コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

プチ聞法旅行

2008-05-31 01:25:47 | 真宗

今日は仕事の関係で、市内の三ヶ所に書類を届ける必要があった。
ちょっと曇り空だが、自転車(といってもママチャリ)で出かけることにした。
車だと停めるのも厄介だし、ガソリン代も高いしね。

10時ごろ南区の事務所を出発。
携帯にイヤホンをつないで、BEATLESを聞きながらのサイクリング。

まずは油小路を北に上がる。
新幹線・JRの高架をくぐると前方に大きな屋根が見えてくる。
あいにく一番大きな屋根は工事中だが、手前に興正寺、奥に西本願寺
伊藤康善師は真宗興正派の僧侶だったし、華光会館が前の建物の頃は、仏教青年会の宿泊行事などはよくこの興正寺の施設を利用させてもらったものだ。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、なんどもお参りさせてもらっている。

今日はお寺には寄らずに、手前の信号で塩小路通りを東へ。
西洞院通りを北進し、七条を超えると今度は東本願寺の塀にたどり着く。
東本願寺は真宗大谷派の本山。

そのまま壁沿いに東進し、烏丸通りを渡ってから北進。
大きな烏丸通りを避けて、くねくねと裏道を走る。
仏具屋の多いところを抜けて東洞院通りにでるとまた大きな塀。
渉成園(枳殻邸)というところで、庭が綺麗な東本願寺の飛地境内。
昔、聞法旅行で京都めぐりをしたときに拝観させてもらった。
当然、今日は前を通るだけだが、ちょうどBGMが「アクロス・ザ・ユニバース」で不思議な雰囲気を味わっていた。

そのまま東洞院通りを五条まで走ると最初の目的地で、用事を済ませる。
五条を渡ってなおも北進するが、このあたりに来ると古い町屋は少なくなり、あってもわざわざ町屋風にしたレストランだったりする。
しばらく走ると右手に大きな伽藍が見える。
それは仏光寺で、真宗仏光寺派の本山

四条を越えるとますますその傾向は強くなってくる。
六角通りまで進み、烏丸側に西進すると六角堂がある。
とりあえず素通りして、烏丸で二件目の用事を済ませてから、もどりしなに立ち寄る。
去年もここに来た。
ビルなどに囲まれたところにひっそりと佇む六角形のお堂。
まわりはずいぶん綺麗に、公園風に仕立てられているが、暗いお堂の中には荘厳さが漂う。
比叡山で修行していた親鸞聖人が、ここに通い聖徳太子の夢を見て、法然上人を訪ねるために下山を決意されたという場所。

今は天台宗の寺だし、聖徳太子も奉ってあれば、水子供養もしている。
お堂の前で真言らしきものを称えてお参りしている人もいた。
私はもちろん、遠慮せずに南無阿弥陀仏と称えさせていただく。

時々、真宗の門徒ならば真宗の寺以外をお参りするなどナンセンスなどという方が居られるが、別によその神や仏を参っているのではなく、そこにあるものに手を合わせるご縁で、本願にふれることが大事なのだ。
親鸞聖人も最初から浄土真宗を開くためにここに来られたわけでもなく、この六角堂をご縁に、聖徳太子を通じて菩薩に出会い、法然上人を訪ねられている。
私も、華光の先生方や親鸞聖人がお目当てなのでなく、それら先達を通じて弥陀の本願に出会わせてもらっている。
所属や派閥など便宜上のもので、本願の前では何の足しにも障りにもならない。
その刹那刹那に出会っている人間的なご縁を通して、立ち返らせてもらうだけだ。

そんなことを考えながら、3件目の用事のために東へ向かい、寺町御池で用事を済ませる。
ちょっとCD SHOPに立ち寄った後、鴨川の堤防に降りて南へと帰る。
「私が死んだならば、この体は鴨川に流して魚の餌にしてください」と親鸞聖人がおっしゃられた鴨川だ。

いけるところまで川沿いでと走っていたら、塩小路の橋で一端行き止まりで、橋を渡って反対側でまた川沿いに下りる。
結局その道も十条の橋を越えたところでお終い。

仕方なく十条どおりを西に向かって、事務所へもどった。
時刻は13時半。

やっぱり、京都はゆっくり走るといろんなものに出くわせて素敵だ。
もっと、そういうゆとりを持って過ごしたいものだが…

 

