コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

総合支援学校地域交流会

2011-06-23 23:32:28 | PTA

 

 

 

昨日、京都にある呉竹総合支援学校の地域交流会に参加してきた。

今年度のはじめにあった「人権パレード」にて、呉竹のPTA会長さんを紹介していただき、この日の交流会にお誘いいただいていた。

 

その折にも少しだけ話させていただいたのだが、会長さんに何かしら惹かれるものがあり、不思議なご縁のような気がしていた。

 

実は、支援学校というものは、その存在は知っているのだが、逆に知っているつもりになっていて深く知る機会がなかった。

同じことは、学校の育成学級に関しても感じており、たまたまカウンセリングの関わりやPTAの関わりで、その保護者の方と知り合うことになり、その実情とは別のところの”気持ち”のところでお話を聞かせてもらうくらいだ。

 

そう、”知らない”ということをしっかり受け止め、だからこそこの機会で何かに触れたいと思っていた。

 

夜勤明けそのまま参加したこともあり、最初の講演は少し頭が鈍っていた。

(申し訳ない)

話の中身より、講演してくださった教頭先生の熱意と温かみだけが印象に残っている。

 

むしろその後の分科会が意義深かった。

私が参加したグループは、主に育成学級ではないクラスに子どもを通わせているPTA役員が中心。

育成学級と一般学級の交流の現状をいくつか聞かせていただいた。(我が校の取り組みも、改めて聞かれると良く把握していないことが分かった)

そして現存している問題を語り合うのだが、なんというか、育成学級の保護者を前におき、どう関わっていくかという話が中心なり、なんとなく心地悪さを感じていた。

私自身、いくつか話をしていったことで気づいてきたのだが、自分たちと育成学級の親を別に置いて、どう仲間になっていくか…という視点を感じた。

最初は”別”のところに置いているのだ。

 

もちろん、そこに疑問を持たず、あるいは無関心なまま終わることも考えられるので、ここに集った方々が一歩を踏み出すことはとても尊いことだ。

 

参加したあるお母さんが話されたことだが、「算数が苦手な子、運動が苦手な子、同じように他の子と同じような活動が苦手な子というだけのこと」ということは、私自身いろんな場面で話してきたことだ。

そのことが、他の方から聞けたことは、私自身にとってもこのことが深まることとなった。

 

みんなが「同じように同じことを出来る」ということはない。

得手不得手があるし、優れた部分もあれば劣る部分もある。

それを同じようにできるようにしていくことが教育やサポートだと思っている人が居る。

もちろん、サポートが必要だと求めている方には、手を差し伸べることは大事だ。

しかし、相手が望む前から「あなたはサポートが必要な人」と決め付けて、自分とは別の場所において考えることはちょっと怖い。

 

サポートできる環境作りはもちろん必要だが、それで何かを「成してあげた」という考え方が怖いのだ。

 

この日もついつい話してしまったんだけど、カウンセリングで学んだ大事なことの1つ。

相手が「困っています」と訴えてきたときに、「それは大変だろうね」と同情したり、「じゃあこうしてあげよう」と自分の考えで動いたり、「こうしたらどう?」とアドバイスしたり、あげくは「そんなの気のせいだよ」と相手にしなかったり。

そういうことではなく、「困っている」という表明に、そのまま「困ってるんですね」と受け止めてあげること。

ついついサービス精神で先回りして行動してあげるのが相手のためだと思いがちだけど、そうではなく、まずその人がありのままで居られるように受け止める。

このことのほうが、こちらのペースでサポートするよりよほど大事なこと。

 

いろんな方との関わりで、このことを学ばせてもらったけど、まだまだこのことを伝えていく土壌ははあるようだ。

この日のご縁は、私がマナで来たそういうことを、この日集った「どう関わっていこう」という課題を持っている方々に伝えるためのものだった気がする。

 

