コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

絵から感じるもの と 会議のコミュニケーション

2009-05-31 01:13:59 | 日常雑感

今日は小学校の休日参観とPTA総会に参加してきました。
今年新入学の次男ですが、そろそろ学校に慣れてきて「落ち着かない」授業風景を心配していましたが、しっかり成立していました。(学校や学年によってはかなり大変だと聞いていますので)
3年生の長男のクラスも結構落ち着いていて、いい感じでした。

私は参観に行くとき、掲示してある絵などを見るのが好きです。
心理学を深く学んだことはないのですが、入門書やそういうテーマを扱ったコミックなどを読んで、浅い知識は持っています。

1年生は「目標」のようなことを絵日記のように書いているのですが、その絵が興味深いんです。
一人だけの姿を描いた絵や、複数の姿を書いた絵。
笑っている絵や、無表情の絵、どこか悲しそうな絵。
中心に人がいる絵や、端っこにしか人が居ない絵。
ここでは分析するつもりはありませんが、それぞれに意味があったりします。
もちろん、まだ人格が形成しきっていない子どもの絵ですから、まだ未完成のものもあるでしょう。

うちの子の絵は、3人が笑顔で手をつないでいる絵でした。
ちょっとホッとした私がいます。

3年生は靴の絵です。
写実的に描いている絵もあれば、乱暴に見える絵もあります。
私が子どもの頃は、まず下書きをして、その線からはみ出さないように苦労していました。
下書きに凝るもんですから、色付けの時間がなくなり、しかもはみ出すことを恐れるので、やたらと時間がかかるわりに仕上がりきりませんでした。
しかし、私の息子の絵は、私とは違い、むしろ下書きを超えてエネルギーがあふれています(親ばかだと思って読んでください)
もしかしたら、ただ乱暴なだけかもしれませんが、私には写実的に書くよりも、彼の靴がそこに”存在”している絵に映ります。
嬉しさあまって、嫉妬したりもします。

その後、総会に参加したのですが、じつは初めての参加だったりします。
長女の頃から考えると、11年目なのですが、今まで保育園のほうの役員をしていたこともあり、避けていた感じがあります。
それが参加する気になったのは、今年の役員さんが結構顔見知りの人が多かったこと…これが原因だと思ってました。
しかし、いざ参加してみてわかったのですが、今までは平日の夜などにされていたものを、今年の役員さんが「出来るだけ多くの方に参加して欲しい」ということで、休日参観に合わせて開催されたということなんです。
私も保育園役員の時代に、総会に参加する人が少ないことを、何とかならないかと苦労していました。
(だからお返しに参加しようと思ったのもあります)
そのほかにも、いろいろ改善・工夫されているようでした。

が、改革というのは難しいもので、「何故ここがかわったのですか?」という質問がいろいろ飛び交っていました。
おそらく、いままで頑張ってこられた方が、変わっていくことにいい感情を持たなかったことがあるのかもしれません。
というのは、私自身の経験で、自分がやってきたことが変わっていくことに寂しさを覚えることが多いから。

じっと聞いていたのですが、快く思っていない方は、現状からさかのぼって、決定方法、連絡の仕方、あげくは規約にあるかどうかとか、暗黙のルールなども問題になってきます。
対する役員さんは、委任状システムや、説明会を開いたこと(しかし参加者が少なかった)を前面に出し、「手順を踏んだ」ことを主張されます。

まるで、いままで私があちこちでやってきたことを再現されているようで、そのころは渦中にいて気づかなかった逆の立場の人の思いなんかも俯瞰して見ることが出来ましたね。

こういう会に出て思ったのですが、言いたいことを感情的に言うことで満足するのならばいざしらず、やはり相手に「受け止めて欲しい」という気持ちが強いんでしょうね。
「受け止め」抜きで、主張のぶつかり合いになると、時間ばかりかかるだけでなく、そこに別の人の主張まで混ざりだして収集がつかなくなります。
今日の会の不幸だった点は、ちゃんと議長さんがいて「ご質問などございませんか」と切り出したときには誰も動かず(もうちょっと待って欲しかった感もありますが)、議長が引っ込んだ後、役員だけが前に残った状態で質問が飛び出し、役員側もそのまま受け出したことですね。
進行者と答弁者がいっしょですから、整理する人が居らず、質問者の意図が押さえられないまま回答が始まる。
ひとつの問題が一段落しないまま、別の意見が動き出す。

