コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

先祖供養に想う

2022-08-24 05:29:27 | 真宗
京都の夏の風物詩、祇園祭からお盆を経て五山の送り火
もはや観光事業となってますが、もともと宗教行事
宗旨は違いますが、疫病除けや先祖供養など、平穏への願いがこもっています


それらを信じ、災厄を畏れ、祈り・願いをささげている方々を否定するつもりはありません
そういう需要があるからこそ、何百年も連綿として続いてきているのでしょうから


わたしの宗教観は、浄土真宗を軸としています
いまでは浄土真宗の寺院でも(法話では否定的な話をしながらも)お葬式や法事を通じて供養し、お墓の守をして「寺院経営」や「教団経営」が行われています
まぁ、それらを求める門信徒さんがあるので、需要に応える(という言い訳)のも致し方ないでしょう


(需要があるから霊感的な商法を宗教として提供しているのと本質な違いはないんじゃないかという懸念もありつつ)


話を戻して、ではお盆やお葬式などの法事を通じて「供養」することの意味は何だろうか…と考えることがあります


災厄などを含め、この”私”に起こる出来事は、誰かのせいや祟りなどではなく、”私自身”の行ってきたことを原因として、結果という形で現れます
これを「因果の道理」といいます
先祖を粗末にしたから、先祖が祟って悪いことが起こるとか、祀らないと土着の神仏がお怒りになって悪いことがおこるとではありません
「自分が原因で、自分に悪いことが起こる」という事実から目を背けるために、他所に原因を置く…その心理はよくわかります


「自分が原因じゃない、悪いことは相手がいて起こる」
ということもわかるのですが、それは「縁」であって、そういう縁を呼び起こすのも私に「因」がある


「あの人と出会わなければこんな思いをしなかった」
と思いたいのですが、そういう人と”出遭わなければならなかった”私の過去の行いがあるのです
その過去の行いとは、生まれてからの人生だけではなく、今の形に生まれる前の人生(輪廻)含めての話です


では、先祖は関係ないのか?


「今の私」を形作っている時間の流れは二つあります
一つが上で述べたような「輪廻」している、私の魂の歴史
ここは宗教的な話として、真実を聞き、自己を見つめることで顕かになってきます


もう一つが私の「肉体の継承」としての歴史
これは父母がいなければ「今の私」はありえません
その父母それぞれの父母、またそれぞれの父母…と、肉体の歴史は果てしないご縁で成り立っています
「先祖供養」というのは、祟らないために祀るのではなく、今の自分を見つめることでそのご縁に「感謝」することでしょう


もう少し拡大すれば、この肉体が今あるのの、生まれて以降食べ続けてきたものによって維持されています
それは「ほかのいのち」です
”食べ物”として自分をごまかして罪を軽減させていますが「いのち」を奪っていることは隠せません
ここにも「感謝」することが大事でしょう


さらには、こういう考え方が自然と生まれてきたわけではありません
”教育”を受け、会話を覚え、読み書きを覚え、そうやって「教え」に出遭ってきました
私一人では何もできません
多くのご縁


この感謝は、「この時だけ」というものではなく、息をしている四六時中感謝すべきです
でも、なかなかできない私です


だから、せめて法事や行事を通じて「立ち返らせていただく」ことが大事だと考えます


おそらくお寺さんなどもこういうことをお話しくださっているのだと思いますが、難しい話になると「お客さん」に逃げられてしまうので、口当たりの良い「ご先祖に感謝しましょうね」となってしまう
(なかにはお経をお勤めして「はい終わり」なんてこともあるようですが)


もちろん、先祖への感謝がないよりはある方が良い


そこから一歩踏み込んで「今の私」を見つめる機会として興味を持ってみるのも大事じゃないでしょうか


生死観    今の心境 つづき

2021-08-08 12:10:26 | 真宗
と、長々書いたのは前段で、ここからが本題

齢も50半ばを過ぎ、身体も病に蝕まれてくると、「死」が身近になってくる
いや、もともと「明日なき我が身」であって、いつ死が訪れてもおかしくないのだが、なかなかそうは思えないものが感覚的に「近づいてきた」となるのだ

