コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

中P連総会 藤田副市長の講演会

2013-05-30 20:04:03 | PTA

中P連の総会が無事終わった。

総会は前年度の報告と新年度の承認事項があるから、当然この時期に集中する。
で、私の場合は前年度は小学校のPTA会長、今年度は中学校のPTA会長になるんで双方に参加。
さらに、前年度は小学校が南区の理事校、今年度は中学校が下京・南支部の理事校ってんで、それぞれの支部の総会も参加。
おまけに、前年度は小P連の役員、今年度は中P連の役員ってんで、その総会も…

ただ参加ってだけなら、総会を構成する権利者のひとりとして、あれこれの総会に参加し、報告をしっかり聞かせていただくということもある。
が、今回に限っては、上記のすべてが壇上で報告したり承認されたりの立場(笑)
当然、その当日だけ参加すればいいってことではなく、事前に何度も会議を開いて会計や事業のチェックが必要になる。

そのほかにも、地域などでの役割として参加する総会もいくつかある。

いやぁ、いい経験させていただきました。
(あとひとつ、来月に残ってるのもあるんですが)


こう書くとPTA会長って無茶苦茶負担があるように思われますが(いや、確かに時間的金銭的負担はいっぱいあります 笑)この立場だからこそ参加できる講演会や研修会があり、そこで受ける刺激は時間やお金の負担に換算できない、充実を与えてくれます。
(今までいろんな講演で受けて刺激もいっぱいアップしてますので、探してみてください)

昨日も総会に引き続いての研修会で素敵なお話を聞かせていただきました。

講師は藤田裕之京都市副市長
私がPTA会長になる前に「教育委員会生涯学習部長」をされており、また行政区区長として地域のかかわりを肌に感じて来られた、PTAとは縁の深い方。
今回の研修会講師をどなたにお願いするかの会議の中で、副市長就任直後でお忙しいだろうが、もし時間のご都合が合えばぜひお願いしたいということで、なんとかご都合をつけていただけた。

テーマは「地域ぐるみの人づくり・まちづくり ~PTA活動に期待すること~」と、まさに藤田氏だからこそ語っていただける、私が今一番聞いておきたいこと。
PTA仲間でPTAについて語り合うことはとても楽しいし、多くの学びになるけれど、べつの視点からもらえる”気づき”がないと、枠が狭くなる。

お話はPTAをめぐるところで多岐にわたっていた。
子どもをめぐる現状であったり、近年話題になる教育委員会のあり方であったり、それらもただ現状を憂いたり問題提議するのではなく、「そこにPTAがどう関わっていくのか」ということを投げかけてくださる。

ちょうど、この春の卒業式や入学式で祝辞を贈らせていただくとき、またいろんな総会で挨拶をさせていただくときにいつも話させていただいた「規範ということは親がまずわが身を振り返り、子どもの手本となることを考えなければ」ということについても、藤田氏の口からしっかりと聞かせていただいた。
自分の思いとリンクすると、単純にうれしい気持ちになるのと共に、それは独善ではなく大事なことを聞かせてもらい伝えさせてもらっていることが確認できる。

学校や先生の批判を家庭ですると、子ども自身も不信を持ってしまうし、結果として学力向上の妨げになる。
PTAとして学校という教育環境に関心を持ち思いを伝えていくことは、なんでも学校任せにするよりは大事なことではあるけれども、自分の考え方を押し付けることになれば困ったことだし、それが批判・否定になってしまえば、学校と家庭の関係が難しくなるだけではなく、子どもたちに悪影響を与えてしまう。
そこに、家庭という個の単位でなくPTAという形で「いろんな考え方がある」ことを見聞きしていくことの意味は大きい。
単なるイベントをこなすための活動ではなく、子どもに繋がっていく活動だということは言いつづけていたが、その具体的な意味が藤田氏のお話でストンと腑に落ちた気がした。


