コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

春期研修会 8回目

2006-06-30 20:08:57 | ミニカウンセリング
残すところあと3回…早いですね。

今回の研修会なんですが、前日から気持ちを重くするやり取りがあり、それを引きずっての参加でした。ミニカンにでることで、楽になるのかあるいはかえってしんどくなるのか、ちょっと微妙な感じでチェックインしました。

逐語録はIさんとIさん。今回イニシャルがIさんが3人居られましたね。お一人はエンカウンターから引き続きの参加ですが、今回担当されたのはどちらも初参加のお二人。
初参加ながら、これまでの実践や他の方の逐語検討をされているので、うなづきやレスを丁寧にされています。また、自分で逐語を起こしながら問題だと思う点も見つめておられますので、やはり経験は大事だなと思います。
クライエントさんも、その時々に起こってくる気持ちに任せて、マイペースで話されていましたから、いい空気ができていたんだと思います。今期のミニカンで私の中の一つのテーマとなっている「沈黙」ということについて感じられる逐語でした。カウンセラー・クライエントそれぞれの心の動きはあるでしょうが、表に出るところでの沈黙を大事すること、なぜ「沈黙」なのか詮索する必要は無いんだと思います。もちろん、カウンセラーとして、沈黙に対して色々な思いが動くのは当然ですが、それも無理にどうこうすることなく、そういう自分にも付き合っていけばいいんだなと。

後半のミニカン実践ですが、よりによって今回は一番組みたくなかったTさんとペアを組むことに。ミニカン後半になってくると、組んだことのない方が限られてくるので仕方有りません(笑)組みたくなかったのは、別にその方に問題があるわけじゃなく、普段からお互いを知りすぎているがゆえに、このときの「引きずってる」感じをもたらしている相手のこともすぐにわかってしまう。だから話しづらくなるだろうって感じで組みたくなかった。
そういう気持ちもあったので、話すのは先延ばしにしようと先にカウンセラー役を選択。Tさんのほうも「この話はあなたにも関わる話だけど、良いんだろうか」という言葉から始まり、やはりやり難そう。が、私はかえってその言葉で「よし、カウンセラーに徹そう」と思い、話題に出てくる私のことも第3者として聞くことにしました。しかし、聞いていると私のこともきっかけにはなりますが、中身はTさん自身のこと。無理なく聞けた感じがあります。

交代してクライエントとなったのですが、最初にTさんが「どうぞ自由にお話ください。話されなくても結構ですよ」と言ってくださりました。これがすごく私を自由にしてくれました。話さないこともOK…すごくあったかい、受け入れてもらってる言葉に思えたのです。
結局、問題の出来事の中身には触れることなく、そのことによって動いた私の気持ちのところだけ話しました。それだけですごく整理がつきましたし、前日とは違う形で動ける私になりました。

自分のことを話そうとすると、出来事を説明してより深く理解してもらおう、判ってもらおうと思ってしまいます。しかし、出来事よりも「私の気持ち」が大事なので、そこを話すだけでも自分が見えてきます。
そうですよね、聞くときも出来事よりも相手の方の気持ちが動いたところを聞くように練習してるんですから。

春期研修会 7回目

2006-06-28 00:03:38 | ミニカウンセリング
先週は月例会にも参加してそのことを先に書きましたが、研修会分のことも書きます。もうすでに今日8回目の研修会にも参加したのですが、まずは先週の分を。

逐語録はMさんの担当。今回の研修会は9名の逐語担当を9週で行うので、今回のMさんはカウンセラー役のみ。クライエント役には世話役のSさんがペアを組まれました。
Mさんは始めての逐語担当で、なかなか大変だったと思います。実際、レスは少なめでした。しかし、うなずきはしっかりされていて、中でも数回の「うーん」という唸るようなつぶやきは、言葉のレス以上に深い共感を与えるものでした。そういうつぶやきもいいなと思いました。
言葉も大事ですが、やはりカウンセラーとクライエントの間に出来上がる空気が大事なんだなと。それが伝われば、クレイエント自身が自分と向き合え、話ができるのだと思います。

