コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン継続学習会11月 ~華光大会の関わりを振り返って

2010-11-28 17:30:28 | ミニカウンセリング

今月のミニカン継続学習会が木曜日に行われた。
参加者3人に世話人3人、3組でのミニカン実践が2回。

前半の組み合わせで、最近の心境を聞いてもらうことでゆったりと振り返ることが出来、後半の組み合わせでは具体的に先日の華光大会で感じたことを話してみた。
カウンセラー役を引き受けてくださった方もその法座に出られていたので、細かい状況説明なしで話せるのが少ない時間の実践ではいい具合に働いた気がする。

このミニカンを通じて、このブログにも書きたいと思っていた、座談を通じて感じた”関わり方”の問題が寄り鮮明になった気がする。

先日、華光大会の話題をこのブログに書き始めたとき、ひとつは法にたいする思いで、もうひとつは先達への思いであり、その二つはすでに書かせてもらった。
その一方で、座談会で感じたことは、私の中では鮮明になってるけど、こうして外に出すにはいい言葉が見つかっていなかった。

ここ数回の大きな法座では、わたしは少人数限定の部屋を担当していた。
どうしても大きな行事のときは座談会の時間が少なく、さらに大人数が集まることで一人一人へのゆっくりとした関わりが出来なくなってしまう。
また場面的に、複数の方が一人の方に「伝えたいこと」を勧めていくことで、一番大事にされるべき「求めている方の今・ここのありよう」を待ちきれずに進んでしまうこともおこったりしている。
いや、確かに無常と言うことを正面から捕らえれば、”この次”などあるはずもない。
そこはよく分かる。
そんなとき、少人数の部屋では、ゆっくりと、少なくとも目の前の方が、自分の話したいことを言い切るまで待って進めることが出来る。
まぁ、あくまで比較のレベルだけど。

それは、カウンセリングのワークショップや、支部での学習会などでも念頭において進めてきていること。

しかし、久しぶりに大人数の座談会に関わらせてもらって、話し手になっている方のペースを待ちきれずに、複数の方から言葉が投げかけられる場面になってしまうのを感じた。
なんとか割ってはいって話し手の方の気持ちを確認するんだけど、表に表れている言葉や態度のところにどんどん周りの人が反応しちゃって…

気持ちを言葉に表すってのはとても難しいことで、時には(人によっては)いろいろ回り道をしながら、やっと自分でも気づけていない自分の本当の気持ちに素直になれていくし、さらにそれを外に出る言葉にしていくのはとてもデリケートなものが必要だと思う。
逆に、攻撃的な意思から自分を守ろうとする反応はすばやく、開きかけているものが閉ざされるのはほんの一瞬の出来事。

確かに、仏法に関わることは、こちらの都合・思惑を超えたところにある。
そこへのこだわりを捨てることは大前提だ。
駄目なやつがいくら頑張っても、それは自力でしかない。
駄目を駄目と知ることが肝要ではある。

しかし人間通しの言葉の関わりを、その奥底にうごめく微細なものを無視していくと、伝わるものが変わってしまう。
流れの中でじっくり伝えることなので単純に画面上の文字で伝えることは難しいのだが、今できる範囲で言葉にしてみると…

「駄目な私」ということを「駄目でない」ようにするのではない。
「駄目な私」というありようは否定されるものではなく、そこがお目あて。
「駄目な私」だからこそ、本願が起こった。

微細なところを表そうとすればするほど、言葉数が多くなってきていやになるのだが。

しかし、座談の場面などで、攻め立てるような口調、話し手の言葉をさえぎるようにかざされる真実(と思っている)の剣で責められると、「駄目な私」が否定されることが一番の問題になってしまう。
駄目でないようにすることしか考えられなくなる、あるいは駄目がお目当てだと言うところを信じられなくなる。
今の”ありよう”が否定され、ひどければ今の自分の全人格が否定されたようにしか伝わらなくなってしまう。

もちろん、伝えようとする方の気持ちも分かるし、そのやるせない思いは聞き届けて欲しいところだ。
しかし、思いより先に、態度や口調や言葉が伝わってしまう。

今回の法座を通して、ここの伝え方・関わり方がとても大事なんだけど、時間や人数の問題で難しいことも痛感した。
出来ないことを嘆くのではなく、そこをゆっくりと関わる機会がもらえるのならば、私に出来ることは精一杯させてもらおうと言うことと、すでに確立されてきている真宗カウンセリングや学習会を大事にしていきたいと言う思いがハッキリしてきた。