 


親子コミュ 番外編

2008-05-29 23:59:40 | 親子コミュニケーション

今日、二人の息子がケンカした。
ケンカ自体は珍しくないが、面白い流れになった。
親子コミュニケーションの実践を含む、具体的な実例にもなるかもしれない。

夕刻、私が台所で用事をしているよこで息子二人がDVDを見ていた。
兄の方が保育園時代に出た「音楽フェスティバル」と言うイベントのビデオだ。
仲良く見ていると思っていたら、急に兄のほうが上の階に上がっていき、弟がそれを追いかける。
しかし、少し兄の怒鳴り声のあと、弟だけ肩を落としてなきそうな顔で降りてくる。

兄(Kくん)は小学2年生、どちらかというと温厚で、少し内向的、どちらかというと”いい子”。
弟(Sくん)は保育園年長組、末っ子のせいなのか奔放でお調子者、よく兄や姉から怒られている。

まぁ、いつものように、弟が兄を怒らせたんだろうと思い、ちょうど台所仕事も一段落ついたので、降りてきた弟のそばに行き、見ていたテレビを消して話を聞く。

弟「ゴメンって言ったのに、お兄ちゃんがゆるしてくれへん」
私「謝るってことは、なんか悪いことしたんか?」
(これは詰問調なので×)
弟「でも謝ってるのに…」
私「そうか、謝ってるのにゆるしてくれはらへんにゃな」
弟「うん」
(とりあえず、主張を受け止めてあげる)

言葉にするとこれだけだが、ここまでに口ごもったり、落ちているおもちゃで遊びだしたり、そこそこの時間が経過している。
そのうちに、兄も降りてきて横で様子を見ている。

兄に向かって
私「謝りたいって言ってるで」
弟「絶対ゆるさへンって言わはった」
(弟は自分を正当化して兄を攻撃させるように仕向ける)
兄「Sくんが、嫌なこと言わはったからや」
私「うん、いまそのことを聞いてる」
弟の方に向き直って
私「Kくんがゆるさへンって言わはるようなこと言ったんか?」
弟「…」
兄「#$%&=~・・・」(泣き出したので聞き取れない、弟が言った言葉を教えようとしている)
私「いやなことを言われたんやな」
弟「でも、謝ったのに…」
嫌になってきたのか、そっぽをむき出したので、両手を握って私と向かい合わせにさせる。

私「今、もういっぺん謝ったげてみ。聞いてくれはるかもしれんで」
弟「…ごめん」
私「Kくんに向かって聞こえるように言って」
弟「…ごめんなさい」
兄「…いいよ…」
いつもならこれでお互い握手させて終わる。
そうさせようと、それぞれに手を広げて膝の上に座らせようとした。
弟の方はすぐに膝に座るが、兄はまだ泣いている。
しかも、いつもなしないような床を叩いたり机をけったりするようにかんしゃくを起こしている。

兄「#$%&=~って言わはった・・・」
どうやら、弟に言われたこととは別のことを話し出している。
私は弟を膝からおろし、とりあえず兄の肩を抱きながら聞き取ってみる。
泣きながらなのでなかなか要領がつかめないが、同じことを繰り返し訴えている。
学校で同級生から嫌なことを言われたようで、それを先生に話したが、その後でまた言われた。
「死ね」とか「お前生まれてきた意味あるんか」という言葉らしい。
別のタイミングでこのことを聞いたら、喜んで「生まれてきた意味」を話したいところだが、ここはそんな対応は間違い。

私「そうか、嫌なことを言われたんか~」
兄「嫌や~嫌や~」
私「嫌なんやな~」
もっと状況を詳しく聞くという方法もあるが、その問題を解決する(たとえば先生に事情を聞くとか、相手の名前を聞いて親に連絡するとか)方向はせず、今はこの子の気持ちを大事にしたいと思った。
抱きながら、泣きたいようにしばらく泣かせ、落ち着いた頃尋ねた。

