コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

京都支部学習会 3月

2010-03-28 23:50:40 | 「聞き方・伝え方」学習会
どうも最近は更新が滞りがち。
いろいろ刺激は受けたりするが、以前書いた「安心・安全の場」ということを考慮すると、ここで話題にすることは躊躇したりする。
いずれ、一般論として話題にすることも出来るだろうけど、いろいろ勉強させていただくことを今は一人で味わっている。

で、できるだけ行事のことはブログで追っかけて行きたいとおもってるのだが…

先週木曜日は月一回のミニカウンセリング継続学習会の予定だったが、参加希望者が少なく中止。
この時期は年度末なので学生も社会人もいろいろ変動の時期で忙しそう。
ということで、ブログに出来る話題がひとつ減ってしまった。

土曜日は京都支部学習会。
こちらはいつもより人数は少ないなりも無事開催。
遠くは広島から、あとは京都・大阪からで私を入れて9名。
少ないながらも、全員何度か参加経験のある方だったので、説明などの部分が省略でき少し楽に進める。

まずはいつもどおり2分間の黙想と分かち合い。
先に書いたとおり参加経験者ばかりだったので、今回は私が話をせずに皆さんに「私がこの学習会で大事だと伝えてきたことを、皆さんの味わっているところで分かち合いましょう」と提案。
復習もかねて、皆さんの言葉で。

大事なところを各自それぞれの切り口で話してもらえて、いい時間になった気がする。
「気付き と 成長」
そんなことを感じたので、そのことをお伝えして、あとはいくつかの質問にお応えしてみる。

「話を正確に聞く」ということと「感情を受け止める」ということに関して。
私としては、段階的にお話してきたつもりのところが、人によってはその興味の持ち方によってポイントが変わってたりする。
そのことも、教えるのではなく、実戦経験のなかで気付いていってくださる。
場が成熟していくのを感じる。

3人ずつ3組に分かれて、ミニカンの実践。
今回は私も入らせてもらった。
私としては最近「聞く」側のことが多いので、話したくなっていたということもある。

最近の生活を通して「休まっていない」ということを話したのだが、話しているうちに「衰え」「老い」ということが問題になっていることに焦点が当たってくる。
自分では避けるようにしているキーワード。
聞いてもらうことで、そういう避けている部分に出会っていけるのは、ミニカンの醍醐味だとあらためて感じる。
混じってよかったなと。

実践の分かち合いの後、グループでの自由な話し合いの時間を少し多めに。
実践であったまっているのか、ゆったりと「このメンバーならでは」の話が進んでいく。
もうちょっと時間が欲しかったけど、ここは時間厳守で。

ミニカンの実戦形式をとってはいるけれど、狙いは「安心・安全の場」で、邪魔されることなく「話したいこと」に向き合っていく経験をしてもらうこと。

「カウンセリングはちょっと…」と思っている方もぜひ参加して欲しいなと、あらためて思ってます。

4月は17日の土曜日。
お待ちしております。



新たな展開と振り返り ~PTA会議と真カ研月例会3月~

2010-03-19 05:05:31 | 真宗カウンセリング

いろいろブログに書きたいネタが山積みの中、自分の身体を休めることに専念する中(ようは眠気があるときや遊びたいときに、そっちを優先してるだけ)木曜日に二つの予定が重なった。
ひとつは子どもが通う小学校のPTAミーティング、もうひとつは真宗カウンセリングの月例会。

保育園時代に役員をご一緒していた方々が多くPTA役員をされていたご縁で、来年度のPTA役員にお誘いいただいた。
まぁ、すでに卒業して高校生になっている長女の時代から、すでに11年お世話になっているし、一番下は今年度入学したところであと5年はお世話になる…1学年二クラスしかない小さな学校だから、いつかは回ってくるのも当然だし、ここはお手伝いさせていただこうと。
また、このブログで展開してる「親子コミュニケーション」に関することを分かち合っていくことで深めて行きたいし、新たな刺激をもらう機会にもなるだろうなという欲もある。
同時に、実績として今後への人脈作りができればといういやらしい心も。
「仕方なくいやいややらされている」というよりは、いろいろ自分への見返りを感じられることはいいんじゃないかと…ね。

今回は新役員と継続して役員をされる方との顔合わせと、さまざまな行事などの説明、あとは役割分担。
事前に日程をいろいろご相談いただいていたが、他の方の都合などもあり月例会と見事にバッティング。
なので、自分の役割が決まった時点で失礼して早退。