しかも、ここの大事さを共に深めていける先生方が華光には居られる。
それに、私の関わり方だけが正解ではなく、人によってはその厳しさから頑なな心を一歩踏み破って前に出てこられる方も居られる。
そこは、他の先生に任せておけばいい。
なにも私がオールマイティに全部引き受ける必要もないのだから。


この私のために、法座のすぐ後に思いを聞いてもらい、言葉にすることで、明確にしてもらえるミニカンというご縁があった。
カウンセリングから法を味わえるし、法からカウンセリングを味わえる。
”すごい”ことが、私の中で起こっているのを感じる。

 


華光大会 ~礎があって今がある

2010-11-25 23:58:00 | 真宗

華光大会の3日目には総会がある。
華光会は同人組織なので、総会による議決を元に活動が成される。

私もかつては深く関わっていたが、この総会ひとつ開かれるために多くの方のご苦労と手間とが費やされる。
そういう一部の人が勝手に動いて成り立っていくのではなく、同人ひとりひとりが深い意思を持って参加することが大事なことは、皆さん分かっているようで結構温度差がある。

今年の議題の中に「親鸞聖人750遠忌法要」の話題があり、その実現のための寄付金に関する話題があった。
その資料の中に、過去の大遠忌法要や慶讃法要のものがあり、そこに「維持講発足」「同人会制度発足」の文字があった。

私が華光会にお参りした時(20代前半)には同人会は組織されており、かなりお年を召したお歴々が運営をされていた。
当然若輩のものには何が行われているか理解することもなく、ただ指示に基づいてお手伝いをさせていただいていた。
30近くになったころ、住んでいるのが会館に近いことや、まだ若く長いスパンでいろいろなお手伝いが出来るだろうと言うことで、運営委員のひとりにお誘いいただいた。
そうすることで今まで見えていなかった多くのことを学ばせてもらった。


華光会の軸は伝道活動であることはハッキリしている。
一番目に映るところは、法座での先生方のご活躍。
ご法話であったり、座談でのお勧めであったり。

そういう法座を行うためには、法座のお手伝いをしてくださる方々が必要になる。
大きな行事は支部による当番制であったり、また近郊有志の事前事後のお掃除などがある。
また、普段先生方のお世話してくださるご家族や、会館や事務を維持管理してくださる事務員の姿もある。
まったくもって、おかげさまだなぁと。

と、ここまでは普通にご恩を感じることが出来るのだが、よくよく考えてみればこれはすでにある会館や行事があり、それを甘んじて受けている状況での、現在進行形でのおかげさまだ。

しかし、当たり前のように通わせてもらっている会館も初めからあったわけではない。
当番でお世話する支部にしても、その成り立ちには多くのご苦労があったはずだ。

私が聞いていて把握している範囲では、最初は伊藤康善先生の下に集まった数名が、座を持って仏法談義されていたものが”会”の前身であり、伝道活動ということで言えば「華光誌」というものを作成するところから始まっている。
それが広がりを見せるとともに、人が増え、座が増えてきて、友同行が集まれる場所が必要になってきた。
華光会館という「資産」を持つことに対しても紆余曲折あったようだが、熱い意思の元に建立・維持されてきた。

そしてただ集まるだけでなく、建物の維持・組織の維持として「維持講」そして「同人会」と広がってきたようだ。
私もいろんな集まりで経験しているが、複数の人の意思をまとめて、継続していくことはとても困難が伴う。
ましてや、なにもないところから作り上げるのは並大抵のことではない。


ここ数年、新しいご縁がひろがり、15年ほど前の「華光会館再建」事業にでさえ関わったことのない方が多く居られるようだ。
そう書くと、同人が増えて拡大しているようにも聞こえるが、実数は横ばいだったりする。
亡くなられた方や、高齢化でお参りできなくなって来ている方も同様に増えているからだ。
私が運営委員にお誘いいただいたときに、先にたって活動してくださった方々の顔を浮かべてみる。
ほとんどの方が、上記の理由などで今目の前に居られない。
そのころはかなり先輩だと思っていたお歴々の年齢にいつの間にか近づいていることをふと感じてしまう。
先輩方のご苦労のホンの一端でも引き継いで、何かを成すことは出来ているだろうか…。