私「で、Kくんはどうしたい?」
兄「はよ、忘れたい…」
私「そうか、忘れたいんや」
兄「うん」
そう、私に何か要求したいんじゃなく、自分で考え始めたように思った。

その様子をずっと横で聞いていた弟、時々兄と一緒に泣いていた。
時々話しに割り込んで「誰に言われたン」「なんて言われたン」と興味のあるところを質問する。
「忘れたい」という兄の言葉を大事にしたくなっていたから、再度尋ねてくる弟には頭をなでてやりながら
私「うん、今はそのことはいいわ。お兄ちゃんが心配なんやな」
気にはなってたが、兄のほうに集中していたので柔らかく停めた。

突然、弟が言った
弟「僕、嫌なこと言われたら哀しいのわかったから、もう○○(さっき兄に言った悪口)なんて言わへん。もう嫌なこと言わへん」
この兄のほうの問題にならなければ、二人で握手させる時に
「もう、人が嫌がることは言わんとこな」
と、私が教える。
しかし、今回は兄の様子を横で真剣に見ていた弟は自分でその結論を感じ、考えだした。
(かなり親バカの見方もあると思うが)

おそらく、いつものように「こうしなさい」と押し付けられたことは、いずれ忘れて同じことを繰り返すかもしれない。
しかし、自分で「こうしよう」と思ったことは、深く心に刻まれるかもしれない。

その後、家族で食事をし、テレビを見ていた。
兄のほうは
「おいしいもん食べても、テレビ見ても忘れられへん…」
と笑いながら言っていた。
嫌なことがあってもあまり表に出さない兄だが、口にしてみてちょっと問題と距離を置くことが出来たのかもしれない。

明日以降、このことがいろんな影響を起こすかもしれないが、今日はまず聞いてやるというところまで、
もし、「○○してほしい」という要求が出てきたら、そのとき初めて動いてやろうと思う。


今したいこと、できること、やること…

2008-05-28 23:51:08 | 日常雑感
なんか、いろいろ書いては消し書いては消し、なかなかブログにならない。
ちょっと、真宗・仏教の根本のところに立ち返って、それを言葉にしたいと思う気持ちがあるけど、表現が追いついてこない。

内省を通しての、阿弥陀仏とのやり取りを、外に説明しようとするのが間違いだよなぁ…

これは、ひとりで作業すると、いつしか自分の思いを阿弥陀仏の思いに摩り替えてしまう、危険な行為だ。

まぁ、こういうことを考えさせる元になってるのが、ネット上の虚構の言葉なんだから、真剣になるほうがバカらしい。
でも、そちらに気持ちが惹かれていってしまう。
そう、説得したり言い負かしたりしたい「欲の心」があるんだ。

ここは、立ち返って、自分のいただいた大元、弥陀の本願に立ち返るべきだ。
人のことはどうでもよろしい。

さて、計画は2年以上前から暖めていて、実際に作ってから1年以上ほったらかしてる「掲示板」を公開してみようか。
今この流れでこいつを立ち上げるのは、もしかしたら火中の栗を拾う行為かもしれない。

今月いっぱいは、仕事の絡みで時間を使いたいから、6月に入ったら始めるとしようか。

思えば、去年の今頃にはオープンするつもりでやってたのに、そのころは違う流れにアップアップしてて臆病になった。
(用事でメールを遡ってたら、去年のいろんな人とのやり取りメールをみつけ、つい読みふけっていた…)

ということは、ここで躊躇してたら、また違うことにあれやこれや心奪われるだろうしね。
準備万端に出来るはずがない。

さぁ、このブログをアップしたら、とりあえずは動かないと恥をかくぞ…

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 12

2008-05-27 00:22:08 | 親子コミュニケーション

前会の続きのような話です。

普段、なかなか子どもの話をゆっくり聞いてあげることが出来ないと思いますが、今までの心がけをちょっと意識できるようになると、自分の思いは置いといて聞いてあげることを体験しだすと思います。

そんなときに困ることのひとつについて話します。

なんとか、頑張って子どもの言いたいことを「言ってごらん」「聞かせて」とチャンスをあげることにします。
ここぞとばかりに話してくれるか…というと、今まで話しようとして逆に起こられてしまう「辛い経験」をしたこの多くは、すぐに話すことをためらうかもしれません。

