コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

見ている?見えていない?

2009-11-30 00:15:17 | 真宗


気がつけば華光大会からもう一週間…どうも最近は月日のたつのが早いのか遅いのか、よくわからなかったりします。
平日に法座関連の会議やカウンセリングのワークなどがはいると、色々と濃密になって、一週間前でも遠い昔に思えるし、特に何もないとまだ一週間前の余韻が残ってたりしてつい最近のことに思えたり。

ということで、こんかいはまだ余韻が残ってるほうです。


座談会のときにいろんなご縁で話させてもらったんですが、そういうときに自分の口から話しながらもドキっとする事があったりします。
今回は、たとえ話をしているときにそういう感覚がありました。

「頭で考えるのではなく、胸に、腹に響くと言うのはどういうことなんだろう」というような質問からの流れだったと思います。
私の味わいから行くと、そういう「響き」っていうのは、「予期せぬ気付き」という感覚に近いと思います。
「こう響くだろう」と頭で予測していると、もしなんらかのものが心で動いたとしても「頭での制御」に収めてしまいます。

と、こういうのは理屈で話するとますます頭が働いてしまいますね。


最近、日が暮れるのが早くなりましたが、童謡にもなるように「秋の夕日」というのはなかなかきれいなものです。
毎日仕事仕事で、会社を出るのは日が沈んでからと言う方は仕方ないですが、夕方5時前後に外にいると、きれいな夕焼けが見れるんじゃないでしょうか。

その夕焼けっていうのは、私が見上げたときだけ輝いているものでしょうか?
いえいえ、私がどうあろうと、毎日、万人のために輝いています。
(曇りや雨のときは違うなんていうのはこの際置いときましょう)

じゃあ、夕焼けのことを話題にされて「最近見てないなぁ」と言う方は、単にその時間に外にいないということでしょうか?
いえいえ、おそらく夕焼けが輝く時間に外にいて、目に映っていても、他の事を考えてたり、あるいは何にも考えられないほど疲れていて、脳に映っていないだけなんでしょうね。

では、夕焼けをきれいだなと味わっている人はどういうことなんでしょうか。

きっと、胸に、心に、何かが響いている。
その響いたことを、「この時間だからあたりまえだ」と頭を働かせたり、「大気の層があるから同じ太陽の光でも昼間と夕日とは色が違って」などと分析したりしないで、ただ響いたままに味わっている。
その感動を「きれい」とか「すてき」とか、自分の一番好きな表現であらわしているだけですね。


ふっとお念仏があふれるときがある。
そのことを、理由を考えたり、良し悪しを計ったりせずに、「なにかが触れて、響いて、あふれてきた」とそのまま受け止めればいいと思います。
あふれてきたその刹那は、頭もなにも働かせないで、胸に響き、腹に響きしている「願い」があるのですから。
その「願い」の大きさや深さがわからなくても、確かに響いている。

こちらが知らないだけで、常に「願い」は届いているんですから。

宿善 と 求道心 ~華光大会の御法話より

2009-11-27 00:17:14 | 真宗カウンセリング

華光大会の話題から、座談会のことを中心に書きましたが、聞かせていただいた御法話の中にも大きな気付きがあります。
いや、冷静に考えると何度もお聞かせに預かっていることなのでしょうが、このタイミングで聞かせていただくことで”響く”事があったりします。

大会が始まる前のエントリーで「因果」のことを少し書きました。
お浄土に生まれさせていただくのは、仏様の「因」によるということ。

今回の法話の中で増井先生が「五重の義」のお話をしてくださったのですが、その中の「宿善」のお話の中で、「求道心」ということをおっしゃってくださいました。
先生のお話は、その前後の流れもあるので、部分的に取り出しても本意が伝わらないと思いますので、興味のある方はいずれ発売されるであろう音源か映像をお待ちください。
(華光会のHPを要チェックですね)

で、私が味わったことは、先生のお話と、私自身の関心の部分が混ざり合って残ります。

普通「宿善」というと、私がなにか善を積んで、それがいつか因果の種になるという風に思われますが、この私が積もうと思う時点で、その宿善(と思っているもの)には「欲」が混じってしまいます。
また「求道心」というものは、この私が真実を求めていく心と思われますが、実は私のほうには「求道」する心など微塵もなく、求めているものは「欲」を満たすためのものでしかありません。

なぜ「求道心がない」と言いきれるのか…
「求道する」と言うことは、お浄土に生まれたいと願う心から起こるのですが、本当に私はお浄土に生まれたいと願っているのでしょうか。
罪悪も無常も、本当に感じてませんし、観じることもできません。
「苦から逃れたい」と言う心はあるかもしれませんが、それも「目の前の苦」を何とかしたい気持ちに他ありません。

