コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部学習会 10月(今を語るためにはこの記録を)

2010-10-28 23:37:32 | 「聞き方・伝え方」学習会

ここ2週間ほど、非常に充実した刺激的なご縁が続いている。
”刺激的な”の中身は、単純にうれしいこと・楽しいことに限らず、中にはネガティブな、ダークな、隠してある心のひだひだがさらされるような、そんなものをも含んでいる。
なのに、”今”という時間を輪切りにしてみると、そうそういやな感じじゃない。

ただ、それらを記録する絶対的な時間が不足してる。
いや、睡眠を削れば時間が作れないことはない。
が、次の出来事・用事を考えたときに、睡眠時間で多少なりとも回復することは確保したい。
まぁ、昔なら多少寝ないでもアクティブで居られたところが、かなり衰えてきたとは思う。
いざとなったら、睡眠を削っても二日ほどは集中して活動することは出来る。
そのあと数日、その活動時間以上休息を取らないと参ってしまうと言うことも実感してるけど。

と、相変わらず無計画で前置きを書き出すとこんな風にだらだらとしたものになってしまう。
それで気力がなくなって中途半端な書き込みに終始してしまうことも、なかなかブログが更新できない理由かもしれない。


で、今までなら記録的にでも書き残してきた出来事が、かなりの量、溜まってきている。
日の目を見るか否かはわからないが、記録のための記録を…

17日(日)京都支部学習会 10月
19日(火)エンカウンターグループ 第4回 (記事済み)
20日(水)真カ研月例会 10月
24日(日)日曜礼拝 10月
26日(火)エンカウンターグループ 第5回 
28日(木)ミニカン継続学習会 10月

その合間に、面談・電話・メールなどでの相談やカウンセリングもいろいろな刺激を受けるし、ちょっとしたメールやブログで受ける刺激、仕事や生活で受ける刺激もある。

一見、これらの出来事は別々のものなんだけど、こうやって振り返ってみると、今の心境を支えている元に17日の学習会「聞き方・伝え方の学び」があるように思える。
そのことだけでもひとつの記事になるんだけど、ちょっと時間が過ぎてきていることと、他の出来事での気持ちも混じっているんで、かるーくなぞる感じで書いてみる。


この日の学習会は、久々に遠方から参加くださった方や、初めての方が2名居られたり、いつもとちょっと違った感じになった。
ただ、この日を迎えるにあたって、私の中でひとつのテーマが出来上がってた。
「ゆったり、ゆっくりしたいな」というもの。
いつも学習会では、何かしらのワークのようなものや、ひとつのテーマに沿ったプチ講義などを用意している。
もちろん、参加の顔ぶれを見て多少アレンジするんだけど。
しかし、この「ゆったり、ゆっくり」というのは、そういうものを用意せず、その場の動きに任せてみようというもの。
まぁ、ここ数ヶ月、同じ顔ぶれでの学習会が続いたんで、目新しいものより深まる方向がいいかなっていう思惑もあった。
なので、顔ぶれがいつもと違うってことは、なにか「示唆的」なものがいるのかも知れない。
でも、「ゆっくり、ゆったり」を優先した。
そうしたかった。

いつものように最初に2分間の静かな時間をとって、自己紹介を兼ねたチェックイン。
「ゆっくり、ゆったり」したいという私の気持ちを伝えたうえで、いつもの順番だとミニカンの実践が真ん中に来て時間を分断するので、先に実践を行って後の時間ゆっくりとエンカウンター的に進めることを提案。
初めての方が居られたので、ちょっと丁寧に実践のことを説明して、分かれたグループそれぞれに世話役が入るようにして実践。
このとき、初めてで要領がわからない方に、世話役の方がしっかりと意味合いを込めて形式を説明してくれていた。
1年と言う時間、少しずつでも経験をつまれていることが良くわかる風景だった。

この実践の分かち合いのときから、場が動き出した。
初めてクライエントをされた方が話題の中心になっていく。
ある意味、10分間という時間では話し足りなかったこともあるかもしれないが、「あぁここならこの話も出来る」という感じを受けてくれたそうで、少し重たい出来事の話もゆっくりと話したいように話してくださる。
周りの参加者もじっくりと話を聞いていく。
中にはご一緒された方が当事者になる話題も含まれていたが、本人が前に居ても大丈夫だという空気があったのかもしれない。
流れの中で、逆にその方も自分の話題を話される。
お互い「○○さんにだけは黙っておこうと思ったけど」というような話も。
そして口をそろえたように、「ここなら話しても大丈夫だと感じた」と言ってくださった。
そのことがなによりうれしかった。

