コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 3

2008-04-29 03:15:03 | 親子コミュニケーション

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 3

前回の「ありがとう と言う事」に似ているようですが、今回も簡単に出来る(ようでなかなかできないことでもあるのですが)ちょっとした言葉への意識です。

きれいなものを、声に出してきれいと感じる

世の中にはきれいなものがあふれてます。
でも、日々の生活に追われて、そこに目が、気持ちがいかないんじゃないでしょうか。

毎日通る道にふと咲いている花
子どもを迎えにいった帰り道の夕焼け
曇り空のスキマからこぼれてくる一筋の光

子どももそういうものを目にして「生まれてくる感情」があるはずです。
でも、さいしょからそれを「きれい」と表現できるんじゃなくて、立ち止まって「きれい」とつぶやいている人を見て真似をすることから覚えていくんじゃないでしょうか。

これだけ簡単なことなのに、毎日の忙しさに追われて立ち止まる余裕がないのはよく分かります。
私だって、そんなこと忘れっぱなしですから。
だからこそ、意識していようと思います。

子どもが立ち止まって何かを見ているとき、のど元まで出てきている「止まらないで」「はやくしなさい」と言う言葉に気づいた時、ちょっとだけ待って同じ方向を見てあげる。
そこに花があったり夕焼けがあったりしたら「きれいだね」と言葉にしてあげる。
「うん、きれい」
この一言って子どもにとって大事なものだと思います。

そして、親の方もちょっとでも意識の端っこにそういうものが止まったら、ちょっと自転車のスピードを緩めて、できれば立ち止まって一息ついて「あれ、きれいだね」と教えてあげてください。

子どもにとってもいいことですが、私自身にとってもきれいなものに気づくことって素敵なことじゃないですかね。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」
親子コミュニケーション 2 「ありがとう」


変わらんもの 変わるもの

2008-04-28 14:26:18 | 真宗
日曜礼拝でした。
ご法話のテーマは「きく」
4月になり新年度ということで、子どもたちに一年間「きく」ことを大事にしてほしいという思いも込めて。
残念ながら私は事情で途中で抜けたりしたのですが、「聞く」と「聴く」を対比させて、心を入れて「聴く」という流れだったように思います。

ご法話の後は学年に分かれて座談です。
私は大人のグループへ。
子ども向けの短い法話でしたから、大人の皆様はこのテーマでもっと聞きたかったようですね。
私もこのテーマにはこだわりがありますから、内に耳を向ける「聞く」、外に耳を向ける「聴く」、そしてそれが腹底に響いてくる「効く」という、いろんな先生に何度か聞かせていただいたお話をさせていただきました。
人によっては「聴く」のほうが上等な気がするという方も居られましたが、「聴聞」として両方使ってますしね。
題材のしかたによって、この二つの漢字の扱いも変わることがありますが、機の内なる声を聞き、法の願いを聴き、という機法いったいとして大事にしたいという思いがありますね。

座談での細かい内容は書きませんが、深~く味わったことがあります。

求道の過程で「阿弥陀様に願われている」ということに包まれる”気づき””心境”になる人が、一方で自分の無常をなかなか受け取れないということがあります。
周りの方としては「それじゃあおかしいじゃないかと」
まぁ、その辺は言葉の使い方や態度によって伝わることもあるので、ブログでうまく伝えきれないところでもあるのですが…
私のところで言うならば、本願に出会うことと、死ぬことが怖くなくなることは一緒ではないんですよね。
そういう”予想”していた心境の変化と、自分に起こる変化を比べて、「違う」と自分で判断してしまい、「願われている」ということまで否定してしまうってのは本当にもったいないなと。
いつまでも執着は消えず、願われていることすら忘れっぱなしのやつが、自分では知らないだけで「よるひるつねにまもるなり」と願われ続けている。
それこそ、私の側の心境などお構いなしです。
そういう事実を聴かせていただくと、下がらん頭が下がり、合わさらん手が合わさり、南無阿弥陀仏が飛び出してくる…効いてきます。