そう、求道心もなければ、宿善もない…
お浄土に生まれさせてもらえるはずがありません。
聴聞といっても聞けるはずがありません。

聞けない奴なんです。

でも、様々なご縁をいただき、おかげさまをいただき、まがりなりにも法座にお参りして”求め”ている。

ここまで書いたらお気づきでしょうか。
全部、仏様のお働きによって「求め心」までいただいている。
阿弥陀仏の「宿善」が、私の「求道心」となって、この身に働いているんですね。

それなのに、「宿善」を積めると思い込んだり、一生懸命「求道心」を起こして聴聞していると思っている。

これが大きな過ちですね。

だから、私の方にあると思っている「宿善」=「求道心」は頂きものだと知る。
なぜいただけるのか…
それは、この私が「願われている」から。
その願いを成就させるための「因」をいただいている。

「求道心」も、起こさせてもらっているんですね。


願われていることを知る 2 

2009-11-25 23:29:23 | 真宗
前回は状況の話が中心でしたので、今回は私の感じを。
部分的に重なる部分もあるとは思いますが。

3日間、ほとんどご一緒した方も居られれば、一座だけのご縁の方も居られました。
(ずっと居たいけれど、少人数なので他の方の機会にとご遠慮された方も)

ここ数年でなんどか「真宗カウンセリング・ワークショップ」をお手伝いしてきましたが、1泊して、しかも同じ参加者で作り上げていく関係は、そのセッションごとにまさに「その人の時間」という感じで進んでいきます。
もちろん、最後の時間が迫るにつれ、「この方にもうちょっと関わりたいな」というものが入ってくることもありますが、そういう気持ちを表明する自由と、無理強いしない感じの中で動いています。

今回の少人数の座談は、それに近い感覚を味わっていました。
「話したい方」が居られ、それを聞きたい私が居ます。
「話したいこと」が生まれれば、それを話している私が居ます。

そこを自由にいられたのは、そこに居られる方を「どうにかしたい私」という意識がなく、「どうにもできない私」ということが徹底できていたことと、「仏様が願って、働いてくださっている」ことを信じる事が出来たということ。
もうちょっと言えば、「仏様の力」で「自ら気付かされて」「成長していく(破っていく)」ことが信じられたと言うこと。

相手の成長を信じる事が出来る感覚と言うのは、意識してできることじゃなかったですから、私にとってはとても貴重な感覚でしたね。

具体的には、やはり自由に話してもらって、その時々に現れている言葉を繰り返させてもらうことで、その方にもう一度(自分から出てきた言葉を)聞きなおしてもらう。
私が何か伝えるのではなく、その方が聞いてきたことを自らの口から発して、もう一度聞いてもらう…その連続だった気がします。
まぁ、まだ徹しきれず、多少意図的に水を向けることもありましたが。

私の中に流れているテーマは「願われている」って言うことでしたね。

前回書いた「ちょっとありがたい気持ちになることがある」っていうことも、なんにもなくて自己暗示的に「ありがたい気持ち」になっているのではなくて、なにかが「触れた」からそういう気持ちが生まれてくる。
でも、理想の「出会い方・触れ方」を持っていると、それと比べてしまって「これは違う」「まだ駄目だ」と決めていってしまう。
それは「私」の側の動きであって、「仏様」の見方はそうじゃない。
だから、どのような形であれ「ありがたい気持ちになった」と言う事実を何度も何度も確認して、「お働き」があることを気付いてもらう。
そのことで、劇的に何かが変わる事がなくても、また「ありがたい気持ち」が生まれたときに、否定や阻害をせずに、ゆっくりその感覚を受け止めてもらえれば…
というか、そういう受けとめを「駄目」と思わされてきたことから開放されれば、常に光を浴びていることを、そおっと受け止める事ができるかな、と。

これはお念仏にも言えて、多くの場合お念仏と共に「劇的な変化」があると思っている。
だからちょっとお念仏が出てきたくらいでは「これでは駄目」「これは自力?」と、自分の枠で量りだす。
あるいは逆に「そういう風に自分で量りだすから駄目」と、さらに内のほうを見つめだし、責めだしてしまう。
また、そういうふうに追い込む関わり方を、私がしてしまっている。

ほんの少しでも、この口から飛び出してきたお念仏を、「お念仏が出てきた」ということだけ繰り返し繰り返し確認して、もう一度味わってもらう。
聞かれればそのおいわれをお話しすることもあるけれど、それは押し付けられるもんじゃなくて、自ら気付いていく。
願われているんだから。


こういうゆっくりとした「願われている」ことに包まれた時間を過ごすことが出来た気がします。

こうやって振り返ってみると、もうひとつ最近まで犯していたことにひとつ気付きました。
「そのままのお救い」ということを押し付けていたんじゃないかなと。
「自分の内ばかり見ることをやめて、そっと仏様のほうを向いてみてください。」
ということを話するときに、そこから出てくる「でも」「だって」に対して、「何が出てきてもいいですよ、そのままなんですから」と言っている私が居る。
そのこともいらなかったなぁと。
無理に「そのまま」と思ってもらわなくても、願われていることが感じられれば、勝手に「そのまま」の感覚が味わえるはず。


