私が大事に思っている行事の一つです。
人に「それはどういうものですか?」と聞かれるとき、一番イメージしてもらいやすい「サマーキャンプ」と答えます。
親元を離れ3泊4日の集団生活を経験させるのですから間違いではないでしょう。
しかし、ただの「サマーキャンプ」ではありません。
そこに、私がこの行事を好きな理由があります。
まずは形式的なところで行くと、小学校3年生から中学3年生までの子どもたちが、縦割りの班をいくつか作り、さまざまな行事を班対抗で過ごしていきます。
上級生は、小さい子の相手をし、導き、纏め上げていきます。
小さい子は、自分をかまってくれる上級生を尊敬し、信頼し、一生懸命ついていこうとします。
もちろん、実際はそう簡単に”きれいに”いくわけはなく、思い通りに行かないことに涙し、時にはぶつかり、時には造反し、苦労していきます。
しかし、そうしながらでも、何かひとつ成果が現れたとき、みな共に手を取り合って喜びます。
そのための行事が、班毎に歌やモットーを作り、ゲームで対抗し、普段の生活でまとまりをアピールしていきます。
また、近い学年ごとに分級をつくり、毎日数時間座談会をします。
実はこの時間が一番大事な時間で、その座談のために学生を中心にした先生方が「法話」を担当します。
子ども相手とはいえ、道徳的な仏法ではなく、根本的に「無常」や「罪悪」を問題にしていきます。
子どもたちも、一生懸命話を聞き、自分の問題にしていく…そりゃあ、小学校3年生と中学生に同じような反応を求めることはできませんが、はじめてきても焦点が定まる子も居ますし、何年もかけて少しずつ深まっていく子も居ます。
そして、ここが私が一番好きなところですが、そうして育ててもらった子どもたちが、大学生や社会人になったときに、今度は先生として教えていく立場になるんです。
教えていくといっても、単純に先生として上から指導するのじゃなく、そういう先生たち自身が伝えようとすることで自分を内省し、今まで何を聞かせてもらってきたかを問題にし、ないが聞けて居ないか浮き彫りにされ、子ども以上に法に向き合っていくんです。
情感的なところでは、いかに自分たちの先生方が苦労してきたかを実感できるでしょう。
そこを押さえれば、阿弥陀佛の願いがいかに大きなものか、知れることになるんじゃないでしょうかね。
自分の子どもも参加しますから、その成長ももちろん楽しみですが、それ以上に精根尽き果てるまで葛藤する先生方の成長が楽しみだったりします。
その苦労は間違いなくこの私自身にも向けられているものなのですから。