後半の実践はKさんとのペア。先に私がカウンセラー役だったかな(ちょっと記憶が曖昧)Kさんの話は、その日のうれしかった出来事をさかのぼるように話されたんですが、最初話したかった夕方の話より、話し込んでいくうちに朝の嬉しい出来事がその日の気持ちの大元になっていることに気付かれていきます。カウンセラーをしながら、その動きを興味深く感じていました。また、Kさんとは仏法という部分で説明しなくても通じ合う部分があります。そのことが、話そうと思ってなかったことにまでたどり着かせることになったようです。同じことは私がクライエントになったときにも感じ、説明なしで、思いのところを確かめていける感覚が、すごく楽でした。
ただ、これは特別な状態から始まっている関係なので、一般の場で通用するものでは有りません。逆にこういう状態になれる「信頼できる場」作りができれば、カウンセラーとクライエントの関係に大きなアドバンテージが生まれるのかもしれません。

真カ研月例会 6月 その2

2006-06-24 15:27:31 | 真宗カウンセリング
前回のブログの続きです。

前回のコメントに「丸坊主」さんから「続き楽しみにしてます。」とメッセージをいただいたので、喜んで続きを書かせていただきます。(「丸坊主」さん、コメントありがとうございます)

今回のテキストは、ロジャースさんの全集から「人間関係論」を使用されています。今月は第1部-第1章 の「関係」。レジュメを担当くださったM先生のまとめがわかりやすく、それを頼りに原文に入っていける感じでした。

ロジャースさんが話を進めていく上で設定された「あるタイプの関係」について考察されているところですが
1)純粋・真実性
2)受容
3)共感的理解
の三つに関しての記述です。

この三つは、私がカウンセリングを学ぶ前から耳にしていた言葉で、私なりの理解もありました。しかし、去年からのミニカン体験を通ってきた私には、初めて出会う言葉のように実感を伴って身にしみていきました。
正確に言うと、この三つを理解したのではなく、これらができていなかった私を知ることができたのと、この三つをもって関係を作って私に接してくださったカウンセラーさんとの出会いで、私がいかに喜べたかを再確認出来た気がします。

今まで、形の所(先輩の真似)から実践しながら味わってきた「関係」ですが、今度は意味を意識しながらミニカンの実践をしていきたいなと。

あと、内容のところで「喜んで、彼に自分の感情を思うままに持たせることを意味する」ということがあるのですが、私がネットコミュニケーションを悩みながらも続けてきた中で到達した一つの心境が、「私の言いたいことを理解してもらおうとすると、どんどん説明を重ねて、それでもズレがズレを呼んでかえってしんどくなる。だから一度出したことはどう理解されようがそれは読んだ人に任せる。」というものが有ります。いつもこういう心境で居られる訳ではないのですが、この考えに達したときにかなり楽になりました。まぁこれは本当の関係とは違いますが、ロジャースさんの書かれた「受容」を実感する一つのきっかけにはなる気がします。

今後研究会が進めば、このあたりももっと深く受け止めることができると思います。

しかし、テキストが進んだのはほんのわずかですが、自由に語り合い、響きあうこの研究会、すごく楽しみです。

真カ研月例会 6月

2006-06-21 23:10:58 | 真宗カウンセリング
今日、龍谷大学深草で行われた、真宗カウンセリング研究会月例研究会に参加してきました。初参加です。

2年前に真宗カウンセリング研究会代表の松岡先生の言葉に賛同して真カ研の会員になりましたが、昨年からのミニカン・エンカウンターの研修会を経て、ここまでたどり着いたなって感じがあります。

仏法のときもそうなんですが、まず人に惹かれ、体験を経て、理論を学び始める…そういう流れがぴったり来るのかもしれません。実際、仏書にしろカウンセリングの本にしろ、以前も読むのは読んでます。しかし、こう理屈だけが浮いてる感じで私の身に根を張る感じが有りません。それが実体験を基に理論に触れると驚くようにはいってくる。目の前のテキストや、そこで交わされる会話が実感をともなって聞けるのです。

