コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

「わたし」メッセージの大事さ

2008-08-30 00:02:47 | 真宗カウンセリング

最近、たまりにたまった書類を整理しシュレッダーにかけているのですが、いろいろと面白いものが見つかり作業が中断されてしまいます。
過去に参加した研修会の資料やレジュメなど、今こそ私に役立つなぁと思えるものも々あります。

そのうちのひとつに「わたしメッセージ」を図表化したものがありました。

「わたし」メッセージ(「わたし」を伝える)
「あなた」メッセージ(「あなた」を裁く)
という二つに分かれており、それぞれに二つずつ紹介されています。
これが簡潔にして核心をついていますので紹介したいと思います。

まずは「わたし」メッセージ

メッセージの種類:気持ちメッセージ
送り手の心理:「わたしはいまこんなふうに感じています」
メッセージの意味:いま・ここで湧いている「わたし」の感情を、評価をまじえず、あのままに相手に伝える。

メッセージの種類:理解メッセージ
送り手の心理:「わたしはいまあなたをこんなふうに感じています」
メッセージの意味:いま・ここで感じとれている「あなた」のありのままを受容しているとを相手に伝える。

次に「あなた」メッセージ

メッセージの種類:否認メッセージ
送り手の心理:「あなたはダメです」
メッセージの意味:相手を「わたし」の枠組みから評価し否定して、いまのままの「あなた」は受容できないことを相手に伝える。

メッセージの種類:解決メッセージ
送り手の心理:「あなたはこうすべきです」
メッセージの意味:相手の力が信頼できないから「わたし」の枠組みにそって「あなた」変えようと、相手に命令している。

さて、みなさんどうでしょうか。
普段、相手との関わりの中で、そういう応対をしていますか?
私は、このカウンセリングに出会うまでは、ほとんどが「あなた」メッセージでした。
否定して解決策を与えることが「優しさ」だと思っていたんですね。
相手を変えてあげようというおごった気持ちですね。
たとえば「これはあなたのためなんですよ」とか「あなたのことを思って言ってるんですよとか。
こういう言葉って言うのは、私の本当の思いの表れでしょうから、大事なのは口先けじゃなく「信頼という関係」「受容という関係」ということですね。
その関係が築けていれば、言葉もついてくるのでしょう。

このプリントをもらったころは、「へぇ、そうなんだ」って言う程度のもので、「できれ意識してみよう」ってくらいでしたかね。
今は、このことが重要なことで、基本的なことで、そして難しいことだと学ばせてもらいました。

普段の生活ではなかなか難しいのですが、エンカウンターグループや法座でこのことが意識できているかいないかで、関わりは大きく違ってきます。

9月のワークショップまであと1ヶ月をきりましたが、非常にいいタイミングでこのプリントに出会えました。
これも大きな流れの中のひとつの出来事でしょうね。
締め切り日はまだ先ですが、定員になり次第締め切ります。
今の時点で空きは2名分。
迷っておられる方はぜひお申込ください。

http://homepage1.nifty.com/MANU/counseling/c20080710.htm


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 24

2008-08-29 01:05:27 | 親子コミュニケーション

今日は軽~く。

先日、お世話になっている保育園の先生が出産された事を聞いた。
ちょっと予定より遅れたようだが、その分しっかりと育って出てきたようだ。

その先生は、とにかく笑顔が素敵だ。
元来の性格もあるのかもしれないが、いつも笑顔を絶やさない。
もちろん、保育士という仕事なので、仕事として常に子どもに笑顔で接する意識はされているのだろう。
しかし、やはり無理して笑顔を作っている先生と、自然な笑顔とでは差がある気がする。

とはいえ、たとえ腹の中でどういう思いであろうが、笑顔で接してもらうと嬉しいものだ。
それはきっと子どもにとっても同じことだろう。

某ファーストフードメニューに「スマイル 0円」というのがある(今もあるかどうかは知らない)
そう、私が笑顔でいるのにお金は要らない。

子どもと接するとき、笑顔でいてやりたい。
もちろん、常にそうあるのは至難の技だが、忘れていると思い出したとき、その瞬間から始めればいい。

Keep On Smilin'

親子コミュニケーション 23 「子どもの話したいこと」
親子コミュニケーション 22 「聞いてもらえる体制作り」
親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


他人事ではない…の本当の意味

2008-08-28 00:01:02 | 真宗

ちょっと硬い話題になります。

今日、ネットでニュースを見ていたらこういう記事がありました。

<韓国>「現政権が仏教を差別」 僧侶ら6万人が抗議デモ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080827-00000092-mai-kr