いわゆる「沈黙」ですね。

じつは私自身、そういう時はこちらから子どもの気持ちを推し量って、
「どうしたの、こういう気持ちじゃなぁい?」
と、想像で話を進めてきました。
そうしてあげることが、誘い水となって話し出してくれると思っていたのです。
しかし、これはあくまでこちら側の「こうだろう」という想像であって、子どもの話したいことと一致していません。

ほとんど正解と言う場合もあるでしょうが、やはり子どもが自分から言いたい事を言うのとは少し違ってきます。

酷くなると、こちらの思いに「誘導」することさえあります。
「お母さんのために、いいと思ってやったの?」
一見、優しく受け止めてあげているようですが、模範解答を与えて、それに沿うか沿わないかで判断しようとしています。
せっかくこちらが与えた思い(回答)に沿わない場合は、またこちらの感情が燃え上がってしまいます。

ここはひとつ、「沈黙」も大事にしてあげてください。
ただ黙っているだけでなく、心の中ではいろいろと動きがあるはずです。
表の言葉に出ないだけで、子どもなりに何かを考えている。
できるだけ待ってあげてください。

これをじっくり待つというのは結構苦痛です。
こちらもいろいろ考えてしまいますから。
そして、その考えを表に出したい衝動に駆られてくるかもしれません。

また、大人同士なら違った展開もありますが、子どもの場合はどんどん気持ちが移り変わって言って、遊びだしたり、ふと関係ないことを口走ったりするかもしれません。
お母さんが黙っているから、もう怒られている問題は終わったのかなと。

「今日の晩御飯はなに?」
「テレビ見ていい?」
そういう時も、すぐに
「駄目!お母さんが怒ってるのに何考えてるの!」
と感情に巻き込まれてしまったら、元も子もありません。

そういうときは一度受け止めて、私メッセージで。
「そう、晩御飯はなに?って気になるんだ。でも、お母さんはもう少し今の話をしたいな」
「テレビを見たいと思ってるの。もうちょっとお話してからにしない」

どうしても、沈黙を待つのがしんどくなってくるようならば、言葉とは違うところで変化をつけることは出来ると思います。
そういうときには、ボディタッチなんかがいいでしょう。
向かい合わせならば、そっと両手を持って見つめてあげる。
両手をもたれたら、子どもも真正面に向き合うしかないですから、よそに行きかけた心を、もう一度向きなおすことが出来ます。
小さなお子さんでしたら、後ろからそっと抱きかかえて上げる、膝に乗せてあげるというのもいいですね。
ゆっくり背中をさするなんていうのも、いい感じになります。

子どもに触れていると、こちら側も少し落ち着くかもしれませんしね。

ちょっと、いろんな要素が混じってしまいましたが、まずは「沈黙」も大事にしてあげるということを、心がけてみてください。

 

親子コミュニケーション 11 「尊重してあげる」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 11

2008-05-26 09:48:27 | 親子コミュニケーション

今回は、聞き方のポイントをもうひとつ。

これは実際によくある場面ですが、子どもが触ってはいけないものを持っている…たとえば、大事にしてるガラスの置物としましょうか。

あなたはどう言うでしょうか。
「なんで、それを持ってるの、早く返しなさい」
それに対してビックリした子どもが
「だって…」と言いかけたとき
「だっても、なにも、ありません!」
「壊れるでしょ、はやく返しなさい!」
と怒りませんか。

おそらく、触ってほしくないものを触っているという行為に対して、「やめてほしい」というあなたの気持ちからでていることだと思います。

このとき、子どもがどうしてその置物を持っているか聴いてあげようという余裕は…ありませんよね。
そう普通はそうです。
でも、もしかしたら他の人(弟や妹、遊びに来ていたほかの子ども)が動かしていたのを元に戻そうと持っていたのかもしれない。
そうでなくても、子どもはそんなに大事なものだとは思っていないかもしれない。