自分なりのへんなこだわりがあって、始めるのはきりのいい4月からと決めていました。しかし都合で4月5月は参加できず…でも気分的には4月から始めてるものがあるので、都合のついた今月からの参加です。
久々に龍大のキャンパスに足を踏み入れました。案内で会場は「紫英館」であることは判っていましたから、門を入ったところにある「紫英館」のインフォメーションで会場をたずねました。「そこの階段を上がって、左に行った突き当りです」と聞いたので「簡単だ」と思い階段を上がって左に曲がりました。すると様々な事務室があります。「右左を間違えたか?」と後ろを振り向きますが、会談があるのは学舎の一番端。仕方が無いので事務所の間を進んでいきます。正面の壁まで来ると横に曲がっています。ここまでに目的の部屋はありません。仕方が無いので曲がって進むと今度は、学長室、副学長室、経済学部長室などの部屋が続きます。少し不安になりました。しかし、進むしかない…道はジグザグに曲がりながら続いていきます。エレベーターホールにたどり着いて初めて目的地を示す標識を見つけました。目的地はまだまだ奥です。でも、行くべき方向が間違ってないのは安心感を与えてくれました。いろいろな会議室を越えて、「共同研究室」がありました。なんとか着き…良く見ると「共同研究室6」となっている。隣には「5」。慌てて案内を見ると「共同研究室」としか書いていない…仕方なしに一つ一つのドアに聞き耳を立てながら進んでいきます。一番奥の部屋の前まで行くと、聞きなれた声が…恐る恐るノックをしてドアを開けました。知っている顔がそこにありました。しかし、なにやら打ち合わせ中。どこでも座っていいことだけ確認して席につきます。ほとんど知っている方なのでホッとはしましたが、打ち合わせが続く中、落ち着かない感じにそわそわした気持ちがどんどん膨れてきます。

時間になり、はじめにチェックインがあり、そこで口を開いてやっと落ち着けた感じがあります。知った顔ぶれでも場所が変わるとちょっと違う雰囲気に感じますし、初めて参加するグループにはどうしても緊張してしまいます。

その後の輪読では、少しずつ口を開けるようになっていきました。以前だと思ったことがあっても、「初心の私のこと、間違ったこといったらどうしよう」「ずれたこと言って雰囲気壊したらまずい」などという動きに縛られていましたが、今の私はその辺は楽に動ける感じがします。

うーん、導入まででこんなに書いちゃいました(苦笑)ちょっと仕事もしなきゃならないんで、無理せず今日はここまでにします。
昨日のミニカン実践の事も書きたいので、続きはどちらが先になるかわかりません。

まだまだ経験を積まねば

2006-06-18 00:17:10 | ミニカウンセリング
ちょっと気になってることを書きます。

カウンセリングの研修会…ということなのですが、「カウンセリングの体験」ということと「研修」ということの関係が難しいなと思っているんです。実は私自身はその辺を気にすることなくここまで来たのですが、2回ほど「あれっ」と思うことがありました。

1回はミニカンの実践中に相手の方に質問しようとされたケース。その時のカウンセラー役の方は、より深く相手の方の話を理解するために質問したかったとおっしゃりました。先生はそのとき「それはカウンセラーの思いですね」と。実際のカウンセリングの場だと場合によっては少し質問することもあるかもしれません。最近、ネット上で知り合った方の応対も質問しながら少しずつ深いところを聞いておられました。しかし、この研修の場では「あいづち」と「レス」だけで聞いていく実践を主とされます。

もう1回は、カウンセラー役のときに、先にカウンセラー役をされた方の気持ちを質問されたケース。あとでの全体の分かち合いのときにそのことを聞いただけなので、どのような流れでどのような質問をされたのかは詳しく知ることが出来ませんでしたが、クライエントの方も少し戸惑いがあった感じはありました(二人ともこの春、初めてミニカンに参加された方です)そのことを聞いた先生は「ここは練習の場ですから決まったとおりにしてください」と応えられました。それを聞いたカウンセラー役の方は「すこしきついですね」という言葉を残されました。私は、先生の言葉がきついのではなく、自分にとってはきついと言う感じに受け取っています。

