コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 31

2008-10-28 03:42:13 | 親子コミュニケーション

あるニュース記事を見て感じたことです。
大阪府の橋下知事と、「府民討論会」というものが開かれたそうです。
政治的に知事の発言から思わされることもあるのですが、このブログはその辺を問題にするつもりはありません。
体罰に対する認識なんかもネタには出来るんですけどね。

問題にしたいのは、そこで繰り広げられる大人たちの態度ですね。

知事側は、今回に限らず暴言気味に相手を煽る手法を良くとります。
ある意味、そうされることで討論相手も本気で食いついていきやすいので、なぁなぁの話し合いで終わるよりは良いですね。
ただ、その暴言の多くが対象を「決めつけ」でまとめて煽るのは、多くの…特に子どもの目に触れる立場の人には考えてもらいたいですね。

「お前らみんな○○やろ!」っていうのは、子どもの口げんかの常套句で、たいてい根拠なく勢いで発せられるものです。
こういう決めつけって結構傷つくんですね。
大人がそんな見本を見せて欲しくないものです。

それより問題なのは、知事の発言途中で出てくる相手側の野次。
言いたいことがあるのは分かるのですが、人の発言途中でそれをさえぎって発言していいものじゃありませんね。
「他人の話は最後まで聞きなさい」という知事の言葉は当たり前すぎて、大人がこういうことから諭されなければいけない姿を公衆の面前でさらすのはいただけないですね。
今回は、その発言した方々が「教育関係者」だということですので。
(もっとも、それは報道に書かれていただけで、本当にそうかは分かりませんが。)
普段、生徒たちに「他人の話は最後まで聞きなさい」と教えているはずです。
身をもって示して欲しいですね。


子どもに「話を最後までちゃんと聞きなさい」と教えるならば、子どもの話・言い分もちゃんと最後まで聞いてあげるという見本を示したいですよね。

秋には運動会や学芸会など、子どもの姿を観にいく機会が多いですね。
子どもたちに「静かにみましょう」「じっとみましょう」ということを教えるのは、大人たちですよね。
自分の子どもの出番以外はおしゃべりしてたりしませんか?
自分の子どもを写真とったりビデオとったりするために、他人の前に割り込んでいませんか?
そういう姿を、子どもたちは結構シビアに見てますよ。

 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ

一応、ニュースソースをリンクします
報知 産経


「聞く」をテーマに話したあとの今の思い

2008-10-27 01:10:47 | 真宗
昨日、華光会の京都支部法座で講師として話をさせていただきました。
終わってからいろいろと「これを話したかったんだな」と明確化されてきたものがあります。
話する前の思いと少し変わっているものをあったりしますね。
話した内容は、レジュメをもう一度まとめて、コラムにして見ようと思います。

今までも「聞く」ということをいろんな形で話して来ましたが、今回は最近カウンセリングのワークなども通じて感じている、「自分のうちなる声を聞く」を大事にしてもらうことを意識してもらいたいということを中心にしてみました。

普通、法座では先生の話を通じて「仏の願いを聞く」ことを一番の大事にします。
(今回あまりそこに重点を置かなかったので、同席されたG先生が時間をかけて補足してくださったほどです)
しかし、実際はなかなかそれだけでは満足できず、下手すれば自分の都合の良いように聞いたり、あるいは知識として溜め込むこと聞き方をしてしまうこともあります。

華光では、先生の法話、一方的な話だけで終わるのではなく、座談会を通じて今聞かせてもらった話を振り返ることで、自分が何を聞いているかをもう一度ハッキリさせ、また他の人の聞いたところを通じて、聞き足りなかったところや、違う捕らえ方を通じて「聞きなおし」をします。

でも、そういう時間をすごしても、「響く」「腑に落ちる」「うなづく」この私自身が抜けていれば何にもなりません。
中には、頭の中で「納得する」「理解する」ということで、自分に引き寄せて聞いているつもりの人もいるかもしれませんが、「頭では分かるが腹底にウンといわないものがある」という人もいるように、頭の理解は時間と共に頼りなくなりますし(なかには何を聞かれてもお聖教の言葉を引っ張り出してがんばる人もいますが)いざ命尽きるときは頭の中に詰め込んだ自分のもちものなぞ置いていかねばなりません。

