカウンセリングが必要だと思うのだけど。

少なくとも、真宗カウンセリングをともに研鑽している仲間からはそういう意識を教えてもらえる。(現実の難しさも教えてもらえるけど)

8月には北陸でワークショップがある。
第5回真宗カウンセリングワークショップ
いろんな方と、身を持ってそういう空間を味わってみたい。

最初は単独の話題として考え始めたけど、結局「尊重」のことが私の底辺にあるんだなと思い、このシリーズに組み入れることにした。

注)「うつ」と一口に言っても、精神状態の変化の一部の場合もあれば、身体的な問題の場合もありますので、ちゃんとした診断・治療は必要だと考えています。

 

「尊重」をめぐる話 -1
「尊重」をめぐる話 -2
「尊重」をめぐる話 -3 (法座編)
「尊重」をめぐる話 -4  「死別体験者への言葉かけ」を通じて

「職場とうつ」に関係する話題は、こちらでも書いています。
親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 42


伝わるもの と 伝わり方

2009-07-24 00:08:28 | 真宗
ある人が、仏法に触れての心境を話していた。
「仏法はとても厳しいものだ」と。
しかし、話をする表情は、とても穏やかで、笑顔さえあふれている。
いつしか、その厳しさと共に味わえる「うれしさ」を表現される。
その方の内面からあふれてくる感情の言葉は、その方の「今」をありありと現しているが、厳しさや嬉しさの元になるものを話しようとしても、上手く言葉にならないようだ。
話を聞いていた方が、その複雑な感じをたずねて行かれるが、上手く伝わらない。

別の方が、その様子を自分に引き込んで、自分なりの言葉で話をされる。
仏法の中の、お慈悲の部分や、無常・罪悪を見つめることを、上手に伝えられる。
先ほどたずねた方が「よくわかります」と返事される。

どちらが良い悪いではなく、横にいた私にはとても面白い感じを味わっていた。
ついつい、その感じを言葉にして出していた。
「今の感情」を話してもらうのは、そこにいる「人」がすごく伝わってくる。
「おいわれ」を話してもらうのは、そこにある「法」がすごく伝わってくる。

「人」が伝わってくると、「どうしてこの人はこんなに喜んでいるのだろう」という興味につながって、ここにいる「人」を通じて、自分を問題にしていくことが出来る。
でも、「人」への興味が先行すると、その「人」を動かす「何か」は「何か」のままで、伝わりきらない。

「法」が伝わってくると、「わかる」という部分では大きくうなずけてくる。しかし、その語り手の居場所しだいで、「頭の理解・心の理解・身体を超えたところに響くもの」と違いが出てくる。
いや、本当は語り手しだいではなく、聞き手の問題でもあるのだが。

「感情」を伝えるのに、その元にある「法」が言葉に出来れば…
「おいわれ」を伝えるのに、それを受けている自分の姿が表現できれば…


これはなにも、この場面だけでなく、多くの法座でも見られること。
ほとけさまに出会えて「うれしい」「ありがたい」ばかり連発されても、何を喜んでいるのか伝わってこない。
頭で理解した理屈ばかり話されても、経典を声にしているだけで、そこに人が存在しない。
下手すれば、そういう「ありがたい気持ち」が信心だと、そこで仕上がった気になってしまう。
理解していることが「信心」だと、さらに知識に磨きをかけてしまう。
どちらも、本人たちは「自分は間違いない」と思ってしまっている。

心境の変化や、新たな気付きがあったならば、そこからが大事なご聴聞。
なぜそういう心境にさせてもらったかの根拠が、「六字のおいわれ」として聞かされてくる。
なぜ理解できたかの根拠が「六字のおいわれ」として聞かされてくる。

聖教量・現量・比量の、どれひとつ欠けても、独りよがりの「よろこび」に終始してしまう。
だからこそ、聴聞にゴールは無い。
「機」の深信と「法」の深信、どちらがかけても、また偏っていても駄目。


最初に話したお二人は、ここもしっかり押さえて居られ、熱心に聴聞されている。
カウンセリングも同時に学ばれているから、これから自己の気付きをますます言語化していったり、自己の心境を丁寧に誤魔化すことなく表明していってくれるだろう。