先にミニカン実践で「聞いてもらえる」という体験をし、グループになっても回りのものがしっかりと聞かせてもらう態度で、なによりさえぎられることなく「話したいように話する」ことが実現された時間。
私が目指した「ゆったり、ゆっくり」は、私自身のために欲しかった雰囲気だったんだけど、参加者もそれを感じ実践してくださった。

 

この学習会があったから、その後のエンカウンターや学習会の場で、「ありのまま」の自分で居ることが出来、その他の出来事、それがネガティブなものであれ、ディープなものであれ、「受けて構える」余裕が生まれていたように思う。

土曜日からは真宗カウンセリングワークショップ。
ぎりぎりまで心配したが、しっかりと定員が埋まる参加状況。
ここ数週間の様々な動きが、この二日間に集約されそうな予感がある。
二日間も「ゆったり、ゆっくり」できる場があるというのはなんと幸せなことだろう。

 


息子たちのこと(ほめられて伸びる)

2010-10-25 23:07:54 | 親子コミュニケーション

長男が夏休みに写生大会で書いた絵が「京都新聞社賞」を受賞した。
 
「東寺」というお寺があるんだけど、毎年そこで開かれているもの。
ほかにも「市長賞」とか「校長会賞」とかいろいろあるから、どれが天辺かはわからないけれど…
今は区役所に展示してあって、各賞には佳作や入選ってのがあるから、選考者が3枚ほど選んで決めるんだろうけど、「京都新聞社賞」だけは、佳作も入選もなし。
ってことは、京都新聞の選考担当者が一発で惚れてくれたってことか。
区役所には一緒に写生大会に参加した次男の絵も飾ってある。


他の絵を見ると、しっかりと全体像を枠内に収めて、整えている。
わが息子にはそういう発想はないのかも。
でもその分、目に映る”今”をしっかり切り取ったものになっているのかもしれない。

11月に東寺である、地域の「ふれあい祭り」にて表彰式があるらしい。

さらに、学校で書いた絵が来月に京都市美術館で展示されるらしい。
こちらは「第48回全市子ども会(自由画)美術展」ってやつ。
学校から何人かが選ばれてるんだろうなぁ。


じつは、私が見る限り、あまり写実的ではないと思う。
絵心のない私は 「写実的」=上手 って意識があるからなぁ。
息子は、むしろ枠にはまらず、大胆な絵を描く。
で、保育園時代、みんなとちょっと違う雰囲気で描かれる息子の絵を、保育士の先生が良くほめてくれた。
ほめてほめて育ててくれた。
そのことで息子は絵が好きになり、今でも自由に書いているんだろう。

自由にさせてもらうこと
認めてもらうこと
ほめてもらうこと

ほんと、おかげさまだ。

まぁ、少なくとも私には似ずに、芸術的才能があるんだろうなぁ。
このまま育ってほしいなぁ。



で、この長男のおおらかさは先日の運動会でも発揮された。
ちょっと太っちょ気味の息子だが、やはりかけっこはちょっと苦手。
でも、ハードル走は少し自信を持ってるようだ。
そのハードル走、4人で走って、ハードルを越すごとに後続と差をつけていく。
さすがに自信があると言うだけあって、結果に結びついている。
3つ目のハードルを越したところで独走…と思いきや、見事に転倒。
大の字になってしまったが、起き上がって最後まで走り切った。
ゴール地点に言って声をかけたが、思ったほど悔しがりもしていない。
途中まで1位だったことを話題にして、ちょっとハグしておいた。
本人の内心はどうだったか知れないが、結果とは別に、自信があるといっていた言葉を一時的にでも証明できたことをうれしく思っていると伝えておいた。
ちょっとハグは照れくさそうにしてたけど。


ただ、こうやって長男ばかりほめていると次男は心中おだやかじゃないだろう。
兄に対して闘争心を燃やし、1位になったかけっこの結果をほめてもらいにきた。
こちらもハグつきでちゃんと見ていたことを伝えた。
まぁ、次男の場合は褒められると調子に乗りすぎて、余計なことまでしてしまい、結果怒られると言うことが多いんだけれども。



長男は長男で、次男は次男で、それぞれの個性があり、それぞれの得意分野がある。
でも親としては、どうしても同じ出来事を比較して、判断してしまう。
当然、年齢的なハンデがある次男のほうが、比較されると不利になる。
(そういう対応をしていることをちょっと反省…)

でも、ちゃんとほめることが出来る点はきっとあるはず。
数年後、次男のほうがどんな分野でほめられたことを活かして、何らかの結果を出してくれたらうれしいな。
(もちろん、何の結果を出せなくても、そこに居てくれることだけで大きな喜びだが)