その実践の時の、その方の気持ちを大事にするなら、質問したい気持ちを尊重してあげることもあるのかもしれません。私自身、気持ちを尊重されると言うところからカウンセリングが深まっていった感じがあります。
しかし、一方で先生のおっしゃることもわかります。ここで練習しないことには、実際の場ではなかなか傾聴と言うことができませんから。

そこで、私自身がいままで体験した感じだと、カウンセラー役であろうと、クライエント役であろうと、その最中に色々な気持ちが出てきますし、ある程度その気持ちを受け止めている感じがありました。最初は表で行っている行動と、奥の気持ちのちぐはぐさに気持ち悪い感じがありましたが、いつしか「決まったとおり」で居ることに違和感が無くなり、カウンセラーなら聞くに徹することで発見できる自分があり、クライエントなら話すうちにどんどん湧き出てくる自分に気付く驚きがあります。不思議とその状態を「自由」と感じるんですね。

一方で、自分が少しでも経験した上で、初めて参加される方とペアを組むときに「少しゆっくり目に話そう」とか「できるだけわかりやすい話をしよう」という配慮をしていることがあります。これは「今ここの気持ち」と言うことになると少し余計なものが入っていますから、少し決まりから外れてしまいます。

でも、そういう配慮を感じながら話しているというのも、その時の私の気持ちだからいいのかな?そのへんが今の微妙な感じですね。
振り返ってみれば、やっぱり「形」を大事にした上でわかってくることもあるんだろうと思います。まだまだ経験を積んでいくことが私には必要ですから、まずは基本形をしっかりと。

春期研修会 6回目

2006-06-14 00:52:03 | ミニカウンセリング
気がつけば、折り返し。とても早いな。

先の週末に華光会の支部長研修会があり、いろいろ心動くことがあった後のミニカン。腹底でいろいろ動いているものが整理されるかもしれないと言う期待と共に参加しました。

逐語録は先週のペアが役割を交代して、クライエントがOさん、カウンセラーがSさん。
私としては、クライエントの心の動きがわかりやすく、問題が明確化され認識し、その問題を受け止める過程がよく分かった事例だと思った。理想の自分に対して、「こうしたい」「せねばならぬ」「するべき」と言う言葉が多用された前半から、「押し付けから離れてゆっくり考えてみたい」という一段落まで、話しながら問題に気付いていき、最後には「楽になった」とまで言えた15分間。
ただカウンセラー役も初めてだったので、レスの部分にカウンセラーが内容を整理したいと言う思いが現れ、クライエントの話に出てきていない言葉でまとめようとしているところが気になった。面白いと思ったのは、逐語録にしてこうして皆と一緒に検討することでカウンセラーもその問題に気がついており、私がチェックしていた3箇所を自ら「ここが出来てないかもしれません」と表明された。逐語録検討の効用と、Sさんの底力を感じた。

後半のミニカン実践は、初めてペアを組む初参加のIさん。最初はクライエント役で聞いてもらったのだが、今回は特に色々な思いがあふれてきて話し続けた気がする。途中、まとまりの無さにカウンセラーを気遣いたい気持ちも出てきたが、そういう気持ちが出てきたことを表明しただけで、あとはでてくる思いを整理せずにでてくるままに話し続けた。丁寧にうなづきながら聞いてもらえることが心地よかった。12分実践の後の分かち合いのときに、心配していたことが問題なく、Iさんが非常によく話を受け止めてくださっていたことが分かり、とてもうれしい気持ちになった。
交代して私がカウンセラーに。Iさん自身はこの後逐語録の録音もあるので、12分も話することがあるかどうか心配されていた。ただ、そのことも言葉にして表明してくださったので、こちらも安心してそのペースに任せることが出来た。全体を通して、問題があっても、その問題を抱えている自分でいられることを話して下さったが、あとで話の中に出てきたもう一つの流れがそのことに密接に関わっていることを分かち合いのときに聞いた。そのことがIさんという方に興味を持たせることになったが、ここは研修の場なのでそこは抑えておいた。
いずれ、そのことを聞かせてもらう機会があればうれしいと思う。