目の前で法を相続してくださる先生方のご苦労は、もちろん一番に感謝すべきことだ。
また、今裏方としてご苦労してくださっている方々への思いもハッキリしている。
それらと同様に、今ある聞法道場や同人組織が成り立つ意味を忘れないでいたい。
会った事のない方のご苦労など計り知ることは出来ないけれど、今ここに在ることは当たり前のことなどひとつもない。
今ここで私が聴聞させてもらえていることが、先達のご苦労の証拠だ。

維持のお金や、お手伝いの身の苦労ばかり問題にして、あれやこれや愚痴を言ったりしてしまうのが私の本性だが、当たり前にしていることの根っこのところで、多くの礎があることをなかったことには出来ない。
いや、なにも物や組織の維持のことではない。
先生方がご法を相続してくださるご縁に会える事も、それらの礎なしにはありえない。

総会の最後に恩徳讃を歌わせてもらうのだが、最後列から前に並んだ役員席を望ませてもらったときに、K河さん、Tさん、T本さん、S田さんらの姿が見えた。(ご存命の方も居られますのでお間違えなく)
このときだけは、如来大悲や師主知識のためではなく、先達を思い偲んで涙が流れ、声が詰まった。
いや、これら先達こそ、如来のお姿であり、師主知識のお姿だ。


華光大会 ~満ち満ちたお働き

2010-11-24 19:22:11 | 真宗

3日間の華光大会が終わりました。
ご一緒させていただいた皆様、ありがとうございます。

今年も大いなる刺激をいただきました。
一味を深め合う仲間も、求め悩み苦悩する仲間も、そういう様々な”熱”が繰り広げられることによって、私がご聴聞させていただく場でありました。

終えてから振り返ると、いろんな側面で余韻が残ってます。
何回かに分けて書き記そうかなって言う気持ちがあるんですが、いろいろかまけて実現するかは…
でもまずは、法の部分から。


今回、座談会の担当ではあったんですが、自分が先生として入るものと、他の先生と組ませてもらうものと(しかも日によって違う先生)あったりして、それぞれアプローチが違ってちょっと私の中の継続性が弱い感じがありました。
でも、一貫してベースに流れているものは間違いなく同じものですね。

私が先生として関わらせてもらった2回の座談会では、そのベースとなるものが特に強く表れた気がします。
”わたし”の側の求めているもの、法悦であったり体験であったり、納得であったり理解であったり、そういうものと仏法で聞かせてもらうものとは違うと言うこと。
わが身を知ることは大事ではあるけれど、そこは突き詰めれば「聴けるはずのない身」であり、「堕ちていくしかない身」であると言うことで、そこが変わったり良くなったりすることはないですね。
だから「仏様はなんとおっしゃってる?」というところに翻していくんですが、言葉だけでやり取りするとそれも方法論に陥ってしまう。
根本である”仏願”は、私が求めるだとか、私が聞き開くだとか、そういう次元ではないところで、常に・すでに働き続けてるものなんですね。

よく「そのままのお救い」って言葉が使われますが、それは私が「何もしないでそのまま」という自分で放棄することではなくて、「何も出来ない私」という前提の上で、「出来ないものが何もしなくてもOK」という大いなる力が私に働いているからこその「そのまま」なんですね。
その「お働き」を抜きにして、「どうやったら自力を捨てられる」だとか「どうやったら阿弥陀様に向き合える」だとか、自分のありようを何とかしようとする・・・がんばって「そのまま」になることでは決してないんですね。

その「お働き」を感じれば自分の何かが変わると思って探ったり待ったりするんですけど、それも実は大間違い。
こちらが知覚することが出来ないところで、常に・すでに働き続けている。
こっちがそれを分からないだけなんです。
もちろん、分かる力もありません。

でも、よーく振り返ってみると、何かの縁に触れてふと「ありがたいなぁ」とか「うれしいなぁ」とか「申し訳ないなぁ」とか、思わず(自分で動かそうとせず)心が動くことはないでしょうかね。
時には思わず「南無阿弥陀仏」と口をつくことがないでしょうかね。
そんな動きの意味を求めても、仕組みを求めても仕方ありませんよ。
私が知覚し得ない働きがあって、動かされているんですから。
ついつい口から「南無阿弥陀仏」が飛び出す…
私の力でありえるはずがないんです。