がんばって0点にならなくてもいいし、がんばってかっらぽにならなくてもいい。
そう、だから、がんばってそのままと思わなくてもいい。

すべては阿弥陀様のお仕事で、すでに願われているのだから。
願われていることを、自ら気付かせてもらうだけ。

私がえらそうに言いながらできることなんてこれっぽっちもありませんね。

願われていることを知る 1 華光大会を通じて感じたこと

2009-11-24 17:32:58 | 真宗
3日間の御法座、華光大会が終わりました。
お世話くださった方々に感謝と、出会った方々に御礼を。

今回は、私自身にとっては新しい試み、「少人数の部屋」というものを担当しました。
そのことで、いろいろと感じている事があります。

華光の御法座では、法話として先生のお話を聞かせていただいた後、座談会と言う時間を大事にしています。
前回少し書いたように、様々なご縁で仏法に出会い、そこから様々な思いで「求める」方々が集まります。
何人かの先生方にお願いして、できるだけ多くの方にその思いをお話していただいたり、聞いていただいたりする時間ですし、一方的に聴いて終わらすのではなく、100人いたら100通りの出会い方があるように、きめ細かくその方の「今」にあわせて、讃談談合が進められていきます。
しかし、会の規模の都合もあるのですが、先生と部屋の数には限りがあり、多くの方がお参りされるとどの部屋も20名以上というような大人数。
限りある時間の中で、話したい事が話せないまま終わることも珍しくありません。
もちろん、自分が話しているときだけではなく、他の方の話される様子などを通じて、またそういう場面での先生方のお姿を通じて、気付かされること、聞かされることもちゃんとあります。

しかし、こちとらみな凡夫ですから、なかなか思うようにはいきません。

その思うようにいかないと言うことの中に、「大人数の中だと話し辛い」という思いもあったりします。
しかも、話してみたい、放してみたいということを持っているときは、なかなか外からの話が耳に入ってきません。
いや、耳には入っているのでしょうが、「話したいこと」を出してしまわないことには、そこに心が引きずられ、「そのまま」お聞かせに預かることは難しいことでしょう。


この「少人数の部屋」が企画された意図にどのようなものがあるのかすべて聞いたわけではないのですが、「こういうことをしてみたいのですがお願いしてもいいですか」と聞かせていただいたときに、私の中では「話したい、放したい」方の時間にできればいいなという思いがありました。
もちろん、どんな方が来られるかわからない、もしかしたら誰も来られないかもしれない…でも、どのような顔ぶれ、形になっても、私は私以上のことは出来ないってところで安心している感じもありました。

と、前フリで長くなりましたが、結果として、5回の機会すべて、それぞれの顔ぶれでそれぞれの大事な時間を過ごさせてもらった気がします。

基本的には「大人数の場所だと話しづらい」という方がお見えになるのですが、なぜ話しづらいかもそれぞれです。
ひとつには「緊張してしまう」と言うこともあるかもしれませんが、もうひとつ大事な事があるなと思わせていただきました。

多くの同行と一緒に行う座談会には、すでに様々な”苦労”をしてきた先輩諸氏が居られます。
「自分のしてきた苦労と同じ事をして欲しくない」というありがたい気持ちから、いろいろと「それじゃ駄目」というお勧めの仕方が現れたりします。

また「無常」だから、「はやく一歩出て欲しい」というありがたい気持ちから、ゆっくり留まることを待ちきれないお勧めの仕方が現れたりします。

これは大事なことですから、それをどうこう言うつもりはありません。

そういうお勧めに会った時に、「困ってしまう」ことが多くある気がします。


「よくはわからないけれど、ちょっとだけ”ありがたい”気持ちになった」
とても大事な気付きだと思います。
そういう方が居られるときに、そういう気持ちになったことを受け止めないまま(いや、受け止めてはいると思いますが)そのさらに次を求めてしまったり、それは心の変化だと決め付けられてしまったり、さらにはそこで留まっては駄目などと大きな声でしかりつけられるように言われてしまうと、今度はそういう心の動きを「表明」することが怖くなってしまいます。

黙ってしまう、あるいは「じゃあ別のものを」と心を探って、挙句には思ってもいない「優等生の答え」を出してしまう…
そうすると「頭でばっかり動いている」と叱られる。
たしかに、頭で受け答えしていることもあるでしょうが、心の動きを言葉にすることを「邪魔」するようなお勧めがないともいえません。

こういうお勧め…これは私がしてきていることです。
多くの方が居られて、いろんな方が気になる、時間が気になる…
あせっているのは私のほうなんですね。

ちょっと長くなってきたので、今日はここまでにします。

因果の道理 (結びつける「今・ここ・わたし」)