そこで、先生や他人の話…それらを通じて届けられる「仏の願い」に触れたときに、ほんの少しでも動いた「心」の部分を「聞いてみる」ことを意識してもらいたかったんですね。

私自身がカウンセリングを通じて学んだことに、他人の話を聞いて、あるいは自分で話しながら、常に動いている自分の気持ちがあるとき、それを意識し、言語化して、表明するのはかなり大変なことでした。
意識すると同時に、「こんな思いでいいのか悪いのか」「こう思わないと駄目じゃないか」という頭の動きにまぎれてしまう。
でも、ほんの少しの「動いた気持ち」に、自分の内なるメッセージがあることを受け取れるか受け取れないかは大きな違いがあると思います。

法座の場合だと、理屈ぬきに「あぁ、ありがたい」「うれしい」「うん」という動きがあっても「こんな簡単じゃない」とか「これは自力だ」とかいろんな「疑い」に覆われて「これでいいの?」となってしまう。
もちろん、そんなものも含めて光に吹き飛ばしてもらえるのだけど、頭だけを働かせて心が閉じていると「邪魔」ばかりしてしまう。

一方では、ほんの少しでも動いた、「願いに対する自分の心」
もう一方ではそんな願いに任せきれない、なにかしらの「疑いの心」

そういうものを、一度受け止めてみることを意識してもらいたかったですね。

法話のあとの座談会が大事なことは先に書きましたが、流れの中で先生などが一生懸命関わってくださっているときに、「どうですか?」と確認されることが良くあると思います。
そういうときに、自分の思っていることをそのまま出すのは難しいようで、自分の今までの知識と照らし合わせた結果を口にしたり、全然いままでの話を聞いておらず自分の求める答えを再質問したり、うわべで優等生的に納得したフリをしたり…そういうのは本当に堂々巡りになりますよね。
それより、たとえそれが周りの人の期待に沿っていなくても、今実際に自分の中でうごめいている「気持ち」を言葉にしてもらったほうがよっぽどいいですよね。
「わからない」「困っている」「腹が立っている」それでいいんです。
あるいは「なんかあったかい感じがする」「なきたい気がする」それでもいいんです。

逆に、全然動いていない感じがあるならば、黙ってしまったり違うことを話し出したりするよりは、今周りの人が話してくださったことを繰り返してみて、自分の口からでた言葉をもう一度聴いてみればいいんです。
何度でも何度でも。
まったく、一切、何も動かない…それならばそれだけのことでしょうね。

頭の納得や理解で進めていって、どんどんうわっすべりの時間を過ごすより、ほんの少しでも動いている「今・ここの・わたし」を大事にしてみたほうが良いんじゃないでしょうか。

自分の心の動きを丁寧に意識する

2008-10-25 00:30:28 | 真宗カウンセリング

明日はいよいよ私が講師をする法座です。
すでに今日になってますね

案内

基本的には華光会の支部法座なので、仏法に関わるところのお話を軸にしますが、そういう仏法の聴聞をする「私」の方に焦点を当てますので、コミュニケーションワーク的なこともしようと思います。

法座というと、ちょっと怖い感じを持っている方も気軽にお越しください。

来られた顔ぶれを見て、話の進め方を考えようと思ってますから、どなたでも大歓迎です。

今日はレジュメをまとめていました。
こういう時間が私にとって聴聞にもなりますし、ありがたいことですね。

まさに、真宗に触れてきた私と、カウンセリングに触れてきた私が、この法座という場で一つになって表現できるときなんですね。
今の私だからこその時間にしたいですね。


地域若者サポーター養成講座 第2回

2008-10-22 01:06:07 | コミュニケーションワーク

ちょっとさかのぼって、土曜日に受講した「地域若者サポーター養成講座」のこと。

前回はちょっとアカデミックな立場から見た現状を、大学の教授に講義してもらったが、今回は現場の人からみた現状を講義。
まずは、大阪にあるサポートセンターの方のお話でした。