これってコミュニケーションワークの大事な部分ですね。
一見自由な座談やエンカウンターが成り立つのは、司会者やファシリエーターが、一人一人を尊重して、時間はかかってもひとつひとつ受け止めながら進んでいくところにあります。

話の内容よりも、そういう進み方に業を煮やした(この言葉って本来の意味は何なんだろ)私は、我慢しきれずに間に割って入っちゃいました。
目立たないようにしようと思ってたんですけどね。

最初から上手に仕切って円滑にするのだけが良いとも思いません。
ぐだぐだでも、言いたいことが言えるってのは素晴らしいことですから。
ただ、どこかで収集をつけないとね。

こういう会議をする人たちが、コミュニケーションワークのほんの入り口でも経験してくれれば、なんて思います。
いろんな会議が、そのちょっとしたことを知らないで、時間とエネルギーを無駄にしてると思いますから。

 


春期研修会 3回目

2009-05-28 00:01:07 | ミニカウンセリング

 

前回(第2回)の報告日記のときに「逐語録検討は来週から」と書いていますが、あれは勘違い。
今週も実践中心です。

まずは分かち合い。
今週は先生がお仕事の都合でお休みだったので、世話役のSさんが進行してくださいます。
分かち合いの順番は、時には「会場に着いた順」であったり、「先生の隣の方から順番」であったりするのですが、今回は「話したい方から自由に」ということでした。
時間に余裕があるときはこの形がいいですね。
だれも口を開かない沈黙の時間も、いろいろ私の中では蠢くものがあって、ゆっくりそいつと向き合ってやることができます。
その上で「言語化してみたいな」という気持ちが現れたら、口にしてみる。
エンカウンターの妙味を味わうことができました。
しかも、それこそミニカンの実践が出来るくらいの話題を話される方もおられ、自然と話し手を大事にして聞かせてもらうところに意識が集中して行った気がします。

一通り口をひらいたら、ペアを決めて12分間交代のミニカウンセリング。
休憩を挟んで、ペアを変えてもう12分間ずつ。

最初に組んだ方から「長く経験しているだけあって、上手に聞いてもらっている」ということを言っていただきました。
私自身はいつまでたっても「上手く聞けているんだろうか」という部分で自信が持てず、さらに2年ほどブランクがあったのでこの言葉にむずがゆさと同時に驚きを感じました。
こうやって、自分では判らないところを相対的に評価していただく(しかも良いように)のはうれしいことです。
そういいながら、まあまだ自信がもてずにいるのも私らしいと言えば私らしいのですが。

前回の報告にも書いたのですが、今回はペアを組んだお二人とも、私の興味をそそられる話題でしたので、出来事を聞いていきたい気持ちもちらほら現れます。
しかし、そういう自分の気持ちを無理に操作しようとする心がなく、浮かんでくる欲望は欲望のままに遊ばせることで、無理なくクライエントさんの気持ちに沿うように聞けていたかなと思います。

逆にクライエントとなって話させてもらうときは、楽に話していました。
以前ですと、「これを話そう」というものを最初に出したら、途中で浮かんできた種々雑多な気持ちがあっても、それらを横において本筋の言葉を搾り出していた気がします。
しかし、最近はそこにこだわらず、その種々雑多なものも捕まえて、「あぁ、いまこんな言葉が浮かんできてます」と言語化することが出来ます。
その上で、最初の話に戻りたかったら戻るし、別の話題に流れていくならそのまま流れていくことが出来る。
これだけで、ずいぶん”楽”に話をしています。
そのためには、こういう”場”と聞いてくださる”相手”が整っていると言う前提でしょうけど。