最後の校長先生の挨拶は、「違いはある」ということをハッキリさせた上で、「違っててもいい」ということを話してくださった。

違いをなくすのではなく、違っていることを認めていくことが出来る…とても基本的なことだけど、実はみんな受け止めきれていない考え方。

 

あとは、こういう交流に対する、学校側の認識と取り組み。

支援学校・育成学級の保護者が求めていることと、教師側の受け止められるところには少しずれがあり、理解しあうための話し合う時間がまだまだ足りていないなと。

一方的に学校を批判するつもりはないけれど、動きようはありそうな気はします。

 

この日の分科会で気づいたもう1つのことは、主催された支援学校のPTAスタッフがとても「聞く」姿勢を示してくださっていたこと。

おそらく、「こうあって欲しい」と言う気もちはお持ちだったろうが、「どういう思いをもたれていてもいいですよ」という姿勢がにじみ出て、ゆったりと聞き役に回っておられた。

とてもすばらしいファシリテーターでした。

気持ちいいから、ついつい語らせてもらいました。

 

ここにも、私が学ばせてもらってきたことを伝えることで、何かが動いていくきっかけがありそうな気がします。

また同時に、まだまだ知らないことが横たわっていて、こういう機会が必要なんだと再認識。

 

 

 

 

今晩の食事時に、連れ合いとこの日のことを話し、連れ合いの立場(学校側)からの視点も聞かせてもらえました。

ブログには書きませんが、こういう時間をもてるのもおかげさまですね。

 


噂の真相

2011-06-22 00:05:00 | 日常雑感

 

かつてそういうタイトルの本があった気がするが、これは別のお話。

 

PTA活動や、いろんな集団に所属しているといろんな噂話に遭遇する。

いやそのエネルギーたるやすごいもので、よくこれだけネタがあるなと。

近しい人の話題から、政治界、芸能界のネタまで。

ネットでは「2ch」などで根も葉もない噂が流され問題になったりしているが、なにもそんな最新メディアを持ち出さないでも、過去より井戸端会議なるコミュニケーションツールで持って同じことが成されてきたように思う。

 

ただ、先にあげたネットと言う「一手間で多くに同時に情報伝達」できることが、その頒布能力に加速度を与えている。

 

しかしよく考えて欲しい。

その噂を広めているのは、コンピューターが勝手にしているのではなく、そのモニターの前に座っている人間なのだ。

 

 

で、この噂だが、その多くは伝達過程で尾ひれが付く。

まぁ最初は誰かが”気になる”ことをつぶやいたんだろう。

「Aさんは○○じゃないだろうか?」

ここには何も確証はない。

気になることを疑問形で発信しているだけだ。

それを聞いていた相手にもそれなりに気になることがあれば

「そういえば△△って話も聴いたから、○○なんじゃない?」

と、これも自分なりの解釈を加えて「○○」という想像を深めていく。

そして最初の発信者に「△△」という情報が加わる。

 

これが関西人だとさらにややこしい言い回しが加わる。

「Aさんは○○らしいで…知らんけど」

これは、「○○」と断定しているのじゃなく、「知らんけど」を付け加えることで自分は特定していないと言う逃げ道を作っている。

しかし、聞いている人は「○○らしい」の”らしい”を断定の言葉として受け取りかねない。

かくして「Aさんは○○」という規定路線で話は伝わっていく。

 

また、その情報源についてもいろいろ問題がある。

たとえばテレビで得た情報が「正しい情報」と思い込んでしまう。

まぁ、ワイドショーもそれなりに取材して事実性を高めてはいるんだろうが、そこには”演出”が加わり、いけにえを見つけて集中攻撃をする。

見ている人も、自分が正義側に回りたくて、少しでもエラーをしたものを責め立てる。

違う意見を言おうものなら、いけにえの味方をしていると決めつけられ、攻撃対象にされてしまう。

それも多くの場合は当人の前では笑顔で、本人不在のところで「あの人は悪の味方だ」と陰口で広がってしまう。

 