あと、私がPTA活動に取り組みだしたときにすでに出来上がっていたいろんな仕組みが、それを作り出すことに関わってきた藤田氏から聞かせてもらうと、「形だけのこの活動はどうなんだろう?」と思っていたものの意味と、作り上げるときの思い・熱が伝わってきた。
根本を知らないから「形だけ」と思ってしまったが、その役割を考えて活用すれば、私自身が「こういう活動はできないだろうか?」と考えることを実現する器として用意されていたことがわかった。

当たり前のように思っていた「子どもを共に育む京都市民憲章」にしても、親としてPTAとして、この憲章をどう見るかによって大きく意味合いが変わってくる。

私の少し前の先輩方がそういう作り上げられていく熱のさなかに居られたが、その熱は伝わってきてもいまひとつノリ切れない感もあった。
出来上がっているものを、そのなぜ作る必要があったかから知っている人と、出来た物だけ見ている人。
その温度差を今回のお話でつないでもらった気がした。

そう、東北震災のことでも、話だけ聞いていた段階と、現地を訪れて肌で感じてからでは、私の中の意味合いが大きく変わったように。


本当は、話していただいた中身をそのままお伝えすることが大事なんだとは思うが、このブログはかなり私の考えが混じっているものと理解してください。


最後に、中身ではなく、その立ち居振る舞いというところで。
まずは話し慣れて居られる感じからの安心感が強かった。
おそらく、声のトーンや話す速度、間の取り方が私の感覚にあうのだろう。
そして、資料としてはパワーポイント用に作成されているが、パワーポイントは使わずに話をされたこと。
以前のエントリーで話題にしたこともあったが、スクリーンを見やすくするために暗くして講演者の
顔が見えないのはとてもさびしい。
しっかりお顔を拝見しながら、その中身を話してくだされば、資料を見る必要はない。
そういう意味でも、終始藤田氏と会場が繋がってる状態でお話を聞かせてもらえたのはうれしい。

まだまだ余韻が残っていて、いろいろ語りたくなるけれど、何日かして私の中で熟成されたり、他の話題とリンクしたりしたらまた書くかもしれない。


ミニカン3回目

2013-05-23 23:47:39 | ミニカウンセリング

最近は、ブログにする前にミニカンでクライエント役として話をして、言葉にすることでこの身から放して、そおっと眺めてみてる気がします。
そしてミニカンの報告を兼ねてブログの話題にしている感じ。


この日話をしたのは、先週にあった出来事。
PTA会長を務めさせてもらっている息子の学校のスクールカウンセラーさんが保護者向けにお手紙をくださり、私自身もカウンセリングに関わっていることや、またPTA会長として、一度お話をさせていただきたいと思った。
カウンセラーさんが学校にこられる日に連絡を取り、空いている時間にお会いすることに。
1時間ほど、いろんなお話を聞かせていただき、こちらも話させていただきました。
なんとなく、カウンセラーの暗黙のお約束って感じで、そこで話した内容はミニカン実習でも話しないし、ブログにもしない感じです。
ただ、私のカウンセリング感を素直に話させていただき、またその所で聞かせてもらえる素敵な時間でしたってことを、ミニカン実践で[感じを伝える」だけで深まってきました。
あぁ、本当にいい時間だったんだなぁと。

じつはそのことは、その日の午後にあった事と対比的に連動していきます。
その日の午後は、今度は娘が通う高校で「進路説明会」がありました。
もちろん、「理想の進路に向かうためには」という、目的のはっきりした話ですから、目的に「適う・適わない」というはっきりした到達点があります。
しかし、私にはその伝え方が気に食わず、「しんどい」感じしか残らなかった。

まずは近年の進学状況を説明されるのですが「短大卒が”当たり前”」[無遅刻・無欠席が”当たり前”」「評定平均○○点が”当たり前”」という具合です。
もちろん、叱咤を含めて[できていないものは今からでも頑張れ」ということでしょう。
しかし私には、それは[できていないものは切り捨てていく」という風にしか聞こえません。
”当たり前”というラインを出して、それに満たないものは「ダメ」というレッテルを貼る。
今、その当たり前の状況になれない子らを、ますます追い込んでいく言葉…
もしかしたら発奮して”頑張る”ことができるのかもしれません。
しかし、外圧で「頑張る」ことができたとしても、それが息切れしてできなくなったときの落差は…