2009-11-21 05:54:58 | 真宗
今日から華光大会。
今年も多くの方がお参りされるそうだ。

直前になって様々な事情(インフルエンザの影響は大きいかも)でキャンセルされる方がある一方、急遽参加を決める方も居られる。
しかも、初めてお参りされる方が。

で、気になって、時々チェックしてる「2ch」(いろんな話題のスレッドでコミュニケーションしているサイト)を覗いてみた。

すると、予想通りというかなんというか、親鸞会のスレッドで華光大会の事が話題にされている。
(いつもは名前を伏せるけど、今回は出していいかなと思ってる)

親鸞会のことをご存じない方は特に気にしなくてもいいですし、親鸞会のことをどうこう書こうというつもりもなく、日ごろ思っていることを話すネタフリにするだけです。


まぁ、こうやって多くの方が華光会のことを知ったり、気にしたりしてお参り下さることは喜ばしいことかもしれない。
しかし、こうしたサイトで話題にされるときには、「親鸞会と比べて」とか「親鸞会を批判」あるいは「反親鸞会を批判」するための材料にされているだけで、はっきり言っていい気はしない。

そして、実際にお参りくださる方も、その延長の気分でこられるのならばちょっと寂しい。


ここからは、そういう方だけでなくいろんな方へ通じるお話。

浄土真宗を通じていろんなものを求める方がいると思う。
その到達点は「浄土に生まれる」と言うことだろう。
だとすると、その”因”はどこにあるのか。
私のほうにはなく、「仏の願い」でしかない。
では私にある”因”は…
それは地獄行きのものしかない。

だとすると、法座で御聴聞するということはどういうことか?
私にお浄土行きの因はなく、阿弥陀仏に因があるということを知らせてもらう”縁”だ。
本願寺で聞こうが、親鸞会で聞こうが、華光会で聞こうが、それは縁でしかない。
僧侶であろうが、在家であろうが、学校で学んだものであろうが、まったく知識のないものだろうが、そういう環境の違いも縁である。
そんなものの違いなど超えたところで、「願い」が起こっている。

「親鸞会で聞けなかった人が、華光会で聞いたらしい」などといううわべの話がささやかれるが、その人は親鸞会を辞めたことで聞いたのでも、華光会に出会った事で聞いたのでもなく、そういう環境・立場のこだわりをすてて、「今・ここ・わたし」に立ち返って聞かせてもらったのだ。
もしご縁の違いがあるとすれば、「今・ここ・わたし」という、積み重ねてきたものも経験も知識も関係ないということを教えてもらえたかどうかの違いだけだ。


子どもの頃から華光会にご縁があり、お育てにあったからといって聞けるとは限らない。
家族に熱心な得心者がいるから聞けるとは限らない。
近くに「間違いなく善智識だ」と言う人が居るから聞けるとは限らない。
寺に生まれたから聞けるとは限らない。
親鸞聖人の血を引くから聞けるとは限らない。

そういう環境・立場を捨てて、唯一つの肩書き「願われているもの」として聞かせてもらえばいい。


じゃあ、今までの人生はまったく無駄だったのか…?
いや、そうではない。
良い出来事も、悪い出来事も、それらを経験してきたからこその「今・ここ・わたし」がある。
それらの出逢いを無きものにする必要はない。
どうどうと歩んできた道を受け止めればいい。
他人と比べる必要はない。


良いと思える縁があったから得なわけでもなく、悪いと思える縁があったから損なわけでもなく、わたしにはわたしにしか歩めなかったご縁があった。
そのうえで、「今までは出会えなかった」ものが、「これから先出会えるかどうかわからない」ものが、「今・ここ・わたし」だけが確かに出会わせてもらえる。

縁を味わうのも妙味があって捨てがたいのだが、そこに留まらず、わたしの持っている”因”、阿弥陀様の持っている”因”を聞かせてもらって、それぞれが咲かせる”果”をハッキリさせてもらう。

せっかく、そのことを教えてもらえる場に出てくるならば、他の事はもうどうでもよろしいじゃないですか。

真カ研 月例会 11月

2009-11-19 14:57:55 | 真宗カウンセリング


先月と同じ「十分に機能している人間」の章、中盤。

先月のSさん、今月のMさんと、はじめてレジュメ担当をされるが、さすがに現役学生さんはきれいにまとめたレジュメを作られる。
ついつい理屈っぽく並べようとする分析型(基本理系の流れだしね)の私には無理だな



今回の部分は、この「十分に機能している人間」と仮説されている”彼”と、”文化”また”社会”との関係について述べられている。

これまでも繰り返し繰り返し述べられていることだが、この仮説上の”彼”は、「どのような感情・欲求がおこってきても、それに対して防衛せず自由で居られる」ということだが、それは回りがどのような文化であろうと、それに影響されることなく「そのままのわたし」で居られるということ。
前回は診断上で異端児と診られても、それに関わらず「自分自身で居られる」ということだったが、今回の部分では文化に対してもそうだと。
さらには、先駆者になりえるということ。

