コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 45

2010-01-29 00:05:00 | 親子コミュニケーション

久々に親子コミュニケーションの話題

先日見かけたちょっといい光景。

ショッピングセンターで2歳くらい男の子が展示台をけっていた。
そういう乱暴な光景を見ると「きっと親が普段乱暴な言動をしてるんだろうな」と勝手に想像していた。
ちょっとすると後ろから「けっちゃ駄目」と母親が寄ってくる。

「きっと怒ったり、命令口調で”駄目”を押し付けるんだろうな」と思っていたら、お母さんはすっとしゃがんで「けられたら痛いんだよ」と一言。

子どもと同じ目線で、やさしく教える。
子どもが反応すると笑顔で受け止めて、手をつないで歩いていく。

ほんの些細な情景ですが、うれしい気分になりました。


目の前の出来事として、叩いたりして痛みで「駄目」だと覚えさせる方法もあるでしょう。
大きな声で恫喝して「繰り返さない」ようにしつける方法もあるでしょう。

でも私は、時間はかかってもわかってもらうことが大事だと思ってます。

もしかしたら、子どもは同じことを繰り返すかもしれない。
そういうときでも「前にも言ったでしょ」ではなくて、そのときの出来事に対してもう一度「教える」
時間もかかるし、何度も何度もかける根気が必要かもしれません。
親の側もそうそう余裕はないかもしれません。

でもこの関わり方は、そのつどつどの出来事に対してだけではなく、親子のコミュニケーションを積み重ねていくことが出来るんだと思います。


いきなり話題は飛ぶかもしれませんが、ニートの問題や自死を選ぶ人に関わっている(困っている)方々の話を聞く機会が何度かありました。
そういうときに良く出てくる言葉が「もう少し関わっていれば…」という。

直接的に何かを聞いたりしたりすることではなく、”関わり”を問題にされます。
それは一瞬の出来事で出来上がるものではなく、時間をかけて積み重ねていくものです。
(関わりが壊れるのは一瞬でできますが)


昨年まで受けていた保育園の保護者会から離れ、ちょっと「親子コミュニケーション
」の話題が減りがちでしたが、4月からまた新しい関わりを請け負うことになりそうです。
親子問題で悩んでいる方々と出会う機会が増えれば、またこういう話題が増えてくるかもしれませんね。

 

  44-ほめること
  43-こけてもいいよ
  42-追い込む言葉
  41-会話と言語発達
  40-31~39のまとめ
  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ

  番外編


京都支部学習会 1月-2

2010-01-28 00:27:25 | 「聞き方・伝え方」学習会

先週の学習会の件つづきです。
と言っても世間事にかまけてる間に気持ちもうつろってます。
記憶に残っていること中心に、今の気持ちで書いていきましょう。
結構大事なことを話したと思ってますから。

「聞き手・話し手」の実践・分かち合いをした後、その「話し手を大事にする」感じを座談に活かす方法として、昨年「円座禅」のワークで教えてもらった「シャベラー」君を使った形式を取り入れました。
円座禅のようすはこちら

誰が話し手なのかはっきりさせることが目的で、話し手が「話しきった」と判断するまで他の方はしっかり聞き手に回る練習です。
話し手をはっきりさせるだけじゃなく、一人代表の聞き手も設定します。
誰もいなければ私がするつもりでしたが、「誰かお願いできますか?」とたずねると一人の方が手を上げてくださったのでお願いすることにしました。

何人かの方がシャベラー君を手にして話してくださり、そのあと分かち合いをします。
話す方は最後まで聞いてもらえる安心感を。
聞き手の方は聞いていて応えたくなったことを言うタイミングがはっきりすると言う安心感を。
それぞれ感じてくださったようです。

誰かが話をして、そのことに答えたい。
でもまだ話が終わってないから聞いていようと思う。
そのうち他の人が話し手の言葉をさえぎって質問したり、言いたい事を言い出してしまう。

