コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

感謝です

2008-12-31 00:13:15 | 日常雑感
今年も一年ありがとうございました。
年末は本職のほうが予定いっぱいだったりして、なかなか更新できませんでした。

そんななかでも、来年の真宗カウンセリング研究会の打ち合わせがあったりして、いろいろと思いをはせることはありました。

来年もいろいろ変化の年になりそうです。
まず、16年間通った保育園がこの春で卒園になります。
これから、新しい形で園児の親とかかわり続けることになるのか、子どもの成長に合わせて小学校から高校のほうへ、関わりがシフトしていくのか…楽しみですね。

また、カウンセリングの方は今年よりお手伝いすることが増えそうです。
これは私も臨むところで、新しい流れに乗っていけるかどうか、試される年になるでしょうね。

他にも、法座での関わり方も微妙に変化していくでしょうか。
一部、年が明けたら動いてみようと思うこともありますしね。

私は基本的に、誕生日だからとか、新年だからとか、ほんの数時間変わるだけで私の本質が変わることはないと思うタイプです。
がしかし、こうやって思いをはせて、新しい何かのきっかけにするのは嫌いではありません。

相変わらずの私ではありますが、変わらずお付き合い願います。

”社会の問題”から”私”へ

2008-12-19 00:26:01 | 真宗カウンセリング
真カ研月例会の楽しみは、テキストを元に深めていくことももちろんなのだが、分かち合いながら脱線していくところでいろいろな話が聞けるところにもある。

昨日の場合は、非正規雇用の問題などが広がりを見せた。

現場でカウンセリングに携わっている方の参加もあるので、いろんな現状の話が聞ける。
その中には就職に関わることも少なくないだろうし、特にここ数日ニュースで見るだけでも多くの方が職を失っている。
私も先日まで、ニート問題の研修を受けているので、無関係ではない。

力量的に働く能力のある人が、非正規雇用の削減ということで就労できなくなっているのだ。
また内定取り消しという形で、入社考査を通っている人でも就労できない。
長い目で見てもらって、徐々に能力を磨いていかなければならない「ニートからの脱却」を図ろうとしている人には、さらに辛い状況が目に見えている。

そういう現状で苦しんでいる方と面談される方の苦労も相当なようだ。
いきおい、その矛先は非正規雇用という手法を取り込んだり、内定取り消しという手段をしている経営側に向いている。
そこには間違いはないし、もっともなご意見だと思う。

しかし、一方で「経営者側」の立場も知っている私としては、そこに一切反論がない…というわけにはいかない。
護らなければならない範囲の考え方の問題なのだ。
会社が苦しい状態で、雇用者をすべて抱え続ける体力がない場合、みなで共倒れするか、一部を切り捨て残りを護るかという選択に迫られる。
非正規雇用者をも護るために、正規雇用者の給与を下げて分配することを正規雇用者は受け入れられるのだろうか。
内定取り消しをなくすために、自分たちの賞与をカットして採用することができるのだろうか。
まだ給与が安く、将来的に会社に貢献できる若者を雇用するために、給与が高く定年まであと少ししか会社に貢献できない管理職の人を解雇することを納得できるのだろうか。

さらに考えていくと、今は大手の首切りが目立っているのだが、その影では中小の企業が倒産し続けている。
大手の下請け的な立場の企業は、いまの非正規雇用者を処分する以前に、淘汰の嵐にさらされている。
仕事の対価を下げるだけ下げさせられ、さらに少しでも安い同業他社があればそちらに仕事をとられる。
赤字でも「いつかは報われる」と仕事を続け借金を重ねるか、あきらめて廃業するしかない。
経営側も苦しいのだ。

職を失って苦しんでいる人へのカウンセリングと同じくらい、経営側のカウンセリングも必要なんじゃないだろうか。
しかし、今精一杯動き回っている人たちには、ゆっくり自己を振り返っている余裕はない。
職のない人は、時間だけはあるのでカウンセリングを受けることもできるだろうが…
正式な数字は知らないが、無職で苦しんで死を選ぶ人と同じくらい、経営に疲れて死を選ぶ人が居るんじゃないかと思う。