 

もうひとつよくあるパターンで「みんなが言ってる」という言い回しの問題。

”みんな”まで行かなくても、自分以外の「BさんやCさんが言ってたんだけど」というパターンもある。

じつはその多くは、本人が想像していること…特に確証をもてないことを、自分以外の”誰か”が言っていることとして情報発信する。

そうまでして情報発信したい性があるのだ。

これも先の「知らんけど」と同じもので、自分が特定したということを避けて、責任逃れしたい姿だ。

以前聞いた講演で、「みんなが言ってます」という話に対して、「みんなって誰?」という受け答えをする話を書いた。

「あなたは見たんですか」

どこにいるか分からない「誰か」が発信している話を、事実のように触れ回ってしまう…怖いと思いません?

 

 

で、ここに潜んでいる問題はさらに奥深いものがあって、そういう発信者は特に深い意識がなくても、噂されている対象は非常に傷ついてしまうということ。

 

極端な例で言うと、殺人を犯した加害者がいたとして、その”殺人”という行為に対してだれもが「悪者」と思う。

まぁ当然の話。

しかし、その情報で現れる”殺人”という行為の奥に、そこに至る経緯もあったりする。

時には、そうせざるを得ないところまで追い込まれてしまった、被害者的状況もあったりするだろう。

なのに多くの野次馬たちは、そういう事実を知らずに、知っている情報の範囲で事実を”想像”して、それが事実だと思い込んでしまう。

逆に仕方ない理由があったとしたら、今度は一転「加害者になっても仕方ない」と同情を込め、自分が知りえた”理由”だけを判断基準にして被害者をせめたててしまうこともある。

 

自分は実は事実は何も知らず、誰かが見聞きしたものを、自分が見聞きしたように錯覚して、いつのまにかそれが事実だと刷り込んでしまう。

そこに罪はないが、そのことで傷つく人がいるということを、ちょっと冷静になって思いをはせてみて欲しい。

 

うん、怖いのは「自分はそんな傷つけることはしていない」という間違った認識かな。

 

人は基本的に噂が好きで、思い込みを事実に誤認してしまう生き物なんだろう。

気づかないうちに、決め付けをしてしまう。

気づかないうちに、想像してしまう。

そして、それが自分のせいにならないように、善意の第三者を仕立て上げて、自分の想像した”事実”を吐き出して満足してしまう。

 

 

噂ってそういうことだと思う。

事実を知っているのは当事者だけ。

その他は、何らかの想像や憶測が混じっているってことをもう一度見つめてみて、情報伝達ってデリケートだってことを思い返してみませんか?

 

まぁ、言いたいことが出来て黙ってるのは精神衛生上良くないでしょうから、そういう時は私に吐き出してくだされば、事の真相は判断せずに、吐き出したい気持ちを聞かせてもらうことは出来ますよ。

 


いいこと わるいこと (日曜礼拝 法話)

2011-06-21 03:08:31 | 真宗

ちょっと更新が滞ってました。

いえ、元気にはしてましたよ。

というか、元気でなければやってられないほど毎日の予定が詰まってて、体調維持のためにはブログの更新を犠牲にして少しでも睡眠を…と。

 

この間にはミニカンでの気づきもありましたし、PTAがらみで地域の会合に参加したり、3回目の小P連理事会があったり、真カ研月例会で新たに始まった今年度の論文輪読で気づいたことも。

 

他にも支部長研修会と、事務局ミーティングで「親鸞聖人750回大遠忌」の打ち合わせを進めたりもありましたね。

その事務局ミーティングのために、skypeをPCにインストールしたのですが、デスクトップでうまくいかず、サブのモバイルノートにインストールしなおし、予定していた時間に接続できずにメンバーに迷惑かけたりもありました。