それを、やれこれは自力だとか他力だとか、喜びが伴ってないとか叫びあがるものでないとか、そういうありようにとらわれて自分で”判断”しようとしている。
そんなこちらの枠に収まるもんじゃないんですけどね。

こんな私の口からお念仏が飛び出してくることほど、知覚しようのない働きがあるってことの証拠はありませんよ。


この華光大会で、最後のご法話は増井信先生でしたが、まさにこのことを分かりやすく力強くおっしゃってくださいました。
私の言いたいことと同じことを法話してくださるとは流石だなと。
いや、これは冗談ですが…
というか、単なる冗談ではなく、人間的なところでは同じことを考え、同じことを伝えようとすることは偶然のようにも思えるんですが、大元の阿弥陀様の願いがハッキリしているんだから、表現は変わることがあれど、「機の真実・法の真実」は変わりようがないんですね。
(真実がいくつもあったら困ります)

もちろん、その真実を増井信先生はじめ、多くの先生方から繰り返し教えてもらっているのですから。
でも、ただ教えてもらったことを覚えて話しているのではなく、教えてもらったことがこの身にかかっていることが在り難い。
考えて相手の方に伝えるのではなく、湧き上がってくる願い・思いが、言葉になって表れ、相手ではなくこの私自身が聞かされていくんですから、こんなにすばらしいご縁はありません。

この私自身はざるで、教えてもらったことも、気づかせてもらったことも、ましてや阿弥陀様の願いすらすぐに忘れて・・・いや忘れる以前にわからないまま、今ここにいます。
でもそんな聞けない・分からないやつが、常に・すでに働いている法の海に浸っていることで、ざるがざるのまま本願にかなっていける。

私が、法に浸っていることを知らないだけなんです。


増井信先生のお話は、ご自身のブログでも触れられています。

かりもんの実践的!真宗法座論


エンカウンターグループ 第8回

2010-11-19 10:24:55 | エンカウンターグループ

週明けの(飛び石)連休に法座があるんで、今週はちょっと頑張って早めの更新。
ってことで、火曜日のエンカウンターグループも8回目になりました。

今回はちょっと真宗よりの2時間。
話題の流れが仏法に関わるものになりました。
お念仏の話題から、声明の実践があったり、儀礼の話題まで。
それらも、各自が自由に思い思いのところで話題に参加するもよししないもよし。
まさに、真宗カウンセリングのエンカウンターグループでしたね。

ちぇんとしたお作法にもしっかり意義があって、いくら「信心が大事で行はいらない」とはいえ、正しい姿勢・意識をおろそかにしていいものじゃない・・・。
というか、真実に至る道としては、心に響く感覚的なものから入っていく道もあるんですよね。

今回、お声明を学んでいる方が、流れの中で一節披露してくださったんですが、その声が耳ではなく頭骨に響いてきました。
それだけでもとても心地いいものです。
次に、その一節の言葉と意味を話してくださいました。
弥陀の心と、善導大師の心が、胸に響いてきました。

「あぁ、この声、きれいだな~」ってところから心を揺さぶられ、興味を持ち、その言葉を知ることになり、本願に触れていく…

法を求める人に合わせて、いろんな道があるはずです。
どんな形でも会わせていただける。
阿弥陀仏のほうの力は、あらゆる時間・場所・手段にあまねく働いていますもんね。
それをこちらが勝手に、これは合う合わないってごねてるだなぁって。


もうひとつ、話題の流れで、「宗教の言葉が誰でもわかるようにコンパクトになっていればいいのに」というものがありました。
うん、言葉を理解しようと思うと、結構難しいですね。
でも、それらのエッセンスが「南無阿弥陀仏」の六字になっているってことほどコンパクトなものはないなと。
ひとによっては「ナマンダ」だったり「ナーモー」だったり「マンマンチャンアン」だったりしますが、誰でも称えられるようになってる。
その意味が解ってない、伝わってない、と思うのは、私のほうの解りたいって欲の問題で、その一言がこの口から飛び出すってことは「お働き」が届いてることなんですよね。

じゃぁ、こどもや赤ん坊でも信心がいただけるのか?・・・なんてお尋ねを耳にすることもありますが、そんなことを確認することに意味があるとは思えないんですね。
この「わたし」にはどうなんだ?ってことが大事で、しのごの言ってないで一言称えさせてもらえばいいだけのことですね。