こう考えていくと、本当の意味での「共産」という考え方、あるいは行政主導の「社会主義」というものが必要なんじゃないかと思えてくる。
ただ、今私が知っている現実の「共産主義」や「社会主義」はほんとうの理念から離れているものだし、机上の理屈が現状に効くとも思えない。

などと、出口のない考えがいろいろめぐってくるのだが、「この社会を何とかしなければ」というところまで思いはいたらず、せめて身近なところから「つながりを持っていきたい」と願うのが精一杯だ。
そのこともある参加者がおっしゃってくださって、引き戻してもらえた。

身近なところでの変化…これは昨日書いた事につながり、カウンセラーが経験を積むことでクライエントに起こってくる「知覚」による正の変化をともに学びあうことになるんじゃないかなと。
だとすることは、まずは私が学び、経験を積むことからはじめるしかない。

以前学んだフィールドワークでの言葉がよみがえって来る。
「社会で起こることはグループで起こり、グループで起こることは私に起こる」
これを逆にすると、「私が変化すればグループが変化し、グループが変化すれば社会が変化する」といえるんじゃないだろうか。
嘆き悲しむだけでなく、身近なところで動いてみるしかなさそうだ。

真カ研月例会 12月 (お知らせ付)

2008-12-17 23:29:16 | 真宗カウンセリング

 

今月は私がレジュメ担当です。
先週中に半分くらいできていたのですが、週末からのスケジュール過多で仕上げは今日の昼間に…と思っていたら、昨日の仕事でトラブルが出て今日も一日拘束されることに。
そこであわてて昨晩仕上げました。

先月の月例会の続きのような内容でした。
いろいろな仮説に対しての実証実験を受け、その結果わかってきたことが述べられています。
それは、現代につながるカウンセリングの歴史の中で、いまや当たり前のように言われている事柄ですが、それは最初から当たり前だったわけじゃなく、ロジャース氏の検証・実証を通じて「これだ!」といものを示してくれたからこそ、それがスタンダードな流れとして定着していることを再確認しました。
ほんと、あたりまえっちゃあ当たり前なことなんですけどね。

それらの話の中で、今日のキーワードになったのは「知覚」ということでした。
カウンセラーが高いレベルで「一致・共感・無条件の肯定的配慮」を示せていれば、それはクライエントに「知覚」されやすく、そのことによってクライエントに大きな正の変化が見られる。
ただ、クライエント側に何らかの障害があれば「知覚」されにくい。

「知覚」されるということは、両者間に心理的な結びつきが生まれるということですね。
カウンセラーの「大事にしたい」という思いが、クライエントに「大事にされている」と知覚されることで、クライエントの成長が援助されると。

逆にカウンセラーの「一致・共感・無条件の肯定的配慮」が低いと、クラエントの正の変化は少なくなる。

とまぁ、クライエントの状態によって関係は左右されることではあるのですが、それはカウンセラーが操作できるものではないですよね。
なので、私の側でできることは、経験を積んで「知覚」されやすいように、技法・態度を磨き、自然に「一致・共感・無条件の肯定的配慮」がにじみ出るように人間観の部分を磨いていくしかないということですね。
この人間観を「人格」という方も居られました。

さて、経験を積むということで、1月から新しい学習会が始まります。
私も世話人として参加します。
 日時:1月13日より3月17日まで 毎週火曜日 19時~21時
 場所:華光会館(京都)近鉄十条駅徒歩1分
 参加費:14000円(学生13000円、研究会会員12000円)
   詳細はお問い合わせください 
manu.takahashi@nifty.ne.jp

西光義敞先生の研修会の記録を輪読しながら、分かち合っていきます。
まだ定員に達しておりませんので、興味のある方はぜひご検討ください。


夕には白骨となれる身なり

2008-12-13 02:11:15 | 真宗

昨日・本日と連れ合いの母方の伯父の通夜・葬儀があった。
私自身は何度かの面識はあるが、寡黙な方だったのであまり多くをお話した記憶がない。
なので、子どもの頃から世話になっている連れ合いや、親族の方ほど故人に思い入れはないのだが…