では、その「死」とはなにか
私にその答えを与えてくれているのが浄土真宗の教えだ
といっても、これはあくまで私の「領解(りょうげ)」であるので、浄土真宗のなかでもいろんな側面で語られる
ましてや様々な宗教観があるなかで、この考えを押し付けるつもりもない
死生観の一つとして聞いてほしい

平均寿命ということを考えても、肉体的に衰えてくるのは明白で、実際衰えを感じる
「死」など考えずに「ポジティブに生きる」べきだ…という考え方もわかる
しかし、私は「死」は肉体的なもので、私の「本質」は肉体を離れ次のステージに移り行く
なので、死を恐れていない

ただ、その肉体の死によって、今生の関わりが尽きることには恐れを感じる
死ぬことに未練がないわけではない、未練はたらたらだ
死後の行く末が未知数ならば、その不安でいたたまれないだろう
が、私は「南無阿弥陀仏」との出会い、融合によって、その行く末がはっきりと知らされている
また、死は逃れることができず、誰にでも等しくやってくるということも認知している
なので、うろたえることなく、その日が来ることに覚悟を持っている

ではその行く末とは

地獄一定

「因果応報」と教えられた
私がこの肉体を維持するために多くの命を奪ってきた
それ以外にも、言葉や意識で相手を切り付け、殺してきた

「食べ物」という生き物はない、すべて「命」だ

恩師の忘れられない言葉だ
奪った命の分だけ、わが命が奪われていく世界
それを「地獄」と表す
ならば、私の行く末は地獄以外ない

もちろん地獄なぞ行きたくない
逃れるすべがあるなら縋りつきたい
宗教によっては、修業して罪を滅したり、祈りによって赦しを求めることもあるだろうと
「救われたい」という気持ちを人質に、宗教勧誘をビジネスにすることもある
(ひどいところでは、物品を売りつけて贖罪にするという胡散臭いものもある)

ただ、私は

因果の道理は逃れることができない

と聞いた
いまさらあがこうとも、すでに奪った命は帰ってこない

では、それでよいのか

私が阿弥陀様の願いに触れたときに、ひとつは

地獄行きでしかないわたし

という事実を受け入れることと同時に

そんなものを救うために立ち上がった阿弥陀様

という事実を受け入れた

こうして言葉にして表しているが、それは体験的なことであり、どちらが先とかあととかでもなく、どこが境目だとかでもなく、今の私は「受け入れた」状況であるとしか言えない
そのことが、「死」というものを受け入れる根底にある

できるだけそのことを他の人と共有する術のひとつに「お聖教」がある
この体験の先駆者であるお釈迦様の言葉、そして自己の体験を踏まえてそのお言葉を表してくださった親鸞聖人のお言葉
そこを頼りに語れば良いのだろうが、哀しいかな「言葉」に捉われてしまう方が多くある
私の知識技量ではそこを超えることはあきらめた

私の受け取ったものを「理解」するのが大事ではなく
私は受け取った…という事実だけが大事なのだから


生死観    今の心境

2021-08-07 16:02:35 | 真宗
私の宗教観の根源は浄土真宗
親鸞聖人の教えだ
一口に浄土真宗といっても、その立場によって受け取り方は様々

  家の宗派が浄土真宗
  本願寺といえば浄土真宗
  親鸞聖人の教えが浄土真宗

また、その関わり方も様々で

  家が代々浄土真宗だから、そのまま浄土真宗で法事を行っている
  浄土真宗の作法で先祖を供養してもらっている
  浄土真宗の寺に生まれたから、僧侶を相続している
  本願寺という「浄土真宗を商品」とするフランチャイズ組織で生計を立てる
  学問として浄土真宗という教学を学ぶ
  生死の問題を考え、宗教に答えを求めたとき浄土真宗だった
  サークルに勧誘されて、生きる目的が浄土真宗だと教えられた

これだけではないが、私が出会っただけで様々な関わり方をしている人がいる
どれが正解でどれが間違いということはない
それぞれが「その関わりしかしらない」状況なら、そこを突くのは争いにしかならない
実際、元気なころの私は、違いの「正しい浄土真宗」をかざしてずいぶん不毛な時間を過ごしたものだ