最後の分かち合いで、別の方が言葉にされていたんですが「せかされない」(急がされない)という感覚がぴったり来ます。
自由に遊ばせてもらっている感じ。
なにを話してもOKな感じ。

こういう感覚で常にあらゆる方とコミュニケーションできれば素敵なんですが…
まぁ、なかなかそうならないと言うところの”葛藤”があるから、逆にミニカンの時の妙味が味わえるのかもしれません。

 

 


ちょっと回顧 (でも今の話でもある)

2009-05-24 00:01:58 | 真宗
今から十数年前、今のようにブログやSNSというものはなく、ネット上のコミュニケーションは主に掲示板(BBS)だった。
自分のホームページで何らかの情報提供をしている人が、その情報に興味を同じくする人たちとクロストークでコミュニケーションしていく場だった。

不思議なもので、顔も知らない人たちと、真剣に言葉を交わし、時には戦い、時には伝わらないことに嘆き、しかしそうやって主張をすることで「自分の大事にしているもの」がハッキリしてくる。
「大事なもの」だからこそ、わかってもらえないことに苦しみ、時にはおしつけ、言い負かすことに力を注いでいたりした。
わたしが関わりを持っていたのは、主に浄土真宗の若い僧侶の方々で、今はほとんど継職して住職になられていることだろう。

そうやって交わしたことで、おおきな溝を感じたことがある。
同じ浄土真宗のことを語り合っていても、原点が違うのだ。

これはすべての人に当てはまるということではないだろうが、少なくとも当時感じていたことである。
彼らは「寺」に生まれ、「聞信徒」に育てられ、やがて「僧侶」として「伝道」することを意識して、仏法に関わってきたんだと思う。
なので、仏法を聴くというのは、「僧侶」として「聞信徒」の期待に応えることになっていた。
それが間違いだとは言わないが、それが第一の目的だとしたら、ちょっとわたしには容認できない。
仏法・仏願というのは、「僧侶」や「聞信徒」という立場のためのものではなく、すべての「迷えるもの」が「今・ここの・わたし」として聞かせていただくものである。
人のために勉強するものでなければ、立場に対して役立てるためのものじゃない。

そういうことを何度も話していたが、関わっていた方々はまだ意識があるほうで、もっと多くの人は「職業として」の僧侶をいかに無難にこなすかを第一義にしている。
「法話」はただの商売道具なのだから、おばさま方を面白おかしく笑わせていい気分にさせる「綾小路某」と変わりはしない。
また、意識のある人たちにしても、「教団に問題があるから浄土真宗の一大事だ」と組織の改善にいそしまれる。
そうやって教団が親鸞聖人の意思に沿った正しい方向に向けば、多くの方に真実が届けられるんだと。
しかし、そうやって教団が整備された後に正しく法を聴く人のことを心配している間に、あなた自身はどうなのかと。

「仏法のために働いた」達成感は出来るかもしれないが、あるいは多くの人が法にふれる「ご縁は作れた」かもしれないが、仏願の生起本末は「お前一人が迷っているを見捨てることが出来ず、必ず救い摂めるぞ」との願いであるならば、僧侶であろうがなんであろうが、ひとりの迷いの世界の住人として、なにをさしおいても「わが一大事の後生」をはっきりさせる以外に何があるのか。

人によって、仏法との出会い方は様々で、それこそ寺に生まれて赤ん坊の頃から縁のある人もいるし、一生懸命伝道してくださる師にであうことで縁の出来る人もいるだろう。
そういう出逢いがあるまでには、意識を持って浄土真宗の御法をなんとか伝えようと骨を折ってくださった先達が必要だったし、そのご恩には頭を下げるしかない。
しかし、そこまでご縁をいただいたならば、他人をどうこう考えるより、まずこの”私”がすぐに聞かせていただくしかない。

「どう聞いたら良いのか」とか「聞くだけとはどういうこと」だとか、そんな私の側の思案に煩わされず、もう思案も願も行も先に済まして完成された「南無阿弥陀仏」に一歩踏み出す。