乱暴にまとめると「こういうやり方で、こういう成功例があります。ただし、こういう問題もありますけどね」という感じでしょうかね。
前回は現状の問題を突きつけられてマイナスのイメージを持ち、今回は「条件付で成功してます」という話で、私のほうに「じゃあ、その条件にはまらない人は置いてけぼり?」という疑問が残ってしまいました。
つくづく、天邪鬼な捕らえ方をしてる私だなと(苦笑)

数十人相談を受けて、そのうちより専門的な対応が必要な人はそちらを紹介し(たとえば医療的な対応が必要な人とかね)手に負える十数名にプログラムを施して結果を出す。

冷静に受け止める部分では、その十数名が結果を出したんだから、今まで何も出来なかった状況よりも大きな進展だと思いますし、職員の方のご苦労などは尊敬に値すると思っています。
でも、腹のほうにちょっと引っ掛かりが残る。
最初の数十人の中に、他も紹介されず、プログラムにもついていけない一握りの人が居るんですね。
そういう人を先に外して、「プログラム参加者のほとんどが結果につながりました」と言われても、納得できない腹がありますね。
じゃあ、どうすればいいのか…というところが私にもないんで困るんですが。

今回受講している講座が、そういう「プログラムのサポーター」枠を広げて、対応して(結果につなげる)いく人数を増やしていこうという試みなのか、今までの施設や試みで対応し切れなかった部分を受け持っていく施設・人材を作っていこうとする試みなのか…私にはまだ読めていないのです。
もしかしたら、講座をやろうとしている側にも明確なビジョンはなく、まず現状を知っている専門家以外の人材を増やして、知恵を出していこうと言う段階かもしれませんね。

現在実施されているいろんなプログラムの話に戻りますが、十数人にいろんな(社会的)体験をさせていくのですから、最低限「行動できる」という条件にかなっている人が対象になります。
最初の面談で、それが可能かどうかカウンセリングで判断するそうです。
とすると、私の考えている時間(回数)制限や指導、目標設定をしないカウンセリングではなく、それこそ「カウンセリング販売」のように、相手に合うものを探る面談ということなんでしょうね。
そうやって枠内に収まるかどうかで選別しないと、あまりにもの異端子を団体活動に入れたら、団体に悪影響を及ぼすからすべてがパァになってしまう危険があるのは分かります。

じゃぁ、その面談ではじかれた親や子は、その後どうしてるんでしょうかね。

あと「決して、自分の手に余る案件を受けないでください。専門家に任せましょう。こちらもつぶれてしまいます」ということを何度も強調されていました。
これも頭では十分理解できます。
でも…。
むうずかしいことですね。

休憩を挟んで、先にブログにした自己紹介の時間があり、あとは京都の事例を。
まぁ、これから実際に現場で実習をしたりして、施し側の目指しているものと相談に来る方が目指しているものがかみ合っているのかいないのか、体感していくことが必要なんでしょうね。
今回出会った方の生の声を聞かせてもらったんで、余計にそういうことを感じます。

次回は私の都合でお休み。
レジュメを後日いただくのと、講義を録画したものを貸してもらう約束をして帰りました。


 


剥がされて、剥がされて

2008-10-21 03:17:56 | 真宗

日曜日は華光日曜礼拝。
法話は禅宗僧侶という側面ももつS先生。
「さびしい」をテーマにお話いただいたご法話は、私にとっては余計な思いもあってじっくり聞けなかった。
というのは、法話として聞くより、S先生の思いをじっくり聞きたいなと思わされていたから。
ミニカンやエンカウンターでこの話を聞いてみたいなという…
まぁ、これは私のほうの問題。

子どもらは子どもらで分かれて分級へ、大人も座談会へ。
今回は、このあと大学の落語研究会が子どもらに落語を披露してくれると言うので、大人の座談会も時間を区切って観にいこうということに。
で、参加者の自己紹介とご一緒してくださった増井先生のお話で予定していた時間に。