今の自分でこのことを俯瞰するならば

様々なご縁を通じて阿弥陀様に出会っている

という感覚だろうか

もう一面では

他の人はどうでもいい、私がどう関わるか

と覚めているともいえる

長くなったので続きは次回に

名前にこめたもの

2020-09-05 07:41:26 | 真宗

子どもらに仏法を聞いてもらいたい

その根本願望は、力が入っていた時も力が抜けた今も変わりません

私の願望は願望として

でも、それを「絶対」とはせず、子どもらは子どもらの「選び」として

 

とはいえ、ご縁はつけておきたいので、子どもらの名前を付けるときに思いっきり願いを込めています

子どもらの生まれたときは「絶対に聞かせよう」と思っていたから余計にこだわってますね

 

4人の子どもがいますが、すべてほとけさまの「おはたらき」を紡いでいます

 

一人目は「深法」

「みのり」と読みます

「法」というのはほとけさまの願いそのもの

ほとけさまの願いを「仏法」と呼び、願いを聞くことを「仏法を聞く」といいます

法だけのことを「御法」といい、「ごほう」あるいは「おみのり」

といいます

私がほとけさまの願いに出会わせていただいたのが浄土真宗で、その宗歌のはじまりが
「深きみのりに遇いまつる」

なので、その漢字をいただき、深い法で「深法」

 

二人目は「真実名」

「まみな」と読みます

「名」というのは名前、ここでは阿弥陀仏という名前のことです

この「阿弥陀仏」というのはただの呼び名ではなく、あるほとけさまが、すでにご自身は悟りを開いているのに、衆生を救うためにわざわざ仏の位を捨て修業しなおしてくださった、そしてこの私を救う手立てが出来上がったときに「阿弥陀仏と名乗る」と誓われた

つまり、その名乗りが「お救い」でありほとけさまのおはたらきそのものなのです

「称名」というのはそのお名前を称えさせていただくこと

先に書いた宗歌の中に「六字の”み名”をききひらき」とあります
なので「まことのみ名」なので「真実名」

よく「真美名」と間違えられますが、”真実”というところに意味があります

 

三人目は「光」

「こう」とよみます

ほとけさまは姿・形がありません

みなさんがよく知る姿は、拝みやすいように人間の形を模して表されたもの

(だから偶像崇拝だと批判する方もいます)

ではどういうものなのか…一番イメージしやすいのが”光”です

まぁ、これも人間の知覚に合わせたイメージですが、光り輝くものは神々しく感じる、崇高に感じる、そういうことですかね

そしてもうひとつ、”光”には、ほとけさまの「知恵」「慈しみ」「願い」という側面もあります

お経を和訳したもののひとつに

ひかりといのち きわもなき

とはじまるものがあります

光明無量 寿命無量

のことで、そのお知恵やお命に限りがないと讃えているものです

だから、いつでもだれでもどこでも「いまそこにあるまま救う」と誓ってくださっています

 

四人目は「聲」

「しょう」とよみます

残念ながら、この漢字は常用漢字ではないので、学校などは「声」にしています

最近では「聲の形」という漫画・アニメになったので、少しメジャーになった字ですね(その勢いで常用漢字化してほしいのですが)

聲というのはほとめさまの呼び声

お前を必ず救うぞ

という力強いお誓いのことです

名聲超十方

という言葉がありますが、その聲は十方を超えるというもの

十方は四方八方に上下を加えたあらゆる方角、いやさらには過去も未来も超えた「あまねくいまここ」

 

と、どの名前にもほとけさまそのもの、願いそのものがこめることができました

 

その想いを子どもらに知ってほしいという力みはやはりありますが、こちらからの押し付けでなく、いつか子どもらが自分から向き合ったときにきっかけ、機縁となれば

 

そのときに直接伝えられたらいいのですが、こうして記録しておくことで

まぁ遺言ですね


伝道ということ

2020-09-04 09:46:11 | 真宗

自分が出会いお聞かせに預かった「仏法」というもの

これをどう伝えていくか

この人生の半分以上をかけて模索してきた気がする

活力ある頃は「聞かせていただいたものを、次に伝えるのは当然のことだ」という半ば使命感のようなものでとらわれていた気がする
特に、我が子に対して「それが親の責務だ」と

 

そう思わされた根拠は「この”私”において」お聞かせにあずかったのは、先達たちが私に伝えずにおれないという思いをもって伝道してくださった事実があるから

もしその流れの誰かが「もう伝えるのをやめよう」と思っていたら、私への道は閉ざされていた

だから、私が止めるわけにはいかない、と

 