あと、前回の研修で気になる場面があった方が今回欠席されていた。明日にでもその辺の思いを書いて見たい…けど書けるかな。まぁ、あした考えてみよう。

続・今の時点の受け止め

2006-06-09 01:05:14 | 真宗カウンセリング
昨日の続きで、今日は「気付き」のことを書きます。
まず、「稜季の父ちゃん」さんが問いかけられたところの
>「気づいていなかった気持ちに気づく」は、とても素敵なことであり、
>それが「気づき」と思うのですが
とかかれてますが、私もそういう意味で書いていると思います。
じゃあ、
>次の自発的行動を促すようなねらいはあるのですか?
と言われるとちょっと私自身振り返ってみる必要がありそうです。

ミニカンを初めて最初に驚いたのが、自分では話そうと思ってなかったことが、気がついたら流れの中で話していた自分を感じたときです。これは「意識してはいたが隠していた」ものが引き出された感じです。もちろん引き出すと言っても、聞き手が質問したり指示したりして動いたのではなく、聞いてもらってるのが心地よいときに気持ちが緩んで出てきた感じでしょうか。言い換えれば、相手や場を信頼せずに守ろうとしていた気持ちが、聞いてもらってるうちに”信頼感”を得て守ろうとする気持ちがなくなっていた感じでしょうか。

次に、「自分でも気付いていなかった、奥底にある気持ち」が湧き出てくる体験をしました。先の「意識してはいたが隠していた」ものは、解決できるかどうかは別として、まだ自分で処理できるもの、気の持ちようで横において置けるものでしょうが、「奥底にある気持ち」はもうどうしようもなくて、他の気持ちに置き換えてしまって無いものとしていることが多いと思います。これを自分で受け止めるには、まず信頼はもちろんのこと、自分で発する言葉を自分で受け止めることで「問題を抱えたままの今の自分で居られる」という落ち着きと言おうか腹の据わりといおうか、そういう境地が必要だと思います。その「自分で発した言葉を自分で受け止める」援助が、聞き手の感情に対するレスでしょう。

ところが、この「気付き」はその時点では「気付ききれない」というか、一瞬のものというか、せっかくのものをそのまま話の流れで次の感情にまぎれてしまうことがあります。もちろん奥底に流れているものですから、話の内容が変わっても何らかの形で顔を出してきます。逆に、奥底のことを受け止めて欲しくても、表に出てくる感情だけレスされただけだと「言い切れない」感じが残り、違う言葉を捜して揺れていきます。実際はその部分部分を押さえてもらうだけでも「気付き」につながるのですが、話し手も混迷してその時の気持ちをポンポン出すしかないときに、その奥底に流れているものを捉えてレスしてもらうと、もう余計なものは必要なくなり、「ああ、そういうことだったんだ」と。自分の根底を大事にしてもらえた感じをもらい、自分自身もその根底を大事に受け止めることが出来る気がします。

問題の解決と言うことではないのですが、「問題を持っている自分」をハッキリさせて、それを受け止めることで、ちょっと違った問題との付き合い方が出来るきっかけになる気がします。

こんな感じで伝わりますでしょうか。

しかし、コメントで書かれていましたが、家族との関わりというのはまた独特のものがありますね。問題の当事者になることもあるので、どうしても解決を求めてしまったり、助言をしてしまったり、「話し手主体」に徹することが難しいですね。「この30分は聞き手に徹する」と切り替えて臨めば多少は聞けるかもしれませんが、普段の生活の流れで話を聞きだすときにそういう切り替えは…難しいです。私としては、もっと体験することで意識しないでも「聞き手の態度」が身につけば…と望んでいます。

今の時点の受け止め

2006-06-08 01:07:54 | 真宗カウンセリング
昨日の書き込みに対して「稜季の父ちゃん」さんからご質問をいただいたので、私自身思いを整理してみるために、コメントへのレスじゃなく、ブログの記事として書きます。
なお、これは今の時点での「私の感じ」ですので、違っているところなどは優しくご指導くださいね。

私がミニカンでのことを書き込むときに「レス」という言葉を使います。
じゃあ、「レス」とは何のことを言っているのか。

人と会話するときに、もし何も反応がなければ話し手は不安になると思います。そこでまず「あいづち」を打つ。それはただ形の相槌でもいいし、「はい」や「うん」でもいい。それだけでも「聞いてもらっている」という気持ちになれると思います。今の研修会では「逐語録」と「テープ」で行ってますので、ただ首を振るだけよりはやはり言葉で相槌を打つ方が記録にも残りますので良いでしょうね。