こういう場面は座談に限らず良くあることですが、そのことで
言いたいことがいえない
いつ応答してあげたら良いかわからない

というしんどさを感じている人がいっぱい居られます。

今回はシャベラーくんという象徴を使うことではっきりしますが、「そこにいる人を大事にしたい」という気持ちが浸透していけば、普段でも出来るようになってくるはずです。

その後、いくつかの話題や感想を通じて、ひとつだけ「学習」としてお話しすることにしました。

「上手な聞き方」というのは、言葉で伝えて身につけていくのは難しいのですが、「上手くない聞き方」というのは事例を挙げて示すことが出来ます。
その中から、「話し手が自由に話すことを阻害する聞きかた」について。

分析する聞き方
評価する聞き方
誘導する聞き方

言葉は違ったかもしれませんが、この三つについて話しました。
すべて、話し手の方の言葉に、聞き手である私の考え方や思いを乗せてしまう聞き方です。

世間の関係では、ことを早く進めるために、聞きながら想像力を働かせて、「一を聞いて十を知る」ことが美徳とされます。
しかし、話し手の思っている「十」と本当に一致しているでしょうか?
むしろ「十」聞いても「一」も受け止められていないんじゃないでしょうか。

だから、話されることに足さず引かず、想像したり先走りして引っ張り出したりすることのない聞き方。
これは簡単なようでとても難しいですね。

このことだけでまたいろいろ書けそうですが、今回は記録として、この辺までにしておきます。


京都支部学習会 1月

2010-01-24 23:31:08 | 「聞き方・伝え方」学習会
土曜日は京都支部の学習会でした。

広島から、石川から、愛知から…参加したいという気持ちを持ってきてくださいます。
とてもうれしいことです。
あと、京都大阪の方々を加えて総勢14名。
ちょっと一人で気を配るには多い人数ですが、何人かの任せて安心できる方々も参加してくださっていたので、無理に気負うことなく。

最初に2分間の黙想。
この黙想が終わって分かち合いをしているときに一人、また一人と少し遅れてこられる方がおられます。
まったく気にならないといえば嘘になりますが、そういう方が居られてもゆったりとお迎えして、今の状況を説明しどうして欲しいかをお話できる自分を感じていました。

まったく初めてカウンセリング的な集まりに参加する方も居られましたので、この学習会の趣旨を少し話させていただきます。
これが私にとって新鮮で、初めて半年たったところでもう一度初心を振り返るいい時間になりました。
これがまた、私をすぅーっと静かに収める効果がありましたね。

こうして初顔の方と、常連の方が居られると「双方に喜んで欲しい」という欲がむくむくと湧き出すのですが、「事情で途中で帰らなくてはなりません」という方が居られたので気持ちはすっきりと、最初に「実践」しましょう、と落ち着きました。

人数組みが難しかったのですが、3人組が三つとペアが二つ。
私は外れて全体を見せてもらうことにしました。
まったくミニカンが初めてというお二人を3人組に入れることにして、あとは座った順に番号を振ってもらって同じ番号の人と組むという方法。
これがまた図ったように各組に任せておける経験者が。

「どういう役割があるか・時間は・聞き手の注意すること」をお話して、あと場面設定のルール「10分間は○○さんの時間・自由にお話ください・秘密は守ります」という宣言とその意味を説明します。


で、各組で「聞き手」「話し手」「傍観者(観察者)」の役を決めてもらいスタート。
私はちょっと足の怪我もあったので壁際のいすに座ってあちこちを見せてもらいます。
すると、最初に「聞き手」になっている方がどの組も安心して任せられる方々。
その聞きぶりも、対する話し手の楽な感じも、チェックすることなんか何もない感じ。
そんな状況にひとりホッとしてる私でした。

その間にちょっと自分の気持ちを見つめていました。
いつもは役割を「観察者」としているのですが、なぜか今日は「傍観者」という言葉が出てきました。
参加者から指摘があり「観察者では?」とも言われたのですが、なぜか「今日はこの言葉が使いたい気持ちがあります」と答えています。
それがなぜなのか?
ちょっと考えてみたときに浮かんできたのが「傍観」というのを、一般的に使われている「一歩ひいて当事者から離れている」という消極的な感じではなく、その字が表す「傍らで観ている」という感じで「そばで寄り添っている」というイメージを私が抱いていたんだなと。