こうして述懐してみると、昔も今も考えていることはまったく変わっていないことに驚く。
ただ、こういう場面での関わり方は、真宗カウンセリングとの出会いによって、変わっている部分もあるだろう。

それ以降も、多くの僧侶の方との出会いも会った。
僧侶という職をしながら、法座においては一求道者としてその姿をお示しくださる方もおられる。
最初は「聞信徒のため」と悩み続け、一歩出て自身の聴聞を深めていかれた方もおられる。
先に法に触れ、そこから僧侶の道を歩みだした方もおられる。
みな、ただこの世での姿が「僧侶」というだけ。
むしろその立場に苦しみ、余計な重荷を背負われている。
だからこそ、そういう方が師となって法をお取次ぎしてくださるときは、本物の迫力がある。

寺に生まれたというのは、そうでもしなければ「法」と出会わなかったという「因縁」があっただけだろう。
そういう縁起を超えて、自身の因果の問題として…

今年から、各地でカウンセリングのワークショップをお手伝いすることになった。
これを機会に、有縁の方々に案内してみたいなという気持ちが湧き上がっている。
今ならまだ間に合うかもしれないから。

真カ研 月例会 5月

2009-05-21 00:01:00 | 真宗カウンセリング
昨晩のミニカンに引き続き、今日は月例会でした。

めずらしく早い目に家を出ることが出来、自転車で会場の龍谷大学深草校舎へ向かいます。
車で行くときは職員らの門を通るのですが、今日は自転車なので体育館横の自転車置き場へ。
そこの向かいはサークルの部室がある建物です。
思い起こせば、龍谷大学へ通っていた頃の半分以上の時間はそこの部室で過ごしていた私です。
(今から思えば、とてももったいないことをしてましたね)
その後、正門から入り、図書館のほうへ向かいます。
私が学生だった頃の学舎とは全然違う風景です。
ただ、図書館前の池はまだあり、ライブをしては池に飛び込んでいた記憶が…

などと述懐しながら会場へ入りました。
いつもより多目の参加者。
今月から新しいテキストになるので、ちょうどいい機会だったのもあるでしょう。
最近会員になった方が参加して下さってます。

久しぶりに最初の分かち合いから参加することができました。
その後、新しいテキストの説明。
今年は「人間論」ロジャース著より、「第3章 十分に機能している人間」の部分を輪読していきます。

今日は「はしがき」と「問題」という部分まで進みましたが、今までになく”挑発的”なロジャース氏の言葉が現れていました。
そこには「権力や、人間を大事にすることに否定的な人には、断固した態度をとる」人だったということがあるようです。
自分のもっている「人間観」に断固たる芯があり、そこがぶれないんですね。
そういう力強さを感じました。

私はどうしてもカウンセリングに対して「テクニック」という部分を入り口にしていますが、その元に「条件」があり、「人間観」があるということを改めて教えていただき、今後輪読が進むにつれてその「人間観」が浮き彫りになってくるだろうなという予感をいただきました。

同時に、人間の中でのかかわりのところでは、社会の常識や価値観に左右されてしまうこともありますが、そこに究極の、絶対のものがあれば、それを通して見せられる「我が身」という「人間観」がハッキリしてくるんだろうなと。
「わたしがわたしである」という言葉の前に、どうしても自分を肯定できず、「その”わたし”という事すらわからない」不安がいっぱいある。
しかし、そこに「仏の目から見たわたし」という究極の価値観をいただくとき、自己肯定も自己否定も超えた、「あるがままのわたし」がはっきりとして来るんだなと。

ロジャース氏を通して、また仏願をとおして、それらがこの「わたし」に収束しているのを感じます。

日曜の法座から、ミニカンを通じて、今日の月例会。
”出逢い”ですね。

南無阿弥陀仏

春期研修会 2回目

2009-05-20 02:17:36 | ミニカウンセリング

ミニカウンセリングの2回目です。

ちょっと遅れての申し込みで、今回から参加の方が1名。
仲間が増えるのは嬉しいです。

今回も分かち合いから始まり、今の気持ちを話しながら徐々に場の空気に浸っていきます。
逐語録検討は来週からなので、いきなり実践。
初めてミニカウンセリングを体験する方も数名居られるので、10分での実践です。