お二人の話を聞いておられた方が、今までと違った形で「仏法」に一歩踏み出してくださるご縁にもなった。

私自身、機に依っていたり、法に依っていたり、その座や顔ぶれによって上手く伝えられないことがある。
でも、周りにいる方が、その足りないところを補ってくれるという、安心できる場がある。
真宗カウンセリング、華光の法座…
違うものではなく、私のなかに双方が染み込んでいるから、いかようにも動けるという確信がある。
(驕ることだけは気をつけなければならないが…)
いや、双方に関わらせてもらえるからこそ、ますます動いていきたい。



春期研修会 番外編

2009-07-23 00:12:37 | ミニカウンセリング
ミニカンの打ち上げがありました。

10週間、時間を共有して学びあった仲間との食事会、飲み会。
素敵な時間でした。

1対1で深く話を聞きあう仲でも、ふわっと世間話やいろいろの話をすると、今まで知らなかった一面が見えてきたりもします。
お互いが「尊重する」ということを経験してきたもの同士ですから、ただの飲み会とは違う空気がありますね。

私自身は、向き合って話をしているからにはできるだけ「聞かせてもらう」方を重視していこうと努めます。
それは別に、「カウンセラーでいよう」ということではないのですが、「大事に聞かせてもらう」ことを平時でも意識しておけるようにという部分があります。
ミニカンの場で「場面設定」すればしっかり聞くことを意識できるのですから、普段でも意識できることが出来れば…
まぁ、いつでもどこでもとは行きませんが、共に学んできた間柄だと入りやすいですね。

相手の方が「あ、なんかクライエントみたいに話してる」って感じてくださったなら、多少なりとは私の聞き方が「沿えている」のかな、と嬉しくなります。
決して押し付けじゃなく、自然に…が課題ですね。

話の中身も、映画の話題や法座の話題など、いろいろ流れていくのですが、お酒がすすむと結構それぞれのカウンセリング観が顔を出してきます。
それは決して争うようなものではなく、気付きのクロストークですね。
そこから「飲み会とエンカウンターグループの違い」だとか、「今だからこそ、お寺でカウンセリングマインドが必要だ」など、カウンセリングを味わったもの同士が、それぞれの「今の興味」を話題にします。
それらが、ミニカンを通じて味わってきたそれぞれの「尊重」の元で話されますから素敵です。


また、その中で感じたことをブログの話題にするかもしれません。
いや、したいことがいっぱいあるんですけどね。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 42

2009-07-17 00:12:09 | 親子コミュニケーション

先日、お友達家族と食事に行ったとき、お母さん同士がゆっくり話している間に、子どもらを連れて本屋で時間をつぶしていました。
何気なくぶらぶらするとき、何千何万とある書籍の中にフッと目に留まるものがあったりします。
もうこれは偶然の出会いで、その時その場所でないと出会えなかったりするのですが。
といっても、買うほどでもなくパラパラと立ち読みをするだけです。
なので、内容はかなり私の脳内で脚色されているかもしれません。

その本はすでにタイトルも忘れていますが、「職場でのうつ」に対する本。
タイトルを思い出そうと、検索してみたら、あまりにもこのキーワードの本が多すぎて結局見つかりません。
それだけ大きな問題だったりするのでしょう。

で、立ち読み程度なんですが、そこに書かれていることは「あたりまえ」に思えることばかり。
しかし、その「あたりまえ」なことを、「気をつけてください」と大きく取り上げられていたりします。
と、振り返ってみると、私も最初から知っていたのではなく、多くのお育てにより気付かせてもらったものなんですが。

最初のほうに何気ない職場での会話が上げてあります。
そこに、部下を「うつ」に追いやる言葉が隠れているということです。

「この資料を明日までにまとめてください。締切をしっかり守るように」
「君なら出来る、君だから頼めるんだよ」
「無理なことは無い」
「頑張ってくれ」
「どうして判ってくれないんだ」
「君はやらなければならない」

記憶にのこっているところで、こんな感じだったでしょうか。
それぞれに部下の方の受け答えがあるんですが、自信なさげな言葉に対して上司が叱咤激励します。

ここには、自分で判断することを受け入れてもらえない姿があります。

今の自分の能力以上に持ち上げられる。
自分の判断が間違いだとされる。
頑張らなければならないように追い込まれる。
批判される。
強制される。

こういうことが続くと、「疲れた」とか「しんどい」とかいう自己の内部からのメッセージをそのまま受け取ることをさせてもらえなくなります。
仕事・社会というのは、確かにそういう弱音を隠して”頑張る”ことを求められ、それに応えられることが美徳とされてきました。
でも、今の本当の自分の姿からかけ離れればかけ離れるほど、心は病んでいきます。
病んでいるということを自覚できれば良いのですが、それを認めるのが辛いので、そんな自分に蓋をして、情報(身体からのメッセージ)をゆがめて、大丈夫な自分を作り出し、それが正しい自分だと錯覚させてしまう…
私という存在の中に、二つの”私”が存在するのですから、良い訳がありません。