しかしその中に、遠方から初めて参加されたご夫婦が居られたので、声をかけてみた。
わざわざ遠くから時間をかけて来られているので、それなりの思いをお持ちだろうし、落語が目当てで来られたんじゃないだろうし。
一緒におまいりしていたOさんも気にされていたようで、私に「このまま落語でいいの?」というメッセージを顔に出されていた。
「あぁ、私だけが気にしてたんじゃなかった」と、後押しをいただいて、声がかけやすかった(Oさん、ありがとう)

おひとりは座布団に座って、おひとりは少し後ろでいすに座って…私としてはちょっと気になる位置関係だったけど、自然にそうなったならそれでもいいなと思い、こちらも自然に一緒に下に座った男性を中心にお話を聞くことにした。
その方の来歴(ごく一部)と持っておられる質問。
ひたすら聞いていくだけもありと思ったが、質問の形をされるので答えていくのも必要かなと。

その中身は書かないとして、そのやり取りを通じて私自身が答えながら味わっていたことを。

「行を積む」ということにこだわる話を聞けば聞くほど、「ひとつも善をつめないな」ということがハッキリしてくる。
「一旦出来るだけの行をしなければ、出来ないとわからない」ということをずっと聞いてこられて、「じゃぁ、なにか出来るんですか」と聞いてみると「何もできない」と帰ってくる。
ならば、その「しなければ」というこだわりから離れて「できない」というところに立たせてもらうだけなのに、頭で「できない」といいながら「それでいいんだろうか」と心が承知しない。
そう、自分で出来るか出来ないか、自分の力量を調べて納得しなくちゃならないのなら、時間も労力も必要だろうけど、「出来ないやつ」と見越した上で仏願を起こされているのだから。
そして「聴聞が大事」と言い、「仏願を聞く」とハッキリしているのだから、そこに「出来ないやつがお目当て」ということがますますハッキリしてくる。
そのために、この私のために出来上がったのが南無阿弥陀仏だとハッキリしてくる。
それを「いただいておくれ」「称えておくれ」と願いのエネルギーとして打たれ、響いて飛び出してくる南無阿弥陀仏を飛び出してくるままに称えるんですけどねぇ。

そのことを「じゃあ称名が大事なんですか」とされると…うまく伝えられなくてごめんなさいとなっちゃいます。
そこ(称名)に、自力だ他力だというこちらの計らいや、称名が先信心が先などという理解に力を入れるんじゃなくて、そういう枝葉に捉われている私を「役に立たない」と丸ごと救い上げるだけのものがこめられているからこその南無阿弥陀仏なんだなと。


あと、どうしても「信善」「一念」「信後」と時間軸を基準に考える人が居るけれど、私にはその辺はどうでも良くて(まぁそれは乱暴ですが)、「今わたしがどうか」という点(軸に対して)でしかないんだなと。
過去の心境がどうだとか、これからこの心境を保ち続けるだろうかとか、意味はない。
「信がある・ない」じゃなくて、本願のエネルギーを浴びたらこの「役立たず」がうんもすんも「疑う余地がない」
エネルギーを浴びるその「今」のところで、お手上げなんだとつどつど思い知らされるだけ。


もうひとつ、「じゃあ、その心情は親鸞聖人や蓮如上人がどこでおっしゃってますか」ということを気にされる方も居るけれど、どういわれると困っちゃいますね。
言葉ではあらわせられない「一味」ってのが、先人の言葉に出会うたびにあるんですが、逆引きして自分の心情をお聖教に照らし合わせるなんて…ねぇ。
というか、すべての言葉を知っているわけじゃないし、書物に残されていないものもあるかもしれない。
なにより、同じ身の上じゃないんだから、表に表れる言葉の中に潜んだ人生の機微なんてものが摺り合わせ出来ようはずがない。
でも、歎異抄や御文章に出会うと「あぁ」とうなづけるんですね。
それは、そこに人間親鸞や人間蓮如を感じるんじゃなくて、言葉から飛び込んでくる阿弥陀仏にうなづける。
それを「声なき声」って言うのかどうかは分かりませんけどね。


