コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

極々私的な書き込み

2011-12-18 23:54:10 | 親子コミュニケーション

他にも書くべきこと、書きたいことはあるんですが…今日は子どものことを書きたくなりました。

 

今日、息子二人と映画を観に行きました。

金曜くらいに次男のSくんから「明日からやるんやけど、観に行ける?」と聞かれ、「お父さん、夜中仕事やし、朝から昼間では寝てると思う。その後はわからん」と生返事。

ところがSくんは「昼まで寝たら、その後は可能性がある」と受け取ったんでしょう。

昼過ぎに「お父さん、もう起きる?」と聞いてきます。

「風邪気味やし、もうちょっと寝とくわ」と私。

しばらくしたら、友達の家に遊びに行ったようです。

後で聞くと、母親にも「おかあさん、映画行ける?」と聞いていたようです。

 

その日の夜には「お父さん、明日は?」と聞いてきます。

「今晩も仕事やし、明日は昼まで寝たら昼から勉強会あるから無理」

さすがにちょっとかわいそうになったので、「映画はすぐにおわらへんし、来週もまだやってるはずやで」とごまかしにかかります。

 

そうして、夜中に仕事に出かけたのですが、どうもばつが悪い。

で、いろいろ考えてしまう(夜中の仕事は、単純作業しながらなのでいろいろ考えてしまいます)

 

ここからはさかのぼっての話。

息子Sくんは、今3年生。

発達障害の講習会を聞きにいくと、そこで教えてもらう様々な特性が当てはまります。

落ち着きがない。

話が聞けない。

妙なところをしっかり記憶していて、融通がきかない。

その他もろもろ。

 

そんなSくんが、今年の夏以降に「学校辞めたい」とよく言うようになってきました。

思ったことを口にしたり、融通がきかなかったり、いわゆるKYぶりを発揮しているのでしょう。

友達づきあいが苦手です。

ちょっとしたことを言われて、気にしてしまう性質でもあります。

本人曰く「いじめられている」「おもしろくない」と。

「学校がいや」と言う気持ちは聞いてやれますが、「転校したい」という要求までは聞けません。

そんなある日、いつもより強烈に「もう辞めたい」ということを訴えてきました。

よく話を聞き、一緒に学校へ行って先生も交えて話を聞きました。

 

仲の良い友達が一人居るのですが、その友達としゃべっていたらいつもいじめる子が来て「あいつといっしょに居るな」と連れて行ったようです。

自分がいじめられているだけのときは我慢できていたけど、大事な友達を取られたことは我慢ならなかったようです。

 

その少し前に、いざこざから相手の子に怪我をさせてしまいました。

「いくら相手が悪くても、怪我をさせたらダメだ。お父さんは暴力は嫌いだから、手を出さないように」と言っています。

そのことを必死に守ろうとしたんでしょう。

「手を出したらあかんから我慢した。でも、我慢し切れんようになったら怪我させるから、そうなりたくない」

彼なりに一生懸命内省しています。

 

Sくんはある絵本が好きです。

「おまえうまそうだな」宮西達也

まだ保育園の頃、この本に出会って感動していました。

その心優しさに、「Sくんはこういうお話がすきなんやね。そういう心はお父さんも好きや」というような褒め方をしていたと思います。

その後、このシリーズの新作が出るたびに買って読んでいます。

本当に好きだと言う面もあるでしょう。

一部には、そうやって褒められたと言う記憶が、彼にとっての私とのつながりであり、こだわりとなっているのかもしれません。

 

異形のものが、どんどん心を交わして深いつながりを持っていく。

別に心理分析したいわけじゃないんですが、Sくんは私が思っている以上に「つながり」に飢えていて、「つながり」を求めているのかもしれません。

 

これも先日参加した研修会で、絵本読み聞かせの先生にお話を聞いたときに、このシリーズも取り上げられていました。

 