エンカウンターグループ 第4回

2010-10-21 16:05:25 | エンカウンターグループ
今週はエンカウンター、月例会と真カ研の行事が立て続け。
来週はと予定表に目をやると、エンカウンター(火)、ミニカン継続学習会(木)、ワークショップ(土・日)とさらに目白押し。
合間に面談や電話相談やメールでの相談など、なにかとカウンセリングについて味わうというか、身をゆだねると言うか、そういう流れに乗ってますね。

で、いろいろ書きたいことはあるのですが、まずは先日のエンカウンターグループのことを。

早いものでもう第4回となりました。

ゆったりとした流れの中で、それぞれが語る話に興味を惹かれたり、刺激を受けたり。
そうこうしているうちに、私の中でここ数週間くすぶっているある思いが膨らんできて、言葉にしたくなっていました。


私の祖母が3ヶ月前に入院したのですが、もう90を越える年齢なので見るたびに弱ってきているのがわかります。
3ヶ月前までは、耳こそ遠くなり、足腰が弱って歩くことが困難になってはいましたが、食べることは大好きで、ボーっとしながらもテレビを見たりしていました。
それが、食べることに意欲を示さなくなり、栄養・体力が不足していると言うので入院と言うことになりました。
おかげでと言うか、病院ですから点滴や流動などで栄養を取ることは出来、そういう意味での危険は回避されたのですが、ずっとベッドに寝たきりの生活は歩く意欲を奪い、食事をする意欲を奪い、徐々に周りへの反応も薄れてきました。

何度か見舞いにも行きますが、時々息を荒げたり、逆に静かにしていることが多く、耳元での呼びかけに反応はするものの、理解しているかどうかはどんどん怪しくなってきます。
そんな状況に対して、「認めたくない」と言う自分が居ることを味わうことがあり、先日の学習会などでもそのことは言葉にしていました。


今回のエンカウンターグループでの話題の流れで、「関係性を持つことが”生”ということだ」(うろ覚えなので正確な言葉ではありませんが)という言葉が話題になりました。
その言葉を聴いたときに、どんどん社会との、家族との、生活との関係が薄れて、ただ寝ているだけの状態になっている祖母にとって、今の状態を”生”と言えるのかどうか…という思いが、影のように現れ、やがて膨れ上がってきました。

私は漫画もけっこう好きなんですが、そういえば最近は「仁」や「ブラックジャックによろしく」とか、昔読んで本棚の片隅に追いやられていた「一生」など、医療にかかわる問題を扱ったものを無意識に選んで読んでいた気がします。
そういうものを読んだときに感じていたものも、影のひとつだったんでしょう。

エンカウンターグループではうまく言葉に出来なかったとは思いますが、特に結果も求めず、心の動くままに言葉にしてみました。
それだけでも一段落ではあるんですが、参加者のお一人が反応してくださった言葉に心が動かされました。

「そうやって、何かを考えさせるのも、おばあさんとあなたの”関係性”ではないんですか?」(これも正確な言葉はうろ覚えです)

一般的な生活と言う意味では、周囲との関係を持つことが出来なくなってきている祖母ですが、私や家族に「思わせる」というところで、関係が働いています。
よく「思い出の中に生きている」という言葉で、親しい人への損失感を慰める言葉がありますが、そういうものとはちょっと違います。

もちろん、私のためだけに祖母が存在して関係を持ってくれているなんて言うのは、とても驕った考え方なんですが、事実として私にとってのすべての関係性は(好む好まざるにかかわらず)縁として、私のために在り続けます。
一方ではそういった意味で。
他方では、やっぱり肌のぬくもりも感じ、時は荒く時には穏やかなその息遣いでもって、”生”を見せつける、生身の、私にとって大事な大事なおばあちゃんとして、そこに居てくれる。
そこにしっかりと関係がつながって居ることを、改めて気付かせてもらえました。

最近、祖母をなくされた方は、「うらやましい」と言ってくださいました。
生活との関係が薄れてきている祖母でも、まだそこに居てくれること。

今日は、夜の予定が何もないので、病院に会いに行こうと思ってます。


私にとってありのままで居られるエンカウンターグループで、自由にさせてもらったことで大きな気付きがありました。
皆様に感謝です。





エンカウンターグループ 第3回

2010-10-19 18:03:00 | エンカウンターグループ
相変わらず更新が遅いのですが…
先週の火曜日に第3回のエンカウンターグループがありました。

この日もいろいろな話題が数珠繋ぎのようにあふれかえってましたね。

その中でも印象的なのは…というか、私が感じたことでもあるのですが、週に1回、ほんの2時間だけでも「自分を飾らずに、ありのままでいてもいい」時間があるってことは、とても大事なことだなと。