どうしても人の姿を見て、比べて、自分の予定概念にとらわれてしまう。
人からの評価を気にし、獲信の烙印を押してもらいたくなる。

周りの人はあくまでご縁で、向かい合うべきは阿弥陀仏。
私と阿弥陀様の一対一の出会いなんですね。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 2

2008-04-27 01:15:48 | 親子コミュニケーション

2回目もちょっと心がけることでできる大事なこと。

子どもは親を手本にします。
保育園や友だちやテレビの中の言動を真似るのもあるんですが、やはり長い時間一緒に居る親の言動を真似するようになります。

一番いいのは、常に手本になるように言動に気をつける…といってもこれは中々難しいことです。

そこで、まずひとつのことから。

ありがとう と言う事

なにを当たり前のことをと思われるかもしれませんが、なかなか出来てないんじゃないでしょうか。

子どもに「そこの箱とって」と頼む時、手渡してもらう時に「ありがとう」と言う。
買い物でレジにお釣りをもらう時に「ありがとう」と一声かける。
ファミレスで注文したものを持ってきたときに「ありがとう」と言う。
お冷のおかわりをもらった時や、バスを降りる時、どんなときでも一言「ありがとう」

そうすれば、子どももそれが当たり前だと思い、ちょっとしたときにでもしっかりと「ありがとう」と言える子どもになります。

この心がけには他にも効果があります。
ひとつは、他の人とのコミュニケーションの潤滑油になる。
自分もちょっとしたことで「ありがとう」と言ってもらえればうれしいんじゃないでしょうか。
双方がそういう気持ちになれば、そこから何かが生まれるんじゃないでしょうか。
もうひとつ、この「ありがとう」が自然に言えるようになっているなら、逆にいつもいっている場面で「ありがとう」と言い損なった時…それはなにかしら気持ちがざわついている時じゃないでしょうか。
そんな時って、ついつい子どもにもきつく当たってしまいます。
自分でも気分が落ち着いていないことに気が付いてないこともありますから、「あっ、今、言えてない」と気が付いた時に、一呼吸したり鏡を見たり。
そうすれば、気づかずに子どもにきつく当たることが避けられるかもしれません。

私も最初は意識するようにしてました。
いつしか、自然と「ありがとう」と言っている気がします。

ちょっとしたことですが、子どもの方から「ありがとう」と自然に言われたら、かなりうれしいですよ。

親子コミュニケーション 0 「序章」
親子コミュニケーション 1 「同じ目線」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 1

2008-04-26 00:05:46 | 親子コミュニケーション

いろいろ書きたい「心がけ」がありますが、特に順序(重要度)は考えずに小出しにしていきます。

まずは1回目として、入りやすい「形」の心がけ。
これは単純です。

同じ目線で

上から見下ろされるのは威圧感を感じますよね。
演説なんかをバルコニーから行うのは、遠くから見えるってこともあるのですが、上からの目線で威圧感を与える効果があります。

ということは、大人が立った状態で子どもを叱る時…自然とこうなりますよね。
また、子どもが話を聞いてほしい時に、上から「ふんふん」としていても対等ではないですから、子どもにとって「聞いてもらっている」感が少なくなります。

じゃあどうするか…

ちょっとしゃがんで、子どもと同じ目線になってあげてください。
こちらから何か伝えたい時
子どもが何か伝えたい時
同じ目線で対等な関係を作る。

これだけで大きな効果があると思います。
ちょっと手でも握ってあげたら、さらに効果はあるでしょう。
小さいお子さんでしたら、抱き上げて同じ目線にして話を聞くという方法もあります。
スキンシップと両方兼ねますからいい方法じゃないでしょうか。

いろいろと心がけたい態度はありますが、まずはこれくらいから。

親子コミュニケーション 0 「序章」


子どものお手本にできない

2008-04-25 00:59:13 | 日常雑感
今日の夜は「ある会合」に参加した。
あまりにも酷いので、会合の名は書く気にもならない。

私が請け負ったAの役をすると、自動的にBの役にもなるらしく…
ということは事前には聞いていなかったのに、会合の案内があり、参加したらBの任命書と会員証のようなものがすでに用意されていた。