私はYさんとペアを組んで、前半はカウンセラー、後半はクライエント。
Yさんから「どちらをされます?」とお尋ねがあったとき、特に話すことがなかったので聞き役を選びました。

Yさんのお話はその時々の感情の変化をしっかりと言葉にされるので、とても聞きやすかったですね。
また話題もわたしも興味のある話題でしたから。

逆に、その話題に惹かれている私もいたのですが、以前ですと「いやいや、ここはカウンセラーに徹しなければ」という意識に引きずられて、そのことに気をとられることでかえって話に集中できなかったりしたのですが、今日はそういう「話題に惹かれている私」も感じながら、無理なく話を聞かせてもらえた気がします。
また、そのことを分かち合いのときにすんなりと出すことも出来、味わいの共有が出来た気がします。

そのことがあったので、話してのときにまずその辺のホットな気持ちを口にしていました。
すると、今度はその味わいと逆の気持ちが「いやいや、そういいながらこっちも気にしてるだろ」と現れてきます。
その気持ちも捕まえることが出来ましたから、無理に今までの話題にこだわるのではなく、新たに現れた気持ちに付き合ってそのことを話し出していました。

その過程で、カウンセラーさんがうまく私の気持ちの「押さえどころ」をレスしてくださいました。
それまでは湧き上がるものを「さえぎらないように」どんどん外に出していったのですが、その「押さえ」をしてもらったことで、外に出したものをもう一度受け止めることが出来ました。
結局、そのことを自分で再確認したいがために、いろいろと流れてくる思いがあったんですね。

場面設定してもらうことで障りがなくなり、うなづきを入れてもらうことで気持ちよく思ったことを外に投げ出すことが出来、レスしてもらうことで自分が投げ出したものをもう一度受け止めることができる。
ミニカウンセリングの醍醐味ですね。

それもただのカウンセリングではなく、仏法のところで味わえることを遠慮なく持ち出せる、そういうスピリチュアルなところで通じ合える、安心できる時間・空間。
久しぶりに、感覚がよみがえってきた感じです。

明日は真宗カウンセリング研究会の月例会。
新しいテキストで、またロジャース氏の思いを受け止めさせてもらいます。

先日の法座から、ミニカン、月例会と、とてもいい時間を過ごさせてもらっています。


日曜礼拝 5月 はなまつり

2009-05-17 23:47:38 | 真宗

日曜礼拝、今月は花祭りです。

花御堂のお飾りもあり、いつものお勤めとは違って「献花・献灯・献香・献供」から始まり、「散華」を経てからお勤めがありました。
それぞれを担当するのは子どもたち。
すべてを理解していなくても「厳」な雰囲気が伝わるんでしょう、いつもは走り回っている私の息子らも、ゆっくりとしっかりと担当をこなしていました。

ご法話はS先生。
お釈迦様が生まれた時代の背景、どういう境遇だったか、そしてどうされたのか…
最近、インドへ旅行されたS先生ですから、カビラ城のお話ひとつでも、実際に感じてこられたことをまじえてくださいます。

子どもらにはお釈迦様という存在に興味があったかもしれませんが、私にはやはり「すべてを捨てて求めた真実と、それが後につながるように願わずに居れなかった」というお心に思いが行きます。
もったいないことです。

ご法話のあとは座談会。
子どもたちは子どもたちでいくつかの学年ごとに別れ、大人は大人で行います。
今回は新しく参加してくださった方が数名。
座談は他の法座で体験されているようですが、日曜礼拝で会うのは(私自身も)初めての方々。

これは余談ですが、最近新しくご縁がある方は別の会で求めてこられて知識はしっかり詰め込んで”意気込んで”こられる方が多かった気がします。
しかし、このたびご縁のあった方々は、まったく違った来歴。
私としては、久々に心躍った感じがあります。
というのも、そういう来歴の方々と言葉交わす(時には過激に)ことを通じて、どんどん私が華光で聞かせてもらっているものを確認していった歴史があります。
同じ喜びの方々と、ほんわかと分かち合っていくのも良いのですが、自分の思いとすぐに通じ合わないところでやり取りする中で、聞かせてもらうってのも大事だと思ってますから。

