神通寺
ここのご住職とお連れ合い様は連れ合いの大学同級生
京都に居られるときにも何度も一緒に遊びに行きました
そして縁が深まったのはネットでのつながり
かれこれ30年前ですか(苦笑)
そのころ、私はある聞法団体で求道してました
仏法という「まこと」とピュアに向き合おうとしていたがために、その純粋性からはずれるものを受け入れるということをせず、それは儀式儀礼を重んじるお寺や、大きくなりすぎた組織護持をする教団を疑問視していました
そんな思いを発散する場が、神通寺さんが開設していたホームページの掲示板でした
限られた文字数だけで自己を表現することも、相手を理解することもできるはずがないのに、寝る間を惜しんでPCに向かっていたのを覚えています
(当時は夜間だけ通信料が定額になるプランでしたから)
他人に、自分が味わっている領解を伝えるには、自分が感覚的に味わっているものを、自己に問い直すことが必要になる
同じ主教用語を使っていても、それまでのお育てや、学術的バックボーン(その辺は真宗学を学んだ方々にかなうわけない)の浅い深いですれ違う
いや、すれ違っていると思わずに、通じていると思っているから余計に始末が悪い
でも、それこそが私にとって求道であった
お寺がなければ、教団がなければ、今の私に真宗は伝わってこなかった
これは大きな事実
儀式儀礼や、教団護持を大事にする人もいるし、そういうことを通じてでも阿弥陀仏の願いは届く
これも大きな事実
何十時間、何百時間を費やしたこの時が、今の私に生きているのは間違いない
真宗の枠を離れ、カウンセリングにも触れた今の私ならもうちょっと違ったアプローチもできただろうけど、それは「たられば」の世界
などということを考えながら、事前の約束はしてなかったので、門前でお参りとお礼だけして神通寺をあとにした
夜は、その30年前からの付き合いで、ともに求道時代を過ごしたソウルメイトブラザーズを呼び出して会食
懐かしい話や最近の話
そして3人の底に流れる「法の味」
「で、京ちゃん、今はどうよ?」
なんて、過去のことじゃなく、過ぎたことじゃなく、”今”のところで問いかけをくれる、稀有な存在
在りがたいことです
南無阿弥陀仏
若き頃、私らを導いてくれた大恩ある先輩方…気が付けば3人ともそういう恩師の歳になっちゃってます
こうして顔を揃えることはないかもしれんけど、行く先はっきりしてるし、ソウルはつながってるし、ね。
〆は高山ラーメンで
呑み屋&ラーメンなんて、今の私には”毒”ですが…今宵くらいはね
(賢ちゃん、画像使わせてもらいました)