コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

明日から仏の子ども大会

2008-07-31 23:43:13 | 真宗
明日から「仏の子ども大会」が始まります。
私が大事に思っている行事の一つです。
人に「それはどういうものですか?」と聞かれるとき、一番イメージしてもらいやすい「サマーキャンプ」と答えます。
親元を離れ3泊4日の集団生活を経験させるのですから間違いではないでしょう。
しかし、ただの「サマーキャンプ」ではありません。
そこに、私がこの行事を好きな理由があります。

まずは形式的なところで行くと、小学校3年生から中学3年生までの子どもたちが、縦割りの班をいくつか作り、さまざまな行事を班対抗で過ごしていきます。
上級生は、小さい子の相手をし、導き、纏め上げていきます。
小さい子は、自分をかまってくれる上級生を尊敬し、信頼し、一生懸命ついていこうとします。
もちろん、実際はそう簡単に”きれいに”いくわけはなく、思い通りに行かないことに涙し、時にはぶつかり、時には造反し、苦労していきます。
しかし、そうしながらでも、何かひとつ成果が現れたとき、みな共に手を取り合って喜びます。
そのための行事が、班毎に歌やモットーを作り、ゲームで対抗し、普段の生活でまとまりをアピールしていきます。

また、近い学年ごとに分級をつくり、毎日数時間座談会をします。
実はこの時間が一番大事な時間で、その座談のために学生を中心にした先生方が「法話」を担当します。
子ども相手とはいえ、道徳的な仏法ではなく、根本的に「無常」や「罪悪」を問題にしていきます。
子どもたちも、一生懸命話を聞き、自分の問題にしていく…そりゃあ、小学校3年生と中学生に同じような反応を求めることはできませんが、はじめてきても焦点が定まる子も居ますし、何年もかけて少しずつ深まっていく子も居ます。

そして、ここが私が一番好きなところですが、そうして育ててもらった子どもたちが、大学生や社会人になったときに、今度は先生として教えていく立場になるんです。
教えていくといっても、単純に先生として上から指導するのじゃなく、そういう先生たち自身が伝えようとすることで自分を内省し、今まで何を聞かせてもらってきたかを問題にし、ないが聞けて居ないか浮き彫りにされ、子ども以上に法に向き合っていくんです。

情感的なところでは、いかに自分たちの先生方が苦労してきたかを実感できるでしょう。
そこを押さえれば、阿弥陀佛の願いがいかに大きなものか、知れることになるんじゃないでしょうかね。

自分の子どもも参加しますから、その成長ももちろん楽しみですが、それ以上に精根尽き果てるまで葛藤する先生方の成長が楽しみだったりします。

その苦労は間違いなくこの私自身にも向けられているものなのですから。

伝わるもの

2008-07-29 00:31:52 | 日常雑感
今年は町内の役をやっていることから、日曜日の朝に消防署まで講習を受けに行った。
心配停止時の応急処置と、AEDの使い方。

その内容をここで書こうとは思わないが、担当した方の伝え方が良かった。

比較するのもなんだが、免許更新講習などの”教官”の伝え方は好きじゃない。
まず”教えてやる”という態度。
毎日同じことを話しているから、淡々と進めていく。
大事なことを話しているはずなのに、心が入っていないというか、やっつけ仕事というか、響いてこない。

対して、今回の担当さんは、普段現場で救急救命活動をされている方だ。
話の中身は、同じことを何度も繰り返し、たどたどしい。
しかし、そのエピソードは自身で体験した生身の言葉だ。

いつものこういう自治会関係の集まりは、みんな集中してないし、だらだらとしている。
しかし、話のうまい下手ではなく、言葉に込められた熱が参加者に届いて、みな引き込まれている感じがわかった。

はずかしい話、役だから仕方なく参加して、役割をこなせばいいだけだと思っていた私だが、この人の訴えは軽く扱えないと反省させられた。

そう、上っ面の言葉だと、いくら上手な話術を駆使しても伝わらない。
うまく言えなくても、「これを伝えたい」という思いは、言葉を超えて伝わるはずだ。
ここにコミュニケーションの大事な要素があると思う。