もっとも、そういう時のやりとりも、私自身20年前とは変わってきています。
結構ゆっくりとすすめていこうとする傾向がありますね。
しかし、そこは華光の法座。
いきなり核心のところで切り込んでいく方もいれば、まずはご縁が整ってきていることを大事にされる方もいます。
その上で、最後は先生がしっかりと要を押さえてくださるのですから、贅沢な時間です。
残念ながら、時間が足りずに、それぞれの方がどう受け止めて帰られたのかは聞けませんでしたが、ちゃんとそういうことを後で聞いてあげる人もいますから、私は安心です。
(というか、中途半端に関わっていくのもなんですので)

と、外側の話ばかりではもったいないので、私の思いのところで。

法座ということでいろんな人が集まって来られます。
そこには「信心」を求める方もいれば、「立場」で仏法に触れていく方もいます。
私のように、人の縁で法に出会う者もいれば、私の子どものように親子の縁で、生まれたときから逃げられない者もいます。
でも、どういう来歴があろうと、それは今ここに至るまでの「ご縁・お育て」なんですね。
今まで苦労してきたことが報われるのが目的でもなければ、立場上立派な伝道者になるのが目的でもない。
私の後生がどうなるかを、心配し、願わずに居れなかった仏に出会わせてもらうことで、この私が仏にならせていただくのが法。

それぞれの人が、その唯一の目的に最短距離に導いてもらうために、ある人は恋人が縁になり、ある人は家族が縁になり、あるひとは立場が縁になる。
その縁を喜ぶのではなく、そこまでご縁をつけてもらった事でさえも、振り捨てて裸になって求めていくしかない。

おそらく、お釈迦様は裕福な王子として生まれなければ、迷いの住人だという目覚めがなかったんでしょう。
私が同じ立場なら、欲におぼれて、迷っていることも知らずに終わるでしょう。

お釈迦様は、そういう自分から一歩踏み出していかれた。
裸で生まれて、裸で死んでいく、自分自身の問題として。

すべてを振り捨てたというお釈迦様のお話を聞かせていただいた花祭りで、座談に集った方々を通して、逸話なんかじゃない、私の出来事を見せてもらった時間でした。

下は、先日、娘の体育祭を見に行った学校の掲示板の言葉です。

お釈迦様への思いと、先生を通じての思いと、仲間との出会いを通じて、この言葉が一層深く味わえます。

 

 


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 40

2009-05-16 01:25:59 | 親子コミュニケーション

このテーマで書くこともだいぶ重複してきたり、ペースが遅くなって来てますね。
書きたいことがないわけではないのですが、一番下の子どもが小学校に上がったので、普段の「お母さん・保育士さん」との関わりが激減しましたから、話題の刺激が減っている気はします。
今後は、ニュース等の話題から刺激を受けることが増えるかもしれませんね。

そんななか、また10件の区切りになりましたのでまとめておきましょう。

やはり4つに分けてみます。

一.こちらの態度
   31- 話を最後までちゃんと聞く
  33- 親の6大NGワード
  35- 流れていく思い
  36- 目と目を合わせよう
  37- ほめることは大事
  38- 見本がわるいと…
  39- ほめて伸ばす
 
二.話し方・伝え方
  32- 「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

三.聞き方

 
四.その他
  34- まず家庭で話し合ってみる
  番外編 - がんばった子どもを抱きしめてあげたい

  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ

予想はしていましたが、態度についての話題に偏っていますね。
まぁ、態度の中に「話し方」や「聞き方」が含まれていますから、こうやって分類すると仕方ないかもしれません。
もう一度、「話し方」や「聞き方」を意識して話題にすることも必要でしょう。
近々、「聞き方」について法座で話す機会が出来そうですから、そのためにも、もう一度考えてみるにはいいでしょうね。