さらには、そのskypeインストール以降、デスクトップの挙動がおかしくなり、今も恐る恐るPC利用してます。

 

そんなばたばたした状況ですが、そのなかでも一番責任の思い「日曜礼拝 法話担当」を昨日済ませました。

 

大体、年に1回くらい引き受けてる「日曜礼拝 法話」です。

今年は「罪悪観」をベースに「いいこと わるいこと」をテーマに話しました。

 

最初に一般的な善悪のことを押さえるために、今年PTA会長をすることで深く意識する事になった市P連の活動から、「マ・モ・ルを守る」運動のことを話しました。

「マナー・モラル・ルール」のことを説明し、それを守ることはとても大事なことだと。

(大人の人はぜひ見本となって、「マ・モ・ルを守る」を大事にしてくださいというアピールもしっかりと含めて)

次に子どもの聖典を開き、仏さまの目から見た「わるいこと」を題材にします。

「この中のことをひとつでもしたことがある人」と問いかけたところ、ほとんどの子どもが(大人は当然)手を上げてくれました。

「どれをしたことがある?」と尋ね、出て来た答えを黒板に書き、「これをしたことがある人?」と念押しで尋ねます。

「ころす」「うそ」「あらいことば」「二枚舌」…

小さいながらも、ほとけさまが教えてくれた「十悪」を意識してくれます。

次に色を引き合いに出し、いいことは白、わるいことは黒というイメージを共有。

白い絵の具に黒い絵の具を一滴たらしたら白ではなくなる。

そこにどれだけ白を重ねても、黒が入った事実は消えない。

 

と、こうして「わるいこと」の認識と、それを行ってる認識、さらにはそれは消えない事実として「わたし」の中にあり続けることを話しました。

 

レジュメはここまでで、「罪悪」を意識させることで終わるつもりだったんですが、話してるこっちの方が「このままでは気持ち悪い」という感じに捕らわれ、ついつい「だからこその南無阿弥陀仏」ということを追加。

ちょっと畳み掛けるように話したんで、伝わり方は弱かったかもしれません。

 

スタッフのM君が、録音した音声データーをすぐにアップしてくれました。

firestorage」でダウンロードできます。

 

 

しかし、こうして音声データで残ってるのを聞くと…早口なところが多いなぁ。

それに自分で思ってる声とぜんぜん違うし…。

 

後の反省会で聞かせてもらったけど、法話の後の分級座談会でしっかり聞いてくれてたようで。

かなりほっとしました。

 

このことが一段落したんで、できるだけ先週のいろんな出来事を振り返って、ブログにしていきたいなと。


花背山の家

2011-06-06 17:05:55 | PTA

昨年から始まった、5年生の長期宿泊行事にボランティア参加してきました。

児童らは4日の土曜日朝に学校を出発し、4泊して8日木曜日に帰ってきます。

私を含め4名のPTAがお手伝い、他に学生ボランティアなどが5名。

会場は「京都市野外活動施設 花背山の家」京都市教育委員会のもちものです。

 

京都市とはいえ、市街地から1時間弱北の方へ入っていった山間部。

docomoは大丈夫だったようですが、私のauやsoftbankは圏外…

久々に、メールや電話の対外手段から隔離された二日間です。

 

 

 

子どもの団体生活となると、どれだけ大人の目があるかで様子が変わってくると思います。

なにもがちがちの軍隊並みにする必要はないですが、目が届かないと何をしでかすかわからないお年頃。

いや、目があっても一度や二度注意されたぐらいでは収まらず、自分たちのやりたいように動き出します。

 

4泊5日という期間には弊害があり、引率する教員には連続して宿泊行事に参加する制限があるようで(おそらく服務規程のようなものでしょう)、また平日もかかるので他の学年の通常業務をおろそかにするわけにも行きませんので、明らかに人手不足です。

 