というものです。
かいつまんで言うと、大統領がキリスト教信者で、政権関係者も仏教を差別する発言をしているので、抗議行動をしていると言うものですね。

で、ふと思ったんですが、他人にどういわれようと、「私の信心」というところに帰っていくのが本来の仏教であり、親鸞聖人の説かれたことだと思うんですね。
「自分の信じているものだけが正しい」というのは、”私”というところにおいては大事なことかもしれません。
しかし、それを他人に当てはめることは暴挙ですし、他を否定することもおかしいですよね。

これって、そんなにむずかしいんでしょうかね。
まぁ、宗教心から始まる紛争もあるわけですし、中国でも武力行為になったり、今回の韓国のデモも、「事はそう簡単じゃない」から起こったんでしょうね。
かつてはこの国でも、僧兵なんて方々がいたわけですから、「自分の信じるものを護る」という気持ちが、他への攻撃を容認しちゃうんでしょうね。

本当に、他人にでも勧めたくなる「私の信心」があるならば、「お前は間違っている」ではなくて「ほらほら、私はこれだけ喜ばせてもらっているよ」って言う姿を見せていれば、相手のほうから気にしてくると思いますけどね。
それが”ご縁”ってもので、「私がご縁をつけてあげよう」なんてものはおこがましいんじゃないですかね。

まぁ、そういう私も子どもらには「ゆるやかな強制」でもって、華光の法座に参らせてますよね。
でも、最後の一線は「当人の問題」
できることは、この私の喜んでいる姿をみせるだけなんですが…家族となると普段の姿も見られてますから、これがまた逆縁になったりもしますね。
ただ、それが逆縁かどうかも実はわからないところで、どこかで繋がる種になっているかもしれない。

つくづく、他人のことはどうしようもなく、問題は「今・ここ・わたし」ですね。
家族や知人が、自分の信じるものをわかってくれなくても、そのことを通してまた「そんな難中の難に会わせてもらった」と喜べるんですけどね。

ある意味、私の「喜怒哀楽、こころのありよう」などなにも影響しない、シンプルで厳しい教えでは有りますね。


生きるということ

2008-08-24 00:51:00 | 真宗

昨日のブログで「自殺」について少し触れましたが、もう少しそこのところを書いてみようと思います。

「生きていても辛いから、死んだ方がまし」
という理由が多いのかどうかわかりませんが、毎日ニュースから「自殺」という文字が目に飛び込んできます。
「自分のいのちだから、自分でどうしようと勝手だ」という言葉を聴いたこともあります。
「なぜ自殺がいけないのか分からない」と。

私がなぜ自殺を反対するのか。
そこには明確な理由があります。
ただ、それは道徳的なものではなく、宗教心につながるものですから「私は宗教は信じない」という方には説得力がないかもしれません。
でも、説得力のあるなしではなく、私の信ずる明確な理由ということで、受け取り方は皆様にお任せすることにしましょう。

まず、このいのちが「自分ひとりのものではない」という考え方です。
この生を与えてくれた親の恩はもちろんのこと、今ここにこうして生きているまでに多くの命を奪ってきました。
食事という行為で奪ってきた命は数えようもなく、それを血肉としてこの身体は作られています。
それらのいのちは、「今・ここ」で私が生きているために「いただいた」ものです。
「じゃあ、これ以上命を奪うことをやめるために生きるのをやめる」という思考にいたるのも分かるのですが、私はそれも認めません。
その理由が次のものです。

「この世に生まれてきた意味」ということを考えます。
”人生の目的”という言葉でもいいのですが、この言葉によって誤解が生じてるケースがあるのでちょっと注意が必要なんですが。

この”私”という存在は、苦しみの世界を迷い続けています。
仏教では六道をめぐる(輪廻)といって、「死んだら終わり」ではなく、死んだ後もこの「私」という魂はさまざまな世界を生き死に生き死に繰り返していきます。
その迷いの輪から抜け出し、浄土へ生まれることを”悟り”といい、苦しみを抜け出し楽を与えられる(抜苦与楽)が究極の目的です。
その悟りを得る道のひとつが「信心とお念仏」によって、阿弥陀仏の救いの誓いに任せる道なんですね。
そのためには「お前を救うぞ」という阿弥陀仏の誓いを聞かせていただくのですが、その声が人間以外の迷いの世界では聞くことができないというのです。

その人間の世界に生まれることですら、自分の力では無理で、阿弥陀仏の善行によってそのような身に”していただいた”というのです。
その人間という身を一度手放すと、いつまたこのような身になれるかわかりません。
広い砂漠に落ちている一粒の砂金を見つけるより困難なことでしょう(私の味わいなので、経典などの根拠はありません)