話し合いの中で、今では異常と思われるが、その時点では異常と思えなかった文化、たとえば戦国時代や戦争時代など様々な規制がある文化、また特定の宗教下に支配され思想に制限がある文化ということを例に出して、先駆者と呼ばれる人たちはそういう文化の中でも「自分自身」を存分に発揮できた人ということが出てきた。
しかし、今でこそ先駆者と呼ばれる人たちも、その時代の渦中では評価される事がなかったのじゃないだろうかと。
やはり「異端」として扱われていたんだろうなぁ。

じゃぁ、今は正常な文化と言えるのか…
私の頭によぎってきたのは、同じ枠に入るように教育することを”良し”として、そのレールから外れるものを”悪し”とする、また会社でも特殊な考え方を認めない、そんな今の文化も、ロジャース氏が言うような先駆者を受け入れていない文化だと思える。

回りになじむためには、ある程度自分を殺して、”迎合”することを求められる。
いや、それを無理に行っているのではなく、自然とそういう妥協をしてしまうようになってしまっている現実…
なかなか「十分に機能している」状態とは程遠い気がします。

一方で”社会”との関係。
閉じこもることなく周りの人とコミュニケーション取れていくかと言うことです。

仮説上の”彼”は、その瞬間瞬間に起こってくる欲求に対して、その欲求を阻害(防衛)することなく自由でいる事が出来るのですが、私のイメージだと自分の欲求に忠実であるととても自己中になると思います。
しかし、「あらゆる欲求」に自由でいられるならば、一番適切なベクトルでそれらの欲求に満足できる行動を選択できると言うんですね。

たとえば、「殺してやりたい」という衝動が生まれたとします。
普通(何をして普通と言うのか…まぁ道徳的ということでしょうか)、そこには「自制」の欲求が働き、「殺したい」という欲求を抑えてしまいます。
ごくあたりまえの動きのようですが、これだと「殺したい」と言う欲求を封じ込めたままですから、何かのきっかけで抑圧されたその感情が爆発する恐れが残りますね。
(そのたびに自制がフル活動するのでしょうが…)
しかし、「十分に機能した人間」ならば、「殺したい」という欲求を抑えるでもなく、自己の中で他の欲求、たとえば「殺すことで悪い人間に思われたくない」だとか「殺さずに仲良くなれるようになりたい」だとか、(わたしには上手く想像できませんが)他の欲求にも応える形で、適切なベクトルで行動すると言うのです。
この話だけですと、妥協点だとか、中庸だとかいう感覚に思えてくるのですが、それだとすべての欲求が中途半端に終わるでしょうから、そういうことでもなさそうです。
すべての欲求が満たされるのか、あるいはそういう欲求に煩わされる事がない心境になるのか…これはもう”悟り”と言っていいかもしれません。


このあと、この「殺したい」という欲求をもったクライエントに出会ったときに、カウンセラーはどういう対応が出来るか、という話題で話が膨らみました。
そのことは、また機会があればこのブログの話題にしてみたいと思います。

今回書いた話題だけだと、この仮説上の”彼”はすごく特別な人間のように思えますが、こういう”彼”になるのが目的、あるいは”彼”を作るのが目的ではなく、カウンセラーが適切な関係を持つことが目的であり、その結果、究極のところ”彼”のような「十分に機能した人間」になりえると言うお話。
一足飛びに行く話ではありませんね。

言いたいことを聞く ~ボーリング・フォー・コロンバインより~

2009-11-15 18:03:26 | 日常雑感

昨晩「ボーリング・フォー・コロンバイン」という映画がテレビ放映されていた。
アカデミー賞も取った、マイケル・ムーア監督のドキュメント(?)映画。

基本、映画は娯楽としている私でもこの作品のことは知っている。
が、積極的に見ようとは思っていなかった。
今回も、深夜に放映があることは知っていたが、「絶対見よう」というほどのものではなく、ただその時間にまだ起きていて、点いていたテレビをザッピングしていたら「おぉ、始まってたんだ」というくらいのものだった。

映画自身の内容は、有名映画だからすでにご存知の方も多いだろうし、未見の方にはあまりネタばらしするのもなんなので多くは触れない。

で、印象としては…
やはり意志を持った人間が「編集」するという行為を挟む時点で、何らかの方向に引っ張る「気持ち」があるなぁ、って事。
だから、純粋なドキュメントとして「知る」というよりは、ある意思の側面から「観る」ということを忘れないようにしないとね。
このことは昨今のワイドショーなどで痛烈に感じてるから(まぁ、こちらはドキュメンタリーよりたちの悪い、エンターテイメント・ショーだからね)一方の情報ですべてを知ったつもりになることは怖いことを知っている。