まぁこれは余談ですが。

ひととおり役割を交代して終えた後、分かち合いです。
今回はちょっとテーマを提示しました。
ひとつは「うなづけていたと思うか」
もうひとつは「話し手の時聞いてもらってるという感じがあったか」
これは毎回参加している経験者向けの課題かなとも思ったんですが、尋ねてみたい気持ちに任せて。
その奥には、全体を見せてもらってるときに、ずいぶんみなさん上手にうなづいて聴いておられるなと感じたことがあります。

まだ前半ですが、一度この辺でアップして、続きは次の機会に。

ミニカン継続学習会 1月

2010-01-22 00:13:11 | ミニカウンセリング
日曜日には日曜礼拝
火曜日に伝道研究会の新年会
水曜日に真宗カウンセリング研究会の世話人会
そして今日、1月のミニカン継続学習会がありました。

ブログを「日記」として意味つけるなら、格好のネタがつづいているのですが…
しかし、これらのプラス方向に心を動かしてくれる出来事と同時に、仕事がらみの折衝や出張、足の怪我(自転車でこけちゃいました)や体調不良(風邪のようです)などマイナス方向の動きも進行しています。

仕事や役割的にも少し身体に負担を掛ける必要もあったので、コメントへのお返事やブログ更新を後回し。
ちょっと早めに寝たりしてました。
(まだ体調不良は引きずってますが)

過ぎていった出来事に対して、その時点の「書きたい」モチベーションはいろいろなあとの出来事の出現で変化していますので、何かの機会に書きたくなったらそのことも交えて書くことにしたいと思います。

で、今日はホカホカのミニカンの話題。

月一回開催されてはいますが、いろいろな出来事をはさむととても久しぶりな気がします。
私にとっては、普段の生活とは違った「ゆったりと時間に任せられる」稀有なひと時です。

今回はM先生も参加されたので、久しぶりに世話役3人がそろい、4名の参加者とで7人。
最初のチェックインで、足の怪我や風邪のことを話しました。
すると、なんか話したことでその問題が軽くなった感じがします。
しんどさや痛みは相変わらずあるのですが、そのことに集中していた気持ち(そのことを話題にしたかった気持ち)が報われて昇華していく感じです。

ちょっと声を出し辛いこともあったので、前半はペアを離れてタイムキーパー。
皆さんが話し・聴きしているよこで、のんびりと昨日の世話人会で固まった来年度の予定をスケジュールに打ち込んでいきます。
そんなことをしながらも、回りで作られる空気感に浸ることが出来ます。
安心できる時間・空間なんですね。

休憩を挟んでペアを交代。
最初は後半も外れようかと思ってたんですが、流れに任せて。

最初休んでいた分、先に話し手を選び、自分に今の気分を尋ねてみます。
するとやはり身体のことが浮かんできたので、怪我のことと、年齢的に身体の反応が鈍ってきて怪我をしたという原因、そしてそのことに対する悲しい気持ち。
今度は怪我を引きずったまま仕事相手と会う必要があったときに、怪我を悟られないように無理をしている自分のこっけいな姿…
そんな風に、気持ちの動くままに話をさせてもらってます。

そうすると、聴いてもらっていること(自由にさせてもらっていること)にふと気づき、そのことへの感謝の気持ちが出てきます。

ほんとうにこれは楽なことですね。

自分のほうからは出てこなかったんですが、カウンセラーさんの振り返りのときに「安定してる感じ」という言葉をいただきました。
言われてみて「そう見えるんだ」という感じと、「言われてそう気づく」感じを味わっていました。

役割を交代して今度は聞かせてもらったんですが、最初はしんどいことを抱えておられる話題だったのが、そのしんどさをしっかり正面から受け止めている姿を見せてもらうにつけ、ここにいる”人”がとても大切に思えてきました。
法座でもご一緒している方ですから、自然と仏法との関わりの話にもなってきます。