この会話部分を読んでいたときに、親子の会話でもこのパターンはよくあるなと感じます。
「あなたは出来る子だから」
なんていうのも、一見「認めてあげている」という感じがありますが、それはこちら側が上から認めているだけであって、その子の気持ちは置き去りです。
「頑張って」に関しては何度かこのブログでも話題にしていますし、「~しなければならない」という決め付けも苦痛になりますね。
もし、こちらの思いを伝えたいのなら、せめて「私メッセージ」で渡して、その上で「あなたはどうしたい」と、相手に気持ちを大事にしてあげる。

最近、いろんなご縁で感じていることと、見事にリンクしてきますね。

 

  41-会話と言語発達
  40-31~39のまとめ
  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ


真カ研 月例会 7月

2009-07-16 00:01:20 | 真宗カウンセリング
真カ研の月例会でした。

ロジャース氏の論文「十分に機能している人間」から「セラピィ後に見られる人間の三つの特徴」の項です。
今回は私がレジュメ担当…なんとか無事終わりました。

「最善のセラピィを受けるとどのようなところに到達するか」というテーマを元に、三つの特徴のうちの第1番目が担当部分。
その特徴とは「自分の経験に開かれている」ということですが、これだとわかりづらい。
そこでその対極にある「防衛している(閉じている)」というのはどういうことか、というところから論じられていきます。

で、結局、自分の身体的感覚や感情が知覚されるときに、それを「ありのまま」受け止めることが出来ているのが開かれた状態。
その感覚が「疲れている」とか「怖い」だとか、ネガティブなものであってら、それを「疲れてるなんていえないから頑張ろう」とか、「怖がらずにいよう」というふうに、その感覚を捻じ曲げて虚勢を張っている状態は、事実を歪曲して防衛している姿=開かれていないってこと。

私自身、コミュニケーションの話題のときに、「出来ないことがあっても責めずに、出来ていないってことを受け止めてあげてください」と言っていることがこのことになると思う。
「出来ていない」という感情が出てきたときに、「それじゃ駄目」とかいう風に責めたり、「出来なくても仕方ない」と慰めたりするのじゃなく、まず「出来ていない私なんだ」とそのまま受け止める。
そういうふうに受け止めても良いんだっていう、「自由に生きる」状態にさせてもらえるのが、最善のセラピィを受けたときに現れるクライエントの特徴だということ。


これはまさに、「いま・ここ・わたし」でいられる状態だと思うし、それを許されるセラピィって仏様の願いそのままだなぁと。
まぁ、仏法の場合は、いくら自分で閉じたつもりでも「見透かされている」という面もありますが。


今回、レジュメ担当したことで、いつも以上に内容をじっくり味わえた感じがありますね。
(逆に、普段は事前学習もなしに、その場の場の流れに任せているってことですが)

良い時間を過ごさせていただけました。

春期研修会 10回目

2009-07-15 11:26:05 | ミニカウンセリング


あっという間の10週間でした。
家族の協力(子どもたちよ、留守番ありがとう)もあり、世話役として遅刻欠席なしで参加できました。
そういう役割がないと、気を抜いて、遅れても良いやとか、気分的に休もうかなんて、自分をゆるくしてしまうのが私の根性ですから。
といっても、世話役だから「絶対に行かなければ」という強迫観念があったわけではなく、参加の糧として押さえさせてもらって、そこから発生する意欲に任せて動いてた…うーん、言葉にすると硬いですが、結局「楽しんで参加してた」ってことです。

今回は逐語録検討は無く、前半は実践、後半は分かち合いと感想文作成でした。
全員参加だったので、あまることなくペアが組め、私はご指名も受けてAさんと。
今回初めて参加された方ですが、この10週の間に、ミニカンだけでなく月例会や法座でもごいっしょしてます。