うん、どのくらいの時間だったでしょうか、ご一緒させてもらったことで大きく揺り動かされましたね。
求められている答えは出せていなかったでしょうけど、(ひとつ答えてもそれを受け止める前に別の質問になってましたしね)私は得をさせてもらえう時間でした。

私と一緒に気にされていたOさんが、ずっと一緒に聞いてくださってたのもうれしかったですし、心強かったです。
あとから、私が応対するよりG先生を追っかけてもらった方が早かったかな?という気もしないでもないですが…そのときはそんなことを微塵も考えなかったんで、なるべくしてこうなったんでしょうね。

知識や理解を総動員して、納得できる気持ちを作り上げるのって…大変だなぁと。
っていうか、そんなことできるんでしょうかね。
そういう自分に見切りをつけて、腹底の「理屈を越えたもの」が動くままに、「あぁ」と。
南無阿弥陀仏


生の声、活きた言葉、そんな出会い

2008-10-19 22:56:26 | 日常雑感

この週末、地域若者サポーター養成講座の第2回に参加して感じたことと、日曜礼拝に参加して感じたことなど、ブログに書き込みたい話題がいくつかあります。
こんなことなら、昨日のうちに書いとけば良かったなと。

それぞれ、違う方向に思えるんで、一緒に書くと混乱しそうですから、数日に分けて書くかもしれません。
もしかしたら、時間が経過したら書くのをやめるかもしれないですけどね。

で、何を一番書いておきたいかと自分に問うてみたところ、先日の講座で出会った方とのご縁について、うれしい気持ちが強いのでそのことを。

前回は前の方に座ったんで、周りの方の様子があまり分からなかった(誰が質問してるかわからない状態)んで、今回は後ろの方に陣取って講義を受けておりました。
その内容について思ったことは今日は置いておくとして、休憩時間明けに「近くに座っている人と自己紹介する時間を持ちましょう」という主催者の言葉で、そのような時間を持つことになりました。
若者支援という形で、相手の話を聞くというのはかなり重要な位置を占めるでしょうし、私自身そのこと(コミュニケーション・スキルを考える)が第一の目的でしたから、こういう時間を設けてくださること自体がうれしいことでした。

私の座った机には、後二人の方が居られ、おひとりは休憩で外に出ておられたので、まずはひとりめの方に自己紹介。
その後、相手の方の自己紹介を聞いているところにもうおひとりが帰ってこられました。

その方は、自分の子どもがこういう支援活動を受けたことで一歩進むことができたから、今度は自分の体験を支援活動に役立てることが出来れば…ということで参加されていました。
私自身、こういう講義というものが苦手なこともあり、どうしても机上の部分を聞くことが多いなと感じていたところに、自分の身をもって感じていることを聞かせてもらうのは、すごく響いてきました。
生の声って言う感じですね。

もちろん、講義してくださる内容は大事なことですし、話すことを専門にされている方が整理して上手に話してくださるんですが、私はそういう言葉より、心底から響いてくる言葉を欲しているようです。

その方は、お子さんとのことでかなりつらくしんどい思いをされてきたようで、そのことをいろんな方に支援してもらった喜びを話されました。
同時に、「もう二度とこの方には話したくない」と思わせるカウンセラーと出会われたこともあるようです。

そのとき、ついついカウンセラーの擁護をしかけて自分が居て、自分に驚いた瞬間もありましたが、そのことにはこだわらず、いろいろ聞かせてもらっていました。
そして、自分自身のカウンセリングに対する思いと響きあったところで、私の思いが明確化されてきたこともあります。

そこにはおそらく「プログラム」という形でこれだけの成果がありましたというそれまで講義で聞いてきたことに持っていた違和感にもつながる所でしたね。

「到達点」があり、そこに向けて動いていく流れや、導いていく形のカウンセリング…そのことの重要性や意義は分かった上で、私の思っているカウンセリングはそういう流れに乗せるのではなく、やはり「今・ここ」のところ以上でも以下でもないところで、「一緒に居る」ということを考えていますね。