しかし、いつしかそれは相手に対しての押し付けの感情となり、「私が止めるわけにはいかない」という思いへの自己満足となっていることに気づいた

 

相手のための伝道ではない、自分のためのものだ

もちろん、そのことは私にとって意味がある

 

もう一方で、子どもへの執着という面もある

この子が私のことして生まれてきた”ご縁”は、仏法を聞くためだ、と

しかし、その思いも力が入りすぎていたように思う

親子といえど仏法の前では「個」だ

子どもの後生・迷いの世界の責任を親がとることはできない(もちろんその逆も)
独生独死

 

もしこのまま我が子が仏法と縁がなく、哀しむべきことになったとしても私はその責任をとれない

そして、私がその哀しい思いをする責任は子どものせいではなく、私が私の”業”によって、引き起こし、引き受けていかなければならないもの

仏法を聞かない子どもと縁があったのは、私のせいなのだ

もし、喜ばしいことに仏法に出会う子になってくれたとしたら、それは私の手柄ではなく、仏様の手柄だ

当然のことだろう

 

などということを最近漠然と考えていた

伝道を押し付けることはしないが、私の思いを残すことで、もし何かが生まれるのならば

そんなことを考えて、少しずつ記録しておこうかなとも思う

 

ちょっと思索にふけるまとまった時間をもらう環境になったので

でも、長時間のPC作業に目が耐えられないので、とぎれとぎれになるのはご容赦願いたい
(あと、誤字脱字や文章の区切りのおかしいのもご容赦を)


伽藍…がらんどう

2019-04-22 19:17:06 | 真宗

じつは、昨年お出かけして、このブログで報告してた「お礼参りツアー」の記事はまだ完結してない
この旅で一番のテーマにしてたことが、どうにもうまく言語化できず、さらにはその後のいろんなご縁で、さらに”深く感じ”、余計に”軽く言葉”にすることが躊躇されている


そんなことをずっと感じながら、今日久々に西本願寺をお参りした

そのきっかけとして、SNSでお友達が発信してた話題を私なりに言葉にしたかったこともある

仏弟子の名乗り

帰依するということだが、何に依るのか


仏の道に入るということで、その根源として「仏陀の弟子」となる
お釈迦様の弟子

確かにお釈迦さまは「人間として」悟りを開かれたので、その弟子となって仏の道を説いていただく
が、”救い”を与えるのはお釈迦様ではなく、阿弥陀様

もちろん、宗派によっていろいろ違いはあるだろうけど

この私にとって依るべきは弥陀の誓願でしかない


ということで、西本願寺の阿弥陀堂をお参りしに行ったのだが、なんと内陣修復中ということで、本堂の中に壁を作ってさえぎられていた

まぁ、そこに在るのは”象徴”としての仏像であり、阿弥陀様はそこには在らず…
また、姿かたちも「人間」が、象徴として感じやすいようにしてあるだけで、阿弥陀様の存在は固定で現されるものではない

逆にいえば、仏壇にお参りせずとも、いつでもどこでも「ここ」に在られる

そのことを常に忘れるわが身だからこそ、固定の場所や物を通して出会わさせていただくのだが


何に依るのか

ぐるぐるとそういうことを、今時のお寺や儀式の意味なんかも含めて、のんびり考える時間を過ごした
(この先を言葉にすると、いろいろ批判的になるので今はやめておく)


そうそう、阿弥陀堂のご本尊は、隣の御影堂に移されて待っておられた


義父の還浄

2013-01-20 23:32:34 | 真宗

1週間前の日曜早朝、連れ合いのお父様が死去された。
タイトルの「還浄」というのは、「お浄土へ還られた」という意味を込めて。

義父、池永文雄は新潟の雪深い山村の寺で生まれ育ち、学生時代から京都で生活されていた。
なので連れ合いは京都生まれ京都育ち。
今はご両親とも新潟の寺で暮らされていたので、一応新潟へ寄せていただくときは「連れ合いの実家へ帰る」という言い方をしているが。

義父は寺の住職であるということと、京都在住のときはK会で先生もされていたということもあり、連れ合いも浄土真宗の教えの中で育った。
私は、連れ合いと知り合いお付き合いする中で「お義父さんに認めてもらう」ために仏法を聞き始めた。 
そうさかのぼると、お義父さんの存在がなければ私は浄土真宗と向き合うことはなかった。