経験を積むっていうのはすごいことだな、と、Aさんを通じて感じます。
最初から上手に聞く方だと思ってましたが、今回組んでみてすごく自然な姿を感じたし、話しながら自分で気付いていく様も感じましたね。
話をするときに、しっかりとこちらの目を見て話する方です。
そういう時のエネルギッシュな感じは、時には聞き手として圧倒されて”びびる”こともあるのですが、真剣さは伝わるものの威圧感はなく、聞いていて心地よいものがあります。
話題も深いテーマで、私自身の興味にシンクロするところでしたが、クラエントさんの「話したいように話してもらう、気付きに任せる」という感じが、私の中に自然に生まれて、楽~に聞いていました。
この10週間の間に重ねられてできた「関係」があるからだと思いますね。

一元の関係として、「どんな相手だろうと同じように聞く」ということを意識する研修も意味がありますが、こうして出来上がっている関係の上で「今・ここ」のところで自然に、二人の距離感に任せて聞くことも大事な研修なのかな、と。

そう考えると、今回の10週間は自然に聞いていた気がします。
以前は「カウンセラーの聞き方は」ということを意識して研修に参加していた気がしますが、2年ほどのブランクを経て、またその間にもいろんな関わりの中で”実践”を積んできた上で、今回は「余計な意識」なしに関われていたと。
「こうあるほうがいいのかな」という風に研鑽していくのもいいんですが、そういう時はいろいろ意識して聞くことに集中してないですもんね。

「聞く」態度や型を学んできた上で、それを意識じゃなく体感で消化しておければ、自然と振舞える…。
もちろん、まだまだ達観したり完成されたものではないと思いますが、「カウンセリング観」の部分を深めていければ、型は勝手についてくる…そんな感じです。

もちろん、ロジャースさんや西光師の言葉に何度触れても、その到達されたものに沿えていない自分を感じます。
まだまだ、学ぶべきところも、経験しなければいけないところも。
まぁ、到達できると思っている時点で間違ってますがね。

ちょうど、今日実践させていただいた話題を通じて、Aさんが課題にされていることを私も通ってきたことを味わっていました。
その課題は、まだ結論が出てはいないのですが、経験を重ねる中で少しずつ気付いてきていることがあります。
おそらく、知識的に「こう対応すべし」というものでは軽くなってしまうでしょうね。
こればかりは一足飛びに行かない。
むしろ、いろんな課題にぶち当たるたびに、葛藤を抱えながら学ばせてもらえんるんだろうなと。

経験で味わえることがあればあるなりに、未熟で足りないところがあれば足りないなりに…
それが「いま・ここ・わたし」であり、相手との「いま・ここ」の関係であるしかない。
理想は理想として持ちながら、「いま・ここ」をしっかりと踏みしめていることから始まるのかな。

良い時間を過ごさせてもらいました。

日曜礼拝 7月

2009-07-14 10:06:43 | 真宗
日曜日は日曜礼拝でした。
月例なんですが、今月は会場が他の行事の都合で上手く日程が取れなかったようで、午前中だけ。

ご法話テーマは「ほとけさま」かな?
おみくじを題材に、神様と仏様の違いを楽しく話してくださいました。

おみくじの内容に一喜一憂したり、神社で願をかけたり…普通(なにをして普通と言うかはよく判りませんが)の家に生まれ育った私には、ずっと「ごくあたりまえ」のことでしたね。
ひとつの欲の心が満たされたら、さらに「より良く」という欲を追いかけていきます。
もし1000円手に入れて「満足」と思っていても、隣の人が2000円手に入れていたら自分の満足は消えて、ねたみの心になっちゃいますしね。
じゃあ、1億円手にしたら満足かって言うと、そりゃあ1000円との比較でなら大きな「満足感」でしょうが、となりが「1億1円」だったりすると「負けた」って気になっちゃうもんです。
もう満足の境目が無い。

しかも、神様へのお願い事ってのは「家内安全」だとか「縁談成就」だとか「学校合格」だとか。
自分のほうで何もせずに「神頼み」ってのは、因果の道理に反しますね。
上手くいかなかったときの責任を他に押し付けてしまう…
上手くいったら「神様のおかげです」って満足するかというと、一応お礼参りはしても次の願い事をしてしまう。
下手すれば、「願えばかなう」と自分で何かすることを放棄してしまったりね。
そのくせ「欲」だけは放棄しない。

こういう「欲」がかなうと「しあわせ」と感じるのかもしれないけれど、それは一時の「しあわせ」で、仏さまの願われている「しあわせ」はそういう一過性のものじゃない。
いや、そんな「しあわせ」にひたって喜んでいることを、むしろ戒められている。
根本の「欲の心」はおさまってませんよ、苦しみから逃れられてませんよと。