つまり、人間の生をも「いただいている」ということです。

「生きていても辛いから、死んだ方がまし」に対しては、このまま死んでしまうとこの迷いの連鎖からは離れることができず、結局苦しみが続いていくんだと。
「自分のいのちだから、自分でどうしようと勝手だ」に対しては、自分のいのちと思うのは自分中心の考え方で、肉体的にも宗教的にも「いただきもの」ということを抜きにはできません。

だから、いつか死ぬ身であるとはいえ、自分でいのちを終わらすという行為は悲しいことです。
それでも「死ぬほど辛い」ということを無理に隠したり、無理にがんばったりすることはありません。
辛いことは辛いこととして、もう一方でいのちの意味を考えてみてほしいと思います。


弱音を吐いたっていいじゃないか

2008-08-23 00:03:59 | 真宗カウンセリング

森山直太朗さんの「生きてることが辛いなら」という歌が話題になっています。
テレビコマーシャルで老人が赤ん坊を抱いている映像とともに流れています。

で、なにが話題になっているかというと、最初の歌詞
「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい」
というのが自殺を推奨しているという…

ほかに同じフレーズで
「生きてることが辛いなら わめき散らして泣けばいい」
「生きてることが辛いなら 悲しみをとくと見るがいい」
「生きてることが辛いなら 嫌になるまで生きるがいい」
「生きてることが辛いなら くたばる喜びとっておけ」
と綴られます。
歌詞の全部はこちらで

作詞者の思惑や、森山さんの思惑はいろいろあるんでしょうが…
私は「受容」ということでこの詩を受け止めました。

「辛い」といっている人に「がんばれ」と励ますことは悪いとは言いません。
しかし、わたしはあまりそういう励ましをしたくないという気持ちがあります。
「死んでもいい」とはいいませんが、「死にたいくらい辛い」という気持ちがあるならそれを受け止めてあげること…そこから、相手の人が自分で「で、私はどうしたいんだろう」と考え、動いていくことに寄り添っていくことができれば、と思っています。

自分の内側にある「死にたい」という気持ちを、無理に抑えたり誤魔化したりするのじゃなく、「あぁ、私にはそういう気持ちがあるんだ」と一度外に出してあげること。
そうやって、向き合う時間を作ってあげることは結構大事だと思います。

わめき散らしてもいい。
悲しみにくれるのもいい。

「それじゃダメだ!」という励ましは、時として自分の弱さを受け止める機会をとりあげ、外に出せない声を溜め込ませてしまいます。

この詩のように「こうすればいい」というものまでなくても良いんです。
「そうか、生きてることが辛いんだ」と受けてあげること。

そういう機会や場を、作ることが大事なのかもしれません。

<!-- 生きていることが辛いなら -->
 

YouTubeで聞けます


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 23

2008-08-22 01:01:44 | 親子コミュニケーション

こどもの何気ない一言をとおしての味わいです。

今日の夕方、二人の息子を車に乗せてちょっと買い物に出かけた。
その帰り道、次男のほうが助手席に乗っていたのだが、急にそれまでと違う話題をふってきた。
子「おとうさん、お魚はミミズを食べるけど、そのお魚を人間が食べるんやなぁ」
私「うん、そうやなぁ」
子「そしたら、ミミズも食べてることになるんやな」
私「そうやなぁ。お魚のいのちを食べるってことは、そのミミズの分のいのちももらってるってことやな」
子「そやから『ありがたく、いただきます』なんやなぁ」
私「そうやな」

その話題を話そうと思ったまでの心の動きはわかりません。
今日一日の中で、なにか食べたものについて思ったのか、あるいは本か何かで魚釣りの話題を見たのか。
はたまた、なにか私の気を引くために、私が好きな話題をふってきたのか。

でも、息子の中には、以前息子も参加している日曜礼拝で私が法話として話したことが印象的に残っているのでしょう。

今思えば、その話題からさらに「ただありがたくで終わらせるんじゃない」というところまで話をするいいきっかけだったのかも…
でも、そういう話は運転しながら片手間にできる話じゃないですからねぇ。

一度じっくりと話してみたいのですが、
「あの時言ってたお魚の話やけど…」と振ってみても、きっと今日の気持ちからは変わってるでしょうからねぇ…
つくづく惜しいことをしました。

でも、こうやって子どもが話したいことがあるときに「聞いてあげる」ってことは大事ですし、そうしていればきっとまた話してくれることもあるでしょう。

親子コミュニケーション 22 「聞いてもらえる体制作り」
親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