きっかけはいろいろ複雑なものもあったが、K会に出入りするようになり、不純な動機ながらも諸先生方のお話を聞かせていただくことで、いつしか「認めてもらう」ということから「自分自身の後生の問題」へと移っていった。
思い返せば、それまでは「聞かせてください」などといいながら、何も聞こうとはしていなかった。
しかし、お義父さんとの関係がなければ、そこにまでいたっていないのだから、お義父さんはまさしく「お浄土より人間の姿で現れ私を導いてくださった」仏様であった。
なので、一仕事終えて、人間の身としての役割を終えられ、お浄土へと戻っていかれたのだ。

お義父さんとのエピソードはいろいろあるが、一番私にインパクトを与えているのはお子さん方につけられたお名前。
連れ合いは長女で「利華」これは「蓮華」でもある。
そして二人の息子さんには「至」と「得」
合わせて「得至蓮華」はお正信偈の一節だ。

もちろん、そんな表面的なものだけではなく、お義父さんの好きなお酒をご一緒しながら、真宗やカウンセリングのいろいろなお話を聞かせていただいた。

今年の正月も新潟で過ごさせていただき、京都へ戻る日に偶然30分ほど二人だけになる時間があった。 
最初に「K会はどうなってる?」という問いこそあったが、あとはずっと私の話を聞いてくださる。
私自身の最近の心境を話しても、否定も意見もされず、ずっとニコニコと。
カウンセリングマインドを持ちながら、おおらかに受け入れてもらう感覚。
私が目指そうとしている、「人間的にカウンセリングマインドで受け入れながら仏法のことを語る」姿がそこにはあった。

悲報を聞き、新潟で出会ったお義父さんの表情は、そのときと同じ柔和なものだった。
憂いも感じさせず、悼みも感じさせず、そこに居られた。
そのことがまだ”別れ”を迎えたことを実感させない。

少し落ち着いたら、お義父さんにまつわるいくつかの話もアップしていけるだろうけど… 

 


出会いと別れ

2011-09-22 18:42:39 | 真宗

今回の旅行先は、越後の地。

親鸞聖人御流罪の地として、また”法然門下のひとり”から非僧非俗の宣言により”宗祖”としてひとり立ちされる過程の地として、重要なものであり、そこに思いをはせることで「真宗とわたし」ということをじっくりと味わうことが出来る。

しかし、私自身にとっては別の意味も色濃いものだった。

 

 

実際、ここ数年聞法旅行は欠席したきたのだが、今回参加したのには個人的なわけがある。

ひとつは、親鸞聖人750回大遠忌事業のひとつとして行われる行事としての、大遠忌事務局の担当として。

ただそれだけだと、ほかの担当との振り分けということになるが、この旅行を担当したのはもうひとつのわけの方が強い。

 

この越後の地には、京都在住時に華光会で活躍されたI先生の御自坊がある。

I先生は、私の連れ合いの父親…ということは私の義父ということだ。

布教師として多忙のI先生は、地元上越に居を移されてからはなかなか華光のお座に参加してくださることが少なくなった。

私自身は、お正月やお盆の際に連れ合いの里帰りに同行し、先生のお話を聞かせていただく機会はある。

しかし、諸事情(苦笑)により、華光で聞かせていただけるような核心を突いた部分はなかなかお聞かせいただけない。

なので、先生が華光という場で、華光同人を前にしてどのようなお話を聞かせてもらえるのか、とても楽しみだった。

 

思い返せば、それまで華光会はおろか、浄土真宗にもまったく縁・興味のなかった私が、たまたま今の連れ合いと知り合わなければ、私の人生…いや三世を貫く魂の行き場は大きく変わっていた。

連れ合いとの交際を認めてもらうには、当然連れ合いのお父さんに気に入られることが必須。

私にとっては、聴聞の姿を通じて「なかなかいい青年だな」と認めてもらうこと。

そう、弥陀の大悲よりも、今生の利益が大目的で、聴聞はその手段でしかない。

 

しかし、そういう理由でもなければ仏道に入る輩ではなかった。

 