仏様が私に功徳してくださるのは、三世を貫き、この”迷い”の連鎖から離れる道。

本来はその悟り(迷いから離れる)を自分の「因」で起こさなければならないのを、ただ阿弥陀仏は、その自身の願と行によって、他力でお救い下さる。

うーん、一見すると「神頼み」が「仏頼み」になっただけじゃないかと…
いやいや、ここには大きな違いがあるのですが。

自分で出来ることを、代わりに「お願いします」、あるいは「ちょっと手助け願います」というものじゃなく、とことん「悟りの種がかけらも無い」私であると徹底的に突きつけられた上での「だからこそ願を立てた」という…。
ここが、ただ「お願いします」という「法」に頼むだけじゃない、「二種深信」がある。


と、子ども向けのお話では当然ここまではお話されていませんが、ご法話を通じて深めさせてもらいました。

あと、仏教に見る「神の国」「天国」の位置づけのお話も大事な部分ですが、今回はパス。
神を否定したり、仏と対立した位置に置こうというのじゃなく、また「神頼み」している人を下に見るのでもなく、「私にとっての”ほんとうのしあわせ”」を深く教えてもらったら、誰の話を聴くのかがハッキリしてきた…というところで。

ご法話の後、短い時間ながら座談会。
初めておいでくださった方も居られ、時間が短いのがもったいなかったけど…

土曜の法座と合わせて、濃い週末を過ごさせていただきました。

京都支部法座 7月

2009-07-12 00:04:34 | コミュニケーションワーク


今月は私が担当させていただきました。
数年にわたって「聞くという事」をテーマに年一回、時間をいただいておりました。
今年は、私のほうにいろいろ思いがあり、違った形に。

まずは、「聞く」を体験してもらおうと、2分間目をつぶってもらい、最初は外から聞こえる音を、後半は自分の身体を意識してもらいました。
どちらか片方だけでも大事なワークなんですが、ちょっと欲張って。
その感想を元に、自己紹介をしていただきます。

と、こういう風に流れを記録として残すのも良いのですが、それよりも私の感じたことや思いを書くほうがいいかなって気がしてきました。

この後は「ミニカウンセリング」の実践を皆さんに体験していただきました。
実は、法座でよくごいっしょさせていただく方には「カウンセリング」というと批判的になってしまったり、構えてしまったりする人が少なからず居られます。
なので、出来るだけこの言葉を使わないように…っていうのがずっとあったんですが、そういう「受け入れがたい何かしらの気持ち」を持った人にも「まずは体感してほしい」という気持ちがあったんです。

最初に少し「決め事」を話したのですが、調子に乗って少し先出ししすぎてしまいました。
「体感」してもらって、出てきた「?」を聞いてもらおうと思っていたのですが、戸惑ってる方に少しでも楽になってもらおうという…
まぁ、これは良い面も悪い面もあったので、今後の課題にしましょう。

最初に手本として二人に実践したもらった後、3人ずつ6組に分かれて実践です。
すでに経験があり、上手にされる方
どうしていいかわからずに、決め事から逸脱する方
力の入ってる方
いろんな方が居られて当然です。

その中で気付いて欲しいことがあります。
表の型としては、「相手の方を尊重する」ということなのですが、同時に「尊重されたらうれしくありませんか?」ってこと。
自分が嬉しければ、そのことを相手の方に返していく…
型でなく、心の部分で「しっかり聞いてもらうって嬉しい」を実感してもらいたい。
まぁ、これは私の欲なんで、簡単にことが運ぶとは思ってません。
でも、やってみなければ、誰にも伝えられない。
いくら講義で「こうやって尊重します」といっても、型を真似ることしかできません。
そう、頭で理解するのじゃなく、気付き・体感。
これがテーマです。

なので、できるだけ皆さんが感じたことを聞かせてもらうことに時間が裂きたかった。

ここでもうひとつのテーマ
「何を言っても大丈夫な関係」
これは、ミニカンの時の場面設定として「型」から入り、それが全体で作り上げられたらいいなという私の欲です。
もしかしたら、そういう「型」をしつこく言い過ぎたんで、自然に出来上がった関係じゃなかったかもしれませんが、(私のやり方に対する)少し否定的な言葉も出してもらえたと言うことは、「言っても大丈夫」という場に出来ていたのかなと思っています。