ということで、真カ研の月例会に遅れて参加。
今月は1年間進めてきた論文輪読の最終回で、一度担当者を決めて最後まで進めてきたので、出来るところまで読み返して分かち合っていくということ。
到着したときは各自のチェックインが終わって、ちょうど最初の章を読み始めたところ。
ひとこと今の気持ちを話する機会は逸したが、論文輪読は最初から入れたのでちょっとほっとした。

一度じっくり読んだ論文も、最後まで通読した後もう一度ふれると、以前とは違った印象に感じられる。
この後に展開されることへの予告編だけなら、こちらが勝手にイメージを膨らませてしまうだけだが、本編を見た後ではその言わんとするところがよく分かる。
もっとも、まだまだ理解は”難しい”。
でも、この論文に出会う前よりは確実に血肉になっている気がする。

さらに、ここ数週間実際に行っている関わりに対して、もう一度大事な礎をもらった気がした。

カウンセラーが動きたい欲求ではなく、クライエントの自らの気付き

そこには、こちら側のカテゴライズや診断、誘導や促しはいっさい必要ない。
動きたくなるのは、早く進行させたかったり結果を求める、周囲やこちら側の都合。

もう一方で、ただ言いたい事を我慢して壁になって聞くことが傾聴ではなく、クライエントが安心して「自分の中の危険な領域」まで自らが進んでいける場と時間を共有するお手伝い。
あらゆる”生まれてくる感情”にたいして、「そのままでいられる」ことができるのが「十分に機能している」ことであり、よいセラピー(カウンセリング)が出来るならば限りなくその状態に近づけるということ。

これらのことを、論文内容や参加者との分かち合いの中で再確認させてもらえた。


様々なワーク・勉強会の実施・相談の実践などを通じて経験し血肉になっていく部分と、それらが勝手に動き回ってしまわないような原点の確認。
机上の理論だけでも、勝手な自己流でもない、学びと実践に私自身が成長させてもらっていることを感じる。


あとは、そんな「受けた刺激」を言葉にするこのブログをもうちょっと更新する時間と気力があればいいんだが…


安心・安全の場ということ

2010-03-09 02:09:01 | 日常雑感

 

カウンセリングの学びを行うとき、「この場で話されたことの秘密はお守りします」という設定を大事にします。
先日のフォーカシング・エンカウンターの時も、「この時間に話されたことは、同じメンバーの食事時でも話題にしない」というくらい徹底して約束されました。

そうしないと安心して自分をさらけ出すことは出来ない…当然ですよね。
逆に言うと、普段はかなり制限をかけて自分の話しをしています。
「こんなこと考えてる自分だとばれると困る」

そうやって、まったく自分を隠しきっている時、また逆に本当に安心できる関係で何でも話せる時。
この両極はいいんですが、その中間の微妙な「限定された場」というのがあり、そこが関係を難しくさせています。
それがたった二人だとしても、その双方の「限定」感が違うんですね。

そうすると、本人の話した事柄が、聞いた人の「受け止め方」を含めて、その他の方に伝わるということを引き起こしてしまいます。

一昔前だと、井戸端会議なるもので、本人の居ないところで「Aさんがあんな事言ってたよ」とうわさになる。
本人が近くを通るとぴたっと止まって、お互い笑顔で挨拶…なんてドラマよく見た覚えがあります。
まぁ、Aさんもそういう噂好きの人の耳にも入るとある程度覚悟しての発言で、最初から本心をさらけ出しては居ないでしょうが、「人づて」という尾ひれがつく速度とボリュームは恐ろしいものがあります。

今の時代になると、顔を合わせないコミュニケーションが増えてますから、余計にその物量と速度は加速度的になっています。

私も、ネット上だけでもいろんなコミュニティに参加していますから、その「限られた関係」の線引きが混乱してきます。

まずはメール。
これは、相手だけに宛てたものです。
その人しか読まないと言う前提ですね。
ところが、パートナーが浮気などを心配して、相手の携帯メールをチェック…結果トラブル、何てこともよく聞きます。
まぁ、メール以前にやましい出来事があるのですからそこは別問題ですが。
しかし、そういう行為によって、「この人にだけ」と思って発言したことが別の人に読まれると言うのは怖いことです。