それだけ大恩のあるI先生だが、体調に不安を抱えておられる。

数年前にペースメーカーを埋め込み、その後ほかの患いも発覚し「余命」ということを口にされる状態だ。

先生の御自坊にみんなで参詣するという案もあり、場合によっては先乗りして準備のお手伝いも必要だと覚悟していた。

残念ながら、同じ上越とはいえ、聞法旅行行程の「居多ヶ浜」や「ゑしんにの里」から先生のお寺まではかなり距離がある(ほとんど長野県境の山中だ)

結局、宿泊地の「赤倉ホテル」にお出でいただき御法話をいただくことになったが、体調のことも考え、上越に着いたら別行動をして送迎をすることも考えた。

が、ある方がお寺と赤倉ホテルを往復して送迎してくださることとなった。

 

結局、私が特別参加する必要はなく、ひとりの参加者としての位置だけでよくなった。

いや、逆にこれだけの縁が整って、この日、この場所で、I先生を通じて仏縁に出会わせてもらったのだ。

 

 

先生のお話は

“一宗の繁盛と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。

                     一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁盛に候ふ。“ 

という蓮如上人のお言葉を御讃題に、聴聞中心の生活をされたご当地「赤倉のショウおばあちゃん」の逸話、ご自身の体調のお話をもとに、「信をとる」ということをお話くださいました。

 

今回の出会いを通じて、I先生とのご縁に心は引きずられていきます。

しかし、そのご縁に感謝するのではなく、ご縁を通じて「信」を得ると言う身になれたこと…それが一宗の繁盛であり、弥陀の御本願であるということ。

 

知恵のない私には、人のご縁を通じてしか知りえることができない。

感謝の言葉を並べることは出来ますが、それは望まれていないことでしょう。

先生のお姿を思い返すたびに、お念仏でかえさせていただくだけ。

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 


大事な人ほどすぐそばにいる

2011-09-20 18:31:05 | 真宗

3日間、華光会の聞法旅行に行って来ました。

今年は親鸞聖人大遠忌750年ということで、聖人ゆかりの地「越後」へ。

 

最近、いろんな方がこのブログを見てくださっているので、一度「浄土真宗」「親鸞聖人」ということについてもお話したいですね。

でも、いまそれやると話がすすまないんで、今回はパス。

 

この越後御旧跡巡拝だけでいろんな話題が書けるのですが、今日は軽く宴会の話題。

 

普通の旅行でしたら宴会と聞けば飲んで歌っておしゃべりして…を想像しますが、華光の聞法旅行はちと違う。

それぞれに趣向を凝らして、味わい深い「仏法」味あふれる芸を披露してくださる。

(そのために、観光や温泉そっちのけで悩む人もちらほら…)

 

以前は司会や進行などの役割が多かったんであまり表舞台に出ることはなかったけど、しばらく聞法旅行を休んでいるうちに後進が続々育ってるので、そのあたりはお任せしてのんびり観賞。

ただ見てるだけもさびしいので、ちょっと歌で参加しようと…というか、出発前から”歌うならこれ”と決めていたものがあった。

カラオケで歌うのも味気ない、というか、オリジナルのテンポは速いんで、ゆっくりとゴスペル・アカペラ風の味付けで。

思惑は、皆さんにコーラスで参加してもらおうと最初に指導したけど、ちょっと平均年齢が高く、洋風のノリはつらかったようで…手拍子だけで参加してもらった。

 

 

この歌は、あるテレビ番組で企画ものとして聞いたときに、メロディと歌詞が心に残った。

この歌詞そのままで、弥陀の大悲心が感じられそうで。

ということでちょっと紹介。

 

1番は省略して2番の歌詞。

 

  あなたは気付く 二人は歩く暗い道でも日々照らす月

  握りしめた手 離すことなく 思いは強く 永遠誓う

  永遠の淵 きっと僕は言う 思い変わらず同じ言葉を

  それでも足りず 涙に変わり 喜びになり

  言葉にできず ただ抱きしめる ただ抱きしめる


  ほら あなたにとって 大事な人ほど すぐそばにいるの

  ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け恋の歌

  ほら ほら ほら 響け恋の歌

   (作詞 Kiyosaku Uezu )

 

つかず離れず、決して見捨てないぞとの、かならず救うぞとの誓い。

 

  ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け南無の声

  ほら ほら ほら 響け南無の声

 

 

まぁ、一発歌っただけでは歌詞は十分伝わらなかったと思うんで、ブログで紹介ということで。

 