私にとって「大事なもの」「触って欲しくないもの」ということを伝えたいあまりに、子どもの「言いたい事」を遮ってしまう。
もう、イタズラしてると決め込んでしまうんですね。

ここは、大人の私のほうが一歩譲って、「だって…」の後の言葉を聞いてあげませんか?
ほとんどは、「あぁそうなの」と好意的に受け取れない理由でしょうが、それでも一旦言葉にして「言いたい」「聞いてほしい」という気持ちを受け取ってあげることが出来れば。

ちょっとこのたとえではわかりにくいかもしれませんが、なんでもかんでも、「待って理由を聞く」ということを言いたいのではなく、「子どもが何か言いかけた時に、一旦最後まで聞いてあげる」ということが言いたいのです。

子どもの言うことなんて…と思われるかもしれませんが、こういう出来事に限らず、私達は普段、相手の言いたいことを半分も聞かずに、こちらの思惑に照らし合わせて「こうだ!」と思い込み、それに対して納得した気になったり、反論したりしてないでしょうか。

コミュニケーションでだいじなことのひとつに「尊重」という事があります。
ほんとうの「尊重」というのは難しいのですが、その入り口はこういうふうに「思い込まずに、最後まで聞いてみる」ということで、それだけで相手は「私を大事にしてくれている」と安心できるはずです。

逆の立場を考えればわかりやすいかもしれませんね。
言いたいことの途中で発言をさえぎられると、「これが言いたいのに」って気持ちが残ったままで、そのあとどれだけ理路整然と相手がはなししてきても耳には入らないんじゃないでしょうか。
ましてや、それが怒り口調であったり、感情的な物言いをされたら、誰だって耳を塞ぎたくなります。
その上で「聞いてんの!」などと言われても、聞けてないんだから黙るしかない。
こちらが黙っているのをいいことに、どんどん畳み掛けてくる。
あるいは聞けてないのに「聞いてるわ!」と逆切れして、元もとのはなしよりも相手が感情的なことを逆に責めだす…
「なんで、そこまで言われなあかんの」
負けっぱなしは嫌ですからね。
「じゃあ、私も言わせてもらいますけど…」

これは、大人同志だからまだ対等に近いところでやりあえますが、相手が子どもだとどうしても親の方が強くなります。

だから、ここはぐっと我慢して「聞いてあげる」ことを大事にしてあげてください。
そこで、聞きながら一息つく。
前に書いた「うなづき」「オウム返し」がそのときにできれば、あなたも落ち着けているでしょう。

ただ、相手は子どもですから、こちらが一生懸命聞こうと思っても、すぐに思い通りに動いてくれません。
そのあたりは、また次の機会に…。

親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」

 


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 10

2008-05-23 01:12:20 | 親子コミュニケーション

はやいもので、この「親子コミュニケーションのちょっとした心がけ」も10回目となりました。

きっちりまとめて、順番に書いていけばいいんでしょうが、それよりもブログの気軽さを利用して思いついたことから書き並べています。

そうすると、今度は「このことはもう書いた?」と…

ということで、ここで一度まとめてみますね。

今までの心がけは、大きく3つのことに分かれると思います。

一.こちらの態度
 1-同じ目線で
 2-ありがとう と言う事
 3-きれいなものを、声に出してきれいと感じる
 5-子どもを呼ぶ時、名前で呼ぶ

二.話し方・伝え方
 6-教えるなら、自分達がそのことを示してあげる
 7-「こうして欲しい」という自分からのメッセージで伝える
 8-「伝わりました」という確認が取れてはじめて「伝える」という目的が達成できる

三.聞き方
 9-「うなづき」と「オウム返し」


私自身、こうしてまとめてみてだんだん難しくなってきてると思いますね。
態度というのは外に現れるので難しいとも思いますが、やはり伝え方・聞き方というのは、中途半端に出来たり、誤魔化してしまったりできるだけに、しっかり伝える、しっかり聞くというのは難しいと思います。
伝わってると錯覚したり、聞いてると錯覚したりしてませんか?