また、そうやって受けたメールでの発言を、受け取った方が「Aさんがこんなことを言っていた」と別の人に話す行為。
これはメールがない時代の「手紙」でもそうなんですが、知らないところで個人宛の話題が取り上げられるといやですね。
よっぽど「Aさんはこの問題は克服したので、話題にしても大丈夫。」という関係があれば多少はOKなのかもしれませんが、それは受け取り手の判断でAさんはどう思っているかわかりません。
やはり、個人宛にもらったものは外で話題にしないというのは大事なことだと思います。

次に、複数の人が受け取る「同報メール」、またそれが発展した「メーリングリスト」と言うものがあります。
これは現代では意識が薄れてきている感もあるのですが、基本は「限られたメンバー」宛てのものです。
本来はその参加者が、受け取ることの出来るメンバーを把握して、「この人たちが読むことが出来る」ということを意識して発信するものです。
多くは、何かしらのつながりのある仲間同士で行うものですから、話題はその関係内で共有できるものでしょう。
しかし、メールの形で来るものですから、発信者に個人的に返信しているつもりでメーリングリストに返信してしまうことがあります。
ちょっと怖いですよね。

また、集まった9割の人がそのメーリングリストに参加しているような場で、その9割の方は当たり前のように「共有しているメーリングリスト上の話題」をしてしまうことがあります。
その9割の人は発信者の直接の言葉を聴いているからいいんですが、残りの1割の人は「元の発言」を受け取った「9割の人の思いが混じった発言」を、「元の発言」と錯覚した形で聞いてしまいます。
これも怖いことですよね。
自分も思いが「メーリングリスト読者」に正確に伝わっているかどうかも分からないのに、さらにその読者の「思い」も混じって他の人に伝わる。
やはり、限られた関係に発信されたものをオープンにしないほうがよさそうです。

似たようなものにSNS(ソーシャル・ネット・サービス)というものがあります。
これはさらにオープンになってはいますが、「限定」ではあります。
ネット上に発信される話題は、そのSNSに参加している人だけが読むことが出来ます。
(このシステムはSNSによっていろいろあるのですが)
限りなくオープンに近いのですが、誰が自分の発言を読んでいるか、知ろうと思えば知ることが出来ます。
ということは「Bさんはここに参加してないから、私の発言を読むことはないだろう」と「限定」して話題を発信することが出来ます。
ならば、今までの例と同じように、「限りなくオープンにしているから」といって、その話題を誰にでも話していいということにはなりません。
回りまわってBさんの耳に入ってしまったとき、発信者の「Bさんはここに参加してないから」という思いが崩れてしまいますし、さらにその思いは本人の言いたい事ではないかたちでBさんに伝わるのですから。


私は、誰かに「Cさんがこう言っていた」という話題を聞いたときに、その話がCさんの言いたかったことと必ずしも一致しないと思っています。
必要があれば、Cさんに直接聞きます。
というか、それまで判断はしません。
「Cさんがこう言っていた」ということを私に言わずにおれなかったDさんの気持ちを相手にします。
そのきっかけとして「Cさんの発言」があるだけで、そう言われて「困った、悲しい、うれしい、楽しい」という「直接関わっている」Dさんのことが大事なんです。
でも、多くはそのDさんを大事にしすぎて、Dさんになり代わり「Cさんがこう言っていた」ことを等身大だと受け止めて同調したつもりになってしまいます。
これも怖いことです。


カウンセリングの聞き方として、「話題に引き込まれないで、気持ちに沿っていく」という聞き方があります。
よく知っている人のことを話題にされて、似たような感覚を持っているからと引き込まれたら、自分の感情が混じってしまって、クライエントの感情がまぎれてしまいます。
そうなると、知人の話を聞くことは出来なくなってしまいます。


話題が流れてきましたが、近年のコミュニケーションにこれだけの怖さがあるから、余計に「ここで話されたことの秘密はお守りします」という、カウンセリングのルール設定が大事なんだと。
まぁ、そのことが言いたかったのですが、最近思っているいろんなことも混じってしまいました。

ただ、この私に関しては、メールであれブログであれ、発信したことは受け取った人が自由に解釈して、自由に話題にしてくださってOKというスタンスでいます。
そのスタンスでいるということは、なかなか腹底までさらしてないってことなんでしょうけどね。
でも、安心してさらけ出せる場を知っているから、そうじゃない場でもしんどくなかったりします。