私自身の中にある大きな要素として「他人に良く見られたい」という欲があります。
実際、こうしてブログで書いている文章でも、「できるだけ訂正なしで思いつくままつれづれに」とは思いつつ、どこかで読む人を意識して、あるときは言葉を濁したり、あるときは摩り替えたりしてしまいます。
特に家族の話や、特定の人物の話になると、腹底の言葉をそのまま使うことに躊躇してしまいます。
というか、そういう話題は触れない様にしているとおもいます。

また、「良く見られたい」と言う思いには、「自分をわかって欲しい」と言うものもくっついてきます。
だから、どんどん言葉が多くなって、誤解されないように神経を注ぎだします。
実際は、言葉が多くなればなるほど、自分のシンプルな芯からそれて行くんですが。


それに対して、このエンカウンターグループの2時間は、他人に向けて話をしだすことから始めながらも、その実は自分自身を見つめていく時間に他ありません。
他人の言葉から刺激を受けてうごめきだす自分自身の思い…それを言葉にしていくことで、自分でもおぼろげだった自分自身に触れることができる。
時には怖くなってそれ以上触れることを拒むこともあるけれど、今触れないだけで、そこに”居る”ことを確認する作業。

周りの人にどのように見られようと、事実としてある”自分自身”だから、(多少は飾るだろうけど)ごまかす必要がない関係性。


別の集まりで感じたことでもありますが(後日書こうと思います)、そういう”場”を作ることで、あるいは出来ることで、そこに居る一人一人、パーソンが勝手に動き出して深まりあうことが出来ます。
それは、誰かが先に”場”を作るってことだけじゃなく、そこに居る人が”場”を作りだし深まっていく。
世話人が最初に意識することは当然必要だろうけど、コントロールするんじゃなくて、その空気感に触れて出来上がっていくものだと思う。

卵が先か鶏が先かではないけれど、どちらかが先に必要な条件じゃなくて、まさに深まっていく感じ。
そこに居るパーソンが、重なり合って、交じり合って、場が作られていく。

トランスパーソナルということを深く勉強したことはないのですが、言葉のイメージから行くと今実感していることが、そのことからそう遠くはないんじゃないかなと…(学術的なところが弱いよなぁ…)
また、パーソンセンターということでは、まさに今体感しているものがそうだよなと。

今日はこれから第4回の集まりがありますので、今はこれまでにして、身を投じてこようと思います。

エンカウンターグループ 第2回 の話題からインスパイヤされて

2010-10-09 22:59:20 | エンカウンターグループ
今週も火曜日にエンカウンターグループがありました。

初めて顔をあわせたメンバーなのに、第一回目から一体に深まっていく感じがありましたが、今週も自由に話題が流れて行き、誰かの話題に感化されて別の話題を思い起こす…それを話したくなった今の自分に素直にしたがって話し出す…そんな展開が随所に見られました。

あまりに話題が進みすぎて、ちょっということをためらっていると話題が変わっていることもあるくらい。
でも、話せなかったことが悔やまれることはなく、その流れでは話さないことを選択したのが自分だと言うことに思い至り、そういう縁だったんだなと自然に思えてきます。

そういう話さなかったことのひとつに、以前にあったPTAの会議で出た話題からずっと心に残っている思いが刺激されたものがあります。

エンカウンターグループで出た話題自体は、直接的にこの話題にかかわるものではなかったんですが、刺激されて私の中で熟成されてくる思いとでもいいましょうか。

人というのはまったく同じものではなく、それぞれに差異があります。
そういう差異を認めないことから差別と言うことが起こってきます。
とても悲しいことです。
そこで、そういう差別をなくしていこうという考え方がいろいろと出てきます。
その多くは、差異を問題にしない世の中にして行こうという動きじゃないでしょうか。

それは、その差異の原因になっているものを、変えていこうとするもの。
差異のある人も、多くの人と同じように過ごせるようにしていく。
バリアフリーなんてのもそうですよね。
それはすごく大事なことだと思います。

しかし一方で、「他の人と同じように…」と言う考え方の中には、「今の差異があるままでは駄目なんじゃない?」っていうものが潜んでいる気がします。

私は差異があっても良いと思っています。
ここは間違えて欲しくないのですが、差別が良いというのじゃなく、差異があっても、今そこに居るそのままが「今・ここ・わたし」だと認めていく考え方です。