じつは、この伝え方・聞き方というのは、こうして書いて伝えるのも難しいんです。
私自身、カウンセリングの研修会に参加するまでは出来ていると思っていたんですが、この二つのことを意識して実践することで、いかに出来ていなかったがハッキリしました。
そう、意識して実践することでわかるんですね。

まぁブログではそこまで出来ませんが、次回からもう少し伝え方・聞き方について、できるだけ言葉にしていってみたいと思います。

また、ここでもう一度念のため。
こうして心がけを書いていますが、出来ていないことを責めることではなく、まずは出来ているかどうかの確認をすること。
決して自分を責めないでください。
それから、すぐに効果があるというものでもありません。
親子っていうのは、親が「育てる」んではなくて、お互いに「育ちあう」ということです。
強制して「型にはめる」のなら簡単ですが(当然、後でひずみは出てきます)お互い育ちあうのには時間が必要です。

 

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」
親子コミュニケーション 5 「呼び方」
親子コミュニケーション 6 「見本を示す」
親子コミュニケーション 7 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 8 「伝える」
親子コミュニケーション 9 「うなづき と オウム返し」


真カ研月例会 5月

2008-05-22 00:33:42 | 真宗カウンセリング

久しぶりに…本当に久しぶりに真宗カウンセリング研究会の話題です。
時間的なことと、気分的なことでしばらくお休みしたり、出ようと思っても縁が整わなかったり…
厳密には、時間的なことでも出ようと思えば最後の30分や1時間だけでも参加出来るくらいではあったのですが、「それだけでも行こう」という気持ちを起こさせるモチベーションがなかった。
「まぁ、いいや、今回は縁がなかった」と収めてしまう私でしたね。

さて、過去はおいといて、今日の話を。

実は今日も30分遅刻。
着いた時にはもうチェック・インの最後の方でした。
で、座るなり私の自己紹介。
まずは今の気持ちのところで「ただいま」という言葉が出ました。
実はこれは以外で、実際は久しぶりなのと遅れてきたことで、すでに始まっている皆さんとは壁を感じていた。
なのに、口からはなじんでいる言葉。
なかなか興味深い動きですが、今それを追求しても仕方ない。
不思議な感じだったということだけ。

あとは、しばらく不参加だった言い訳と、体調に関する話をつらつら…
昨日、ここしばらく心配事だった胃の検査をして、いちおう「異常なし」の診断が出たもんだから、からだと気持ちの面で一段落ついたってことを。

実際、それまでは意識してなかったけど、昨日検査で、今日月例会ってのは不思議なタイミングで、これが逆だったらおそらく参加してない。
一区切りの後の一歩。
象徴的なのか、そう思うことで自分になにか踏ん切りをつけようとしているのか…(笑)

そのあと、今月から始まるテキストの担当者決めをして、早速序章に入る。

ロジャースさんの論文からだが、「関係の質」という言葉を皆でじっくり味わってみる。
ただの「関係」でなく、「関係の深さ」でもなく、「関係のよしあし」でもない。

「発達を促進するような関係をつくりあげる、カウンセラーのこのような、態度的、経験的要因とはなんだろうか?」(対人関係:ガイダンスの核心 ロジャース)
というテーマで、次回以降輪読していく。
まぁ、おなじみの「関係」に対する要素の話だが、以前の私と今の私は違うから、楽しみだ。

いろいろ話し合った中で、私の中に浮かんできた味わいがあった。

「質」という事で行けば、個人の質-パーソナリティによって関係の大枠は決まる。
しかし、その場所その時に、その二人が出会うまでの動きや雰囲気や気分によって、その二人の関係はまちまちである。
たとえば同じ「好き」という言葉を使っても、そのときの二人の関係によってはその後の反応が変わってくる。
こちらが好意的で、相手も好意的な雰囲気を醸し出していれば、その一言で親密度は増すだろうし、一方が好意的でも、相手がそれを重たく感じていれば「好き」と言われるのは困ったことに成る。
双方に好意がなければただの上っ面の言葉で、かえって関係を悪くする。

そういう関係は、偶然的に双方が良好な状態であれば「良い関係」となる。
それを、偶然ではなく、一方(カウンセラー)の態度で「良い関係」を築きだし、そのことで「発達を促進」する。
言葉として「良い関係」と使ったが、たんなる良し悪しではなく、「障りにならない関係」というほうがいいか…
たぶん、そのあたりを「関係の質」という訳語で示しているんだろう(原語でどういう単語を使ったかは知らない)