話が前後してきましたが、こういうことを経てきたことが、昨晩の仕事中に気になりだしました。

今回、息子が観たいといってきた映画は「Friends もののけ島のナキ」

単純に予告編で観て面白そうと思ったのかもしれません。

しかし、「Friends」と言うタイトル、キャッチコピーの「どこまでも、きみのともだち」と言う言葉が、Sくんの思いとリンクします。

 

どんな思いで、この映画を観たいと言い出したのか。

生返事でどっちでいいようなあやふやな態度しか取れなかった私。

普段、PTA活動やカウンセリングの学びで、「子どもとしっかり向き合うため」と良いながら、実際には何も向き合っていなかった。

 

午後の学習会の予定ははずせませんし、多くの人に迷惑をかけるわけには行きません。

そこで、朝はしっかり休んでおいて、学習会を終えてから息子二人と映画館のあるイオンモールへ。

夜の回だったんで少ない観客(アベックがくっちゃべってちょっと×だったけど)ゆっくり観ました。

時々横から聞こえてくるSくんのすすり泣き。

映画でも泣けますが、こういう映画を観て涙するSくんに心を寄せて私も涙します。

 

終わってから、たこやきつつきながら感動した場面を分かち合い。

とても喜んでくれたし、何度も「ありがとう」といってくれた息子。

 

目の前に横たわる問題が解決したわけじゃないだろうけど、お父さんとつながってることだけは感じてくれただろうか。

口先での、大人のごまかしでのつながりじゃなくて、応えることで示すつながりを実感してくれていたらこんなにうれしいことはないんだろうけど。

いや、どう思われていようと、今日の「ありがとう」の一言だけで十分です。

 

 

と、打ち込んでて恥ずかしくなってきたけど、言葉にしておかずにおれなかったので、そのまま流しておくことにしましょう。

 

 


気持ちを受け止めるコミュニケーション 教育委員会懇談会での思い

2011-12-17 18:13:09 | コミュニケーションワーク

 

もうちょっと早く書きたかったけど、少し風邪気味だったんで、できるだけ”なければならない”ことを優先してたので。

この1週間だけでも、エンカウンターグループ参加、教育委員会との懇談会、小P南支部会長会議、ミニカン継続学習会、他に普段の仕事などもあって、風邪気味でスローペースな体調とは裏腹に気持ちはハイ状態。

(単に、熱に侵されてるのかも)

他にも、新たに始めたFacebookも楽しくて、限られた時間の割り当てが難しい。

 

なんてことを書いてる暇があったら本題へ。

 

今日書いておきたいのは、「教育委員会との教育懇談会」のお話。

今年参加した小P理事会の中で「教育環境部会」というのに所属したんだけど、その中のメイン行事。

事前に何度か会議を重ねて(「教育懇談会 準備会議」参照)きたけれど、いよいよ本番。

 

 

当日、懇談会1時間前に集合して、最終チェック。

私が座る席は質問者側の中央よりで、真正面は「答弁のメイン」になるであろう方(という風に、昨年から参加してるお隣さんに聞いた)

そういえば、小P連会長も「お、真正面ですね」と言っていたが、そういうことか?(笑)

 

内容を触れるのは割愛するけれど、質問事項の骨子は事前に決まってるし、相手にも伝わっているので(そうでないと質問に対応する担当者が出席できないしね)何らかの形で伝達されていることを、委員会の担当者から説明を受ける形になる。

概ね、「その後質問に対しては、これこれの取り組みをしています」というもの。

で、それは非常に正しいことを正確に伝達していただけると言うことで、とても大事なプロセス。

 

PTAの保護者はこういうことに関心を持ち、こういうことを心配しています。

教育委員会では、こういう取り組みをし、こういうプロセスをふみ、こういう対策をしています。

 

 

が、私はかなり物足りない。

あとで振り返ってみたけど、そこに現場の「教師」が居ない。

子どもの代わりは「保護者」が勤めるけれど、私らが見ている現場にいる「先生」に対することを(私の関心はそこが大きかったが)「委員会ではこういう取り組みをしてます」とだけ言われても、「で、先生はその取り組みをどう考えてますか、その結果どうなりましたか」と言う部分は、お互いに想像でしか話せない。