じゃあ、面白くなかったのかというと、これが気がついたら最後まで観ていたってくらい引き込まれていた。
逆に、単なるドキュメントにしないで、観客の心をつかむ「演出」が巧みだって事だろう。

と、映画の話をずっとしたいわけじゃなく(それなら音楽・映画ブログもやってるしね)その中のワンシーンが非常に印象に残ったから。

ちょっとネタばれにもなるんだけど、この映画の主軸に「コロンバイン高校」で起きた学生による銃乱射事件がある。
その犯人が何故そういうことをしたのか、当時のマスコミはいろんな「専門家」が出てきて解説している(どこの国もいっしょやね)
その映像のまとめに、みながこぞって原因のひとつに「マリリン・マンソン」と声をそろえる。
「マリリン・マンソン」というのはロックアーチストで、ダークな世界観(死や恐怖)を演じている(あまり聞いたことはないけどね)世界的にメジャーなアーチストだ。
二人の犯人が「彼の音楽を聞いていた」ということで名指しされたのだ。
他にも、「暴力ゲーム」「暴力映画」「暴力アニメ」など、多くのものが影響を与えていると指摘されている。
まぁ、こういうものがあたりまえのように氾濫していることは私も知っているし、まったく影響がないとは思わない。
しかし、そのまえに「自分に問題はないか?」という視点は欠けていないだろうか?
と、この話をするとそれてくるので、今回はこれ以上深めない。

で、その「マリリン・マンソン」はかなりバッシングされるのだが、数年後、ちょうどムーア監督がこの映画の撮影をしているときに、コロンバインの近くでコンサートをするというので、インタビューが行われた。
そこで彼なりの意見もいろいろと語られていく。
その最後に監督が「コロンバインの被害者の人たちに何かメッセージを伝えるつもり?」と尋ねられたときに、彼が言った台詞が深かった。

「いや、何も言うつもりはないよ。ただ、みんなの言いたいことを聞くさ。誰もそういうことをやっていないからね」

記憶が頼りなので、正確な台詞はわからない(もともと日本語吹き替えだから、原文がどうかも知らない)
まぁ、台詞どうこうより、それを聞いた私の”感じ”を書きたいからいいでしょう。

事件が起こった後、「これが原因だ」的なことを多くの”専門家”が話をしていく。
相手の話が違うと思えば、自論で持って攻撃していく。(全米銃協会のチャールトン・へストンしかり、それに対するムーア監督しかり)

一方で、その事件の関係者は、インタビューでカメラの前にさらされると、途中で何も言えなくなってしまう。
インタビュアーが気遣っているようにも見えるが、その光景もカメラで記録されているのだから、ほんとうにその関係者の心の傷を気遣っているか疑問だ。

マリリン・マンソンも、バッシングの言葉を浴びるだけで、自分の話を聞いてもらえなかったんだろう。
ちぇんと、聞いて欲しかったんだろう。

もちろん、同じ過ちが起きないように、原因を探り、対策を講じることも必要だろう。

しかし、今、ここで苦しんでいる人の話を、ゆっくりゆっくり、その人の話したいように話してもらうのを聞いてあげること…

とても大事で、深いことを、マリリン・マンソンの台詞から感じた。


この映画のテーマのひとつは、「恐れ」から起こっているということの追求だと思う。
その「恐れ」は、おそらく相手との理解が断絶されていることから始まっているように描かれている。
「言いたいことを聞いてあげよう」
ここからはじめなければ、断絶は解消しないだろうが…

と、この話もこのまま続けると評論になってしまうので、今日はここまで。


伝道研究会 11月 研究会の中身より私の中身…

2009-11-13 02:32:31 | 真宗

伝道研究会

月曜日に伝道研究会がありました。
月によって曜日がいろいろ変わるのですが、他の予定と連日になったりすると家事の都合などもありなかなか参加しにくくなってます。
というか、カウンセリングの月例会や学習会など、平日の夜の予定が増えてきたりすると、なかなか無理を言って出かける事が難しくなってきています。

ということで、今月は上手く他の予定と続かなかったので、ちょっと遅刻はしましたが参加する事が出来ました。

近づいてきた華光大会の実務的な話などもありましたが、輪読してきた「心身の革命」が終わったので、全体を通じての分かち合いです。
話題のことは「かりもん」氏のブログに詳しく書かれているので、そちらにお任せ。

じつは、この日の伝道研究会でいろいろ思わされる事がありました。
この研究会での話題と言うよりも、私個人の問題につながる部分ですかね。

先日、これとは別の集まりで、ミニカンの実践をしたときに「高橋さんと組むととても緊張します」ということを言われました。
私としては「大丈夫ですよ、気楽にしてください」とごく普通にお返しするのですが、その方にとっては「緊張しようと思ってしてるんじゃない」と言うことだと思います。
だから「緊張してるんですね」とそのまま返せばよかったのに…とちょっと反省しています。
というのは、伝道研究会などで、先生方と一緒に話をさせていただいていると、知らぬ間に「緊張している」ことがあるからです。