こういうことを、知識で理解していくのではなく、自分の経験してきた様々な「関係」をベースに、追体験しながら「あぁ、これがそうか」と体感していく学び。
人生経験や、ミニカウンセリングなどで身を持って学んでいることを、ロジャース氏の「言語化」されたもので確認していく作業。

しばらく忘れていたが、この作業の醍醐味を思い出した。
いろいろあるだろうが、また一歩踏み出していけそうだ。

善因善果 悪因悪果

2008-05-19 22:38:08 | 真宗

先日からいろいろとネットでさまよっていたら、因果のことについて書きたくなってきました。

いままでも、なんどか「因果」に関するお味わいを自分なりにまとめようとトライするのですが…本題に入る前に、誤解されないように防衛線を張る時点で根が尽きてしまい、未完成のままです。
以前コラムとして書き始めたもの

また、理屈先行で説明しようとすると、これまた複雑なものを漏らさず説明する必要があるので大変なことになります。
そこで、基本的なこと(といっても簡単ではありませんが)は増井師の法話が華光会HPにアップされているので、そちらをご覧ください。

で、やっと、今書きたいことに入ります。

ある方が「因果」のことを話される時に「悪因悪果」「善因善果」「自因自果」ということを中心にはなしされ、特にその中の「善因善果」を中心にすえて、「だから良い善果を得るために、喜んで善を積みなさい」という流れになるらしいんです。

確かに「善因善果」というのは間違いのないことですし、善因がなければ善果はえられないでしょう。
しかし、その善果…この場合は「お浄土へ生まれる」ことのために「善」の行いをするということが、私に出来るんでしょうかね。
ましてや、その「善行」と言われるものがお金がらみであったり、人を多く集めることであったり…
たとえば、そのお金を稼ぐために、一切の欲の心もなく、争いや妬みの心もなく過ごしていけるんでしょうかね。
そればかりか、家族から奪って(盗んで)きたり、人を騙したりなんてことまでやりかねません。
その時点でどうでしょう、少しの施しという「善」が確かにあるかもしれませんが、その裏になる「悪行三昧」を見落としていませんか?

「善が悪を駆逐する」なんて言葉もありますが、仏さまの目から見た私の行動は「善」と思えるものですら「悪」の塊であると見抜かれています。
そう、仏法においての善というのは、ただただ「他力にお任せする」という事以外ありません。
言い換えれば、阿弥陀仏のしつらえた「善因」をいただくということじゃないでしょうか。
自分で出来る「善」というのはないんですね。

もちろん、これは「仏に成る」ということを芯にすえての見方であって、世間で生きていく上での「道徳的な善」を「やめなさい」「無駄ですよ」と言っているものではありません。

自分は「善行」をしているという思いが、自分の本当の姿を見ることを誤らせ、「悪行」しか出来ない見であることを隠してしまうんです。

でも、「悪行」しかできないなんて認めるのは辛いですよね。
たとえそれが真実で、自分で違うと思おうが思うまいが変わらないものであっても、そう簡単に認めるわけにはいかないです。
そうると、もうここは「聞いて聞いて聞きぬく」しかないですね。

私からすれば、「そんな悪行しかできない、辛い悲しい存在でしかない私だからこそ、阿弥陀仏は願をたてずにおれなかった」と味あわせてもらっています。
善のひとつも積めない事を、なんら悔いることはない。
もとからお見通しだったんだと。

因果の話の肝は「悪因悪果」であり、その道理が私の行き先をはっきりさせているということ。

簡単に「善行」を積めと言って、「頑張っている気持ちにさせる」ことほど、本当の自分を見誤らせることはないですね。

歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは、自分が悪行しか出来ないことを見通した上での言葉で、決して悪人になれという事ではないですし、もちろん、善人になれということでもない。
今の自分の姿をよくよく見たうえで、それがお目当てだと。
この「悪人正機」の話だけでも、一つの話になるのでこれはあらためて。