読んでくださる皆様のほうからも、話題提供やご質問をお待ちしております。

あと、こういう話をちょっとした研修的にすることも考えています。
考えてはいますが、なかなか依頼がないのが現状でして…
もう、なんでも・どこでも行きますので(笑)

 

 


春期研修会 1回目

2009-05-14 00:45:09 | ミニカウンセリング

春の研修会、ミニカウンセリングが始まりました。
実際に参加するのは久しぶりで、参加しているときは「ミニカウンセリング」のカテゴリーでブログ書いてるはずだから探してみると…2007年の春期研修会が最後ですね。

2007年の7月…いろいろ激動しているときでした。
そのときを最後に、しばらくブログを書くこともなくなってましたし、搾り出すように9月に書いたものを読むと、そのときの気持ちと同じものを今も持っていることがわかります。

さて、2年ぶりの研修会参加です。
ここに至る経緯がまた私らしいのですが、ちょうど研修会の最初の分かち合いで話したことにつながります。

私自身はミニカンに参加しづらい気持ちがあります。
この2年間、いやここ数日だけでも、外に出さずに押さえつけているものが渦巻いています。
ミニカンの場というのは、私には心地よすぎて、ついついフタが緩んでそれらが顔を出してきます。
それらを言語化して、外に出してやるというのはとても心地よい作業です。
そうです、そのことは重々承知しています。
しかし一方で、「知らないふり」している自分自身が揺り動かされて、問題と向き合う作業を強いられます。
「問題に向き合いたくない」「問題をなんとかしたい」二つの相反する思いに悩まされます。
つまりは「問題に向き合うことなく、私のあずかり知らないところで解決している」などという都合のいい事を望みます。
いや、そんなことがあるはずないのですけどね。
でも、そんな満たされるはずのない思いは「先延ばし」という手段で誤魔化しにかかります。

そんな私ですが、自分ではとても起こすことの出来ない”流れ”が現れたとき、そこに乗っかるのは結構抵抗なかったりします。
そういう部分にプライドはなく、求めに応じることはよくあります。
もちろん、頑なに乗っからない”求め”もありますけれど。

今回は、昨年から動き出した「真宗カウンセリング研究会の世話役」という流れの中で、ワークショップや研修会に参加することになりました。
流れが心地よさそうだったので、「参加したら向き合わないといけないかも」ということをすっかり失念して…

いざ始まってから青ざめている私がいます。


今回は参加人数も少なめなので、じっくりと進めていくことになりそうです。
第一回目の今回は、初参加の方も居られるので先生から丁寧に「ミニカウンセリング」の説明が行われました。
その過程で、私ともう一人の世話役の方とで実践して見せることになりました。
おそらく自分から率先して話し出すことはなかったであろう事を、「先生のご指名」という流れにのっかり、クライエント役として話しだしました。
ほんの10分間ですが、2年ぶりの感覚は「あるべきところに帰ってこさせてもらえた」という感じです。

話を聞いてもらいながら、自分の抱えていることが明確化されてくる。
一旦、自分は「問題に触れたくない」という所に帰結する。
でも、自分から出ているはずのその言葉がしっくりこない。
「問題をなんとかしたい」という自分も現れてくる。

ゆったりと、自分の内なる声に向き合うひと時でした。
まぁ、今振り返ると「よう、あんなこと話せたな」という気持ちもありますが、あの時あの場所でこそ結びついたところでしたね。
だから、正確には上で書いた流れも、今はしっくり来ていません。
もっと違う感じで、違う思いもそのときに現れていたはずです。

確かに、あのとき向き合って、言葉にして、明確化していた私がいた。
ということですね。

さて、これから10週間、乗っかってしまったからには、その場に飛び込んでいこうと思います。
何が出てくることやら。

真カ研の公式ホームページも更新しました。
http://dbpca.web.fc2.com/

10月の福岡ワークショップの予定も詳細が決まり、いよいよ7月京都、8月金沢、10月福岡と動きます。
うまく参加者が集まってくれるかの心配がありますが、そこはなるようになった状態で。
(でも、ぜひみなさまのお申込をお待ちしております)