同時に、仏法という真実の中で、「後生の一大事」という「どうか聞いておくれよ」の本願は、聞くものの態度や思惑を超えて響いているはずだ。

親子コミュ 番外編 5

2008-07-27 01:39:07 | 親子コミュニケーション

子どもを泣かせてしまった。

今日、知り合いのライブがあるので、見に行こうと思っていた。
いつもはライブスポットなので、酒の場だし夜も遅いから一人で行く。
しかし、今日はイベントの無料ライブ。
もし子どもがぐずっても、気軽に離れたりもできるし、2階の踊り場などから聴くこともできるし、ぜひこういう機会に「本物」に触れてほしいと思っていた。

そう、これは私のこだわりで、出張などですごい情景に出くわすと、それを子どもたちに生で見せてやりたいと思ってしまう。
福井の東尋房だったり、鳥取の砂丘だったり、言葉では伝えられないものを自分の感覚で味わってほしい。

だから、テレビやビデオで聞く音じゃなく、生で目の前で奏でられる楽器からあふれる音を一度聞いてほしいと思っていた。
そんな機会が現れたので、ぜひ連れて行ってやろうと。

長女は部活があるのを知っていたし、すでに出かけていた。
次女は最近家族で出かけるよりパソコンでチャットしている方が良い様で「行かない」と一言。
長男は「おねえちゃんが居るなら、暑いから家に居る」
次男も「ぼくも家で遊んどく」

それらの反応にキレてしまった。
その心理は単純明快
「せっかく、自分が良かれと思って誘っているのに」

そう、それはあくまでこちらの「良かれ」の押し付けであって、子どもにはその価値は分からないし、「行こうか」だけではどんな思いが込められているかはしるよしがない。
なのに、好意を無駄にされたというような屈辱感や、言うことを聞いてもらえなかった気持ちや、そんな感情の波に飲まれ、怒りの気持ちだけが湧き出してしまう。
子どもが駄々をこねるのとなんら変わりがない。

ここには伝え方の問題がある。
「私はこう思っている」というメッセージなしで、当然来るという思い込みでもって投げかけている。

子どもらは一度部屋を出て行ったが、まずは次男が「ぼくは行くわ」と擦り寄ってきた。
そのまま怒りが収まらないこともあるのだろうが、ちょっと一息ついて、自分の接し方にも問題があると内省しだしていたので、「じゃあ一緒に行こう」と受け止めてみる。
「お兄ちゃんも行くって言ってた」というので、「じゃあ呼んできてあげて」と次男を送り出す。
部屋に戻ってきた長男に「一緒に行こうか」というとうなずき、大泣きしだした。

子どもが原因で怒らせたときは、まずは謝らせるまで次の話はしないのだが、今回はこちらの接し方の問題もあると分かっているので、そこはなし。
「お父さんは、すっごい音楽を聴いてほしいと思ったんや」ということを伝える。
その気持ちが伝わったのか、あるいは怒ってるお父さんが怖いから何とかしようとしたのかはわからないが、「聴きたい」と声を振り絞った。

結局次女は置いて、連れ合いを含め4人で会場に向かった。
道中ですでに二人の息子はふざけあって機嫌を直している。
暑い中の野外ライブだったが、おとなしく聞いていた。
(次男の方はさすがに30分超えると遊びだしたが)

帰りにいろいろ感想をたずね、教えてもらった。
まぁ、音楽はまだ分からないだろうが、何かに触れてくれていたらいいなと。

それよりも、いつもここで偉そうなことを言っているが、実際まだまだできんよなと。
いや、下手に「自分はコミュニケーション上手だ」と錯覚するよりは、こうして「だから育ててもらわんとな」と振り返らせてもらうことが大事。

ということで、息子よ、ごめん。

親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


 


私と真宗カウンセリングの距離

2008-07-25 23:47:58 | 真宗カウンセリング

基本的に「心配性」の私は、自分に「何ができるか・何をすべきか」という評価がうまくできず、でしゃばってみたり、出すぎて落ち込んだりすることが良くあります。
逆に、望まれているのに二の足を踏んで動けなかったりと言うこともあります。
そういう時、「こうしてほしい」という依頼があるとすごく動きやすくなります。
その背景には「そちらが頼んだから、私の責任だけじゃないよ」という逃げ腰の要素も大きいのですが。

