カウンセリングの学びを行うとき、「この場で話されたことの秘密はお守りします」という設定を大事にします。
先日のフォーカシング・エンカウンターの時も、「この時間に話されたことは、同じメンバーの食事時でも話題にしない」というくらい徹底して約束されました。
そうしないと安心して自分をさらけ出すことは出来ない…当然ですよね。
逆に言うと、普段はかなり制限をかけて自分の話しをしています。
「こんなこと考えてる自分だとばれると困る」
そうやって、まったく自分を隠しきっている時、また逆に本当に安心できる関係で何でも話せる時。
この両極はいいんですが、その中間の微妙な「限定された場」というのがあり、そこが関係を難しくさせています。
それがたった二人だとしても、その双方の「限定」感が違うんですね。
そうすると、本人の話した事柄が、聞いた人の「受け止め方」を含めて、その他の方に伝わるということを引き起こしてしまいます。
一昔前だと、井戸端会議なるもので、本人の居ないところで「Aさんがあんな事言ってたよ」とうわさになる。
本人が近くを通るとぴたっと止まって、お互い笑顔で挨拶…なんてドラマよく見た覚えがあります。
まぁ、Aさんもそういう噂好きの人の耳にも入るとある程度覚悟しての発言で、最初から本心をさらけ出しては居ないでしょうが、「人づて」という尾ひれがつく速度とボリュームは恐ろしいものがあります。
今の時代になると、顔を合わせないコミュニケーションが増えてますから、余計にその物量と速度は加速度的になっています。
私も、ネット上だけでもいろんなコミュニティに参加していますから、その「限られた関係」の線引きが混乱してきます。
まずはメール。
これは、相手だけに宛てたものです。
その人しか読まないと言う前提ですね。
ところが、パートナーが浮気などを心配して、相手の携帯メールをチェック…結果トラブル、何てこともよく聞きます。
まぁ、メール以前にやましい出来事があるのですからそこは別問題ですが。
しかし、そういう行為によって、「この人にだけ」と思って発言したことが別の人に読まれると言うのは怖いことです。
また、そうやって受けたメールでの発言を、受け取った方が「Aさんがこんなことを言っていた」と別の人に話す行為。
これはメールがない時代の「手紙」でもそうなんですが、知らないところで個人宛の話題が取り上げられるといやですね。
よっぽど「Aさんはこの問題は克服したので、話題にしても大丈夫。」という関係があれば多少はOKなのかもしれませんが、それは受け取り手の判断でAさんはどう思っているかわかりません。
やはり、個人宛にもらったものは外で話題にしないというのは大事なことだと思います。
次に、複数の人が受け取る「同報メール」、またそれが発展した「メーリングリスト」と言うものがあります。
これは現代では意識が薄れてきている感もあるのですが、基本は「限られたメンバー」宛てのものです。
本来はその参加者が、受け取ることの出来るメンバーを把握して、「この人たちが読むことが出来る」ということを意識して発信するものです。
多くは、何かしらのつながりのある仲間同士で行うものですから、話題はその関係内で共有できるものでしょう。
しかし、メールの形で来るものですから、発信者に個人的に返信しているつもりでメーリングリストに返信してしまうことがあります。
ちょっと怖いですよね。
また、集まった9割の人がそのメーリングリストに参加しているような場で、その9割の方は当たり前のように「共有しているメーリングリスト上の話題」をしてしまうことがあります。
その9割の人は発信者の直接の言葉を聴いているからいいんですが、残りの1割の人は「元の発言」を受け取った「9割の人の思いが混じった発言」を、「元の発言」と錯覚した形で聞いてしまいます。
これも怖いことですよね。
自分も思いが「メーリングリスト読者」に正確に伝わっているかどうかも分からないのに、さらにその読者の「思い」も混じって他の人に伝わる。
やはり、限られた関係に発信されたものをオープンにしないほうがよさそうです。
似たようなものにSNS(ソーシャル・ネット・サービス)というものがあります。
これはさらにオープンになってはいますが、「限定」ではあります。
ネット上に発信される話題は、そのSNSに参加している人だけが読むことが出来ます。
(このシステムはSNSによっていろいろあるのですが)
限りなくオープンに近いのですが、誰が自分の発言を読んでいるか、知ろうと思えば知ることが出来ます。
ということは「Bさんはここに参加してないから、私の発言を読むことはないだろう」と「限定」して話題を発信することが出来ます。
ならば、今までの例と同じように、「限りなくオープンにしているから」といって、その話題を誰にでも話していいということにはなりません。
回りまわってBさんの耳に入ってしまったとき、発信者の「Bさんはここに参加してないから」という思いが崩れてしまいますし、さらにその思いは本人の言いたい事ではないかたちでBさんに伝わるのですから。
私は、誰かに「Cさんがこう言っていた」という話題を聞いたときに、その話がCさんの言いたかったことと必ずしも一致しないと思っています。
必要があれば、Cさんに直接聞きます。
というか、それまで判断はしません。
「Cさんがこう言っていた」ということを私に言わずにおれなかったDさんの気持ちを相手にします。
そのきっかけとして「Cさんの発言」があるだけで、そう言われて「困った、悲しい、うれしい、楽しい」という「直接関わっている」Dさんのことが大事なんです。
でも、多くはそのDさんを大事にしすぎて、Dさんになり代わり「Cさんがこう言っていた」ことを等身大だと受け止めて同調したつもりになってしまいます。
これも怖いことです。
カウンセリングの聞き方として、「話題に引き込まれないで、気持ちに沿っていく」という聞き方があります。
よく知っている人のことを話題にされて、似たような感覚を持っているからと引き込まれたら、自分の感情が混じってしまって、クライエントの感情がまぎれてしまいます。
そうなると、知人の話を聞くことは出来なくなってしまいます。
話題が流れてきましたが、近年のコミュニケーションにこれだけの怖さがあるから、余計に「ここで話されたことの秘密はお守りします」という、カウンセリングのルール設定が大事なんだと。
まぁ、そのことが言いたかったのですが、最近思っているいろんなことも混じってしまいました。
ただ、この私に関しては、メールであれブログであれ、発信したことは受け取った人が自由に解釈して、自由に話題にしてくださってOKというスタンスでいます。
そのスタンスでいるということは、なかなか腹底までさらしてないってことなんでしょうけどね。
でも、安心してさらけ出せる場を知っているから、そうじゃない場でもしんどくなかったりします。
そういう場(安心・安全)を目指しているひとつの集まりが「聞き方・伝え方の学習会」です。
3月は27日土曜日に京都で行います。