 


法座の余韻 (ひとり味わう)

2009-05-05 00:25:06 | 真宗

3日間の永代経法座が終わりました。
今回は、京都支部がお当番ということで、法座にどっぷりと浸かれた感はないのですが、お手伝いなどをしながら、会場のスピーカーからもれてくるお話を耳にしたり、いろんな法友と話をすることを通して、仏法にはどっぷりと浸からせてもらえました。

仏法にどっぷりと浸かるということは…世間的にはこういう法座にて有り難いお話を聞いていい気分になるっていうのが”浸かる”という感じに近いかもしれませんが、華光会で阿弥陀仏の願いを聞かせてもらえばもらうほど、その大元である「私自身」と向き合っていくことになります。

欲の心、自分を認めて欲しい心、頑張っていると評価したい心、自分を護りたい心、相手のせいにしたい心、ねたみ、ひがみ、そねみ…
清浄のものは何一つとしてありませんねぇ。
表向きには「良いこと」と思えることがあっても、その裏にほんの少しでも毒が混じって入れば、それは悪業となってたまっていきます。
ましてや、行動に起こすことだけでなく、心で思うだけでも…いや逆に、そういう”意業”のほうが罪深いというのですから。

もちろん、そういうことに気づかされ、それこそがお目当てだという「仏願」を知らされ、打たれ、その名を称えさせてもらう…そんな「有り難い」時間・空間に浸らせてもらえるのですが。

そういう得がたい場でありながら、そういう法友に囲まれる場でありながら、なおもおれがおれがの「我執」に悩まされていきます。
清らかな泉に浸かりながらも、自身のなかからとめどもなく染み出してくる毒に染まります。
それどころか、その毒を回りに振りまいてしまう。
これを救われようのない悪凡夫といわずしてなにを悪凡夫というのか。

「誠に知んぬ悲しき哉(かな)愚禿(ぐとく)鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず真証の証に近づくことを快(たの)しまず、恥づべし傷むべし」
『教行信証』信巻

これは親鸞聖人のお言葉ですが、この言葉に貫かれる私がいます。
じゃあ、親鸞聖人と一味だと喜べるかというと、「恥ずべし傷むべし」のお心が、私には浅い、浅すぎる。
うわべの恥、傷みでしか感じられない…ほんとうに恥、傷んでいるなら、こんなに冷静にブログを書いてなぞいられません。
こうやってブログにして、同情を買い、受け入れて欲しいというパフォーマンス。
もうどこまで行ってもぐだぐだですね。


でも、そんな私に届けられているものがひとつだけある。
それに「頼っているんじゃない」と嘲られるなら嘲られてもいい。
それを「利用してるんじゃない」と叱られるなら叱られてもいい。
上手く言葉にすることは出来ないが、これだけは人に認めて欲しいとか、わかって欲しいとかいうものではなく、誰に影響もされない、私自身の問題として、深く向き合っているもの。
私自身の後生の一大事として、誰も助けようのない一生、いや流転し続ける限り捨てようのない私の中の塊への代償として。

ぐだぐだの責任は、私自身が負っていくしかないのだから。

こういうことを書いていると、ふとある漫画の一説が頭によぎりました。
(親鸞聖人の言葉と、漫画の台詞を並べるなんてというお叱りは覚悟の上で)
「全部オレのもんだ。孤独も苦痛も不安も後悔も、もったいなくて○○なんかにやれるかってんだよ。」
幸村誠作「プラネテス」
(○○は相手キャラクターの名前)

その上で、そんな私の今のままを全部ひっくるめて、「必ず摂めとる」という阿弥陀仏の願いが染みてきます。


今回の法座は、いろんな面で断片的な参加だったせいか、いろんな先生のお話が区分されずに入り込んでる感じですね。
この3日間の私に届いたテーマは
(いろんなことがある、という上で)「ただ、わが名を称えよ!!!」

南無阿弥陀仏