そんな一喜一憂を繰り返しながら(一喜百憂くらいですが)いろんな流れに乗ったり乗り損ねたりしていますね。

そういう私の今の軸足は「真宗カウンセリング」にあるでしょうか。
今まで法座で体験してきた仏法というものが私の中に流れ、周りとの関わりということを親子関係や人付き合いで感じ、またアカデミックに裏づけしていく作業もあります。

ただ、これは私が受け止めている「真宗カウンセリング」の枠を超えたものではなく、私が触れる以前から「真宗カウンセリング」は存在し、そこに関わる人の数だけそれぞれの「真宗カウンセリング」があるのだと思います。
最近までは、そうした先達の実践しているさまざまな動きに対して「私のような若輩者が理解しているはずがない」と、その末席にそぉーっと身を潜めていたのですが、少し動き出してみようかと思うようになってきました。

私が「真宗カウンセリング」のすべてを背負えるはずがなく、というか「これが真宗カウンセリングだ」という明確な定義、あるいは模範解答があるならばそれを会得・習得するまでは名乗るわけには行かないのでしょうが、(もしあるならば勘違いしないうちにお教えください)待っている間に時間は刻々と過ぎていきます。
「今・この瞬間」にわたしの中で動くものも紛れもなく「真宗カウンセリング」でることは間違いないといえるんじゃないかと思えるようになってきました。

その上で、私が先達と同じ道を歩く必要もなく、自分のできるところでできることがあるはずです。
職業としてのカウンセラーでもなく、アカデミックに研究するものでもなく、僧侶として法の現場にいる立場でもない…そんな私でもできるところで動いてみましょう。

そのひとつは、こうしてネットなどで”つながり”をもって行くことかもしれません。
私ができないことをやっている人たちとネットワークを組んで紹介していくだけでも、真宗カウンセリングを求めている人につながることもあるでしょう。
まだ真宗カウンセリングを知らない人でも、縁があればつながることもあるでしょうし。

ということで、8月に東京で真宗カウンセリング・ワークショップが開かれることになりましたので、その案内をしてあります。
関東の方、よければご参加ください。
http://homepage1.nifty.com/MANU/counseling/c20080725.htm
私は参加は難しいのですが…行きたいなぁ。

私が手伝う9月の案内もありますので、関西圏の方はこちらをどうぞ。
http://homepage1.nifty.com/MANU/counseling/c20080710.htm

 


親子コミュ 番外編 4

2008-07-23 23:56:48 | 親子コミュニケーション

保育園で朝に見かけた風景です。

ベテランの保育士さんが子どもを抱きながら、子どもを送ってきたお母さんたちと談笑しています。
抱かれている子はすごくぐずって、「おかあさーん」と外に向かって泣いてますから、そこで談笑しているお母さんの子ではないんでしょうね。

その保育士さんがこう言ってました。
「○○くんも、良く育ってきたなぁ。こんなに自分を主張して、大きな声で泣いて。個性的に育ってくれたわ」

多分、若い保育士さんや(この保育士さんもまだ若いですよ。もう子もちのママさんですが…)若いお母さんだと、朝の忙しい、ましてや他の子どもたちの面倒も見ないといけない時に、からだ全体で暴れる子どもに、余裕をなくし、困ってしまうと思います。

しっかり抱きしめる。
泣くことをやめさせようとしない。
余裕を持って受け止める。

だからこそ、この子はこれだけ泣いて自己主張させてもらえたんだと思います。

残念ながら、私もじっと見ているわけにはいかないんで、その場を去りましたから、その後その子がどういう態度をとったかは分かりません。

私は子どもを4人ともこの園にお願いしてますので、他の園がどうかは知りませんし、ある意味これで当たり前なのかもしれません。
でも、こうしてこの保育士さんがこの子にかまっていられる状況は、園が作り出してくれているんでしょうし、いい園だと思ってます。