まぁ、私の拙い話より、ぜひ増井師の法話を読んでみてください。


生老病死

2008-05-18 23:51:37 | 真宗
今日は日曜礼拝で「はなまつり」でした。
結構子どもも集まって、お祝いムードも盛り上がります。

そんななか、ご法話ではただのお祝いに収まらず、お釈迦様を通じて教えられる仏法を、子ども向けの配慮はあるとはいえしっかり聞かせていただきました。

今年は「生老病死」について。
お釈迦様の四門出遊を通じて、ただの王子から真剣に苦を見つめて仏道に歩まれるんですが、無常という事を「当たり前のように年をとって、それでもまだ先があると思っている」姿を通じて聞かせていただきました。

その後の座談会、今回はお参りも多く、時間も少なかったんですが、先にいただいたご法話を軸に話あわれましたね。

先生やお同行が、頭の理解や優等生的な受け答えで終わるのでなく、具体的な心の動きを見つめて、そこで味わっていくことの大事さを話してくださり、まだ座談経験の少ない方にもなにかが届いたんじゃないかと…

私自身、先日のブログでも書いた「剥がされていくこと」や「獲信へのこだわりが邪魔すること」を、座談の流れの中で味わいなおさせてもらいました。

もう、先の先に願われている。
四苦八苦していることもお見通しだと。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 9

2008-05-18 02:21:02 | 親子コミュニケーション

前回、伝えるという過程で
>伝えたいことを一つ話したら「ここまででどう思う?」と聞いてあげる。
ということを書きました。

この「聞いてあげる」っていうのはすごく大事なことです。
いままでいくつか心がけを書いてきましたが、どれにもつながりますし、もしかしたら一番大事なことがこの「聞いてあげる」って事かもしれません。

子どもって話したがりです。
保育園・幼稚園であったこと、公園であったこと、テレビで見たこと…
興味を持ったことを口に出したくて仕方ありません。

でも、こちらはどうか…子どもと一緒にいる時間って、仕事から帰って家事に追われている時間じゃないでしょうか。
「ごめん、忙しいから後にして」
一度くらいならやさしく返しますが、子どもがしつこく言ってくると
「うるさい、後にしなさいっていってるでしょ!」
という経験はありませんか?

こういうことが繰り返されると、いつしか子どもは
「話したらダメなんだ」
と、心を閉ざしていき、会話の少ない家庭になっていくかもしれません。

じゃあじっくり聞いてあげられるかというと、こどもの話したいことって整理されてませんし、何が言いたいのかわかりません。
大人の感覚で、理解する聞き方では難しいと思います。
そういうときのちょっとしたコツがあります。

ひとつは「うなづき」
話の区切り目に、「うん」という言葉を入れてあげることで、「聞いてもらえている」と思います。

あのな~(うん)今日な~(うん)先生がな~(うん)誉めてくれはったん(ふーん)

これだけでも違いが出てきます。
なんなら、家事をしながらでも、この「うなづき」だけならできますし、子どもにとっては話甲斐があるでしょう。

もうワンステップ進むなら、最後の出来事を受け止めてあげる。

誉めてくれはったん(ふーん、誉めてくれはったんや)

もうひとつ、気持ちを表す言葉が出てきたら、それを繰り返してあげると、すごく聞いてもらっている気持ちになります。

あのな~(うん)今日な~(うん)お絵かき頑張ったんやけどな(うん、頑張ったん)うん、そしたら先生がな~(うん)誉めてくれはってすごくうれしかった(ふーん、うれしかったんや)

このとき、同じ言葉で返してあげるのが良いです。
「うれしかった」には「うれしかった」
「かなしかった」には「かなしかった」

じつは、このことを心がけていけば、子どもにとって「聞いてもらってる」と思える効果があるだけではなく、あなた自身の「聞き方」が上手になってくるはずです。

このことは、いずれじっくり書いていこうと思いますが、まずはちょっとした心がけとして。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」
親子コミュニケーション 3 「きれい」
親子コミュニケーション 4 「しつけ 暴力 虐待」
親子コミュニケーション 5 「呼び方」
親子コミュニケーション 6 「見本を示す」
親子コミュニケーション 7 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 8 「伝える」