オリジナルは「モンゴル800」というバンドで、かなりはやいテンポのバージョン。

私が聞いたのは、小田和正が毎年やってるイベントのなかで、この作者の「キヨサク」をすごい面々がコーラス参加して歌ったバージョン。

「YouTube」見てたらアップされてたんでリンク貼っておきます。

小さな恋の歌

(こういうコーラス目指してました)

 

 

 

 

 


お盆に心を寄せて

2011-08-16 20:03:55 | 真宗

祖母の初盆でした。

 

祖母が一人で住んでいた家はすべて片付け、いくらかの品々は私の家に来ていますが、まだ整理できてません。

ずっと祖母の家にあって、子どもの頃祖母が拝む後姿を見ていたお仏壇も、その大きさのため誰も引き取ることが出来ず、どうしたものかと。

その後、祖母の死によって一旦立ち消えていた母の引越しをすることになり、新居にあわせてお仏壇を新調することに。

まぁ、引越しするしないに関わらず、大きなお仏壇は無理なので小さいものにするつもりだったので、それにあわせて祖母の位牌は小さいものにし、同時に祖祖母や祖父らのお位牌も一つにまとめてました。

 

で、引越しも終わり、お仏壇も納入され、この初盆のお参りにあわせて仏さまの魂入れも行なわれます。

 

と、以前のエントリーにも書いてたと思いますが、祖母の宗旨は臨済宗。

なので、お仏壇の中央には仏様が居られます。

これは前のお仏壇から引き継いだもの。

じつはお仏壇は一番小さいサイズにするつもりだったのが、この仏さまが大きすぎて入らないということで少し大きいサイズのものに(ほとけさまも新調すると高くつきますしね)

 

で、無事、お仏壇のお披露目とお参りが終了しました。

 

 

 

お盆といえば、ご先祖などの霊がこの世に帰ってくるのでそれをお迎えしたり送ったり。

(京都では、今日五山の送り火-通称大文字焼きが行なわれます)

しかし、真宗でお話しを聞かせていただいている身としては、そういう先祖を供養したりはしません。

先祖の皆様は、それぞれ仏になっておられたのなら、子孫のために戻ってくることなどなく、お浄土で自分の子孫かどうかなど分け隔てなく、仏としての仕事をされているでしょうし、もし成仏せずに地獄へ落ちておられたとしたら、子孫のことどころじゃなく自分の業を受けておられることでしょう。

なので、お盆だからと先祖を供養する必要はないんです。

逆におろそかにするからといって祟ってこられることもないですしね。

(そういう感情を刺激して、高額のツボなんか売りつけるのは宗教じゃありません)

 

じゃあ、お盆参りはいらないのかというとそうは言いません。

今の自分を省みて、そういう血縁的な流れがないと今の自分がないんだということを思わされ、そういう意味でご先祖に感謝するというのはとても大事なことです。

子どもらにそういう”感謝”を感じてもらうためにも大事なイベントになるでしょう。

 

本当の感謝は、わざわざお盆に限定せずに、常日頃行なっていくべしなんですが、なかなかそうは思いが至らない。

なので、せめてお盆というイベントを通じて、そこに帰らせてもらう。

感謝ということと、忘れっぱなしのダメダメな自分だということと…。

そして、そんな愚かしいものしか持ち合わせていない自分自身は、どう転んだって成仏なんか出来ない身なんだと。

自分の犯し続ける罪というものは、無かったことには出来ないんですし(自覚できるできないはありますが)その報いは受けていかねばならない。

それは親の因果を受けるのでもなく、子どもらが報いていくものではなく、自分自身が引き受けていかねばならない。

自分自身じゃ「そんなに悪いことなの?」って思うようなことでも、しっかり種になっている。

(後生だけじゃなく、今生の事でも、自分で認識してる以上に問題の種になってることはありますもんね)

 

そんな愚かしい身だということを、見抜いて、そんな私を仏の身にするためにはるか昔に立ち上がってくださってる方が居ることを、お盆というイベントを通じて振り返るのは、とても意味がありますよね。

 

まぁ、そういうお話をしてくださる僧侶が中々居られなくて、分刻みでお参りをこなすのが精一杯なのは寂しいことですが…

 

さて、五山の送り火が始まったようです。

 

南無阿弥陀仏