子どもが育っていくのといっしょに、保育士さんも育っています(16年も通ってたら、中堅先生の新人のころも知ってますしね 笑)そうして、親も育ててもらってるんですね。

 

親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


保育園の役員会より

2008-07-19 00:21:32 | 日常雑感
今日は保育園の役員会でした。

思えば前回の役員会(4月18日)で思い立ってから「親子コミュニケーション」を書き綴りだしたんですね。

昨日ブログで「外からの刺激」ということを書いたのですが、この保育園関係でもいろいろ刺激を受けてますね。

ほんとはもっといろんな人に宣伝して、反応を聞いてみたい気もしますが…シャイな私はあまり宣伝できなかったりします。
(私以外みんな女性ですから圧倒されてるってこともありますが 笑)
あと、このブログで真宗のいろんなことも書いてますから、仏教園で「宗教的勧誘」ととられるような紛らわしいことも避けておきたいという気持ちもあります。

さて、役員会ですが今回は秋にあるバザー関連の話もしたのですが、こういう話題は結構お母さん方の熱が入ります。

まずひとつは、提供するメニューに関して、やはり男の私には分からない日々の買い物で感じる出来事が出てくるでてくる。
やはりいろんなものの価格高騰を感じておられるようですね。

次にこのバザーというのは保護者会のメインイベントですから、できるだけ原価を抑えて利益を残して、それを子どもらのための備品購入に充てたいと。
それこそ、竹輪のサイズをどうしようかというくらいまで、しっかり検討されます。

しかし、私が大事だなと思うのは、そういう「子どものため」という大義名分であっても、「利益・お金」というところに目が行きがちなところにあって、「利益につながらなくても、子どもが楽しめる」ということを保育園側がしっかりと押さえてくれること。

そして、そういう「園としての思い」と「親としての思い」の両方を出し合える関係の中で会議ができること。

私自身結構意識して今までから会議の流れを作ってきました。
「言いたい意見を出し切る時間」を確保して、
「それに対する反対意見の出せる時間」も確保して、
「単なる妥協じゃなく、納得」をできるだけ留意する。

何年も続けてくるうちに、当たり前のように思ってきましたが、別の会議に参加することで「これって結構成熟してきてるよな」と思うようになってきましたね。
まぁ、自画自賛のありますが(笑)

理想を言えば、「聞き方」「伝え方」の簡単なワークでもさせてもらえる時間があれば、よりいい関係作りができると思いますが、役員会長の立場だと逆に提案しにくかったりします。

まぁ、言うだけならただですから、一度提案してみても良いかもしれないですね。
園主催が無理なら、どこか別の場所で検討もありかな。

そういう集いを実践して、さらに経験をフィードバックしたいという気持ちが最近の私の流れですかね。

真宗カウンセリングは、アカデミックな対象でもなく、専門的な活動でもなく、こうした生活の関わりの中で練りこまれていくものだという気がしますし、私の立ち位置はそこにあるんだろうなと。
まぁ、気をつけないとここから独りよがりな思考に陥りますから、ゆるりゆるりと…ね。

外からの刺激と、内への探求

2008-07-18 00:44:52 | 真宗カウンセリング
昨晩は真カ研の月例会。
が、時間がとれず参加断念。
ちょうど、先週末に広島で行われた宿泊研修会の話が聞けるかもと期待していただけにちょっと残念。

でも「かりもん」氏のブログと、今日所要で立ち寄った華光会館で様子をお聞きすることができました。

私自身、最近感じる流れのところで、法座とカウンセリングの捉え方がいろいろ変化しているのを感じてますし、自分自身の中で「こうなんじゃないかな」というところと、実際に人との関わりの中で「こうなのかな」というところ、またアカデミックなところで「こうもなるのか」と、いろんな側面が見えてきています。

ただ、自分の周りにはもっと早くから真宗カウンセリングの学びや実践をしている人もいますし、大学などでアカデミックなところを追求している人もいますし、どうしても「わたしはまだまだ浅い」と一歩も二歩も引いていましたね。