思えば、午前中に話してきたことは、いかに「ゆっくりとその子の気づきを待つ」事が大事かという話でした。
それに対して、できるものを基準にしたものさしで測っていく姿は、しんどさしか感じられません。

義務教育ではなく、ましてや私学であるならば、子どもも”商品”として、進学率を高めるものとするのは、商売をやっている私にも理解できます。
それが次の子ども(商品)らを受け入れるす術ですし、職員が給与をもらう糧となるのですから。


と、カウンセリングの集まりに出るとどうも自己防衛の敷居が低くなって、感覚の認識がナイーブに成りすぎるのかもしれません。
ラベル付けで語るのはまずいですね。
しっかり子どもに向き合って教育のことを考えてくださる先生も、高校や私学にも一杯居られるはずです。

こうやって放してみて気づくことは、やはりカウンセリング的な「相手を尊重する」関わり方がとても大事なことと、外圧で何かを変えることではなく、そこに居るパーソンには自分で「成長」していけるパワー・エネルギーがあることを信じさせてもらえることなんだなと。

いろいろな出来事を経験し、放してみる事で、気づきがもらえます。


ミニカン2回目 エスカレータに思う

2013-05-16 01:18:12 | ミニカウンセリング

 

世話役が一名欠席があったが、参加者は全員そろった2回目。
いよいよミニカウンセリングの実習を体験していただいた。

今までの先生は、「手探りで不安でもまず体感」していただく形で進めていたが、私はちょっとだけおせっかいして「意識して欲しいこと」を先に少し話して実践していただいた。
それが良いことかどうかは、いずれ結果として現れるかもしれない。

2回のセッションを行い、初めてミニカンに参加された方をおふたり組ませていただいた。
技法としては当然ぎこちないが、カウンセリングを学ぼうという気持ちはひしひしと伝わってきた。
今後のために、いくつかの課題も提示させていただけたので、再び組むことができたときが楽しみだ。

で、片方の方にクライエント役としてお話したことが「今日感じたことをブログにしたいので、ここで話しさえてもらいます」ということで、それをついでにブログの話題にしておく。

 

ミニカンやエンカウンターの場面でしばしば話題にする「エスカレーターの使い方」について、この日電車で出張に行く際にいろいろ考えていた。

エスカレーターは立ち止まって乗るもの
これがまず基本である。
数年前までは「右側はお急ぎの方のためにお空けください」などのアナウンスも流れていたが、数年前より事故防止のためにこのアナウンスはなくなった。
また「手すりを持ってお乗りください」などと、じっと乗ることを推奨してきている。
しかし、「歩くな」という積極的な働きはない。

長年刷り込まれた意識は強く、今でもエスカレーターに乗る人は片側を開けている。
そのために、とまって乗りたい人の側には長蛇の列ができ、片側は誰も使っていないという状況が起きている
駅のエスカレータなど、電車が着いていっぱいの人が利用しようとしているのに。

仮に20段あるとして、両方にちゃんと乗れば20人が利用できる。
しかし、何煮に遠慮してか10人片側に乗り、その後ろに10人並んで待っているという具合だ。

という状況に対していろいろ考えていた。

まず、PTAという立場で。
子どもには正しいことは正しいと教えることは大事である。
マナー・モラル・ルールをちゃんと知って、守る。
もちろん、大人がその規範を示す必要がある。
だから「エスカレーターは立ち止まって乗るもの」という公共のルールを教え、それを守ることを示す。
遠慮なく、子どもと並んで横に広がって乗る。
駆け上がってくる輩が居ようとも、こちらは間違っていないから引かない。
時折「ちっ」といわれることもあるが、正しくない使い方で事故に巻き込まれたら溜まったものではない。