今日は火葬場までご一緒し、骨を拾うお手伝いもさせていただいた。
親族の方、思い入れのある方々は当然、お別れを惜しみさまざまな思いで骨を拾っておられただろう。
そんなとき、私はなぜか後ろの方に下がっていた。
その白骨をみるのが心苦しい。

目の前では淡々と骨の説明がなされていく。
そこにいるのは、学者として多くの功績を残してこられた方。
しかし、その骨は骨でしかない。

 

長年培ってきた知識もない
健康に留意していた身体もない
家族への思いもない
財産や功績も関係ない
寺に生まれて求めてきた法もない
浄土への願いもない

生きているものが執着してきたものが何一つ残っていない

それが明日の、いやこの一刹那後の私の姿だ

残された家族には、思い出が残る
そういう形で引き継がれていくものもある
しかし、それは当人には一切関係ない
何のたしにも妨げにもならない

私の存在は”無”と帰すのだ

その一方で、つくりとつくった”業”は迷い続けていく
自分ではわからぬ世界だが…
それをわかろうと思う気持ちや
なんとかしたいという気持ちも
骨になった身には関係ない
もおうその時点で迷っているだけだ

無常と罪悪
知ろうとして知れるものじゃないし
知識やこだわりは積み重ねても全部置いていかねばならない

ただ骨となって横たわっているのが私だ


「さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(御文章五帖目十六通)

南無阿弥陀仏


グレーの叫び

2008-12-09 23:15:07 | 日常雑感
日曜日に大好きなアーチストのライブを観に行きました。
ふとしたきっかけで知り合った方のバンドですが、ふだんからネットで使われるその言葉の世界が素敵で、それを詩としてメロディに載せられるとぼれぼれしてしまいます。

そんな彼らの新曲を聴いたのですが、またその詩の世界に惹かれてしまいました。
残念ながら正確な歌詞は覚えていないのですが…その詩の印象から書きたいことが出てきます。

タイトルは「白黒」
白か黒かを迫られる世界で、白にも黒にもなれない「グレー」の叫びを歌っています。

人が苦しむときに「葛藤」があります。
「こうなりたい」「こうありたい」という自分の理想。
その理想と今の自分のギャップによる「葛藤」

理想が無理ならば「あきらめて別の道を」という「切り替え」
でも、簡単に割り切れない今の自分との「葛藤」

そういうふうに葛藤に悩んでいると「がんばりなさい」とか「一歩踏み出しなさい」とか、「良かれと思って」アドバイスしてくださる方がいっぱいいます。
でも、その裏側には「そのままじゃ駄目でしょ」と判断されていることを感じてしまいます。

言われることは判りますし、自分の中にも何とかしたいという気持ちがないわけじゃありません。
でももう一方で「もう少し今のままでいさせて」という叫びもあったりします。

白黒つけられない「グレー」という状態も「ある」んです。
それを理解してくれとも言いません。
その状態を何とかしてくれとも言いません。
ただ、「グレー」もあるってことを知って欲しい。

そのことを認めてもらうことで、次の動きは自分から起こしていけると思います。
ただ、せかされると困りますが。


このことは、私自身が経験したことでもあり、カウンセリングという場で触れてきたことでもあります。

自分で「白黒」つけて、突き進んでいける人はいいんです。
また、そういう人を「グレーを理解していない」と責めているつもりもありません。
「白黒だけじゃない」ということを、頭の片隅に置いといてもらえれば、それで十分です。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 34

2008-12-05 23:35:31 | 親子コミュニケーション

先日の養成講座実習で、本来の部分とは外れたところでのことですが、カフェで一緒に実習に参加してた皆さんとお茶を飲みながらいろんな話をしていました。
ちょうどその日、学校(寮)に喫煙室を作っていたというニュースがあり、そのことから話題が広がりました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081130-00000030-jij-soci(時事通信)