人の口からでてくる南無阿弥陀仏の音が届いて、心が震えるときに、そっとでもいいから私の口から称えさせてもらう。
そんな不思議なことはありませんから。

不思議ってのは思議を越えてるって事です。
この頭であれこれかんぐっても仕方ないってね。


次の日(水曜日)に月例会があったんだけど、私用でお休み。
今年度の論文輪読はいままで皆勤賞だったので、ちょっと残念。
いや、皆勤賞のことより、月に一度の素敵な時間を逃したのがね。


エンカウンターグループ 第7回

2010-11-16 16:09:28 | エンカウンターグループ

エンカウンターの7回目。
この日の昼間、仕事の関係で大阪に赴いていた。
たいていの仕事は車で行くけれど、大阪の中心部に行くときはよほど荷物がない限り電車を利用するほうが早くて便利だ。
で、MP3プレーヤーで音楽を聴きながら電車に揺られ、さらにはのんびり駅から目的地まで歩いていた。
木枯らしが吹きあらした日で、かなり寒くはあったけど、時間に余裕を持ってゆっくりと歩いた。

そこで聞いていた音楽が、この日のエンカウンターでの話題と私の中でリンクしていた。
いままで何度も聞いている詩だけど、イヤフォン越しに頭に響いて繰り返されたフレーズ。
Bump Of Chickenというアーチストの「Merry Christmas」と言う曲。


今夜こそ優しくなれないかな すべて受け止めて笑えないかな


私のほうは「優しくなりたい」という望み(欲)を持ってる。
そして普通はそこに「優しくして欲しい」という望み(欲)も一緒に持ってる。
だから、そのとおりされないとき、優しくされないときに、困ってしまい、戸惑ってしまい、時には怒ってしまう。
それはこちらの欲の心が満たされないと言う私側の問題なのに、思い通りしてくれない相手のせいにしてしまう。

そこを、相手がどのような反応をしようと、それを相手のそのままの姿として受け止める。
それがこちらの望むものでなくても、「あなたはそうなんだ」と受け止めて笑っていられたら…
「あなたはそれでOKですよ」と受け入れることが出来たなら。

カウンセリングで目指している、来談者中心のマインドは、こちらの思惑とは関係ないところで、相手の自由な思考・発言を妨げないことから始まる。
こちらの思惑とリンクして、感情が乱されることなく、「すべて受け止めて」いられること。

エンカウンターの場で、カウンセリングの話と、すべて受け止める阿弥陀様の話をしていたことで、この日にこの詩から感じた思いがずっとあふれて来て、頭の中で今フレーズが何度も繰り返された。

残念ながら、話題の展開が濃すぎて、この気持ちは表明できないまま時間を迎えた。
でも、自分のなかでそっと暖めておくだけでも十分だったし、そういう自分を受け入れることが出来る。

後半にはこう詩われている。

許せずにいる事 解らない事 認めたくない事 話せない事
今夜こそ優しくなれないかな すべて受け止めて笑えないかな
誰にも優しく出来ないかな あなたと楽しく笑えないかな

この曲を聴いてみたい方は下のリンクを(Youtubeです)

http://www.youtube.com/watch?v=QJaareN2z00


息子たちのこと その2

2010-11-09 12:00:00 | 日常雑感

先日の写生大会に続いて、今度は学校へ提出した作品が京都市美術館に展示されると言うので3日の祝日に出かけた。

美術館(別館)は岡崎公園内にある。
時期は紅葉の観光シーズン。
近くには南禅寺もあるし、北は銀閣や哲学の道、南は八坂から清水と、どう考えても混んでて当たり前の場所。
とはいえ、夫婦と息子二人の往復交通費を考えると駐車場代のほうがまだましな気がする(歩く距離も減るし、混んでるバスには乗りたくない)

午前の観光組が帰ることも考慮して、午後2時過ぎに岡崎公園に着いたが、駐車場に並んで停められるまでに1時間弱かかってしまった。
もっとも連れ合いと息子らは先に下ろして、公園内で遊ばしておいたのだが。