でも、子どもからしたらみんなが片側空けてるのにそれをふさいでるのは心配らしく「お父さん、空けなくていいの?」と言ってくる。
正しいことは伝えながらも、社会で敵を作る必要がないのでそこは子どもの気持ちを汲んで諍いは避ける。
でも、正しいことは何かはしっかり示したい。

次にカウンセラーの立場として。
カウンセリングで学んでいることは「相手の気持ちを大事にする」ということだ。
こちらの思いは置いておいて、「あなたはこう思うんですね」ということを重視する。
それは正しい・正しくないの価値基準じゃなく、相手の価値観をも認めるというもの。
そうすると、エスカレーターを駆け上がってでも早く移動したい方の気持ちは…
乗り換えのために、ここで走れば間に合うのに…
もちろん、そういう方は階段が横にある。
しかし、階段を上がるスピードにエスカレータの移動速度が加われば…
となると、私はモラル違反だと思っても、その方の「急ぎたい」気持ちを受け止めるべきなのか。

さらに思いは仏教(真宗)的な思考に入っていく。
ようは、自分が正しいということを示したいがために、周りとの協調を損ねてしまう考え方に支配されている私の姿…
自分中心の考え方はおそろしいものだ。
ではどういう風に動いていくか…
「あなたがエスカレーターを駆け上がることで、いらいらする私が居る。
私の中にこんな怒りや苛立ちの心があることを教えてくれてありがとう」
そう、外の世界を通じて内省の世界へと飛躍する。
そして…
「こんな私なのに、そんなものをこそお目当てだと願ってくださる。
あぁ、南無阿弥陀仏」
と。

別に宗教的なトランスではなく、内省ということは自分のありのままの姿を直視することで、そんな過酷なことをできるだけの「赦し」と出会うことであったりする。


などと、いろいろ考えていった先に、もうひとつの境地が訪れる。

私の心・思いはコロコロ変わって、いかにもそれらしい理屈をつけて回る。
でも、「今はどの立場」なんて割り切るものじゃなく、全部が私を構成している思いだ。

そして結論。
健康のために階段使えばいいじゃん。


発達障害支援ワーク

2013-05-11 23:50:02 | 発達障がい支援

今年新しく立ち上げられた「発達障害者支援グループ アズウィッシュ」の第1回目SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)ワーク、および当事者グループワークが行われました。

ここ数年、私自身の学びとして、また支援者としてお手伝いできるならと「発達障害」というテーマに取り組んできました。

その具体的な活動として、就労支援につながるワークグループが始まりました。
社会活動において壁となる「周りと関わる」ことへの”少しでもの克服”を目指して、プログラムを工夫しながら進んでいきます。
内容などは書くのを控えますが、少なくとも「ここでならちょっと流れに乗ってもいいかな」と思ってもらえたようで、各ワークに、楽しそうに、積極的に参加してくださった気がします。
ここでの目的のひとつは、「安心して失敗してみる」ということが根底にあります。
他を批判せず、肯定的に受け止めることや、自己に「今、ここで」現れてくるものを受容し表現することも、プログラムの流れに乗ることで、無理なく体験してもらえるように考えられています。

同時に、午後に行われた当事者グループワークでは、「同じような仲間ばかりだから、安心して自分を開いて、言いたいことを表明する」ということが目の前で繰り広げられていきます。

今まで、当事者&家族のグループワークは何度か経験してますが、どうしても当事者が家族に理解を求める、家族が当事者を理解するために質問を浴びせる感じでした。
それはそれで大事ですし、そういう機会も成長の糧となるのですが、「結論を出すのではなく、まずは表明・表現してみる」ということをより安心して過ごせる場所と時間。
課題はいろいろ出てくるでしょうが、やっていける手ごたえはありましたね。