そこに”人”が居る
そこに”法”が在る

私にとって素敵なものを見せていただいた気がして。
ありがたい時間でした。

法をベースにした、人間が中心に在る関係

あらためて体感させていただきました。

土曜日には京都支部の学習会があります。
このままいい感じでそのときを迎えられそうです。

信心について…再び

2010-01-17 02:54:21 | 真宗
昨日アップした記事にコメントをいただき、それに応えようと書いていたら少し長くなったので、せっかくなんで記事としてアップします。

>言い換えれば「信心」は称名念仏の付属物。
ということに疑問をいただいたことで、私自身もう一度そこについて書いてみたいと思いました。

信心と念仏を分けて考えると、それは段階を踏むいただき方で、阿弥陀仏の「南無」に応えるものではないと思えます。
信心をいただいてから念仏する…
それは信前の念仏を否定したりする考え方から起こっていることが多いようですね。
信心をはっきりさせてから報恩の念仏を称えるという。

でも、そこがこだわりどころの方も多い様ですので、もう一度言葉にしてみます。

信心ということを考えると、「そこに願も行も具足しているよ」と差し出された南無阿弥陀仏を、称えるということはそのことを了解している…逆に言えば、そのこと抜きに南無阿弥陀仏の意味も意義もないのですから。
信じないで称えているのは南無阿弥陀仏に意味があることを疑っているのですから。

じゃぁ、どうして疑うのか…
私に南無阿弥陀仏が必要だと知らされていない。
私に必要なのが南無阿弥陀仏と知らされていない。

ここにポイントがあって、この知らされるというのは「私の想像しえる範囲で、私の求めるものに合った形で知る」ということを待っているんじゃないでしょうか。
阿弥陀様のほうの「知らせる」というのは、私の望んでいるものと違っています。
だから、せっかく称えさせてもらっている南無阿弥陀仏なのに、「これは違う」と”判断”してしまう…疑いですね。

たとえ話なんでニュアンスだけ受け取ってください。

身体に不調があるとき、医者から薬を処方されます。
人によっては、どんな薬かその成分や効能を徹底的に調べないと信用して飲まない人もいるかもしれません。
また別の人は薬じゃなく医者を信用して飲む人も居るでしょう。
でも多くの人は、信用するしないを考える前に、言われるままに飲んじゃってる。
でもよくよく考えると、信用するしないを問うてないだけで、飲んでるって事は「信用する」ことも込みなんですね。
結果を見れば「信用していた」ということですね。


私自身の、口から南無阿弥陀仏が飛び出すという”体験”がありながら、その飛び出して念仏は「自力か他力か」とこだわっていた時期がありました。
自分で南無阿弥陀仏を値踏みするというか、判断しようとしていたんですね。
わかってからでないといくら称えても駄目だと。
しかし、ご縁に触れると勝手に飛び出してくる。
本物か偽者か…私に判断する力があると思ってたんですね。
それが間違い。
南無阿弥陀仏は本物なのに、それを判断する力がない。
そこに見切りをつけさせてもらったんですね。
こんな私でも、そこから飛び出る「南無阿弥陀仏」に功徳があり力がある。
私の力は何ひとつ必要じゃなかった…というか役に立つものはなかった。

わが名を称えよ…

南無阿弥陀仏

報恩講 信心獲得とは…

2010-01-16 01:22:21 | 真宗

報恩講での座談のご縁から

今までも多くの方とのやり取りの中に出てくるパターン…「信心獲得が目的」というもの。
言葉の上だけかも知れないが、私はこの言葉がすっきりしない。
いろいろお聞きしていると、それまでの聴聞暦のなかで強く刷り込まれている言葉だということだが。

真宗が「信心をもって本とす」という以上、念仏が救いの決定打ではなく信心が決定打であることは間違いない。
しかし、そこにこだわるがゆえに道を誤ってはいないだろうか。

信心は手段・方法ではない。
獲得とはいえ、私のほうから何とかなるものじゃないから。

あくまで「わが名を称えよ」の声に応えるしかない。
「われを信じよ」ではないのだ。

言い換えれば「信心」は称名念仏の付属物。

と、こういう書き方をしていくとどんどん理屈っぽくなって、言葉で言葉を説明するだけになり、本質の周りをぐるぐる巡るだけになってしまう。
(そういうのが得意な方、いっぱい居られるでしょ)