ちょっと話題がそれますが、見ていたテレビ番組で調子を崩して休んでいるタレント仲間を励ます流れの番組がありました。
仲間の応援…
とても心強いものでしょう。
でも(天邪鬼な)私は、素直に気持ちが入っていきません。
そこに「調子を崩して休んでいる」ことを”良し”としない思いを受け取ってしまいんです。
競争の激しいタレント業界で一生懸命頑張って成功してきた人ですから、頑張れるなら黙って頑張ってるでしょう。
でもそれができなくなったから「休む」という選択をしていると思います。
頑張れない人に「頑張れ」と迫る。
私なら耐えられません。
もちろん、そういう激励をきっかけに動ける人も居るのでしょうが。

動けないときは、動けない「今・ここ・わたし」を認めていく。
差異があっても、自分の理想形じゃなくても、無理のない「今・ここ・わたし」


まぁ、こう言いながらも普段は差異を認めない言動をしている私だという自覚もありますので、その辺はまた書けるときに書いてみたいと思います。

真カ研月例会 9月

2010-10-05 16:53:35 | 真宗カウンセリング

もう半月も前になるのだが、9月の20日に真カ研の月例会があった。
このときの月例会で取り上げたロジャース氏の「無条件の肯定的配慮」の学びは、その後の「聞き方・伝え方の学習会」や「エンカウンターグループ」に参加する私に大いに影響を与え、単なる学びから体験を通じて深められてきている。

カウンセリングにおいて、相手を「無条件」に「肯定的」に配慮することは、それを「頑張って行動にする」のが難しいこと。
それは行動が先なのではなく、とことんその「マインド」が研ぎ澄まされることで行動に現れるものだと思う。
その「マインド」の最たるものを言葉にされているのが「尊重する」と言うことだ。

テキストの中の言葉を借りれば

「あなたはこんなときは良いが、こんなときは悪い」というように選択的に評価する態度とは正反対のものである。

ということだが、逆に言えば普段はどれほど選択的に評価しているのかということが照らし出だされる。
そう、なにかにつけ自分の物差しに合わせて「評価」することをしている。
「尊重」しているつもりでも、そこにはこちらの「尊重できる」という評価されたものに対してであって、無条件ではない。

実際に、私が人の話を聞かせてもらうときを思い返すと、その悩み・苦しみに対して「何とかしてあげたい」という意識が強くなる。
それはアドバイスであったり、同調(だと思っている)であったり、激励であったりする。
しかし、そのことは一方で、「今、苦しんでいる」相手を、その状態は”だめ”と評価して、早くそこから脱却することを促す…正確に言えば、脱却することで自分が役に立っていることを自己評価することを求めている姿じゃないだろうか。

クライエントにとって、今の状態を否定されることは、その問題が解決した「理想」の姿をあてにするしかなくなる。
「今・ここ・わたし」が尊重されずに、成長するように頑張らなければいけない。
もちろん、そのことが結果として成長することも多々あるだろう。
しかし、「今・ここ・わたし」として存在し切れないことになる。

ちょっと変な言い回しになったが、「悩んでいる」自分で在りきること、「苦しんでいる」自分で在りきることを抜きに、背伸びして成長しようとしても、そこには無理が生じて、不安定な危うい「成長」になってしまう気がする。

「悩んでいる」自分が「今・ここ」、「苦しんでいる」自分が「今・ここ」
そうあっても良いんだ。
自分自身で「こんなときは良いが、こんなときは悪い」という評価をしてしまう手伝いをカウンセラーがしてしまうことは恐ろしいことだと思う。
カウンセラーに対して言語化することで、「悩んでいる」「苦しんでいる」ことを十分に経験することで、自ら何らかの動きが起こる(それはそのときすぐでなくても、緩やかなものであってもいい)ことが、本当の成長じゃないだろうか。

もちろん、苦しんでいる本人は今すぐその状況から脱却する術が欲しいんだと思う。
しかし、安易な配慮がそれを産むとは思えない。
もちろん、一時的な安定は得られるかもしれないが。

「無条件」で「肯定的」というのは、同じ悩める人間同士の関係では難しいだろう。
しかし、究極の形として「在る」ものだ。

カウンセラーが何かを成すのではなく、「尊重」し「寄り添う」ことで生まれてくる関係。

とても能動的に意識することで生まれる、受動的な行動とでも言おうか。
いやぁ、まだまだ学びは深い。

こんな気持ちで、いろんな方と一緒に、そこに居る一人一人を尊重したワークにしたいと思ってます。
第9回真宗カウンセリングワークショップ 受付中です。