まぁ、主目的が学習ではなく、「自然に親しむ」「友達と親しむ」「自分たちで生活体験する」ということでしたら、むしろ大人があれこれ言わずに「自主」に任せることも必要でしょう。

が、”危険”ということに対しては別で、これは大人の側がケアしてしすぎることはないと思います。

 

例えば火に対する感覚なんか、驚くことがありました。

 

火起こし体験というのがあるんですが、種火を作った後火を大きくするために紐を解いた繊維の細い物を作るのですが、最初はひもを使ってろうそくの火を紐につけて遊んでいて(ほんとうはそれも駄目なんですが)近くに紐がなくなったらそのほぐした繊維に火をつける…

紐だと先っちょに火がつくだけですが、わざわざ火が大きくなるように繊維状にしたものですからあっという間に火は広がります。

で、あわてて手を離す…

下にはそのほぐした繊維の塊が…

 

まぁ、火種となる繊維が燃えつくせばすぐに消えはするんですが、あわてている児童は手で消そうとします。

素手ではなく軍手をしてはいるんですが、「熱いもの(なべの蓋や火箸)を触るときは軍手をしなさい」と教えられたからか、軍手をしてれば火が触れると思い込んでるのかもしれません。

 

他にも、まきで火をおこしてるかまどで、軍手をした手で直接火のついたまきを奥へ動かそうとしてる子もいました。

 

 

いちど熱い思いをすれば経験として”怖いもの”ということを学びはするでしょうが、昨今はその”一度”の思いに対しての批判が強いですから、ないに越したことはありません。

(もちろん、外からの口撃のためじゃなく安全のために)

 

 

あとは二日間の様子で感じたこと。

人の話を聴く態度が問題ありますね。

何度か授業参観で見たり、運動会などの行事の様子は見ているんですが、そのときは結構先生の話に集中してるのを見て安心してました。

しかし、野外活動の興奮もあるでしょうし、親元からはなれてる開放感もあるでしょう、怒られても二分としないうちにぺちゃくちゃしゃべり始めます。

野外活動の様々な説明(火起こしやテントの準備)など、ここで初めて学ぶ出来事に対してもしっかり聞けない。

 

この辺は、「聞きなさい」という指導ではなく、「どうしてお話を聴かないいけないのか」という意味を自覚してもらう伝え方を学ぶ機会があれば言いと思いました。

 

実際、他の場面で仲間と関わるときに「この子にはこういう関わり方を意識しないといけない」ということがあるときに、仲間のみんながしっかりとその意味を受けとめて丁寧に関わっている姿を見ています。

具体的に書かないので分かりにくいかもしれませんが、「こうしなさい」と教えられることではなく「こうできたらいいね」という自己意識が(おそらく何年もかけて徐々に育ってきていると思いますが)行動につながってるのはすばらしいことだと思えました。

 

もちろん、いろんな個性があつまる集団ですから、この二日間だけでは見えない様々なコミュニケーションの問題もあるでしょう。

(二日間だけでも見えてきてることもありますが、仮に匿名にするとしてもここで話題にすることはふさわしくないと思うので)

 

 

最後に、個人的に一番残念だったことがひとつ。

一日目の夜に「キャンドルファイヤー」の夕べがあり、ろうそくの火を囲んでこの長期宿泊の「目指すこと」を発表する時間がありました。

真ん中の切り株に、生徒の人数分のろうそくの炎がきらめきます。

私は、そういうろうそくの炎のゆらめきが大好きなんですが…

最初に場内が暗くなって、先生が最初の1つの炎を持ってくる。

それを代表の児童数名のろうそくに移し、切り株のろうそくに移していく…

一番厳かで、心がスゥーと静まる瞬間です。

が、暗くなったことでざわめき、ろうそくが入場したことでざわめき、なかなか火がつかないろうそくがあればはやし立てる…

いや、そもそも静かにならない状態でスタートしだしている。

(担当の司会者が静かにしましょうと言っているのに、それすら聴いていない)