会合が始まるにあたり、代表者や数名の紹介と挨拶。
それらを司会進行役が進めていくのだが、声が小さい・・・というより自信なさげ。
議題の説明もないので、どれだけの議題があるかわからない。

まずは、今年度の委員長が選出されるのだが、代表者が「独断と偏見でCさんにお願いしてありますので、異議の無い方は拍手を持って…」
その後その方は当たり前のように前の席に座り、各種の説明を。
その中で「Dの方(上部団体)の指示を先日聞いてきまして…」って、私らの承認関係無しで、もう承認当たり前の状態なんですね。

とまぁ、ここまでは私が始めてだから知らないだけで、ここの前例や慣習が在るのでしょう。
私も、ずっと関わるつもりはないですから、大人しくしてましたとも。

ただ、進行していくにつれ、挨拶をしている人がいるのに、前席の役員が大声で雑談したり、議長を無視して質問者と役員が世間話のように話を進めるし…
質疑応答となっても、後ろのほうで質問した人に対して、回りに座ってる人が説明をしだす…他のものはその内容が聞こえない…議長が言うことといえば「わかりました?」と…
質問内容も共有できなければ、その回答も共有できない。
部分的に話が進むから、その他の人も雑談しだす。
前の話がまとまってないのに、他の人が挙手もせず(当然議長も指名してない)違う質問をしだす。

もう、この状態が我慢できなくなって言ってしまいました。
「議長が流れを取りまとめて、話題を共有させてください」
確かに、一瞬静かになりましたが…

その後も、代表者が上から目線で「これこれこうなってますから、そのようにしてください」と、最初から決め付けで”説明”するだけ。
聞くということがないんですね。

みんな”言いたいだけ”の会合は、嫌な気分しか残りません。


法座を終えて

2008-04-21 23:54:54 | 真宗
二日間の法座が終わった。

前回のブログで、参加に対する意気込みと言うか、思い入れを書いたのだが、いざ法座が始まるとその気持ちが”あだ”となってしまった気がする。

ひとりひとりの「いま、どうしたいか」を大事にする

このことを世話役として受け止めるのか、私自身も参加者として自分を出しても良いのか、あるいはその折々で動きに任せるのか…
結局、迷ったままだった気がする。
いや、迷っていることすら始まるまで気がついていなかった。
事前にわかっていれば、打ち合わせのときに「こういうことで迷ってます」と表明することで、他の世話役さんと多少なりともすり合わせができたんだろうに…

「主旨は一貫していても、そのときどき・顔ぶれで表れかたは違ってくる」
そのとおりなんだけど、やはり過去5回、この主旨で経験してきた人たちに比べて、「…だろう」という思い込みでそこにいる私は対応できていなかった。

カウンセリングのワークで体感している「相手の動きを待つ」と言う「目的ではなく成長」という感覚
法座での「信心を得る」という目的を見越した関わりの感覚
そのどちらも徹底できていなかった。

などなど、ネガティブなことを書いてはいるが、実際二日間を費やしたグループの動きと言うのはとてもありがたかった。

最初の自己紹介で、多くの方が「この法座では○○することを心がけます」という、ただ流れで参加しているのではなく、明確な意思を持った感じや、グループを決める時でも「○○したいから××さんのグループに入りたい」という意思表示をされるところ…これがこの法座の大きな主旨であるだろうし、それが浸透している感じがエネルギーとなって溢れている。
ただ、私と同じように始めて参加される方にとっては、そういう行動が出来る人たちと比べて困惑と言うか、一歩出遅れている感じがあったのかもしれない。
自然と、そういう人たちが意思を決定する前に動き出す部分も現れてくる。
しかし、そこは「法座」という共通認識があるから、最初の意思表示が出来なかったものにとっても「座談で法の話を聞く(話す)」というところはぶれない。

結局、各世話人がひとりずつ入ったグループ4つと、事務手伝いで参加のはずが「ご指名」を受けた青年を中心としたグループ、計5つに分かれた。
私もひとつ持たせていただくことになったのだが(そのつもりの世話人依頼でもあるだろうし)私のグループを希望した方は「かつては厳しかったと聞いたので、昔の高橋さんで」という方と、「最近厳しくされるのが辛いので、ゆっくり受けとめてくれる今の高橋さんで」という難しい注文をされてしまう。
あとで、最近の法座でもなんどかご一緒している京都の方と、関東の方、合計5名のグループとなった。