今回出会って、お話させていただいた方の体験であり実感であるところも、動かそうとするカウンセリングにしんどい思いをされ、寄り添うカウンセリングに出会えたことを喜んで居られるように感じました。

カウンセラー側の思惑もいろいろあり、クライエント側にもいろいろな思いがある。
それを確認しあって、共感し、純粋であり、肯定していくのは、プログラム的に動くのではなく、たとえ時間がかかっても、いやむしろ時間をかけて作り上げられる関係の中で生まれてくるものだと思います。

逆に、行政や教育・労務が主導する支援は、期限や対象に制限があり、その中で出来ることを精一杯やっていくことなんだろうなと。
そのことの大事さを教えてもらうことで、より「パーソン・センタード・アプローチ」ということが私の中で浮き彫りにされてきましたね。


最初の「自己紹介しましょう」という時間はほんの5分でしたが、講座が終わってからも同じ机に座っていた3人で少し話をしていました。
どのくらいの時間でしょうか、もう他の人はみんな部屋を出て、主催者が申し訳なさそうに片づけを始めていました。
出会うって、こういうことでしょうし、「あぁ、なんかご縁ですね」とお互いが口にしている不思議な時間でした。
こんな出会いがあっただけでも、この講座を受けて良かったなと。

次回は、法座の講師を受けていますので一週お休みしますが、それがもったいない気がしてきました。
法座は法座で、すごく楽しみなんで、贅沢な悩みなんですがね。


コミュニケーションということ

2008-10-17 22:14:06 | 日常雑感

コミュニケーションについていろいろ考えていくのがこのブログの中心であり、いろいろな学びや実践を経て深まってきたり、その受け取り方が変わってきたりします。

なんか、硬い始まり方ですが、最近の人との関わりを通して感じていることを言葉にしてみたいと思いました。
つまり、今の時点で思っていることです。
ただ、あくまで「今思っている」ということで、結論にたどり着いているわけではありません。

コミュニケーションというのは、最低でも自分と相手という2者が存在します。
そして、ただ居るというだけじゃなく、その間に伝わるものが存在します。
うまく伝わった状態が「コミュニケーションが取れている」といい、伝わっていないと「コミュニケーションが取れていない」ということですね。ここまでは単純ですね。

では、私がある人に何かを伝えようとするとき、メールなり電話なり、あるいは直接あって”言葉”でもって伝えます。
ところが、そこで表に出てくる”言葉”には、伝えたいことが全部乗せられていないことがあります。
というか、その方が多いですよね。
でも、そういう言葉になっていないところまで受け止めてくれる場合があり、そういう時はとてもうれしいですし、伝わったという気もちが大きくなります。
「察する」とか「行間を読む」なんて言葉があるくらいですから。

そうするとついつい、こっちが言葉たらずなのに、相手に察して欲しいという”欲”が出てしまいます。
察してくれないことを責める気持ちまで出てきますよね。

相手が「自分よりコミュニケーションスキルに優れている」と思っている人だと、なおさら「受け取ってくれて当たり前」と自分の都合に固まってしまいます。
だもんで、そうならなかったときにすごくしんどい思いに捉われてしまうんですね。
「あぁ、分かってもらえなかった…」
「そこが言いたいんじゃないのに…」
という具合です。

しかし、自分を振り返ってみても、いつ何時でも「相手の話をしっかり聞く」体制になっているかというと、とても無理です。
「この時間は聞かせてもらおう」と意識して、初めて「肯定」や「受容」の態度にセットできるんですね。
(それさえまだ不完全ですが)

と、いろいろ書いてきましたが、「あうんの呼吸」というのはとても特殊なことで、コミュニケーションをできるだけ密にするには、相手に何かを求めるんじゃなく、自分の方で意識し、訓練し、経験をつんでいくことしかないでしょうね。
双方が「聞く」「伝える」ということを意識できていれば、かなり「楽な関係」になれるでしょうけど、そういう特殊な状況でしかコミュニケーションが取れないのも困りものですからね。