それまではごく普通に話のやり取りをし、時には同調、時には疑問をはさみながら、自分の思ったことを話して行きます。
私の場合、お聖経の根拠に乏しいものですから、味わいのところで話をする事が多いのですが、流れに任せて軽い気持ちで話していくことも少なくありません。
そういうときに「それはどういう意味?」と問いかけられると…

まず、「あれ、なんか変なこと言っただろうか?」とどぎまぎしだします。
どこが引っかかったのか、あわてて言い直ししだすと、自分でも違和感が出てきます。
それはさっき話したことに違和感があるんじゃなくて、「言い直し」している自分に違和感が出だすのです。
そういうときに正直に「自分で言いながら、なんか言い直して違和感が出てきました」と言えばいいものを、もう一方の私が「伝わるように整理しなくちゃ」と大慌てで作業をしだします。
かくて、頭と口がばらばらになり…

そうなっちゃうものは仕方ないので、「そういう私だ」と受け止めておいても良いのですが、ついつい分析したがる私がいます。

まずは、「良く見られたい」という欲の心がいっぱいありますね。
「おかしいことを言っている」という事実を受け止めるんじゃなくて、「いや、実はおかしいことじゃないですよ」と思われるようにつじつま合わせをしてしまう。
自分にそういう修正ができる知恵があると勘違いしてるんですね。
さらには「負けたくない」って気持ちでしょうか。
営業職でつちかった「口八丁手八丁」でもって、相手を言いくるめる術を磨いてきました。
そういう技術は、絶対に弱みを見せないようにフル回転します。

しかし、どこかで破綻しているのがわかってるんです。
だから恥ずかしくなる。
せめてその時点で「恥ずかしい」と内省すればいいものを、そんな「恥ずかしい」ということまで誤魔化しにかかる…

いやもう、泥沼です。
この時点で、もともとの言いたかったことなどどこかに消えています。

他の人には「見透かされてるんですから」なんて偉そうに言ってますが、当の本人はこんなものです。
どこまでもどこまでも抵抗して、無我になれない。
「おれがおれが」の塊ですね。


こういう誤魔化しの気持ちと、誤魔化しきれないから緊張するという気持ち。
この二つが同時にうごめいているのですから、困ってしまいます。
そうこの「困ってしまう」状態がそのときの状態なんで、せめてこの「困っています」ということを伝えればいいんでしょうね。

書きながらどんどん気持ちが流れていくのを感じますので、このへんで。


子どもと言う鏡

2009-11-12 02:49:54 | 日常雑感
今日は雑感の中でも、公開に値するかと言えば疑わしい極私的な雑感。
まぁ、ブログというものを「日記」として、こういう日々の雑感も私の中には確かにあって、そこが真宗やカウンセリングにつながっているのは事実と…
と、なんとも、書き出す前にあれやこれや言い訳がましく書いてしまうようなものだと言うことです。


もう日付は変わっちゃいましたが、11日で結婚20周年となりました。
まぁ、私の人生の中での20年と言うのは、決して短くはないですね。
思い返せばいろいろ出てくることでしょう。
(そんな恐ろしいことは止めとくほうが良い)

今の私を、どこでどう切ってもこの20年の関わり抜きに成り立っていません。
ですから、振り返ることよりも、この今の姿を見ていく事が、20年のありようを示していることになるなと。
まぁ、4人も家族が増え、それなりのものに囲まれ、さらにそこから様々な縁につながっていることを感じられます。

長女は学校行事で留守だったんですが、妹に託してこの日にあわせて手紙を置いておいてくれました。
20年ということに舞い上がってる私と違い、彼女らのほうが冷静に家族のことを見ている気がします。

「いろいろあるけど、まぁいい家族」そんなようなことを書いてくれています。
あぁ、”いろいろ”を見て来てくれてるんだなぁ、と。
彼女なりに心配もあったんだろうなぁ。

「自分ではわからないけれど、この親を選んで生まれてきて良かった」と言うことも書いてくれていました。
子どもの頃から法座に参らせて、おおくの先達のおかげで育ててもらっています。
生まれてくることも、この親の元に来ることも「自分の”業”」だということを、しっかりと聞いてきてくれている。
その上で、そのことを喜んでくれているのならば、これほど嬉しいことはないですね。

親が一生懸命ご縁をつけて、聞かせてやろうなんて気持ちで動いているんですが、そんなものは”縁”でしかなくて、彼女は彼女でしっかりと聞いていってくれるだろうなと。
この親の元に生まれたと言う”縁”を超えて、自分自身の後生を問題として…
ここから先は、独りで立って行くしかない所ですもんね。