しかし、先日M先生と会食して私の中で動き出したものや、今日お聞きした広島での流れなどを聞いて、ちょっと違ったものも生まれてきています。

見渡してみれば、真宗カウンセリングといえども、真宗の中にカウンセリングを取り入れようとする動きや、逆にカウンセリングと言えど真宗の信の部分ははずせないという考え方など、様々なものがあります。
また、創設者の西光先生の流れを汲むので真宗カウンセリングとして活動している方々も居られるようです。

「なんでもあり」というわけじゃありませんが、「真宗カウンセリングはかくあるべき」というものを決め付けてしまうと、広がりや発展が犠牲になりかねません。

ならば、私はわたしのところで動き出せる「真宗カウンセリング」を深めていけば良いのかなと。

とすると、今の時点で私の持ち物といえば…

その辺を少し振り返ってみることで、立ち位置やこれからの動きが少し見えてくるかもしれません。

また、こういうときにうまい具合に、そういうことを促すような依頼があったりします。

幸い、このブログによって今まで変化してきた考え方を振り返ることができますし、こうやってその場その場で小出ししていって、後でまとめるということもできそうですね。

日曜礼拝 書きたいことが満載…

2008-07-14 00:07:26 | 真宗

今日は日曜礼拝、増井悟朗先生のご法話でした。
子どもたちに向けての法話として切り取ると、集まった多くの子どもたちには難しい話だったかもしれませんが「たとえ今すぐわからなくても、正しい教えを聞いておくことは大事」という事をあとの座談でお話くださいました。

私などは、「できるだけわかる範囲で…」ということを考えてしまいます。
まぁ、これはこれで大事なことだと思いますし、「わかるように」といっても大事を誤魔化して話すことはありませんから。

そうして思ったことは、悟朗先生がこうしてしっかりと後ろで控えてくださるから、私なんぞでも先生役をさせてもらうことができるってことですね。
私が悟朗先生のコピーになる必要はないですし、無理して”自分の身の丈”からはなれた話をしても、なんにも伝わらないでしょうしね。

スカスカであっても、私のいただいたものとしっかりつながっているところで話をさせてもらう。
でないと、言葉だけ浮いてしまって、伝わらないですよね。
実際、後の座談で関わりがあった方に「理詰めで言われても困る」と指摘されました。
いや、別に私に指摘したんじゃなく、ご自身の気持ちとしておっしゃったことですが、自分がそういうつもりかどうか別として「理詰めで責められる」という気持ちにさせてしまったことを押さえる必要があると思いました。

もっと自分の”熱”の部分で、”活きてる”ところで話をすれば、言葉で通じる通じないを超えたもので関わりができるはずなんですよね。

とまぁ、そんなことを感じさせてもらいました。

で、お話の方でのお味わいは、「自分が死ぬということを知らないと、いくら話を聞いても今生腹でしか聞けない」ということを通じて聞かせていただきました。
石を斜めに投げた放物線のような絵を書かれ、生まれてから上り坂があり、頂点から下り始めて死に至るということを説明されました。
その話を通じ、どうしても「今自分はどの位置だろう。まだ上り坂?今が頂点?そろそろ下り坂?もしかして死の手前?」というような自分を見定めようとする聴き方をしてしまいがちですが、そんなものは自己満足の世界で、自分でどの位置かわかろうはずがありません。
そんな自分の気持ちや思いを超えたところで「必ず死が訪れる」と教えられているだけなんですよね。

自分でわかる・わからんと計らい続ける。
わかるようになれると思う。
聞き続ければ何とかなると思う。

全部不必要なことで、計らい心=捨て物 なんですよね。

あと、座談で「ありがたい気持ち」ということが話題になりました。
ありがたい気持ちになる・ならない。
法座ではいいが、家に帰ると消えてしまう。
以前のような気持ちになれない。

法に触れれば、勝手に頭が下がるし、ありがたい気持ちになる。
ありがたい気持ちのなろうとしても、そんなものは自分の中にはない。
それは、いただきものなんだと。
もし私にできることがあるとすれば、頭を下げることでも、ありがたくなることでもなく、こんな自分に願いがかかっていることを聞きなおすだけ。
法座にお参りしたり、本やネットなどを通じてご縁を通して法に触れる努力をするだけですね。
もうひとつ言うなら、すでに縁に触れ法に触れ、願いに包まれていることを”認めようとしない”気持ちを振り捨てることですね。
「今と違う気持ちになるんじゃないか」とか「まだまだ今のままじゃ足りない」などという自分で自分を評価する心に、「そんなものに用はない」とサヨナラする。

