今回の研修会でいろいろ思うところがあったが、その後そのことに関しての気持ちの動きがさらに色々思わせることになったので、なかなか書けませんでしたが、もう3回目になっちゃうので研修会のところだけ切り離して書いておこうと思います。
今回は初めてお会いする人が1名、前回休んだ知人が2名参加してフルメンバーがそろった。あらためて顔ぶれをみるといろんな人がいて面白い。
最初に今の気持ちを順番に述べるのだが、M君の発言に刺激を受ける。
自分の気持ちに問いかけてみて「悲しい?」「いや悲しいというのとはちょっと違う」「じゃあ、辛い?」とう風に、もう一人の自分で問いかけけていく。そのことによって自分の感情を聞いてあげ、結果としてはっきりとしてくる。
この手法は、私も別の集いで聞いているのだが忘れていた。なんとなくモヤっとしたものがあった私は、ぜひやってみようと思うのだった。
私の番では、今書いた「いいこと聞いたって気持ち」の表明から始まり、その前の週末にあった法座からその後の反響を通じて、「相手に対して思っていること、表明して帰ってくる予想以外の反応、またそれを受けている自分」というところでその時に感じていたことを話させていただいた。
面白いのは、後のエンカウンターグループでそのことに対して反応や問いかけをもらった時に、そこに応えようとしていく作業で「自分に向き合い」「言葉に出し」「返ってくる反応にさらに応え」ていく。その時、以前の自分だと大まかなところで通じていれば「そういう感じです」とまとめていくのだが、もう一度「こういう言い方のほうが伝わるかな」ともう一度自分と向き合いなおして言葉を捜している。
ある人が「正直に言葉にするのが難しい」といえば、別の人が「正直だけでないほうがいい場合もある」というふうに、ひとつの言葉を契機に面となって広がっていくのを感じる。
そういうことを通じて、私自身、新たな気づきに出会い、またそれを言葉にしていく。
この場が安心・信頼できるから、どういう反応があるか”びびらず”に言葉にしている自分がいるし、思わぬ反応があってもそれを受けられる自分がいる。
その体験を通じて、大元の「週末の法座以降の動き」にたいする自分の気持ちというのが、あるグループに対して「そこの人たちを信頼できている自分があるから、今までなら言わなかっただろうことが言えるようになった」ことと「私がおせっかいしなくても、十分動いていくことが信頼できるから、私もおせっかいから卒業かな(おせっかい”すべき”からの開放)」ということへの気づきへと収束していくのを感じた。
素直に話すのは難しいことだけど、話す(放す)ことで、その場の流れに任せて、そこから生まれるものを受けていくことは楽しい。
なんか、いっぱい関わりがあったけど(というか、あらゆる話に食いついていく私がいた)私の中で芯になっていたのはこういう感じです。
うーん、もっと早く書き込まないと、その後の出来事に思いが分散するからまずいね。
話題は新鮮なほうがいい。
今回は初めてお会いする人が1名、前回休んだ知人が2名参加してフルメンバーがそろった。あらためて顔ぶれをみるといろんな人がいて面白い。
最初に今の気持ちを順番に述べるのだが、M君の発言に刺激を受ける。
自分の気持ちに問いかけてみて「悲しい?」「いや悲しいというのとはちょっと違う」「じゃあ、辛い?」とう風に、もう一人の自分で問いかけけていく。そのことによって自分の感情を聞いてあげ、結果としてはっきりとしてくる。
この手法は、私も別の集いで聞いているのだが忘れていた。なんとなくモヤっとしたものがあった私は、ぜひやってみようと思うのだった。
私の番では、今書いた「いいこと聞いたって気持ち」の表明から始まり、その前の週末にあった法座からその後の反響を通じて、「相手に対して思っていること、表明して帰ってくる予想以外の反応、またそれを受けている自分」というところでその時に感じていたことを話させていただいた。
面白いのは、後のエンカウンターグループでそのことに対して反応や問いかけをもらった時に、そこに応えようとしていく作業で「自分に向き合い」「言葉に出し」「返ってくる反応にさらに応え」ていく。その時、以前の自分だと大まかなところで通じていれば「そういう感じです」とまとめていくのだが、もう一度「こういう言い方のほうが伝わるかな」ともう一度自分と向き合いなおして言葉を捜している。
ある人が「正直に言葉にするのが難しい」といえば、別の人が「正直だけでないほうがいい場合もある」というふうに、ひとつの言葉を契機に面となって広がっていくのを感じる。
そういうことを通じて、私自身、新たな気づきに出会い、またそれを言葉にしていく。
この場が安心・信頼できるから、どういう反応があるか”びびらず”に言葉にしている自分がいるし、思わぬ反応があってもそれを受けられる自分がいる。
その体験を通じて、大元の「週末の法座以降の動き」にたいする自分の気持ちというのが、あるグループに対して「そこの人たちを信頼できている自分があるから、今までなら言わなかっただろうことが言えるようになった」ことと「私がおせっかいしなくても、十分動いていくことが信頼できるから、私もおせっかいから卒業かな(おせっかい”すべき”からの開放)」ということへの気づきへと収束していくのを感じた。
素直に話すのは難しいことだけど、話す(放す)ことで、その場の流れに任せて、そこから生まれるものを受けていくことは楽しい。
なんか、いっぱい関わりがあったけど(というか、あらゆる話に食いついていく私がいた)私の中で芯になっていたのはこういう感じです。
うーん、もっと早く書き込まないと、その後の出来事に思いが分散するからまずいね。
話題は新鮮なほうがいい。