グループ分けの過程で「司会的な役割の方が入って欲しい」という声も出ていたのだが、名簿の時点で「そういう動きをしてくれそうな人」であった何人かが特定のグループにかたまり…結局、「4人の求めておられる方と私」という構図になってしまった。
一応、グループに分かれての最初の座談で「もし私が話に夢中になってしまって配慮が欠けていると思ったら、そう思った時点で誰でも声をかけてください。そうしてもらいたいんです」ということをお伝えさせてもらった。
が、振り返ってみるとやはり「常に全方位にアンテナを張った」状態には程遠かったし、一部の方には時には不自由させてしまったかもしれない。
しかし、二日目になると、そのうちのおひとりが夜の間に「気づき」をされたことがあったようで、大きく空気や流れが変わり、私もその方の生々しい言葉を聞きながら、少し大きくグループを見ることが出来た気がする。
他の方にとっても、私が同じような話を繰り返すよりもよっぽど響くものがあったんじゃないだろうか。
ある方が「昨日は同じことを言っていると思っていたのに、違う人のように感じる…」とおっしゃっていたが、実際その変化に刺激を受けたんじゃないだろうか。

ただ、その変化は簡単に「獲信」というものじゃない。
(ネット上では、実情を知らない方々が華光は「獲心」レッテルを貼っていると噂しているようですが…笑)
あくまで「気づき」、でも大きな「気づき」

いままで、「変わりたい、変わらない」自分の心と格闘し、「自分を見つめるほど気持ちが悪くなってくる」という求め方をされていた方が、どういうきっかけかは聞いていないが「こんな私のためだけにご苦労されている阿弥陀様」という”慈悲”の心に触れられたことを繰り返し話してくださった。
上手く表現できないことを悩まれていたが、私には逆にそれが生々しく感じた。
「ご苦労」や「わたしひとりのため」というところが他の方にはピンとこないようで、説明しようとすればするほど言葉の上滑りになることもあったが、それでも繰り返される「ずっと待ってくださった」という言葉に喜びが溢れている。

どうしても「変わる」というところにこだわっている方たちにとっては、「じゃあ後生は苦じゃなくなったのか」とか「お任せできるのか」とか、自分自身の心境の変化の際に強く”叩かれた”ことを、問いたくなっていたようだが、本人にはそこに力が入っていない感じが伝わってきた。
きっとその辺はこれから聴聞していかれることだと思う。

そう、こういう場面でも、最初に書いたような”趣旨”をどう受け止めているか迷っていることが、私の動きに影響していた気がする。
はっきりすることを「はっきりする・しない」と厳しく問うていくのか、その方の「今」を尊重して、私が受け答えするんじゃなくて場の流れにゆっくり任せることを大事にするのか…結果は後者の気持ちに乗っかっていたが。
まぁ、正解はないんだろうけど、世話役として求められていたことはないだろうか、参加者として求められていたことはないだろうか、そんなことに煩わされている私って…。

まぁ、そういう迷い・葛藤があることだけはハッキリさせてもらったし、体感していない法座の世話人を、経験者と一緒のものを求められていると背負っちゃうのは大変だなと。
はなから、いろんな法座に参加していれば(多少なりとも)経験者でいられる一番の近道ではあるか。

あとは、いつまでも”勉強”ですね。

明日から法座

2008-04-19 02:10:47 | 真宗
明日から「真宗法座の集い」
今週初めに急遽世話役の依頼があり、参加することになった。
実はこの法座はまだ未経験。
他の法座とはちょっと趣旨が違うので、いきなりの世話役はちょっと心配だけど、その趣旨自体は普段から気にかけていることなので、そんなに普段と違う動きをすることもないだろう。

法座には、「信心を得る」という大目的がある。
そのために、伝える人と聞く人がいるのだが、一生懸命になるあまり一方通行の流れになりかねない。
どちら側も、そういう立場・役割に徹する方が楽だから。