 

と、こういう説明ではうまく伝わらないと思うけど、私の普段のコミュニケーションワークでの流れと比較してみると良いかもしれない。

 

先生の負担が大きいんじゃないかと思うのですが?」

「その対策として、こういうシステムを導入し、仕事の簡潔化をはかり、対応を進めています」

「はぁ、そうなんですか…」

 

「先生の負担が大きいんじゃないかと思うのですが?」

「どうしてそう思われるのですか?」

いつも遅くまで作業されてますし、子どもと向き合う時間があるのかなと?」

「先生がそうおっしゃってましたか?」

「いえ、こちらの見ている感じです」

「そうですね、負担があるとするのならば事務作業の多さもあるかもしれません。今、教育委員会ではシステムの見直しを図っていて、作業の簡潔化を図っています」

「でも新しいシステム導入となると、そこへの習熟にも時間が必要じゃないですか?」

「そうですね、最初は負担があるかもしれませんが、改善につながると思いますよ」

「はやく余裕が持てるようになると良いですね」

*どちらも、雰囲気のたとえで、実際のやり取りではありません

 

まぁ、書いててかなり極端な書き方になっちゃったなとは思いますが、イメージとしてはこれくらいの違いがありました。

こう、こちらの気持ちを受け取ってもらうプロセスが省略されて、説明(これが長い)が続くと、深めていく言葉を奪われてしまって、「そこまで対応していることを知らなくてごめんなさい」となっちゃいます。

もちろん、この手の懇談会はそうした心の交流が目的ではないので、私の望む物と違うのは致し方ないんですけどね。

 

 

時間の都合で私もかなり聞きたい部分を我慢しましたが、学校の統合問題や、先生へのメンタルケアについても、説明されることと現場で聞いている事とに”ずれ”があるように思いました。

そういう「ずれがあるよ」ってことを投げかけることが出来、それを受け止めて「じゃぁ、対応はしているけど現場の声はどうなんだろう」と、”降りてきてもらう”ことが出来れば、いろんなことが進んでいくじゃないかなと。

 

もちろん、多岐にわたる問題を、まずは対応・対策と励んでおられることに敬意を表し、応援することには変わりありません。

むしろ、今回のことで”実情”に始めて触れることが出来た私が、今後何を考えて何に動いていくかが大事ですし、そのきっかけにはなったでしょう。

本気で何とかしたいのならば、今後こういう場だけじゃなく、普段から委員会の方々に関わっていく道もあることでしょうしね。

 

1年目から高望みしすぎると、張り詰めて折れてしまいますから、その辺は役員さんたちに任せて、まずはこういうことを支部や自校に伝えると言う大事な役割を全うすることから。

 

 

しかし、こういう会議に参加することで、目の前の”人(Parson)”を大事にするコミュニケーションの重要性が、改めて深まりますね。

 

明日は月1回の「聴き方・伝え方の学び」学習会です。

(興味ある方、気軽にお越しください)

このタイミングで開催するのも意味がありますね。

 

 


熱 と 冷静な視点 と  小P連理事会12月

2011-12-12 15:08:12 | PTA

 

前回書いた「市P連研修会」より前、水曜日に今月の小P連理事会がありました。

先ほど、途中退席した校長先生のために報告書を作成していましたが、機会があれば言葉にして残しておきたいな、ということが蘇ってきました。

 

細かい内容は会議上のことなので書きませんが…

 

ある議題に関して、それぞれ学校のPTA会長をしている人たちから「一丸となって成功させよう」という空気が広がっていきます。

私自身、これまでのいくつかのイベントを通じて、とてもすばらしいことだから一員として頑張っていこうという気持ちになっています。

すでに準備のために連日会議をしている役員さんがたのお話も聞いていますし、その熱意にうたれ、私もその気になってきます。

 

しかし、別の立場の方から一言…

「そのようにできない学校もあるんじゃないか?」

 