で、無事車も停められて、美術館のほうへ。

このあたりの建物はかなり古いもので、それでいて先鋭的なものと趣のあるものが混在する。
会場の美術館別館などは後者の最たるものだ。

3・4年前にも息子の絵が展示され、今回はそれ以来の美術館。
1階と2階に市内各地の小学校(一部保育園)の作品が大量に展示されている。
学校名を探し、その中から息子の絵を見つけた

前回の東寺の絵とはまた違い、びみょーではあるが、トンボの羽模様など息子なりのこだわりは現れいる。

特選になっている子の作品は、どれも細かいところまで表現されていて、やはり一味違う雰囲気を出していた。
上級生の緻密なものより、低学年ながら細部にこだわらず、それで居て他と違う雰囲気のものがなかなか惹かれるものがあった。

ここで干渉している間、徐々に次男の機嫌が悪くなってくる。
自分の作品は展示されず、兄ばかり誉められるのだからそりゃそうだろう。

ひととおり鑑賞した後、近くの動物園に足を運んだ。
京都の動物園は小さいが、子どもにとっては素敵な場所なんだろう。

実は、次男には絵を選ばれるような才能で誉められる部分はないのだが、私なりに感心させられる点を持っている。
それは、感性・感受性で、おもに物語を読んだときに発揮される。
かれのお気に入りは「おまえうまそうだな」というシリーズで、恐竜同志の交流を通して、心のふれあいを描いている。
(私も読んでいて泣きそうになるときがある)

その次男が今回動物園で楽しみにしていたことがある。
最近読んだ本で、象を取り扱っているものがあるのだが、彼の話では「本に載っている写真は本当の象じゃない。小さく写された写真だから。最後のページに目だけ写ってて『これが本当の大きさの僕だから動物園に本物を見に来てね』って書いてあったから会いにいきたい」というのだ。

こういう感覚・・・単純に子どもっぽいといえばそれまでなんだけど、「あぁ、そう」と終わらせてしまいたくない。
そういうストレートな心のままで、実際に象に出会って欲しい。

あまり時間はなかったが、いろんな動物を見て楽しんだ。
私自身はサルのコミュニティがいつまで見ていても飽きずに、心が休まる。
(やっぱ懐かしいのだろうか…)

それぞれ、違ったところで”いい”と思わせるところを持っている二人の息子。
その上に居る二人の娘にもそれぞれいいところがある。
同じ親に生まれても、それはぜんぜん違うところがある。
だれが善い悪い、上下と言うことじゃなく、個性でいいのだ。

そんなことを感じた休日だった。

ひと科”ひと” が飼育されてる檻


エンカウンターグループ 第5・6回

2010-11-08 23:10:45 | エンカウンターグループ

エンカウンターも折り返しを過ぎ、第5回・第6回をレポートしないまま明日はもう第7回目。

第5回目は全員参加だったけど、第6回目は3人お休みでちょっと寂しい感じ。
でも、ここ数回エンカウンターでの裏テーマ(というか、私にとってのテーマだけど)である関係っていうところで、そこに不在の人であっても存在を感じたりしている。

それは以前書いた第4回目の話題で、私の祖母が老いと衰弱のため、周囲と人間的なコミュニケーションを取れていないことを書いたが、そのときの流れで「私に何らかの思いを抱かせているってことで、祖母と私に関係が築かれている」と言う思い。
それがさらに深まって、休んでいる人であっても、その方に関わる(あるいは印象がつながる)話題が出たときに、その方のことを思い出すことがある。
そこに居なくとも、私の中にその人の存在が”話題”として感じられる。
私の思考に影響を与える存在として、私との関係が生まれている。

さらに突き詰めると、無機物であっても、私の思考に影響を与えるものがある。
例えば湯飲み茶碗が目前にあり、それが視覚を通じて意識した瞬間に、私が思考すると言う関係が生まれる。
そこに湯飲み茶碗がなければ、意識することはないのだから。

これは不思議なもので、時には視覚に入っていても”意識”しないものもある。
道を歩いていて、その周囲にあるものすべてを意識してはいない。
視覚に入っていても、意識せず通り過ぎる情報のなんと多いことか。


このことを逆に考えると、心を落ち着けて、ゆっくり内省することで、いままで意識できていなかったものを意識化することが出来ると言うことでもある。
これはカウンセリングの学びのなかで、とても大事なことだと思う。