 

毎年、「仏の子ども大会」という、同じく子どもらが長期宿泊する行事のお手伝いもしてきましたが、そういう厳かなイベントのときは進行役がクールダウンさせるゲームや歌などを利用して、静かになったときに始まるという方法をしています。

ほんの少しの工夫で、「静かにしろ」と怒ることなくはじめることが出来るので、ぜひ取り入れて欲しいなと。

 

もし、来年もお手伝いの機会があるなら、ちょっと時間もらってでしゃばることも提案してもいいかなと。

 

 

まぁ、いろいろ書いてますが、それよりもなによりも、子どもらが楽しそうなのは一番です。

(喧嘩やトラブルもありますが)

 

ある子が、他の子を見て「あの子、あんな笑い方するんや」っていう言葉が印象的で、こういう共同生活で見る一面によって、垣根がひとつ取り除かれることがあるなら、とてもうれしいなと。

 


自分と向き合う  ミニカン4回目を通じて

2011-06-03 00:00:30 | ミニカウンセリング

記録は前後するが、火曜日には色んな出来事があった。

朝から、祖母の100日法要

昼からは、PTA関係でミーティング

夜には、真宗カウンセリング研究会のミニカン

 

法のこと、PTAのこと、カウンセリングのこと…まさに、このブログ記録している私の関心ごとが一気に訪れた日だ。

それぞれ、いろんなことを感じていたのだが、そのことが夜のミニカンで行ったクライエント役15分間で意識化され、根底にあるものが言語化されてきた。

 

すでに二日経っているので、そのときの気持ちとはまた違ってきているけれど、もう一度ブログにすることで言葉にしてみたい。

 

 

祖母の法要は禅宗で、般若心経などをお勤めした。

真宗にご縁がある私にとっては、個人のために経を上げて個人の得にするという感覚はない。

しかし、普段触れないお経であっても、そこに書かれている言葉に普段真宗でお勤めするのと同じ言葉があちこちにちりばめられている。

 

実はその時はあまり祖母のことに心が寄っておらず、そういう宗教的な部分での思いしかなかった気がする。

しかし、最後に今後の予定を相談していたら、この祖母が住んでいた家で法事をするのはこれが最後だということが明らかになってきた。

祖母の家は借家で、祖母ひとりが住んでいた。

なので、この100日法要が終わり、あとは残っている荷物を片付けて1ヶ月以内に契約を終えることになる。

 

お勤めの中に、名前は忘れたが「嘆くことに区切りをつける」という意味合いのお経があったことを聞いた。

祖母への別れと共に、この家とお別れすることを実感したことで、逆に区切りが付かなくなった私がいた。

なんともいえない気持ち…

 

このことをクライエントとして話したときに「寂しい」という言葉になって現れてきた。

この家で祖母と暮らした6年間の思いが、ここにとどまることを許されず、形としてもなくなっていく。

無常の教えで十分に知らされているというのに、そこに手をかけ、頼り、失われることを認めたくない…

なんともいえない寂しさだ。

死ということは、別れということはこういうことだ。

 

 

一方、PTAのミーティングでは週末に行われる「山の家」という4泊5日の行事にボランティア参加するPTA役員や学生らとの打ち合わせ。

私自身は「子ども大会」という子どものための宿泊行事を経験してるからある程度分かるけど、やっぱり子どもの安全面もあるんで綿密な進行打ち合わせ。

それに先駆けて子どもらとの対面式があったけど、2クラス分ひとりづつ自己紹介。

挨拶の規範を示すべく、「○○です、よろしくお願いします」という子どもらに、こちらも全部「よろしくお願いします」と言葉にして返す。

立ち上がって、しっかりと挨拶する子はいいんだけど、立ち上がりながらしゃべりだして、立った状態でとどまることなくすぐ座る子どもが多かった。

こちらの挨拶のタイミングが取りづらかったなぁ。

土日の二日間だけ手伝いに行くけど、声をかけて挨拶することをできるだけ実践して、挨拶の気持ちよさを伝えたいなと。

 