そのイベントは特殊なものなので、逆に今までと違う取り組みで挑みたいと言う流れに対して、「負担になるから、従来の物を利用してはどうか」という声。

 

また、別の方からも

「新しいことを出来る学校と、従来の物が混在したら、従来の物を提出した学校が引け目を感じるのでは? ならば、全部従来の物に統一した方が教育的に良いのでは?」

差異が出来ることでの気持ちに配慮した声。

 

 

このあと、双方の意見を踏まえた意見が交わされた。

(言いにくいことを言ってもらえたことで、やっと自分の言いたいことを言えた人も居ることだろう)

 

 

この小P理事という役割をいただいて、最初に出た会議の事を思い返していた。

役員さんたちの熱意がすごく素敵で、付いていこうと思ったことと、逆についていけない人のことも配慮する対場であろうと。

(4月にこのブログにも書いてましたね「京都市小学校PTA連絡協議会」)

 

 

いろいろ話し合われた結果、水をさした(悪い意味じゃないんですが他に言い方が見つからなくて)方は静かに流れを見ておられたように思います。

 

結果、より「成功させたい」と言う気持ちは固まってきましたが、ただ単に熱意で押すだけではなく、「ノリきれない人」のこともしっかり配慮してことをすすめていく必要は心にとめることが出来たように思います。

 

ブレーキではなく、周りを見てアクセルを踏んでますかって問いかけ。

闇雲に走るんじゃなくて、バックミラー見てついて来てるかどうか見ながらね。

 

 

この日の会議は、そういう意見も受けた上で、進んでいこうと言うことが共有できたんじゃないかと。

できれば、最初に慎重な一言を下さった方に、最後までの流れを聞いたうえでどう思われたか聞いてみたかった気がします。

(私がそう言えばよかったんだと、後で気が付いた)

 

 

今週の14日に、この会議を受けて支部で話し合う時間を持つことになってるけど、一方的な熱意だけでなく、いや熱意は熱意として伝えながら、耳はしっかり開いて待ち受ける余裕は持って居たいなと。

そういうところに立ち返らせてくださった意味でも、ご意見くださった方々に感謝ですね。

 


子どもとケータイ ~京都市PTA連絡協議会研修会

2011-12-11 15:44:12 | PTA

京都市PTA連絡協議会研修会「子どものケータイ!どう向き合う?」に参加してきました。

 

子どものケータイに関する研修会は、以前にも参加していますが犯罪やトラブルの現状を知る意味合いの強いものでしたので、今回実際に「子どものケータイの使い方」目線の講演は新鮮です。

 

最初に市P連会長からこれまでの取り組みの流れが説明されていたのですが、毎回のごとく「知らなかった」ということに驚きます。

やはり、「自分の関係のないところ」として、目をふさぎ耳を閉じていることのいかに多いことか。

自分の子どもとの向き合いだけに終始して、大きな取り組みに気が付いていません。

これでは”無関心”でいることとなんら変わりはないですね。

 

 

次に文科省課長さんが、学校での取り組みついて報告してくださいます。

なかなかにユニークな語り口で、「役人=固い」というこちらの警戒感を解きほぐしてくれます。

ここでも、「学校で取り組んでいること」について、”知らない”と言うことが驚きです。

いくら子どもに指導してくださっていても、親が違う認識を持っていては子どもが混乱するだけです。

 

そのあたりのことを、尾花先生の講演で教えてもらいました。

まずは、携帯をもたせるかどうかは「親の責任」だということ。

取り組みとして「持たせない」という方針はあるのですが、子どもだけでなく親のほうも「○○に必要だから」という理由付けをして「しかたない」として持たせてしまいます。

 

うちも、姉は高校デビューでしたが、妹の方は私学にバス通学する必要から「連絡が必要なときがある」という「仕方ない」という理由付けで許可しています。

もちろん、学校側もそこはOKで、「持ち込みは良いが使用は禁止」と言う扱いで、門をくぐる時点で電源OFFは必須です。

 

