昨日、初七日逮夜を済ませ、ちょっと一息の感じです。
葬儀の日の夜、PTAの臨時総会がありました。
少し迷ったのですが、新会長として承認される場でもあったのと、時間的にその日の法事を済ませてからでも間に合うので参加することにしました。
その臨時総会の後、「家庭教育学級」が行われ、あわせてそこに参加しました。
教育委員会の講師をお招きして、「困った児童」に関する認識のことをいろいろと講義してもらい、普段カウンセリングで学んでいることとリンクする事例も合ったりして興味深く拝聴させてもらいました。
その中で、ちょっと違和感を感じる部分もあったのですが、講義後の質疑として一人の参加者が意見を述べてくださいました。
そのことがボヤーッとしてた違和感をハッキリしたものにしてくれました。
講義としては、AD、ADHD、アスペルガー症候群のことなどを紹介して、「そういう児童が居る」ということ、その特徴を知って、「特異的に見るのじゃなく、共に過ごそう」という流れだったように思います。
「この子はおかしい」と見るのじゃなく、「こういう子もいるんだよ」という視点を、地域でも持っていこうということだと。
実際、様々な価値観の中で、「大勢を占める」考え方が中心となり、外れるものは疎外することを知らず知らずしていることはよくあります。
「もっと頑張ればいい」とか「なんでそんなことができないの」とか、「今のありよう」を認めずに、自分の”よし”とするものに合うか合わないかで判断してしまう。
それを「今のありよう」もOKだと見ていくことを話てくださいました。
その中で、「環境的に受け入れる」様な話があったのですが、一方では「理解」によって特別じゃない(差別しない)事を言いながら、その「環境」の部分で「他の子と同じ土俵に上がれるような補助」という考え方が示されました。
視力が弱ければ、コンタクトなどで矯正し、動きに弱いところがあればロボット技術でフォローするというものです。
実際、外骨格的に機械を装着することで、歩くことをカバーしたりして、車椅子から歩行へと変えていく技術があることも知っています。
ただ、それは「普通=○」「普通じゃない=×」として、×を○に近づけようとする考え方で、「普通じゃない」という決め付けであり、「今のありよう」を認めないものにつながります。
もちろん、そういう技術で持って、別の「今のありよう」を求める人も居ますし、それはそれでOKです。
意見を述べてくれた方は「機械を使って他の子と同じように走って、それでよかったねと思われたいんじゃないです」とおっしゃりました。
「うまく走れなくても、それが特別じゃないという見方をして欲しい」と。
録音や記録をしていたわけじゃないので、実際におっしゃったことと多少違いがあったり、私の思いが混じったりはしてると思いますが。
大勢に沿わないものを、大勢に引き上げるんじゃなくて、沿わないものをも含んで「ありよう」としていくことは大事だと思います。
そういえば、以前別の集まりでも「弱者が共存できるシステムつくりを」と強く主張していた方が居られ、現状を打破していきたい熱い思いは感じましたが、どこかに違和感を感じていました。
共存ではなく「弱者」という見方、認識の仕方を無くしていくことが出来れば…
もしかしたらそれは理想論で、それより先に具体的に現状を変えるシステムのほうが望まれるのかもしれませんが。
先の意見を述べられた方と学習会後にしばらくお話させていただきました。
そのとき話題にでてきた「みんなちがってみんないい」という金子みすずさんの詩が大事なことを教えてくれるような気がします。
私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私が体をゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。