こういうワークを進めていく手段はいろいろあるでしょうが、PCA(パーソン・センタード・アプローチ)を学んだスタッフが中心にいて、ワークをこなすことより、今のそれぞれの居所を大事にすることが功を奏している気がします。

お世話をするスタッフ(もちろん私自身も)も、失敗もしながら、学んで良いグループが作っていければと思います。

案内をリンクしておきます。
アズウィッシュ ASWISH


保護司という新たな役割

2013-05-10 01:35:31 | 日常雑感

中P連の新旧合同理事会と同じ日に「保護司新任研修会」に参加してきた。

PTAの活動をしていて、ご一緒させていただく方が保護司をされていたり、「社会を明るくする運動」に支部理事として参加させていただいたりと、それまで無縁だった「保護司」という言葉に縁ができてきた。
そんな中、地域のPTA会長の先輩から、この地域で保護司を受けてくれる方が減ってきているのでどうか?とお誘いがあった。
PTA活動をしていると、地域との連携というのは大きなテーマとなる。
また、青少年の非行からの立ち直りの機会に地域の受け入れが重要なことも学んでいた。
断る理由は無かった(いや、経済的なことや他の役割の忙しさなど理由はいくらでもあるのだが)


そして今年度から役目を引き受けることとなり、その委嘱式と初任者研修が行われた。

あらためて、研修を受けながら感じたことの中心は、他の活動と同様、カウンセリングの学びの”実践”がここにあるんだなと。
保護観察の当事者はもちろん、その家族の方の「話を聞く」というのはとてもウェイトの大きな作業で、その面接に関わる研修は(研修自体は来月行われるが)カウンセリングの用語だらけだったりする。
まずは基本的な傾聴が必要なのはもちろん。
そこに、なかなか心を開かない当事者や、自分の思い通りになると思い込んでいる保護者などと関わるには、ベーシックを超えた「新しい傾聴」のレアケースの学びが生きてくる。

今後、具体的なケースを書くことはできなくなるだろうけど、保護観察が必要になるケースの多くには、家庭環境や社会と適用の問題が横たわってくる。
そこには発達障害の問題も深く関わってくrだろうし、ちょっと周りが理解の手を差し伸べることで円滑なコミュニケーションができるのに、差異を受けいれることが難しい現状では、不要な諍いも起こりうる。
そのあたりは、ここ数年関わっている発達障害の学びが生きてくる。

また、保護観察のなかで重要な案件となる就職先の問題なども学び、また実際に受け入れてくれる企業との折衝なども必要になってくるだろう。
そのことは、これから進めていく発達障害の社会適用へのプログラム「SSTワーク(ソーシャル・スキル・トレーニング)」への転用も可能だろう。

このように、学びとしてインプットしてきたことの実践として、このタイミングで引き受ることになった!”意味”が繋がってくる気がする。

そして、おそらくは直接的な動きにはしにくいだろうが、「罪を犯すようなパーソナリティも特別なことではなく、、うしろそういう風にしかできないものをこそ”お目当てだよ”と言ってくれる、阿弥陀仏の受容」ということが私の根底にある限り、あえて宗教活動にしなくとも、私の中の要素として真宗が息づいてくる。

そう、保護司として関わる相手ではなく、私自身が問われる活動としてこの役割がある。

 

宗教を、「死んだ後の問題」(後生)として、今生きている実感抜きで語ることも間違いではないだろう。
あるいは、今生きていることへの癒しとして、根本の「一切皆苦」をごまかして祈祷や呪いと同じ感覚で「いま幸せになる手段」としてしまうのも間違いではないだろう。
しかし、その両極端にこだわり、他を否定し攻撃することは本来の宗教ではない。

今の苦しみを明らかにしながら、それをも肯定される感覚(事実)を身に受けていく。
そのことを気づかされた私だからこそできる活動として。

お釈迦様の手のひらから逃げることのできなかった孫悟空のように、どのような側面からどのような活動をしようとも、真宗やカウンセリング、PTAなどの活動が絡みに絡まって、今を生きる私に問いかけてくる。