二河白道

2008-08-18 23:18:11 | 真宗

夏休みの間にお参りした富山でのご法座で、二河白道の譬えを描かれた絵軸を通してご法話をいただいたのですが、そのことと(他の)ネット上で行われているやり取りを通じて思っていることがあります。

まず、この「二河白道の譬え」というのを簡単に書きます。
悟りの道を求める行者が西へ西へ(極楽浄土は西方浄土とも言われます)歩むと行き止まりになります。
行き止まりということはそれ以上進めないのですが、後ろからは猛獣や盗賊などが迫ってきており、そのまま留まることもできません。
その行き止まりに沿って行く方法もあるのかもしれませんが、追いつかれるのは必至。
そんなとき、目の前に細い細い白い道が西へ続いているのがわかります。
しかし、その白い道には燃え盛る火の河(怒り)と渦巻く水の河(ねたみ・そねみ)が襲っており、とても通れたものではありません。
行くも死、留まるも死、戻るも死。
そのとき、自分のいる岸から「どうかその道を歩みなさい」という声(お釈迦さま)が、かなたの岸から「その道を歩んで来い」という声(阿弥陀仏)が響いてきます。
自分の力や思いではとても歩めないその道を、その導きの声に任せて歩みだす…
というお話です。

その召還の言葉は「汝一心正念にして直に来れ」というものです。
他には心を向けず、ただただ念仏・本願の招きつまり「南無阿弥陀仏」に任せ、直ちに飛び込んで来いという声です。

しかし、この白道を歩むしかないというのに、「直ちに」とならず、「一心になれない」自分を何とかしようとしたり、「こんな念仏で良いのか」と称え心を問題にしたりしてしまいます。
あるいは、今までの歩みを問題にして、「あれがだめだった、これが間違っていた」と白道の反対である後ろ側ばかり見てしまう人もいます。

法座に参らせてもらうというのは、とても稀有なことなんです。
そこまでのご縁は、良縁悪縁いろいろあるでしょうが、(自分では認めたくはないけれど)そのすべてに無駄なものはなく、いやな思いをしたことでさえ「そうならざるを得なかった自分の迷い(業)」として、今・ここの私につながっています。
だからこそ、振り返るのではなく、ここに座らせていただいているところから「召還の心」に向き合って、「そんな私がお目当てだった」と聞かせてもらうしかないのですが…。

せっかくここまでのお育てを受け、導きを受け、白道の手前まで歩ませてもらったんです。
迫りくる群賊・悪獣を相手にするのでもなく、火の河や水の河を治めようとするのでもなく、仰せのままに一歩踏み出すだけです。

カウンセリング的には、今までの苦しみや恨みつらみが大きいほど、それをじっくり聞いて一度荷物を降ろしてもらうことも大事だとは思います。
しかし、今の私はそれよりも「これだけ大きな願い」ということを知ってほしい気がします。
「直ちに」という声に応えさせてもらいましょう。

「汝一心正念にして直に来れ」
南無阿弥陀仏


エンカウンターを感じる法座

2008-08-15 01:36:02 | エンカウンターグループ

仕事は夏期休暇に入っています。
例年お盆は連れ合いの実家寺に行くのですが、そこから富山で行われた「太子講」という法要と、同時開催の北陸支部の法座に参加してきました。

仏法という点で、とてもいい法座だったですし、M先生のご法話もすばらしかったです。

その一方で、私が参加した座談会が良かったですね。
どう良かったかというと、グループとして動きがあり、いろんな側面から声が飛ぶことで、煮詰まりそうになる人が思いもよらぬ形で動き出すという…言葉だけじゃわかりませんね。

私の感覚としては、エンカウンター・グループを感じていましたし、その底には間違いなく法という共通意識が(法座ですから当然ですが)あり、しかもそれぞれの尊重があったということでしょうか。

偶然、ご一緒した方の中にすでに9月のワークショップを申し込まれている方もお二人いましたし、今月末の東京のワークショップに参加する方もいました。

私自身が感じている、真宗とカウンセリングの流れを感じるお座でしたね。

東京も京都も、まだ参加申し込みOKです。
みなさま、いかがですか?