ちょっと順序だてて深めてみたい。

まず、どうして「信心獲得したい」のか。
それは「後生の一大事の解決」という答えが出てくるのは容易だろう。
じゃぁ、「後生の一大事の解決」とは…
迷いから離れさせていただくこと(転迷開悟)
なぜ迷っていては駄目なのか…
苦しみが耐えられないから(抜苦与楽)

ではどうやって迷いから離れる?苦から逃れる?
力があれば菩薩行によって自ら悟りの位に入ることが出来るかもしれないけれど、私の力ではどうにもならない。
そんな私を「救わずにおれん」と見かねて、「必ず救う」願を立て、どうすればその願いが達成できるか考え、その手段として「悟りの種(因)」を用意するための行をされた。
その結果用意してくださったのが「南無阿弥陀仏」
私のちからでどうにもならないものを用意してくださった(自他力廃立)

どうか救わせておくれの「願」も、そのための種「行」も入っている(願行具足)
その「南無阿弥陀仏」をただいただいてくれ、と(回向)
受け取ったからこそ、この口から「南無阿弥陀仏」が飛び出してくる(称名念仏)

このどこに「信心を得る」という行為が入ってくるだろうか。

この仕組みを聞きながら称えるということは、その「南無阿弥陀仏」がこの通りでなければ意味がない。
称えさせてもらうことが「信心」という結果を生む。


私のつたない言葉だけでは信用ならんかもしれない。
しかし、法座に出れば諸先生方がしっかりと根拠も示しながら
「南無阿弥陀仏」でしか救われようのない姿(機の深信)
「南無阿弥陀仏」に任せらる証拠(法の深信)
をはっきりと説いてくださる。

それを納得するとか理解するとかではなく。
会う 逢う 遇う


もしかしたら、じっくりと「どうしても信心獲得したい」ということから逃れられないこころを解きほぐしていかないといけないのかもしれない。
ただ、そこから離れなければ、この耳は飾り物で終わってしまって、なにひとつ聞くことができなし。
この私から「南無阿弥陀仏」が飛び出していることも聞こえないのだから。

 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章)


報恩講 条件付けからの脱却

2010-01-14 02:29:27 | 真宗
いろいろ書きたいことはあるんだけど…まとめることで明日になるよりは小出しにしてでも今日のうちに。

今回の報恩講で私の中に生まれたいくつかのテーマの中のひとつ。
「念仏を申しやすい生活とは」

一人の生活のほうが念仏しやすいのならば一人に
家族と一緒のほうが念仏しやすいのなら家族と一緒に

このことを繰り返し聞かせていただいた。
他の人はどうかわからないが、私にとってはこれは「逃げ道」の封鎖でもある。
逆に言うならば、「一人だからお念仏中心の生活が出来ない」と今の状態を駄目とし、「家族と一緒にいるからそっちのことも考えんならん、だから念仏中心の生活が出来ない」と今の状態を理由にする…

隣の芝生は青い…

そう、どのような環境にあってもそれを良しとせず、次々と欲を求め、ないものねだりがやまないのが私なのだから。

どのように変わっても今以上の「念仏申しやすい生活」はない。
あるのかもしれないが、そんな当てのないものに頼る暇があれば、「今・ここ」でお念仏させていただくだけだ。

「念仏を申しやすい生活とは」
この問いは、今を良しとせず、あらゆる状況を言い訳にして、お念仏しない原因を外に置いている姿。

呼び声はただひとつ
ただわが名を称えよ。
南無は帰命。
召還の勅命。

南無阿弥陀仏

報恩講…(関わりの観点から)

2010-01-12 15:24:20 | コミュニケーションワーク

報恩講が終わりました。
いろんな出会い、それぞれのご縁をとおして私自身への出会い、そして気づきを頂きました。

ご法話や座談でのことで感じたこともいろいろ書きたいのですが、その前に関わり方の部分でどうしても書き留めておかないと私自身が次に進めないなと思うことがあるので、そのことを書きます。