次は技術的な側面。

フィルタリングについての正しい知識を学びます。

これもするかしないかの二択ですと、使いたい物に制限がかかるか、無制限で利用できるかになります。

技術的に可能なことは何か知っておくことで、規制するものとしないものをハッキリさせて、安全に対応できるように出来ます。

また、スマホやゲーム機などもネット接続が可能で、ケータイとは違う対策(フィルタリングできない)が必要だということ。

技術進歩の知識を知っていないと、親の側も対応が取れません。

なにより、その危険性を知っておくことは大事です。

「持たせない」が徹底できれば良いのですが、ケータイだけを見ていては「安全対策」と言う面では抜け道だらけだということですね。

 

今回の話では、ケータイがあることの利点も話されました。

らだ、気をつけないとこれが「理由付け」にされますので、メリットとリスク両方知った上での「親の判断」が大事になってきます。

 

 

そして、こういうことを「子どもはどの程度知ってる?」と言うことも含めて、親子で話し合うことが大事です。

ケータイが悪いのではなく、使い方を誤ると怖いと言うことなので、親が知ることと、子どもとともに考えることが大事になってきます。

 

「この講演を聞こうという意欲のある方は良いんです。むしろ、来ない方々に知ってもらいたい」と言うことは、どの方も強調されていました。

意識ある家庭で徹底していても、他の子どもとのつながりの中で「危険」が迫ってくる。

これはなにも他所の子を警戒して、近づけさせるなってことではありません。

正しいことを広めていけば、自分の子どもの安全につながると言うことです。

 

先日の人権の話にも通じますね。

 

 

後半はパネルディスカッションだったんですが、ちょっと進行役にコントロールされてた感があって、パネリストが自由に発言できなかった(発言しても内容の一部を使いやすいように持って行かれる)のが残念です。

あと、講師の方が講演で言い切れなかったことの補足に時間をとられた感じがあったかな。

せっかくの機会なんで、進行を軸に直線的な関わりじゃなく、クロストークのほうが(収拾付かなくても)面白いんですけどね。

と、これはエンカウンターグループ慣れしてる私の私見ですが。

 

 

知らなかったことは謙虚に受け止め、ただ鵜呑みにするんじゃなくて、自分の問題として考えるきっかけにさせていただきましょう。


人権月間 わたしのこだわり

2011-12-06 10:35:38 | PTA

 

人権の話題が出たので、普段思っていることを少し。

 

最近、メールやSNSで仲良くなったPTA仲間の方に、伴侶のことを「連れ合い」と表現したことに感心された。

最近でこそ当たり前にこの言葉を使っているが、そこにはいろんな流れがあった。

 

もともとは世間的に使われているのと同じく「妻」や「家内」という呼称をしていた。

何がきっかけだか忘れたが、それはおかしいんじゃないかと違和感を感じる。

 

「妻」→ 一般的に「女性の配偶者」という意なので、間違った用例ではない。

しかし別の意味で「主となるものに添えるもの」と言う意味がある。

ここに男尊女卑の名残を感じてしまうと使うことに躊躇してしまう。

いつまでも男がメインで女がサブというのは気持ちよくない。

なのでこの言葉は使わないようにしたいと思った。

 

「家内」→ 辞書には「ふつう、他人に対して自分の妻をいうときに用いる」と書いてある。

まぁここでも先に「妻」が大手を振っていることに違和感があるのだが。

しかしよく字を見て欲しい。

女性は家に居るのが当たり前的な発想がプンプンする。

実際、我が家の場合、連れ合いは外に働きに行き、私は自宅を事務所にしている。

つまり「家内」は私のほうなのだ。

建物的な「家」と言うことではなく、「家庭」と言うことにしても、家事は連れ合いの専売特許ではなく、私も食事の用意をしたりする。(家事をやっていると堂々と言うと、「その程度でやってるつもり?」とお叱りを受けるのだが…笑)

 

他にもいろいろ考えてはみた。

 