おそらくいろいろと困ったことも体験するだろうが、このタイミングで引き受けた意味を味わいつつ、学びと実践を続けていきたい。


京都市中学校PTA連絡協議会

2013-05-09 00:04:58 | PTA

3月で小学校のPTAを卒業させていただき、4月からは長男の進学にお供して中学のPTA会長に。
で、その学校が今年の支部理事に当たっていて、下京・南支部の会長ということで。
さらに、今日の新旧合同理事会にて、中P連本部役員として承認されました。

昨年度、小P連支部理事と小P連本部役員の掛け持ちであれほどハードな日々を送ったというのに、今年度は初めてする中学のPTA会長というハードルを抱えたまま、いくつもの顔を持つこととなりました。
懲りない人です。


しかし、こうやっていろんな立場を経験することで、どんどん新しいドアが開いていくのを感じます。
今日も中Pの先輩といろいろ話をしながら、小学校でのPTAと学校、PTAと子どもという関係とは違ったアプローチで、生徒会との関わりという手段が生まれてくることを聞き、いろいろ試してみたくなってます。

まぁ、あまり先走るのも良くないので、明日の「第1回実行委員会」という、中学校の役員会で皆さんの反応を聞いてみたいなと。

他にも、小学校時代とはいろいろとスタンスが違う感じも味わってますが、PTAはPTA。
目的だけは誤らないように、足元をしっかり見ながら一年張り切っていきましょう。


2年前、初めて理事というものになって、単Pや小Pの意味、推薦理事が何なのかも判らないまま参加した理事会でしたが、今はそういうことを「ちゃんと伝えないと初めての人は不安しかない」と慮る側になってますね。
「相手に伝わって、はじめて伝えるということが成立する」
この原点に戻って、子どもらのための活動の下ごしらえをさせていただきます。 


ミニカン1回目

2013-05-07 21:09:09 | ミニカウンセリング

ミニカウンセリング研修会 第1回

今年も10回のミニカン研修会が始まった。
今までは世話人ではあっても、先生がメインで進行されて私はサブ。
しかし今回から、先生に横で指導していただきながら、私がメイン進行をする形に。

まぁ、年齢的なことを考えれば、今までの先生方が活躍されていたのはもっと若い頃からなのだから…とは思いつつ、未熟感がただよう私で大丈夫なんだろうかと。

とはいえ、流れを流れとして受け止め、意を決してお引き受けしたからには(できることしかできないが)精一杯務めさせていただく。


初めて参加される方が4名(うちおひとりは今日は欠席)継続・お久しぶりの方が3名(こちらもおひとり欠席)の7名に、世話役が4名で、計11名の集まり。

今日は総論的にミニカウンセリングというものを説明させていただき、世話人の実践を見ていただき、今後の予定を確認する。
毎回使用しているテキストを読ませていただくが、今まで教えを受けていたものを一つ一つかみ締めるように、私自身の学びになった。
お育てを受けていたんだということが腹底に響いてくる

終了後にある方とお話していたときも、偉そうなことが口をついていたが、それらは全部実践を通じて先達に教えていただき育てていただいたことだ。
それを、初めてあった方に質問されて答えることで、自分自身がもう一度聞かせていただける。

知識だけで身につけたものなら、この腹底の響きは無いだろう。
実践を通じて、失敗も含めて経験をつんできたことは”0”ではない。
到達点から見れば未熟は未熟だが、熟練者になってから動くのでは遅いかもしれない。
今、役割の流れが来ているなら、そこに乗ることで同時に学ばせていただこうと。


昨年から始めた「新しい傾聴を生み出す会」の活動も、それがあるからこのベーシックなミニカンで気づけることがある。

いやぁ、いろいろとお誘いを受けて、良いご縁にあわせていただいていると、つくづく感じる。

真宗カウンセリング研究会の情報はこちら 

新しい傾聴を生み出す会の情報はこちら