だいぶ長くなっちゃいましたが後ひとつお味わい。
「聴聞不足やな」ということを先生がおっしゃったんですが、普通は「もっと努力して聴聞しなくちゃ」とか「まだまだ聞き足りないからいっぱいお話を聞かなくては」っていうふうに受けとるんですね。
でも、そうじゃなくて「仏願ひとつが聞けていない」ということじゃないかなと。
量や長さじゃなく、「肝心なものが不足している」ということ。
だから、「聴聞不足」を何とかするのも、次の機会や、時間をかけてって事じゃなくて、「今・ここ・わたし」で南無阿弥陀仏ひとつ聞かせてもらうことなんだと。

ちょっといろいろ書きすぎて散漫になりましたが、まあ私のブログということで…。


親子コミュ 番外編 3

2008-07-12 00:18:28 | 親子コミュニケーション

今日、小学生の長男が学校を休んだ。
「頭が痛い…」
本当に頭痛もあるのだろうが、学校に行きたくない理由もあるかもしれない。
連れ合いからもその原因らしい話も聞いている。
とりあえず、「遅刻させます」と学校に連絡し、ちょっと休ませてもう一度学校に行くよう促したが、最終的に「休む」という結論をした。

とまあ、ここまでは良くあることだが、夜一緒に寝ているときに展開があった。

Kくん「ねられへん…」
「うん、昼間いっぱい寝たからなぁ」
Kくん「…」
ちょっと悩んでいるような顔をしている。
「なんか考えて寝られへんのか?」
Kくん「うん」
「お話できるか?」

ちょっとの間をおいてから話し始めた。

Kくん「あのな、嘘ついてしまうことがあるねん。いっぱいいっぱい、この口から嘘が出てくるねん」
「そうかぁ、いっぱいいっぱい嘘が出てくるんや」
Kくん「うん…」

今日の休みのことも気にしてるのかなと思い

「おとうさんやおかあさんにも嘘ついてるんか?」

Kくんはしまったという顔をして黙り込んだ。
このままでは詰問になり、追い詰めてしまうかもしれないと思った。
それは望むことではないので、切り口を変えてみる。

「いっぱい嘘が出てくるんやなぁ。それをあかんと思ってるんや」
Kくん「うん…」
「一個嘘をついたら、それをかくそうとまた嘘ついてしまうのかな」
Kくん「うん…」
「そういうとき、すぐに『ごめん、今嘘ついてしもた』って謝れへんかなぁ」
Kくん「嘘ついたの怒られるのが怖いねん…」
「怒られるのが怖いのか」

誘導したつもりはなかったが、「怒られるのが怖い」という今一番心配している気持ちが出てきた。
もうちょっと大きな子なら、自分から出てきた「怒られるのが怖い」という感情を自分でじっくり味わってもらうのも良いんだが、ここはちょっと不安を取り除いてやることをしてみようと思った。

「嘘ついて、怒られたくないからまた嘘ついちゃうんやなぁ。そうやってどんどん嘘をついちゃうんやなぁ。それは良くわかるわ。
 でも、おとうさんやおかあさんや先生は、すぐに『嘘ついてしまった』って自分で気づいて、謝る方がうれしいから、怒らへんと思う。お友達とかは子ども同士やからわからへんけどな。
 怒られんとこと思ったら、いっぱいいっぱい嘘ついてしまうんやろ。それってきっとばれるからなぁ。
 ばれたほうが怒られるんとちゃうかな。」

目をそむけながらも静かに聞いているようなので、ちょっとここで確認作業

「いま、お話聞いててどう思う?」
Kくん「謝った方が良いと思う」

まぁ普通に考えても「謝る」という答えにたどりつくのが普通だし、頭のきれるこの子だから優等生的に解答したのかもしれない。
しかし、こちらから「謝るようにしなさい」と押し付けるのではなく、「お父さんはこう思う」というところでととめておき、自分で結論にたどり着かせた。