「女房」→ これは特に差別的な意味合いは内容に思われる。

しかし、「貴族に仕える侍女」と言う意味が実はある。

もちろん、わざわざ辞書を調べないと知らないような意味で、一般的ではない。

が、「あなたは貴族で、私が侍女?」などという攻撃を受ける可能性をわざわざ刺激する必要ない。

ということで、他にあるならわざわざ使うことはないだろう。

 

「相方」→ 私は結構この呼称が好きだ。

知人でこう呼び合ってる夫婦を見ると、ほほえましいし粋だ。

が、普段から漫才夫婦と呼ばれている私らには、洒落にならなかったりする。

また、連れ合いにこれを打診したとき、やんわりと「それはいや」と言われたし…

 

「おかあさん」→ 「あなたのような子を産んだ覚えはありません。」

「ママ」 → 同上

「ワイフ」 → 言う方も言われる方も似合わない

「かみさん」 → 私は仏教徒です

 

ってなわけで、一番しっくり来るのが「連れ合い」だった。

対等なパートナーでありたいし、たまさか人生で連れあった相手だしね。

 

と、私はこだわってこうしたのだが、やはり一般的には「主人-妻」「旦那-女房」などと主従関係のにおいが残った呼称が普通だったりする。

まぁ気にしない人はしないんだろうが、「正しいことを知る」という先日の先生の話を鑑みると、歴史的な男尊女卑の思想があることを知っているのと知らないのとでは違いがある。

 

もちろん、そういう呼び方をしている人を批判・非難するつもりはなく、「私は気になるから使わない」ってだけですが。 

 

で、私はつとめて使わないようにしてるって言葉は他にもある。

 

身体的な特徴を揶揄する言葉が、放送や出版から外されているのは結構ご存知だろう。

他にも、外国のことを蔑視する言葉が自然と使われていたことも問題になっている。

よく驚かれる例が「ばかちょんカメラ」(説明に必要なので記載します、ごめんなさい)

これも立派な差別用語です。

 

同じようなものに「啓蒙」と言うものもある。

以前、ネット仲間でかなり論争になった。

この言葉には「無知な蒙古人に教える」という俗説がある。

ただ、この説の根拠は薄いようなので、人によっては「普通使われているのだから、そこ前言うのは”言葉狩り”だ」と言われる。

しかし、私としては嫌がるひとが居るのなら、あえて使う必要ないじゃんって考え。

「啓発」という、同意でちゃんと使える言葉があるんだから。

 

もうひとつこだわってるのは「子供」

私は「子ども」と表記する。

「供」って言う言葉には「従者」と言う意味もあるし、「この○○供!」って感じで上から下を見下すニュアンスがある。

だからあえて使わない。

 

まぁ、使ってる方を非難・批判するつもりはない。

知らずに使っているならば、知った上で判断してくださればいい。

「別に問題だと思わないよ」ってのもありだ。

 

以前「ちびくろサンボ」も話題になった。

そのビジュアル表現が問題。

童話なんだから良いじゃない。

かわいいし、蔑視はしてないよ。

ここまで規制するのは行きすぎ。

そんな意見もあった。

ただ、このことで悲しい思い、嫌な思いをしている人もいるってことは、無視できることじゃない。

 

そういえば、今度「サイボーグ009」がリメイクされる。

キャラクター表現が大きく変わっている。

 

原作者への冒涜だって声もあるけれど…原作ファンの私としては、そこに流れるスピリッツが受け継がれていれば、表現方法は変わってもいいじゃないって立場。

 

すべての声に反応するのは難しいけれど、マイノリティの声をしっかり聞くのは大事なことだと思う。

もちろん、私自身まだ、気付いていないうちに人を傷つけている表現をしてるかもしれない。
(ぜひ、ご指摘ください)

そして、そこに悲しんでいる人が居るのならば、少しでも悲しみが軽減できる表現を模索することに労力は惜しまない。

 