本当は、あとからの解説や補足もなしで、今後「体験していく中で自分で気付いていく」ことに任せておきたかったんですが、ちょっと否定的な感じを受けた方にもお土産を持って帰ってもらいたいという、これまた私の欲で、少し話させていただきました。
「人の話を聞くことを大切に出来ずに、阿弥陀様の話を聞けていると思いますか?」
うーん、今さらながら、姑息な言葉ですね。
ちょっと反省です。
これこそ、人に言われて理解するものじゃなく、自らの気付きによって腹底で受け止めるべきことです。

まぁでも、言葉としてお土産にしていただいて、いつか腹底に響くお手伝いになっていれば…。

何人かの方は、それぞれの方の受け止め方でこのあたりを感じてくださっていました。
嬉しいことです。

今日のご縁で、レジュメでは考えていなかったのに、気がつけば話していたことがあります。
「相手の成長を信じる」ということ。
こちらから操作的に関わって、教えたり理解させたりするのじゃなく、「聞く」に徹することで、話し手が自ら気付いていく…そんな成長が必ずあると。
もっとここに徹底できる私であったなら…まだまだ「伝えよう」というスケベ心が強いですね。

今後、ゆっくりと時間をもらえれば、ゆっくり繰り返すことでそこを実現していきたいなと。

すでに、次の動きがあったりもしますので、こんな私でもお付き合いくださるなら、出来ることから。
出来れば、よりよい結果につながればそれに越したことは無いので、私のほうは私のほうで、成長しておきたいなと。

うん、結局は皆さんのご縁で私が育てていただいてますね。

春期研修会 9回目

2009-07-09 03:59:09 | ミニカウンセリング

いよいよあと2回、早いもんです。

逐語録は今回がラスト、私がクライエントとして聞いていただいたものです。
カウンセラー役の方は、今期が初参加。
逐語を起こしながら、”型”の難しさを感じておられました。
しかし、かなりアクティブにレスをされています。
そうやって動いてみるからこそ判る難しさもありますから、いい研修になったんじゃないでしょうか。
私の場合は、うまく言葉にできずに「ぜんぜんレスできなかった」と言うところから難しさを感じましたが、「自分なりにレスしてみたが、型から外れた」というところから「型も大事」ということに気付けますから。

逆にクライエントとしての私の動きを、逐語録を通じて感じていたのですが、結構面白い動きをしていることがわかります。
カウンセラーさんのレスが、先走った言葉で返される(クライエントが使っていない言葉・内容から想像する言葉)場合、私の言いたいことに沿っていれば私も同じ言葉を繰り返し、沿っていなければスルーして自分の言いたいことを続ける…ということがはっきりと現れていました。
また、想定外の言葉が出てきたときに、その言葉を受けて(まったく違う話題ではないものの)流れとは違う話の説明に移っているという。
その後で、本来の話題に戻していますが、ひとつ間違うとクライエントの言いたいことが流されてしまう危険はあるでしょうね。

やはり、オウム返しは大事だと思います。
最初は言葉のオウム返しからだとは思いますが、その”型”がすすめば、表に現れる言葉をクライエントが自分で受け止めなおしながら、より表現したいことに収束して行きます。
カウンセラーが引っ張り出すのではなく、クライエントの中から湧き出る言葉で自ら気付いていく。
これこそが来談者中心の成長ですよね。

一方では「私はあなたの話を理解してますよ」という意味もあるでしょうし、そうすることでクライエントがよりカウンセラーに開いていけることもあると思います。
もう一方では、カウンセラーのレスを鏡にして、自分から発した言葉を自分の耳で聞きなおし、より深く自分の中に流れている「伝えたいこと」がはっきりしてくるという大事な作業ですね。

援助ということを、カウンセラーが指示的に促すことと、非指示的に受け止めること…表面のところではわずかな違いが、関係の中では大きな違いになってきますね。

まぁ、これこそ言葉で聞いても判らない部分で、体験を通じて実感していくしかないところだと思います。


ちょうど、この録音時に話した話題が、今週末に行う講習のテーマでした。
今は今での思いのところで準備してますが、このタイミングで数週間前の思いを振り返れたことで、また少し”厚み”が増してきた気がします。
土曜日は京都で「聞き方・伝え方」をできるだけ実践的に、参加者に体験してもらう集いにしたいと思っています。

どなたでもご参加いただけますので、よろしければおいでください。
「華光会 京都支部法座」