ある人は「喫煙してはいけない子どもの喫煙を容認することはけしからん」と言い、ある人は「正論ではあるけれど、禁止して隠れて吸われるより、現状としてわかる場所で指導する方が現実的だ」という声があありました。
私は後者の方の考え方に賛同しましたね。
「駄目」といわれても、吸う人は隠れて吸いますしね。
そうやって目の前で吸う人が居ないことで「うちには喫煙者がいません」と現実に目をつぶって良しとするより、喫煙者と向き合って、コミュニケーションとって行く方が大事じゃないでしょうかね。

そこから、「国によっては子どもに避妊具を配布している」という話題になりました。
そのことも、上で「けしからん」という意見をお持ちの方は「理解しがたい」という考えかたを述べられました。
その話題をされた方は、ただ避妊具を配布しているのではなく、HIVの問題などに真剣に通り組みながらどうすればHIVをなくしていけるのかへの取り組みだ、ということを教えてくださいました。
「HIVが問題だからSexをするな」という方法がいいのか、「まずはHIVの対策のために避妊具を」という方法がいいのか。
後者のほうが現実的でしょうね。
ただ、「そういう指導をして、それまで興味のない子にまでSexに興味を持たせて良いのか?」という考え方もわからないでもありません。
しかし、すでに世界ではHIV患者の増加は大問題ですよね。

喫煙にしろ、HIVにしろ、「自分の子どもは大丈夫・無関係」と思いたい気持ちもわかります。
でも、いくら自分の子どものこととはいえ、100%すべてを知っているでしょうか。
そういうことは無関係と話題にしない家庭が増えるからこそ、喫煙の危険やHIVの恐ろしさを子どもが知らないままになってしまう。
そうやって、本来一番自分の子どもを護りたい家庭で教えたりしつけたりせずに、学校などにそういうしつけを丸投げしてしまっているということも問題だと思っています。

家で「タバコは身体に良くないから、せめて身体が成長する成人になるまでは吸わない」ということをちゃんと教えている家はどのくらいあるでしょうか。
理由も告げずに、「決まっているんだから駄目」と締め付けるだけならば、当然反発する気持ちが起こってきます。

「HIVが恐ろしいから、それに子どもができても育てるのは大変だから」と簡単にSexしないように教えている家庭はどのくらいあるのでしょうか。
せめて「避妊することがHIVの予防にもなる」と教えているでしょうか。
「自分の子どもにかぎって関係ない」と決め付けたり、「駄目なものは駄目」と理由なく締め付けてはいないでしょうか。

そういう指導を学校や社会に任せるのは間違いだと思っています。
本来、家庭の教育の範疇です。
同時に、それは家族での大事なコミュニケーションの時間だと思います。

そのためには、一方的に押し付けるのでもなく、逆に見て見ないフリをするのでもなく、「どう思う?」と聞いてあげることから始まるはずです。
そして、どういう考え方を持っているにしても一度は受け止める。
いきなり否定していては、その後何も話す気にならなくなるでしょうから。

おりしも、大阪府で「ケータイ校内禁止令」が話題になっています。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081205-00000010-yom-soci(読売新聞)
橋下知事の発言なので余計に話題になっている感もありますが。

これも、本来わざわざ知事が指導することじゃないはずですね。
授業中、携帯を使用しない…ってことを家で教えてないんでしょうかね。
まぁ、マスコミは火種を大きくすることが好きですから、話題は学校へ持っていくことに摩り替えて「防犯のために必要だ」という親の反論を引き出して煽ってますが…
本来は「授業中に携帯でメールしたりしている」ことの問題だったと思うのですが。
知事は知事で、その話題を学力低下対策にくっつけてるので話題がややこしくなってますけどね。

こちらも話題がそれましたが、ようはこういうことでも家庭で話し合って、「何が良くて何がいけないのか」と、「今どういう現状なのか」を親子で話し合ういい機会じゃないかと思います。

ひとつ注意が必要なのは「昔はこうだったから」というのは積極的な理由にはならないってこと。
時代は変わっているし、物心ついたときからゲームも携帯も当たり前のようにある状況では、当然考え方は違いますからね。
「今はあたりまえ」というのを受け止めた上で、「でもこれは問題がある」ってことをしっかりと話できたら良いですね。