あるときはそれは感情だったりする。
誰か(何か)に影響を受けて感情が動かされる。
しかし、すぐに思考のブロックで、損得などを判断して感情を押し殺すことがある。
社会での関わり、人間関係などではとても多いことだ。
逆に、そういう損得(配慮)なしで、思ったことを思ったまま伝えることは乱暴だとされる。
まぁ、意識化することと、なんでも口に出すこととは大きな違いはあるのだが。

そういう押し殺して、心の奥に追いやり、ふたをしてしまった”感情”が溜まりに溜まって、ストレスになったり欝になったりしてしまう。
なにも感情を爆発させろと言いたいのではない。
そういう感情が”ある”ってことを、ゆっくり受け止める時間が大事だと言うことが言いたい。


私がカウンセリングで学んでいる傾聴には、自分自身で思ったことを自由に言葉にしていくことで(そのためには安心して話せる環境が必要だが)自分で奥底の感情に気づいていくことが出来る、ゆっくりゆったりしたものがある。
先日の二日間のワークショップでもそれは感じたし、毎週のエンカウターグループでもそれは感じることが出来る。

そういう時間があるのとないのとでは、私にとっては大きな違いがある。


第9回真宗カウンセリング・ワークショップ in京都

2010-11-05 00:31:05 | コミュニケーションワーク

先週末、二日間の「真宗カウンセリング・ワークショップ」が行われた。
私は世話人としての参加。

締め切りギリギリまで最低開催人数に達せず、開催が危ぶまれたけど、直前に申し込みが集まり、さらには締め切り後あと定員まで1名というところでお二人同時に申し込みがあり、結果定員を1名超える9名の参加。
地域は広島から福井まで、年齢も20代からウン十代、何度もワークショップに参加されてる方から初めての方まで、実に多彩な顔ぶれ。
それぞれは初対面の方も居られるが、私にとってはみな旧知のかたがた。

各セッション、基本的には「3分間のお念仏-2分間の黙想-今の気持ちの振り返り(順番に回す)-自由な交流-今の気持ちの振り返り-3分間の念仏」という構成。
お念仏も、そのときの気持ちに応じて称えるも聞くも自由。

私としては、自分の腹底に響く自分のお念仏と、周りから耳に届いて意識に働きかけるお念仏が交じり合って心地よい時間。
ゆったり、自分の内なる声に耳を傾ける時間。
様々な話題を、語り合い聞き合いしながら刺激を受けている時間。
どれもゆっくりゆったりできた。

時には具体的な人間関係の問題、時には仏法に関わる信の問題、また時には男女問題や世代問題などの一般的な話題。
どれがメインで、どれがサブと言うことなく、その時々に、その時だから語り合える「ご縁」の具現化されたものとして、自由に話題が進んでいく。
最近の私の感じとして、「私が今望むもの」にとらわれることなく「今、そのままのありよう」というところで様々な場に触れている気がする。
この二日間もまさにそういう感じで、話題が自由に動き回れば私の心も自由に動き回るところで、無理なくその刻々を活きている感じがした。
もちろんファシリテーターの先生がしっかりと流れたしまった時は引き戻して「発言者」を第一にする配慮をしてくださっているからこそ、自由にさせてもらえていた。
自由で居られる安心と、任せておける安心と。
だからこそ、何が起こっても心配することなく、その場をありようのまま経験できている私が居た。


具体的な話題は記さないが、例えば「法座」でよく見かけるような「信に関して外せない真実」をやり取りする場面でも、「発言者を大事にする」カウンセリングマインドが場で徹底されているために、発言者本人が自由に語りたいまま語り、自身の発言を周りのものに確認してもらうことで、自分から気付いていく。
時には長い時間をかけ自身の内なる声を気付いていくこともあれば、時には困惑していることを表明して無理しないことも出来る。
刺激を受けて語りたいものがでてくれば、自身の話として語ることで、最初の発言者も、語っているものも、新たな気付きが生まれる。
まさに響き合っていく。


この心地よさは、やはり言葉では表しつくせない。
体感してもらうしかないものだと思う。

今年度のワークショップは今回で終了。
これから年末にかけて、来年度の計画に入っていく。
少なくとも広島と京都では開くことが出来るだろう。
出来れば、多くの場所にお邪魔して、その場所場所での出会いを果たしたいものだが…


かるーく雰囲気を味わいたい方は、京都で月1回行っている「聞き方伝え方の学び」にご参加ください。
今月は27日(土)午後に行います。