そうすると「予定概念」に捉われて、理想の求道者になっているか否かのところで動いてしまい、肝心の法をないがしろにしてしまうんじゃないだろうか。

明日からの法座は、そのあたりを固定させないところから始まる。
ベースになるのは「信心ろ得る」なのは間違いないが、法話-座談などのプログラムも自由にして、そのときの参加者の「いま、どうしたいか」を大事にする。
昨年までの法座の様子もいろいろ聞いているが、時にはその自由さが問題を起こすこともあるようだ。
そりゃあそうだ、ひとりの「やりたいこと」を選択すれば、それが別の人の「たりたくないこと」である場合もあるだろうし。

この法座の世話役は、流れを促すのではなく、「どのような流れ」になってもそれを助ける役割じゃないかなと思ってる。
法座の世話役よりむしろ、エンカウンターグループの世話役なんだろう。

うん、こうして書いてて気持ちが高揚してきた。
何が起こるか、楽しみだ。

悩みのつきない”親”業

2008-04-18 00:21:53 | 親子コミュニケーション
火曜日に、息子の通う保育園で保護者会役員会があった。
いま通っているのは私の4人目の子ども。
一番上の長女は今年高校入学で、彼女が1歳になる前から保育園にずっとお世話になっているから、今年で16年目。
長女の卒園後から役員会のお手伝いをさせていただいているので、こちらは10年になるのか?

一緒に役員をする面子は変わってきているが、その子育ての悩みはいつのときもつきないようだ。
今回の会合でも「研修会」の内容を検討している時に「叱り方を教えて欲しい」と言う声があった。
この課題、私自身いろんなワークを通じて学び、また4人の子育てをしながら実践している。

同じ親から生まれた子どもでも、それぞれ個性が違うからコミュニケーションの仕方も違ってくる。
私は少なくとも4種類の実践が出来ているわけだ。

以前にも、その経験をいかしてちょっとした「心がけ」をまとめたことがあったが、今回の声を機会にもう一度まとめてみようかなと思っている。

一度にはいかないだろうけど、少しずつブログに出していくのがいいかもしれない。
カテゴリーを統一しておけば、あとで追っかけることも出来るだろうしね。

で、まず1回目は前提となること。
それは、これからいくつか「心がけ」を記していくけれど、それが「出来ない」「出来ていない」ことであっても自分を責めないと言うこと。
すぐに効果を求めるんじゃなくて、まずは「出来ていないこと」があればそれを「出来ていない」と素直に受け止めることだけで充分。

私にしても、「これが理想」と思いながら、そのときの気分や相手の出方で「そのとおり出来ない」ことがほとんど。
でも、「出来ない」で終わらすんじゃなくて、「こうしたいな」ということを刻むことから始まるんだと思う。
自分を責めちゃうのが癖の人もいるだろうけど、ちょっとそこは一呼吸おいて、「自分を許す」

相手を変えることは凄く難しいから、まずは自分の心持をちょっとかえてみましょうよ。

純粋性と自己一致の迷宮

2008-04-14 01:58:06 | 真宗カウンセリング
話をしたり聞いたりというコミュニケーション。
双方に話したいことがある場合、双方が言いたいことを言い切るというのは難しい。
どちらかに主導権が生まれるじゃないだろうか。

仕事や近所づきあいなど、利害が絡むとどちらも引けなくなるんで、相手の話をじっくり聞くという行為よりも主張を聞いてもらうということに神経が行ってしまいがちですね。
そうなると、お互いに「わかってもらえない」状態ですからキリがない。
じゃあ、どちらかが引いて”聞く”に徹すれば丸く収まるのか…ねぇ。

カウンセリングの”聞く”ということには”関係”が出来ているかどうかが大きなウェイトを締めるように思う。
「これから15分間は○○さんの時間です」というルールを設定するミニカンだと、まずは役割の関係がしっかり作られ、秘密厳守などのルールによって信頼という関係が作られ、クライエントがその関係を受け入れることができれば、そこには共感できる時間が生まれるんだろうけど。

ということは、普段の生活の中でも話し手・聞き手の役割が出来ればスムーズにいくのかな。

しかし、冒頭の話のように双方に話したいこと・主張がある。
そのままじゃ駄目だから一方が引く…そのときに聞き手に回る方が充分納得していれば「私は聞かせてもらおう」という気持ちと態度で自己一致できるのだろうか。
実際は「しかたなく聞き手に回ろう」となるんで、やはり不一致なのだろうか。
「相手との関係を大事にしよう」ということを重視するなら、自分が主張したいということより関係を重視できるから一致なのか?