 

と、午前・午後だけでかなり複雑な心境のメリハリ。

テーマをつけるとしたら「別れと出会い」か。

 

ミニカンは先週休んだので、ちょっとわくわく。

今回から蓄語録の検討も始まって、ミニカンらしくなってきた。

後半には15分の実践だけど、今回初参加の方とペア。

蓄語録からインスパイやされた話題から、ご自身の今やりたいこと、そしてそこに関わるカウンセリングへの期待と不安を言葉にされた。

 

私の中に、その方のカウンセリングへの関わりに関して伝えたいことがでてきたけれど、ここは話題の中身についていくのではなく、クライエントさんの気持ちに寄り添っていく。

交代して自分がクライエントとなったときに、先に書いた法事での思いを言葉にする。

「寂しい」という言葉に集約したときに、しっかりその言葉を返してくださった。

そのことで私の中にあった「言葉にしたい思い」は昇華された。

それは、こうしてカウンセリングという関わりのすばらしさを再確認することだった。

そこで、私の中の「この方に伝えたい」ものがむくむくとわきあがってきた。

 

人との関わりの手段としてカウンセリングのテクニックを学ぶことはとても大事なこと。

でも、そうやって「テクニックを学んで関わりたい」と思うことの根っこ、「この人と関わりたい」という”思い”があること、それがテクニック以上に大事なこと。

 

まずは”思い”

だからこそ、相手を大事にしたいという気持ちがでてくるし、大事にしたいから自然と傾聴していくことが出来る。

この”思い”を大事にしないで、テクニックを磨いても…ねぇ。

 

そういうことも言葉にしていくことが出来た。

15分という「私の時間」をもらえることはとても素敵なことだ。

 

 

最後の分かち合いで、「何かを得よう」と参加された方々が、実践に触れることで「自分のことを見つめてみる」方向にシフトしていかれるのを感じた。

あぁ、これがカウンセリングだなぁ、と。


京都市PTA連絡協議会研修会 いのちの話題

2011-06-02 09:41:46 | PTA

昨日、市P連の研修会に参加してきた。

22年度と23年度の役員交代引継ぎがあったり、5年継続してPTA会長や役員をされている方の表彰があったりと、前半は式典の趣だが、後半は講演会。

 

今回の講師は「柴原弘志」氏。

チラシの顔写真を見るとどこかで見ている気がするが、おそらくお話を聞くのは初めてだと思う。

京都の中学校で教師や校長をされていたので、連れ合いに面識があるか聞いてみたが直接の面識はないようだ。

連れ合い曰く「道徳の偉いさん」だそうだ。

プロフィールには、教育庁関連の結構な肩書きが並んでいる。

 

 

今まで出会った行政関連の方の話は、私はどうも「ずれ」を感じることが多かった。

どうしても目線が「なにかをしてやっている」的な感じがあるから。

まぁ、そのことを語ると長くなるのでやめるが、今回の柴原氏の話はそういう感じがせず、私が大事にしていることと同じ視点がいくつかあり、とてもうれしく感じた。

 

話は「いのち」ということを芯にすえ、導入は先の東北大震災に関わる「いのち」の話題。

そこからいじめや自殺の話題を通じて「かけがえのないいのち」ということを話してくださった。

あいだみつおさんの詩やゴダイゴの歌詞なども引用されて、その話しぶりや声のトーンもとても好感が持てるものだった。

 

そこまでの「ひとりひとりがかけがえのない命を持っている」という話もとても共感できたし、「あたりまえ」で済ませられない、何度でも押さえておくべき話題だった。

その流れの中で、「笑顔の後ろにある悲しみに気づいて欲しい」というような子どもの言葉を引用された。

そしてもうひとつ、「ありのままでいさせて欲しい」という言葉。

メモって置けばよかったが、聞いた感じなんで正確な言葉は違っているかもしれない。

 