これは決して後悔ではなく、反省とは言えるかもしれませんが否定的な気持ちはなく、ただ、こういう自分がいたということを言葉にしておくことで次につながればいいな…という感じです。


最後の座談会、少ない限りある時間であり、それに対して多くの方とご一緒させていただいた場でした。
ある方が口を開いて疑問点をたずねてこられます。
私からすれば、つい今いただいたご法話の中でまさしくそのことを教えてもらっていたと思えるものでした。
そのご法話をされた先生もご一緒されていたのですが、私は自分の気持ちに任せて(間違いがあれば先生が正してくれるだろうという気持ちも含めて)ご法話でのお話の中身を確認する形でお伝えしてみました。

そのときはここに留意することが抜けていたのですが、今思えばその方が「たずねたかった気持ち」ではなく、理解・納得レベルのところで答えていた気がします。
その方も(回答の中身に)納得できない、私も(納得しようとしかしない態度に)納得できない。
思えば同じ事を言葉を変えて伝えようとしていただけだったなと。

でも、私自身はこれを駄目だったとは思えません。
そのときの私は、そういう動き方をしたかったのだと思うし、そのように動いていた。
ただ、未熟だっただけです。

いつしか話の流れで、その方の態度のところからはなれ、そういう身に対しての「本願のこころ」を軸にすすみだしたように思います。
このことも、つい今聞かせてもらったご法話で話してくださった内容です。

(こうして思えば、私が何かを伝えているのではなく、全部お話くださったことを私がなぞってるだけですね。まぁ当たり前の話ですが)

しかし、自分の姿ばかりを問題にして、なかなかお心に向きません。
別の方がその方の態度に「聞いてほしい」ということを叫びとして打ち出されます。

先に私のほうが感情的な言い方をしていたかもしれませんし、この方の叫びの後から感情的になったのかもしれません。
今はそのあたりは覚えてないのですが…

ここが今回、私が問題としているところです。
相手の方の気持ちではなく、この叫ばずにおれなかった方の気持ちを大事にしている私がいました。
言い換えれば叫んだ方の感情に巻き込まれていた…
これが良い悪いじゃなく、違うことも出来たはずだなという事を、自覚としてとどめておきたいと思っています。

叫んだ方の気持ちを聞いてほしかった

これは紛れもないそのときの私の軸でしたから、まったくそのとおりに動いている私がいただけです。
ただ、そういう方向の人が数人がかりで一人の方に向かっていく…そのときのご本人のお気持ちはたずねてないのでわかりませんが…(私だったら一生懸命自分を守ろうと構えちゃうでしょうね)いや、だからこそそこをお尋ねすることが大事だったなと。
私が言いたいことはちゃんと言ってくださる方が居られたのだから、余計に一緒にならずに動く道もあったはずです。

もし今後似た場面があったとして、実際にどのように動くかはわかりませんが、こうやって言葉にすることでもう一度私の中に刻んでおきたいと思いました。


丁寧に関わるには、今の私には「ゆっくり関わる」という時間的要素がますます大事だと思っています。
かといって、そうじゃないとき(限られた時間)は無理だ、仕方がないでは終わらせたくない気持ちもあります。

私にとっては大事な気づきとなりました。


報恩とは…

2010-01-11 02:21:03 | 真宗

報恩講 一日目です。

久々に懇親会に最後まで、その後もちょっとお話をしてから帰ってきました。
先日のエントリーで懇親会に消極的なことを書いてましたが、まぁ「そのときの気持ちに従う」ということで…というか、実際は少し無理した加減もあるきもします。
まぁ、それも含めてそのときの気持ちなんですけどね。

と、振り返ってみると「関係が出来ている」人とは、それがどんな場であっても楽に、自由にすごすことが出来ます。
なのでむしろ、「あなたとはいい関係ができていないと思います」ということをはっきりさせたくなくて、そういう場を避けているという言い方も出来ます。