最近あった、思ってたところを受け止めてもらえなかったという気持ちを数日抱き続けて、「ちょっといやだなぁ」という思いがくすぶっていましたが、今日やっとこういう風に「自分の問題」というところに落ち着いてきました。
これも学びですかね。

明日は「地域若者サポーター養成講座」の2回目に参加してきます。


地域若者サポーター養成講座 第1回

2008-10-14 00:37:46 | コミュニケーションワーク

「地域若者サポーター養成講座」というのを受講してきました。

今まで、法座活動の延長からカウンセリングを学びだしたことと、保育園の関係から親子コミュニケーションを考えることをしてきましたが、ちょっと違う世界も覗いてみようかなと。
違う世界と言っても、まったく未知のものではなく、今までの学びを、今までとは違う場で実践に結び付けられればいいなと考えています。
学びよりも、実戦経験のためという思いが強いですね。

そう考えているときに、偶然にもこの講座の案内が目に入りました。
http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000046150.html

まぁ、この講座やそのあとのサポーター活動は「ニート対策」という行政の動きがメインなんでしょうが、自分の子どももこれから「若者」(この活動定義では15~34才)になって行きますし、同時に親の立場としていろいろ相談を受けたりしていく方々の心配の対象もこの年代が増えてくるでしょう。
そういうときに、こういう講座で「現状」を知っておくのも大事でしょうし、実践的に関わって経験をしておくのも、プラスになるでしょうしね。
このブログでもいろいろ還元できるかもしれません。

さて、そんな自分中心の動機ではありますが、先日第1回目の講座を受講してきました。
今回は大学教授を招いて、「支援が必要な現状」の実態と、「どういう支援活動があるか(できるか)」ということ、そして世界で実践されている「援助活動」の報告でした。
率直な印象としますと、今の日本では「縦割り行政」のつけで、地域・学校・行政の連携がとれず、その責任の不明瞭さ(押し付け)がネックになっているんだなという感じですね。
諸外国の取り組みを聞かせてもらえばもらうほど、この先生は今の日本行政を憂いている感が前面に伝わってきました。

本当は、そういう行政システムを変えていきたいというのが主題で話されたんでしょうが、「システムが変わらないと本当の支援活動が出来ない」ということでしたらこれから講座を受講してサポーターになろうとする私たちには制限がついてきそうでマイナス印象ですね。

そういえば、学校で生徒相談をしている知人がいるのですが、自分の生徒でいる間は支援できても、学校を離れたら関わりが切れてしまうことを問題にされていました。
本当の支援は、学校や行政の管轄で引き継いでいくのではなく、地域が継続的に学校-社会-職場と変わる状況があっても寄り添っていくのが理想なんでしょうね。
この「地域」というのは、かつては近所のおじさんやおばさんであり、私が学生のころだと行きつけの喫茶店のマスターであったり、楽器屋の先輩であったり、そこに行けば相談に乗ってもらえる身近な人間だったんですね。
いま、行政ではそういう集まりの場を作っているんでしょうけど、問題はそういうコミュニティに出かけることが出来ない個々の人であり、その人数が年々増えていってることでしょうね。

まぁ、偉そうに言ってますが、私が個人でなにか動こうと思ってもその力はたかが知れています。
せいぜい、こうして不特定のひとに言葉を伝えるくらいですけどね。

今回の講座には50名以上の参加者がいました。
見た感じ、私より年上で、定年後地域活動を考えている感じの人が半分くらい。
ちょっと若かいめで、ボランティアに関心のある感じの人が残りの半分。
あとは、私と同じように、今子育てで「若者」の親をしている感じの人かな。

どうなるか分かりませんが、今までとはちょっと違う切り口で、今までの私の学びと経験を見つめる鏡にしてみましょう。

ここからは余談ですが、学生時代、授業が苦手で1時間もじっと講義を聞いていられない私にはこういう時間は苦痛でした。
法座やカウンセリングの場が、いかにゆっくりと落ち着いた時間の流れであるかを再確認し、感謝の気持ちがありますね。
とにかく進行スタッフや教授の話が早口で落ち着かない。
まぁ、講義ですからしかたないんでしょうが、言葉を浴びせかけられる感じ。
聞き方・伝え方で大事にすることの逆を行っている気がします。
まぁ、こちらは聴きに行く立場なんで、こちらががんばるしかないんでしょうけど。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 30