もしかしたら、今日のお祝いを面と向かってしていたらこういう話は聞けなかったかもしれません。
たまたま一緒にいられないから、手紙に託してくれた。
こういう形になるべくしてなったんだなと言うことも感じます。


20周年というのは、夫婦のことを考える日になると思っていたんですが、子どもらの姿からそのことを見つめるとは思っていませんでした。
小遣いからプレゼントを買ってくれた息子たち、手作りのデザートでお祝いしてくれた次女、素敵な手紙をくれた長女。
20年前、私たちが夫婦になっていなければ、この出逢いがなかったんだなと考えると、とても大事な日になってきました。

夫婦が顔を見詰め合って…なんてことは恥ずかしいですが、子どもらの姿を通して、味わう日でした。

やっぱ、こういう話をブログにするのは恥ずかしいですね…




京都支部学習会 11月

2009-11-08 00:37:02 | 「聞き方・伝え方」学習会

今月は他の予定の関係もあり、土曜日の開催です。
ちょっと参加者が減りましたが、今回は遠く広島から参加の方がお二人。
ありがたいことです。

いつものように2分間の黙想。
今回はここに少しテーマを付けてみようと思いました。
ひとつは「身体の感じ」、もうひとつは「心の感じ」
それを黙想の後分かち合っていく時間に、「今日参加しようと思った気持ち」の3つをそれぞれ話してください、と。

これは私自身が最近参加したワークで、自然とこういう流れで「今の感じ」をキャッチしてるなと意識したからです。
いろいろ話したい事が渦巻いたりしますが、身体から入って心の感じに意識を流していくと、すぅっと「心の感じ」に入りやすいんです。
逆に、こういう流れをしないと「心の感じ」を味わっている途中に「身体の感覚」が襲ってきて、どちらとも着かないザワザワした感じになりますね。

そういうことがあるんで、ちょっと試してみました。

一通り、自己紹介と今の感じの表明をしていただいた後、今日の学習会に対しての希望や、今気になっていることを出していただきました。
必ずしもそれぞれの思い全部に沿っていくことはできないんですが、一旦出していただくことで、その思いは確実にわたしの中に入ってきます。
意識・無意識いろいろありますが、何も聞いていない時点の私とは違うので、このステップも大事だと思ってます。
(時にはいろんなかたの思いを背負いすぎるときもありますが)

そのあと、ミニカンの実践。
広島からの参加者も、別の場所でカウンセリングの実践をされているのを知っているので、ここはスムーズに入ります。
人数的に組み分けで迷ったんですが、今回は4人組を二つ。
私と、もう一人ミニカン実践経験豊富な方がそれぞれの組に入って、気がついたことを伝えていく事があると、より学習会として機能するかなと言う思いもあります。
なので、いつもの3人組にもう一人加わった形。
役割は「聞き手・話し手・観察者・サポーター」としました。

あとで、「観察者を見るもうひとつの視点があって、今までと違う感じがした」と言っていただけたので、こういう方法もいいなと。

休憩を挟んで、実践の分かち合いですが、今回はちょっと新しい方法を取り入れてみました。
新しい方法といっても、この学習会では初めてってだけなんですが。
以前「円座禅」のワークに参加させていただいたときに体験した「シャベラーくん」を使って分かち合いをしようと。

ミニカン実践で「話し手を大事にする」ということをみんなで学んでいます。
なので、グループでも「話し手」の時間はじっくりその方の時間を尊重していこうと思い、そのことが良くわかるように「シャベラーくん」を使います。
「話し手」が自分のペースで話し終えるまで、「シャベラーくん」を手にしていますから、回りの方は「聞き手」意識を持ちます。

みなさんいい感じで意識してくださったんじゃないでしょうか。
あとから「シャベラーくん」を使って話された方に「話し終えてどんな感じですか」と尋ねて見ましたが、「最後まで自分の時間にできてよかった」と言う声をいただきました。

この方法だけに固執するつもりはありませんが、この方法とフリートークと、参加者や場面によって取り入れていけるという感じがしましたね。


細かい内容は書きませんが、「聞き方の学習」というところから今の自分を見つめて、そこからフッとお仏壇に視線が行って「ほとけさま」を味わう方も居られました。
また、そういう方の姿から、突然出てきた「ほとけさま」というキーワードに身構えてしまう方も居られました。

それぞれが、そういうことを言葉にして表明してくださった事が、私にはうれしく、尊いなと感じましたね。

そこからどう展開するかはいろいろですが、まずは「いま・ここ」のところを捕らえて言葉にしてみる…これって、すごく大きなステップですから。


あと、個人的な思いですが、円座禅にしろ、真宗カウンセリングワークショップにしろ、私が身を持って参加して経験してきた事が血肉となって、全然別の場面でもにじみ出てくる感じ…経験が活きているし、私の中に”在る”ってことを感じます。

来月は12月20日(日)
また案内が出来上がったらアップしてリンクします。