東京ワークショップ

京都ワークショップ


戦争と平和

2008-08-10 22:47:19 | 日常雑感

あくまで個人的な雑感として。

昨日のニュースではグルジアで戦争状態という見出しが目に入りました。
そして今日、グルジア軍はほぼ全部隊撤退したと言う見出しです。

一方では、これ以上犠牲者が増えない撤退と言う形に安堵しつつ、もう一方では、そんな簡単に撤退できるなら、その前に何故もう少し考えることができなかったのかと言う思いがあります。

もちろん、当事者の事情は複雑なものがあるでしょうが、短絡的な行動がなければ1400人が犠牲になる衝突が避けられたんじゃないかと。
幸い、戦争を回避と言う方向でこれ以上の犠牲がなくなるのでしょうが、既に起こった出来事による憎悪は消えず、次の出来事の種になります。

また、北京でオリンピックが始まっていますが、中国の関係者が「平和の祭典をしているのだから、停戦を」というアピールをしたと聞きます。
http://news.nifty.com/cs/sports/athleticdetail/reuters-JAPAN-331605/1.htm

しかし、いまこの祭典で話題が誤魔化されたように見えますが、かの国でも120万人(数字の真偽はわかりません)が犠牲となったチベット騒乱があります。
これも未解決のまま、オリンピックの見かけの美しさと、平和精神によって、見ないふりになっています。
うがった見方ですが、グルジアに対して「平和の祭典だから」と言っているのは、自分たちの問題にも目をつぶってくれと言っているようにも聞こえます。

そこで、この私はどうだろうと内省してみます。
戦争はしていません。
騒乱も起こしていません。
しかし、命は奪いつづけています。
「生きるためだから」という命を奪う側の理屈でもって、自分の罪を見てみないふり。

昨年に参加した「ワールドワーク」にて「自分に起こっていることは世界で起こる、世界で起こっていることは自分に起こる」という話を聞きました。
これはなにも宗教的なところでされた話ではないのですが、今の世界を自分を並べてみると、その言葉が重くのしかかってきます。

世界を動かしたり、平和のために祈りをささげたりということはできませんが、「遠い世界の事だから」とするのではなく、それを鏡に自己を内省していく…それならできます。
そこから「世間虚仮 唯仏是真」が身に染みてきます。

 


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 22

2008-08-08 00:17:46 | 親子コミュニケーション

昨日のブログに静かにしない子どもたちのことを書きましたが、保育園や子ども会の集まりなど、さまざまな場面で先生やスタッフが苦心して「聞いてもらえる体制」作りをされているのを見てきました。
普段の家庭で使えるかどうか分かりませんが、ちょっとしたアイディアとして書いてみましょう。

まずは逆転の発想で、あちこちでおしゃべりして落ち着かない子どもたちに向かって先生が投げかけた言葉です。
「さぁみんな、今からは好きにおしゃべりしても良いからね。さぁ大きな声でワァーと叫ぼう。(ワァー)、よしじゃあもう一回、ワァー。(ワァー)よし、もう一回する?もう満足した?じゃあ、これからお話しするから聞いてください」

次は注目を集める方法で、簡単なゲームによって気持ちを引き込みます。
「じゃあ、これからゲームをします。拍手ゲームです。このタオルを投げて手を離している間だけ拍手してください。いいですか…」(以下、手を離したり、フェイントかけたりして、タオルをいろんな投げ方をする)
最初は雑談してた子らも、途中からでもルールが飲み込めるんで参加しだします。
拍手の音も伴ってるので、気づかない人はいませんしね。
そうして、みんながスタッフの方に集中したところで、話を始めます。

同じようなゲームをもうひとつ。
こちらは片方の手を空中に固定して、もう一方の手を上からゆっくりと下ろしていき、重なったところだけ手を打つというもの。
最初はゆっくり動かして「パン」と一拍だけだが、徐々に動かす方の手を早くして拍手の状態にする。
時々手を止めて、拍手をやめさせるメリハリをつける。
こちらも、スタッフの手の動きに集中しないといけないので、みなが一方に集中します。

次は家庭でも使える簡単な方法
「おしゃべりやめるのはイヤかもしれないから、そのままでも良いけど、目をつぶってみようか」
なかにはつわものもいるかもしれませんが、たいていは目をつぶると口も閉じていきます。

最後に、広い場所でじっと座れない小さい子どもらに対するちょっと強引なわざ。
「みんなじっとできないから、逆に動き回ろうか。先生の周りをぐるぐる回ってください。で、手をパンとたたいたらストップして寝転がる。じゃあ、スタート」
子どもらは喜んで走り回ります。
これを何回か繰り返して、疲れたころ、寝転がった状態で終わって
「じゃあ、今度はそこで座って目をつぶってみよう」
一気に鎮めるんじゃなく、ちょっと寝転がってクールダウンしてから、もう一度騒ぎ出す前に座らせるのがコツ。

行事などでは、スケジュールなどの時間管理もあるから、できるだけ早く静かにさせるのが大事でしょうが、「静かにしろ」と怒鳴るだけでは難しいですもんね。
そういうときの「おさえつけ感」を出さないこういう方法もいいと思います。

親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」