最後に
「よー、お話してくれたな」と手をつかみ、頭をなでておいた。
「もう寝られるか?」と聞いたら「うん」と答えたので、そのまま寝かしつけた。

実際、つぎに誤魔化したくなる出来事があったときに、どういう風に転がるかはわからないが、無理やり学校に行かさず、「受けてあげる」ことで話してみる関係を作ってやれたのなら良かったんじゃないかと思う。

今回のポイントは最初は嘘をつくことへの畏怖(悪いことをしたら地獄に行くと言うことを聞いている)から、話しているうちに変わってきた、その時点での「怒られるのが怖い」という感情を聞いてやるということかな。
もうひとつは、「こうしなさい」と教えるんじゃなく「こうしてくれたらうれしいな」という伝え方。

余裕がないと、なかなかこういう受け答えはできませんが、ちょっと心がけておくことで…ね。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 21

2008-07-10 23:35:54 | 親子コミュニケーション

今まで書いてきたちょっとした心がけを、実際によく見かける場面で考えてみたいと思います。
こういうときはどうしたら良いのというご質問をいただいたりしますので、そんな一例になればと思います。

今回は、ショッピングセンターでの一場面。

お菓子売り場で子どもが「これ買って~」とぐずる場面ってよくありますよね。
さてどうしますか?

「はい、わかりました」と買ってあげますか。
これで済むなら子どもも万々歳ですし、問題ないですね。
しかし、いつも要求どおりにしているわけにもいきません。

「駄目」「買いません」ストレートですね。
これでわかってくれれば言うことありません。
しかし実際は「いやぁ、買って~」とますます声を大きくして要求してくるんじゃないでしょうか。
それはこちらも「困る」状況ですから、どんどん「何とかしたくなってくる」
その「何とかしたくなる」気持ちが強いと、「駄目って言ってるでしょ!」と怒鳴ってしまったり、あるいは手を上げてしまったり…
そんなはずじゃなかったんじゃないでしょうか。

「今日はやめとこう。明日にしよ、明日に」よく使う方法じゃないですかね。
「じゃあ絶対明日な」と子どもは結構その場は引いてくれます。
しかし、これが毎日続くと、子どもも誤魔化されませんし、下手すれば押さえ込んでいたもの、我慢していたものがそのときの気分で一気に噴出し、手のつけられなくなることになりかねません。

そこで、まずそのときの子どもの「気持ちを受け止める」ことをしてあげればどうでしょうか。
「そうか、これ買って欲しいんや」と一度受け止める。
子どもとしても、一度受け止めてくれるからこちらの話を聞こうとしてくれます。
まぁ、一回ではなかなか子どもも引きませんので
「そう、買って欲しいんや。これ買って」とまた要求に移るでしょう。
そこは根気強く
「そうか、これ買って欲しいんや」とだけ繰り返す。
たまに「○○ちゃんはこれを買って欲しいんやね」と名前も入れて、しっかりと受け止める。
そうやって受け入れていることを子どもが感じているようならば、こちらの思いを話してやります。
「おかあさんは、今日は買わない方が良いと思ってる」
「おかあさんは、もうすぐご飯だからおやつはいらないと思ってる」
「おかあさんは、明日にした方が良いと思うな」

そう、以前書いた「私メッセージ」というやつです。

こういう方法を使っても、なかなかこちらの思いを聞いてはくれないでしょうが、最初から押さえつける・締め付ける態度を示すよりも、子どもとの間に「いい関係」が築けるはずです。
また、相手の気持ちを受け止めることを心がけて訓練することは、自分の気持ちを受け止める訓練にもなりますし、「私メッセージ」はそうした自分の気持ちを相手に伝える訓練になります。

今回、「お菓子」という例なので、「お菓子を手に入れる」という目的を果たすまでは子どももなかなか折れないでしょうが(子どもにとっては大きな問題ですもんね)、こうした日常の場面に心がけることで、「親子コミュニケーション」にとって一歩進んだものになっていけると思います。

親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」