2008-10-09 23:54:53 | 親子コミュニケーション

ぼちぼちですが、更新しているうちにまた10件のコラムがたまりました。
ちょっとまとめてみましょう。
やはり4つに分けてみます。

一.こちらの態度
 24-できればいつも笑顔でいたい
 
二.話し方・伝え方
 21-受け止め方と伝え方
 27-しっかり聞いて、それから伝える

三.聞き方
 23-できるだけそのときに聞いてあげる
 25-形だけでなく、いい関係になりたいという気持ち
 29-言葉や態度の裏にある、メッセージ
 
四.その他
 22-聞いてもらうためのテクニック
 26-出来ていないという嘆きと葛藤
 28-自分の中にもある、恐ろしい種
 
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ

だんだん、区分するのが難しい、いろいろと織り交ざったブログになってきていますね。
でも、できるだけテーマを絞りやすいように、意識して書いていきたいと思います。

秋からは保育園や学校でもいろんな行事が続き、親と子が話をする機会が増えますよね。
最初はいい関係を築こうと会話するのに、だんだん気になることが出てきたり、伝わらないことが出てきたりしてついつい感情に負けてけんかになってしまう。
せっかく楽しい団欒のはずだったのに…
できればそういう事態は避けたいですよね。
一呼吸して、ゆっくり相手を、そして自分を見つめながら、響きあい育ちあいしていきたいですね。


「集い」のご案内

2008-10-08 01:40:49 | 真宗カウンセリング

毎年、華光会の京都支部法座の一座として、私が講師を担当する「集い」がある。
基本的に支部の「法座」として開かれるが、通常の法座が「法話」つまり、仏教の説法を元に、自分の信心を見つめていく場なのだが、私が担当するときはちょっと違った側面を打ち出している。

「法話」を聞くというのは大事なことで、自分の後生を「救う」という誓い・願いを教えてもらい、それが「今・ここ」の私が目当てなんだと気付かせてもらう。
しかし、その「聞くだけ」というのが難しく、迷路に入り込んでしまう人が多い。
いざ「法座」となると、そういう「信を得る」という目的がハッキリしているため、うんもすんもなく「目的に達したかどうか」ばかりを追いかけてしまう。

しかし、その前にちゃんと「聞けているか」のチェックはできているだろうか。
ちゃんと「聞く」とはどういうことだろうか。
そのことを、ちょっと見つめなおしてみる時間が大事だと思っている。

そこで、今年も「聞く」をテーマに、「何を聞くか」の中身ではなく「聞き方」に重点を置いて話してみたい。

そして、それは、法座で聞くということにとどまらず、「人の話を聞く」「自分の思いを聞く」といったコミュニケーションや内省にも通じることだと思う。

ということで、ひろくここで宣伝させていただきます。

 『聞く』ということを考えてみよう - 華光会京都支部法座

京都支部の法座の中で、毎年1回は私が担当させていただき、この「聞く」ということをテーマに、話をさせていただいております。
法座ということなので、仏法を聞く…つまり「ご聴聞」のことが一番になるのですが、法座といえど人が集まる場であれば、人間どうしの「聞きかた伝えかた」によって、それぞれの関係が左右されることもあります。

無常と聞かされているので、今すぐにでも仏法の中身を聞きたいだろうとは思いますが、いくら法座の回数を重ねても「聞けていない」のでは意味がありません。
一度、「聞く」ということをゆっくり考えてみませんか。
文責 高橋

日時 2008年10月25日(土)13:30~17:00
場所 華光会館 京都市南区西九条東柳ノ内町22
  TEL:075-691-5241
参加費 500円
講師 高橋京介
お問い合わせ先
高橋京介  E-Mail 
manu.takahashi@nifty.ne.jp
  ホームページ http://homepage1.nifty.com/MANU
申込は必要ありませんので、直接会場においでください。

華光会法座案内