これは私がカウンセリングの学びをしている中でとても大事にしていること。

「笑顔の後ろにある悲しみ」を、「隠さなくてだしてもいいよ」と受けていくことは、関係作りの上でとても大切にしたいことで、例えば「これから数分間はあなたの時間です」「今話したいことを自由に話してもらってもいいです」「秘密はお守りします」というカウンセリングをするときの約束は、「無理に笑顔にならなくてもいい、そのままのあなたで」ということを伝えることだし、それを受け入れてくれれば、「ありのまま」でいてもらえる。

こういうことを、柴原氏の体験の中で出会った子どもの言葉として紹介してくださる。

知識的な講演ではなく、”実”が感じられる話だ。

 

もう1つ、それまでは「自分のいのち」「親や友達などのつながりのいのち」を話題にされた後に、「金子みすず」さんの詩を引用して、「いただくいのち」のことを話してくださった。

私としては、真宗の関わりの中で当たり前のように話し、当たり前のように聞いてきているが、教育の場では”宗教的になる”から、あまり深く語られてないように思っていた。

 

漁で取られる大場いわしの大群…

いわしの群れの写真をポインターで指しながら、「いわしのA君」「いわしのB君」「いわしのC君」このひとつひとつの命の「代わり」はない。

これも「かけがえのないいのち」

それを「いただいて」自分の「いのち」があるということ。

 

先日、知人が「いのちの食べ方」という本を話題にしていたが、私も映画の一場面でそれを見たときは震えが来た。

知識的に「いのちをいただいている」というもので済まされない。

(もう一方では、そこまで見せられても麻痺してるという悲しさも持ってるんだけど)

 

ある授業で、親が参観に来ている場面で、ある先生が「みんな弁当箱を出せ」と言ったそうだ。

そして「その中にいのちじゃなかったものがあれば教えてくれ」と。

生徒は弁当箱を眺めて、ざわついていたという。

参観に来ている親たちもざわついていたという。

なんて具体的な「いただいているいのち」の授業だろうか。

真宗の聴聞仲間で教師を生業としている人がいるが、「どこまで宗教的に味わっているいのちを話しを出来るのか困っている」ということをよく聞く。

そこには「道徳的に終わらせたくない」という思いもあるだろうが、こういう伝え方も出来るんだなと感心した。

 

もうひとつ、キーワードとして「言葉化しましょう」ということをおっしゃっていた。

思いを言葉にして伝えましょう、と。

これもカウンセリングの学びの中でよく言う「言語化」ということだ。

思いをそおっと捕まえて、できるだけ言葉にしていく。

コミュニケーションとしても大事だし、内省としても大事な作業だ。

 

もし、会場の参加者にコメントを求める時間があれば一言お礼が言いたかったが、なにぶん大会場での多人数の研修会なので、講演後は世話役の代表者がお礼を述べるだけで終わった。

その点がちょっと残念。

せめて、市P連なり小P連なりで、感想を募って伝えるような手法があればいいなと思う。

(機会があれば提案してみたい)

 

帰宅後、どこかにメールアドレスがあれば直接伝えようかなと検索してみた。

著作もあるし、過去「心のノート」に携わっていたようなので結構ヒットした。

逆に事前に見ていたらかなりフィルターを通して話を聞いただろうなということも見つかったりして(笑)

でも、過去の活動や、底辺の思想などは関係ない。

この日の、この時間に、私が触れた言葉がすべてで、他人の評価は関係ない。

私はとても感心し、うれしかった。

 

柴原先生、ありがとうございました。

 

 

朝焼け小焼けだ大漁だ

おおばいわしの大漁だ

浜は祭りのようだけど

海の中では何万の

いわしのとむらいするだろう

 「大漁」 金子みすず