相槌を打ってもらって「聞いてもらってる」と思えたら次には「判ってもらえてる」という気持ちが欲しくなります。そういう相手に対して「オウム返し」という形で相手の言ったことをそのまま「返す」ということをします。カウンセリングの体験以前から、私は相手の話を記憶にとどめるために「繰り返す」ということをしてきましたが、(メモを取る感覚ですね)それは出来事を理解して話についていこうとする行為でした。それに対してミニカンでは「相手の感情」が現れたときに「うれしい」「悲しい」といった言葉をつぶやきます。私はこのことを”レス”という言葉で表現しています。

で、最初は「形を習う」感じで「あっ、感情の言葉が出てきた、それをレスしよう」という気持ちで動いていました。そして徐々に単語でなく「すごくうれしい感じがしたのですね」という風にレスするようになってきました。私がクライエントのときに上手にレスされると、「理解されている」という感じがしてより深いところから言葉があふれてきます。「形」のレスから、「理解の表明」のレスの違いを感じてきました。

逆に今までは、こういう「オウム返し」のレスではなく、相手の言葉を自分の解釈で言い換えてみたり、相手が言葉にしていないことを想像して引き出そうとしたり、そういうレスをしていて、聞き手主体の関わり方をずいぶんしてきたと思います。(今でも普段はそうですね)

聞き手が動かなくても、聞いてもらってる、判ってもらってると話し手が感じられれば、話し手のほうの「底に流れている気持ち」が徐々に言葉になって現れてくる…それを話し手自身が気付くことで、自分の受け止め方が変わってくるんじゃないかと思っています。
私は、聞いてもらうことでそういう感じに多く出会っています。

二つ目の質問に関わることも書いたかもしれませんが、その質問のことはあらためて…

春期研修会 5回目

2006-06-07 00:39:49 | ミニカウンセリング
土日に仏青の研修会があり、そこでの余韻を残しての研修会。
今回は最初に今の思いを順番話す時間がとられ、皆が一口心境を語る。
私が一番初めになったが、「余韻を楽しんでいたが、研修会直前に入った仕事のトラブルの電話に心が乱れている」ことを話す。そして「でも逐語録検討が始まれば忘れると思います」との言葉どおり、研修に入っていけば忘れていた。ある意味、その程度の問題だ。といいつつ、何かしらの重いものは身体に残っていた。

逐語録はどちらもミニカンは初参加の二人。Sさんの話をOさんがカウンセリングする。
Sさんとは先の仏青でもご一緒していたこともあり、話の内容にも興味を惹かれた。逐語録を録ったときは仏青より前だが、ここで話されていることと、仏青での関わりが私の中で繋がり
、Sさんの気持ちにひきずられていた。しかし、これはミニカンの研修でもあるので、それはそれとして逐語録の検討に心を寄せる。カウンセラーのKさんははじめてだが、いい感じのレスをされている。もともとの感性なのか、今までの研修でしっかりつぼを押さえられたのか。
Sさんも気持ちよさそうに話されている感じだ。話の転換があって面白くなりそうなところで時間が来たのが残念だが、その辺はあとのクライエントの感想で少し埋まった気がする。
実際の関わりの中でも、言いたいことを話してもらった後に、話しているときの気持ちなどを聞かせてもらうとより深く味わえることがある。

後半のミニカン実践は、世話役のSさんとペア。基本的に始めて参加された方と経験者がペアを組むのだが、5回目となるとすでに組んだ人が多くなってきて組み合わせが難しい。そこでSさんとのペアとなった。
話の内容は置いておいて、かかわりの中で新たな気付きがあった。今まで「聞いてもらっている」心地よさでどんどん話しているうちに、自分の中から湧き出てくる「気付いていなかった気持ち」に気付く場面が良くあった。今まではそういう「気付きが」どんどんでてくるだけだったが、調子がいいときほど一つ一つを大事にせずに新しい思いに心が移っていた。今回、そういう気持ちが出てきたときにそこを押さえてレスしてくださるSさんによって、その気付きがパズルをはめ込むようにピタッと我が身に固定される感じがあった。それがすごく心地いい。
感情をレスしてもらうことによって気持ちよく話が出来、奥底から湧き出てくるものをしっかりレスしてもらうことですごく大事にされている気がするのだ。