人権月間 授業参観と啓発活動

2011-12-04 23:48:02 | PTA

12月は人権月間。

それに伴って小学校で授業参観があり、道徳の時間と懇談会に参加した。

 

先に5年生の長男の部屋へ。

男女間の違いを通じて、認められる分け隔て、認められない分け隔てを、いくつかのパターンを題材に、子どもらに考えさせていた。

設問もなかなかに興味のあるもので、子どもらの受け止め方と、先生の、あるいは世間一般の受け止め方を対比して、男女格差の是非を問う目的だったんだろうと思う。

記憶に残っている所では、

「A君の家では、お父さんが一番最初にお風呂に入り、お母さんは必ず一番最後に入る」

「女性は16歳で結婚できるが、男性は18歳まで結婚できない」

必要な区別や、根に男尊女卑が残っている習慣など、正解の前に「どう思う?」と考えさせるものだ。

 

かなり後ろ髪を引かれたが、班ごとにディスカッションさせる時間が長かったので、発表を待たずに中座した。

 

次に3年生の次男の部屋へ。

「おとなりのくに」と言うテーマで、韓国・朝鮮の文化について学んでいた。

すでに黒板に書かれている、韓流スターやK-popアーチストの名前、キムチやトッポギなどの料理名。

子どもらの反応は、それらの名前を当たり前のように知っており、それが国境を隔てたおとなりのものだと”強く意識”する対象ではないようだ。

むしろ興味は食事の仕方などに現れる文化の違い。

こちらでは「お茶碗を持って食べなさい」と言われるのに、あちらでは「お茶輪を持つのは行儀が悪い」となるなど。

 

そのあと、懇談会では先生が外国人の関わる3つのケースを用意し、保護者に「アドバイスするとしたらどういう風にしますか?」という質問をして、人権に関して意識させて話し合う時間があった。

これも最終的な先生の方向付けに興味があったが、卒業式がらみの話し合い準備があったため中座。

 

 

この日の子どもらの様子で、大人が思っているほど”境界”を感じておらず、男女や国の違いによる差別意識はなくなってきているように感じた。

むしろ、自分の意に沿うか沿わないかで仲間になったり離れたり、またそういうときに言葉や身体での暴力に走り、相手を傷つけてしまうことが気になった。

 

 

 

翌日は人権啓発街頭活動があり、その事前勉強会としてS中学校の校長先生による講演があった。

永年の経験から、保護者への”気になる”点などを交えて話してくださった。

その中の話題で、上に書いた私の意識が揺さぶられることがあった。

 

子どもらに差別意識がなくなってきているということに関して、この校長先生に対して

「もう差別があることを話さないほうが自然と消えていくんじゃないですか」

というものだ。

差別の実態があることを話すほうが、”差別”の対象を知ってしまうということだ。

校長先生はこの点に関して「絶対に知らしめることが大事です」と強くおっしゃった。

「正しい知識は、力になる」

 

そのことで私も考えの浅さを感じた。

確かに子どもは最初から”差別対象”と言う知識は持っていない。

しかし、親や周りの人間が、当たり前のように差別的な言動をすれば、それが”普通”と思ってしまうのは明らかだ。

親の影響が一番大きいのだから。

間違っていることを、間違っていると知らないまま、それを正しいと思い込んでしまう。

普段表に現れていなくとも、潜在的に意識化されていれば、それは何かの折に”差別”として顔を出してしまう。

”差別している”と知らないまま。

 

だから、間違っていることを間違っていると知り、正しいことは何か知る必要がある。

 

 

ここには、カウンセリングで学んでいるものも大きく影響している。

「自分が正しいとは限らない」

と言う視点で物を考え、自分の思いを横において丁寧に話を聞く。

相手の思いたいように思い、話したいように話すことを援助する。

 

そう、「自分が正しい」ということを横において、本当の正しいことを謙虚に学ばせてもらうことからしか始まらない。

 

間違っている情報を正し、正しい情報を知ってもらう。

人権月間にあたって、親が、いや自分がまず何をするべきか、大事な指針をいただいた。