うーん、相手を尊重・大事にしたいと言う「純粋性」のために自己を殺すことが良いんだろうか…そうすると自分に対しての純粋性が犠牲になってしまう。

まぁ、実際は上手くバランスを取るべく努力し続けるか、自分を殺して楽を取るか…やっぱり我慢しきれず、主張を曲げずに相手を押さえにかかるのか…。

うーん、どんどん迷宮にはまっていく。
もう一度、いちから勉強しなおしだな。
わかってる”つもり”が一番怖いからね。

顔の見えない論戦

2008-04-12 01:10:12 | 日常雑感

先日ある人から耳にした情報をネットで探して見ていました。
ある方のブログをめぐるやり取りなんですが、ある方面で話題になっているということなので…

その内容をここで紹介するつもりはないんですが(気になります? 笑)

ちょうど、私のメインホームページも衣替えして、掲示板を外しこのブログを中心にすえました。
ずっと掲示板中心でやってきたんですが、ちょっと私自身の対応も変わってきてる気がしましたのでね。
自分でホームページを持つ前は、知人のページの掲示板によくお邪魔してたんですが、寝る間を惜しんで書き込んでましたね。
というのは「私の言いたいことをわかって欲しい」と言う一心で、次から次から言葉を重ねていましたから。
その「言いたいこと」は仏法のことなんですが、同じ浄土真宗を聴聞しているはずなのに”通じない”ことが多かったんですね。
それも相手はほとんど真宗の僧侶の方々…(苦笑)
もし簡単に受け入れられていたら、逆に白熱することもなく、おたがい「ありがたいですなぁ」で終わっていたかもしれませんが、「信心」ということひとつとってもすれ違う…そうなると「いかに相手が間違っているか」を主張しあうだけなんですね。
おそらくは、私が当たり前に使う「後生の一大事」と言う言葉だけでも、その内容以前に「その言葉を使う奴は気をつけろ」という先入観などもあったかもしれません。
一旦先入観をもたれると、それを振り払うのは容易じゃありませんね。

しかし、そうやって伝えようとすることでかなり「自分の聞いているもの」がハッキリさせてもらったのも事実です。
大きなご縁でしたね。

今回、掲示板をブログに変えようとした背景には、今の私は掲示板で「あなたは間違っている」という形の関わり方を出来なくなってきていることがあります。
法義のことだけなら曲げることは出来ないところは当然あるのですが、コミュニケーションと考えると、「尊重」ということを外せませんから。
掲示板をネット上の座談にしたかったんですが、ずっとそこにこだわるよりは違ったアプローチを試してみたいなと。
その分、「法話を題材」にしたものを別に用意して試したいなと思ってます(これはもうちょっと後でね)

こういう話題になったのは、最初に持ち出したある方のブログで、基本は自分の想いを書いておられるのだけど、自分の正当性をアピールするために相手の批判がどうしても出てきてしまう様を見たからです。
そうすると、反論というものが出てきますし、それが直接対決ならまだしも、場所を変えて当事者じゃない人たちが憶測の元に話を広げて言ってしまう様は…
で、肝心の仏法が飛んでいって、もう人間的などろどろに…(笑)
当事者じゃない私は、それらを通して「結局どっちも(私も含む)凡夫やなぁ」とね。

でも、それはまさしく10年前(今も変わらんか)の私の姿なんですね。
この書き込みも周辺事情だけで何にも仏法に触れてませんしね。

 

ホームページをリニューアルしました。
前に話題にした真宗カウンセリング研究会の年間予定表も完成させました。

一々の華

一回りして、シンプルに戻ってきましたね。