そういう場(安心・安全)を目指しているひとつの集まりが「聞き方・伝え方の学習会」です。
3月は27日土曜日に京都で行います。


京都支部法座 ~迷いの姿~

2010-03-02 00:01:03 | 真宗
日曜は京都支部法座、辻家家庭法座として行われました。
家庭法座というのは、そのお家を会場に提供していただくことで、普段お参りになりにくい家族・親族やご近所の方のご縁になって欲しいと言う願いから、その準備・お世話・講師へのお礼などをお世話してくださるところに、有縁方はご一緒にとの願いで支部の法座として開放してくださっているものです。
辻さんの場合は、熱心に法座を開いてくださっていたおばあちゃんやご主人が先に旅立たれ、お子様方もすでに独立していると言う中で、毎年家庭法座をしてくださっています。
華光会館のご近所と言うこともあって、最近は皆が集まりやすい会館を会場にして行われています。


今年も、増井悟朗先生を講師に、ご法話と座談会。

ご法話の内容も触れたいのですが、今私の気持ちは後の座談会の関わりに心が向いています。
まぁ、どんなに説明しても私のフィルターを通したものなので、出来事を忠実に記載することはしません。
というか、法座といえど、その時間にその場所でそのメンバーで行われた時間ですので、誰が何を言ったかなどのことをブログで公開したくないなと言う思いがあります。

なので、私の中ではつながっているけど、表に現れる文章だとよく通じないかもしれません。


座談の中で、「先生にお聞きしたい」ということで質問をされる方が居られました。
まぁよく見る光景ですし、先生も丁寧に答えられます。
が、ひとつの回答に満足(?)しても次々と質問が繰り返されていきます。

私にとっては予想されていたことでもあるんですが、ネット上で何度も目にする話題。
そのことを華光会は、増井先生はどう捉えているのかという。

今まで、自分が聞いていたことが正しいかどうか不安になってくるんですね。
一部を否定したら、他のことも否定したくなってくる。
そういう人の否定する言葉で、自分も不安になってくる。
それがどんどんいろんな人に増殖し、ある人は否定することを目的とし、ある人はまだ否定できない人を目覚めさせようとする。
おそらくそういうことだろうと”想像”しています。

今の今、南無阿弥陀仏のお心の話を先生がされていたんですよね。

でも、自分が質問したいことが解決しないと、なにも聞けないのかもしれません。
その気持ちを大事にしたい感じがひとつ。
もう一方では、10年間(人によっては20年だったり30年だったり)積み上げてきたことの「正しい・間違い」を全部検証するには同じ年月が必要なんじゃないかなという(私が)待ちきれない感じがひとつ。

そこには、法を説いている指の検証であって、その先の月が一切目に入っていない。

捨てさせられるものの正体がありますね。

そしておそらく、そのことをいくら周りが「間違っている」と詰め寄ったところで、自分自身で気付かないことには、方法のもちかえで、手法が「組織・個人の否定」から「駄目と言われたからがんばって意識しないようにする」という、どちらも法抜きの「自分で変化を求める」姿でしかないのが悲しいことですね。

そういう姿を見抜くためにすでに一劫を費やされて、もうお見通しだからそんなところに力を入れなくてもいいんだよとの願いが、すでに南無阿弥陀仏として出来上がっているんですけどね。


「先生に直接答えていただいて、安心しました」というようなことを最後のほうで話してくださったんですが、その「安心させてくれた」先生の伝えたいことに向いてくれたら、この日質問したことは無駄にならないんだけどなと言う気持ちがあります。

もしかしたら、また別の質問で、不安を解消する作業が続くかもしれません。
でも、そこには際限がない。
私の欲を満たすことでしかないですから。

まさに、この日法話で話してくださった四苦八苦が、この欲を満たすと言う私の根本から起こっているということを…
まさにそこがお目当ての「願行具足」の南無のお心ですよね。


ある人が「まだ間違った教えを信じている仲間に、正しいことを伝えたいから聞いてている(信心獲得したい)」と言っていました。
昔、ある人は「自分を師として法を聞いてくださる方のために、法を聞かなければ(信心獲得したい)」と言っていました。
私は「連れ合いや、連れ合いのお父さんに認めてもらうため(信心獲得したい)」に、熱心に聴いているふりをしていました。
(私のは別として)どれも世間的には尊い姿で、利他行ですよね。

でも、私が抜けています。
「すべての衆生」というのは、わたし抜きのすべての人が法を聞いても、私一人が聞いていなければ成立しないんです。
ならば、周りの人を目覚めさせるより先に、大事なことがあるんじゃないでしょうかね。

なのに、ついつい人のことを問題にしているのは、誰を隠そうこの私ですね。
そういうご縁を通じてしか、この身が知れない…もったいない話です。