交代してカウンセラーとなったとき、できるだけしっかりしたレスをつけようとしてみた。中盤で「上手く伝えられているかな」というSさんに応えたかったが、タイミングを逸して話がすすんでいた。後半で少しまとめたレスをしてみたのだが、後の振り返りで「聞いてもらってることが確認できた」というような言葉をもらった。
そのときに「あなたの言いたいことが私に伝わったということをあなたに認めてもらう」という基本を思い出しました。
レスも形から入ってはきましたが、今日得たものを大事にしていくと、少し深いものになる気がします。

今回のカウンセリングから出会った方々にはまだこのブログのことを宣伝していなかったのですが、お一人の方がネットで検索していてここを見つけてくださったそうです。うれしいですね。

春期研修会 4回目

2006-06-02 00:24:09 | ミニカウンセリング
今回もすぐにアップしたかったけど、月末の決算書提出などがあったのでちょっとお仕事優先で遅くなりました。

先週ミニカン実践でペアを組んだIさんのことが少し気になってたので、ちょっと聞いてみようと思ったけど姿がなかった。余計に気になったけど、少し遅れて参加されたので一安心。休憩時間も、今後の逐語録の相談などで忙しそうだったので声をかけそびれちゃいました。また、このブログのことやメアド教えておきたいと思ってます。

今回の逐語録は先週の二人がペアを交代して、クライエントがKさん、カウンセラーがIさん(上のIさんとは別の方)
Iさんははじめてのミニカンなのだが、普段から仕事で人の話を聞くことはよくされているようだ。それが逆に災いして、自身が理解しようとしたり、援助しようとしたりする動きをされる。こういう関わりもあるとは思うが、この研修会で私が教えていただいていることとは違ってくる。クライエントの中から気付きが起こってくる「来談者中心」の大事さということを改めて感じた。
Iさんのすごいところは、ご自身でも違和感を感じておられ、取り組もうとされるところ。そのあたりは後半で。
一方でKさんの相談されている内容は、伝道と寺の関係の話で、私自身言わんとされることがよく分かるのだが、寺というものがわからない方にはわかりにくい話だったと思う。「越える」ということを話されたところがあるのだが、カウンセラーさんが受け取り、また確認しようとしたことと、「信心を得る」という「越える」の違いは通じていなかったようだ。このあたりはミニカンの練習ということでなく、違う形でKさんの話を聞いてみたいと思った。
実は今、そこがジレンマなところで、いろいろ関わりたい方がいるのだが、あくまで研修として押さえるのか、関わりたいという自分の気持ちを大事にしてもいいのか…とりあえず今のところは、この研修での関わりを続けていくことで、いつかじっくり話をするご縁が出来ればいいなと…。

後半のミニカン実践は、逐語録でカウンセラーをされたIさんとのペア。最初はクライエントになって話をするのだが、先の逐語録のときの反省を活かし、じっくりと口出しを控えて聞いてくださる。結構気持ちよく話させてもらった気がするし、隠れていた自分の気持ちも湧き出てきた。その上、あとの分かち合いのときにすごく肯定してもらった感じがあって、いい気持ちにさせてもらった。なんかホカホカとする感じに包まれていた。
そのまま入れ代わってカウンセラーとして話を聞かせてもらうのだが、そのホカホカをさらに増幅された感じがした。本人は「わからない」という言葉で結論されたが、私にはなにか大きなご縁に出会われ「信仰」というものに興味もたれたように感じたからだ。そう、ミニカン実践でなければ、私の思いとして「信仰」ということについていろいろ話してみたくなる。もっとも、時間もないし、押し付けることでもないから。

いやぁほんといろんな人がいて、不思議と同じ空間と時間を共有してる。そうして私に色々な刺激を与えてもらえる。一番得してるのは私だ。