具体的には「この人がいるからこの場に居たくない」というものがやっぱりあるんですね。
それを出るときと出ないときとで「この人」をはっきりさせたくない…ああ、これはもうかっこつけ以外の何者でもありません。

その辺を紛らわせるために、広い部屋にいながら隅っこのほうで壁側に向いてパーソナルスペースを侵さないという姿に表れていたなと。

こんなことをブログで表明させる事自体馬鹿げたことなんですが、その限定された「いい関係」が気持ちよかったもんで、変な方向に”開いている”のかもしれません。 


という話はこの辺で終わるとして、肝心の報恩講のお座はすばらしいものでした。

法話の先生のお話は「何をどう聞く」という要の話を丁寧に丁寧に話してくださいます。
実はそう書くのは少し不安があります。
言葉だけ「何をどう聞く」とかくと、すごく方法論のように見えるから。

なので、できるだけ(うまく伝わらなくても)言葉にするとしたら、大事な聞き方・大事な中身を提示してもらうことで、そう聞けていない今の自分をあからさまにしてもらうためのお話。
「こう聞きなさい」「これが正しい」ではなくて、「どうやったって聞けていない姿でしょ」ということ顕かにしてもらう。 
そして「だからこそ願わずにおれなかった」という本願に振り返らせてもらう。
うーん、やっぱうまい言葉にはなりません。
でも、私には顕かになっているんです。

もうお一人の先生のお話も「聞く心もなければ、称える心もない」という私の姿を教えてくださいます。
それを懺悔するでも責めるでもない。
それが私の姿だと。

よくぞそんな者柄に「南無阿弥陀仏」を仕上げてくださったなと。
うーん、今日は言葉を重ねれば重ねるほど無意味になる気がして…
それでいて書かずに居れないエネルギーが渦巻いています。

明日もう一日、法座は続きます。
これを読んで、まだ間に合うという方は、「どうしようか」という思いを振り捨てて、だまされたと思ってお参りください。
(責任は負いませんが)


動いていくもの

2010-01-10 02:42:03 | 真宗カウンセリング
明日から華光の報恩講。
掃除やお荘厳の準備などお手伝いをし、その後有志で飲み会へ。
心地よい程度に飲んだだけなので、帰ってからも目が冴えてます。

準備は夜からでしたが、昼間は来年度の真宗カウンセリング研究会の日程関連の事務作業。
貸し会場の確認や見積もりのチェック、ネット用の案内作成、パンフの準備など。
打ち合わせは来週の水曜日ですが、代表の先生と明日会うので資料をまとめておきます。

で、大まかの日程が出てきております。
詳細は、真宗カウンセリング研究会のサイトに近日アップしますが…

まずは、これは今年度になりますが3月に広島でWS。
3月28日(日)~30日(火)
私は世話人にはなっておりませんが、出張なんかがうまく設定できれば参加したいなと思ってます。

6月には京都でWS
6月18日(金)~21日(日)

8月に再度広島WS
8月18日(水)~21日(金)

10月にもう一度京都でWS
10月29日(金)~31日(日)

他には5月から10回のミニカウンセリング
9月からのエンカウンターグループも世話役として入る予定です。

残念ながら、昨年行った北陸と九州は予定できませんでした。
あと、東京なんかも開催できればよかったんですが…
いろんな予定や経費を考えると、パズルのように組んでいくしかありません。
興味のある方は、ちょっとご足労ですが、ぜひ京都や広島へお出向きください。

私個人としては、もし声を掛けていただけるようでしたら、どこなりと飛んでいきます。
真宗カウンセリング研究会主催としては上記の日程ですが、御呼ばれでしたら喜んで。
WSという形で、いろんな方と出会うのが楽しくて仕方ありませんから。

また、京都でやっているような学習会も広げていきたいなと。
土日がらみなら、高速1000円を利用して、遠方でもお安く…(笑)
車で移動するのは好きですからね。


まぁ、なかなか好きなことを生業にするのは難しいのでしょうが、自分のスキルが他人の役にたって、なおかつ多少なりとも収入になるのなら、これはうれしいことですね。

って、生々しすぎますかね。
(ちょっとアルコール入ってるんで、ご容赦を)