今までの話題も参考にしてみてください。

 33-「親の6大NGワード」
 32-「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

  31-話を最後までちゃんと聞く
 30-21~29のまとめ
 20-11~19のまとめ
 10-1~9のまとめ


見上げてごらん夜の星を

2008-12-03 01:54:43 | 日常雑感
12月は師走といって、いろんな”師”が走り回るほど慌しい時期ということですね。
やはり年の瀬が迫るというか、「いついつまでに終わらせたい」という気持ちが、早め早めに物事を進めたくなるんでしょうね。
「あと31日ある」ではなく、「もう31日しかない」と。

「慌しい」は「心が荒れる」、「忙しい」は「心が亡くなる」、もうその漢字からして尋常じゃない雰囲気ですね。

昨日の書き込みにも通じるのですが、「いついつまでに」という期限付きですすめる出来事は、どこか心に余裕をなくしてしまい、「目標達成」というプレッシャーが必要以上に気持ちを責め立ててきますね。
それを克服できる人はどんどん先に進めるのでしょうが、ひとつクリアしてもまた次の目標・期限に追い立てられて、なかなか心が休まらない気がします。
もう、心が荒れたまま、亡くなったまま、突っ走る様は、師走の街中で当たり前のように見かける風景ですね。

カウンセリングを通じての相談にも、そういう「期限付き」や「目標設定」が入り込んできていると聞きます。
さらには「効率化」という言葉さえも聞かれます。
どれも、来談者を中心にすることとは相反する、受け手の都合を重視した考え方の気がします。

そうすると、「今の状態」というものを受け入れてもらえず、「次のステップ」を求められ、困ってしまうんじゃないでしょうか。
どこまで行っても、「そのままじゃ駄目」と責められ続けるのは辛いですね。

そういうことを考えるとき、「今のまま、そのまま救うぞ」という阿弥陀仏の誓いを軸にした、浄土真宗の教えは、本当に無条件の肯定なんだなと実感します。

いろいろ感情の混じった私が、仏のような肯定観をもつのは到底無理なんですが、そういう肯定観があるということを知っていれば、「そうで居れない自分」というものを内省することもできるし、少しでもそれに近い関係作りを目指せんるんじゃないかと。

実際は、私自身なんだかんだ切羽詰った感じになってしまうんですが、ただ「慌しい」「忙しい」と突っ走るのじゃなく、ちょっと足元を見ながら、あるいは星空を見ながら、一呼吸つくことを忘れないでいたいなと。

最近、子どもを保育園に迎えに行く時間はすっかり暗くなって星が出ていたりするんですが、そういう星を見ながらこんなことに思いが到ってました。

写真は昨日の夕刻、金星と木星と月が並んだ風景です。(産経新聞社の写真より)
にっこり微笑んでいる星を子どもらと一緒にしばし眺めることができました。

地域若者サポーター養成講座 実習

2008-12-02 01:05:26 | コミュニケーションワーク

 

実習というのは、実際に若者の支援をしている施設へお伺いし、現状を肌で感じる場です。
何箇所かの訪問先が提示されていたのですが、会場が家の近所ということと、11月後半は忙しかったので唯一12月の設定だったこととを考えて、12月1日 南青少年活動センターを選びました。
で、今日行ってきました。

場所はうちから歩いて5分弱。
私の子どもらが通っている小学校の隣。
という近所でありながら、中に入ったことはなく、その活動も大体のものしか知りませんでした。
「若い子が集まって、サークル活動をしたり、たむろっているところ」というイメージしかなかったですもんね。

しかし、今回実習先になっているということで、事前に説明を受けていたことは「サポートセンター」として、若者の相談場所であり、居場所であるということ。
今回は、その活動の中のひとつである、「あじプロ」というものを見学させてもらうことがメインでした。

あじプロ」というのは、「たまと体を使って働くことをっかんするプログラム」ということで、南青少年活動センター内のカフェを利用して仕事の体験をするというもの。
具体的には数名の募集を受け、事前研修を2回、カフェの店員として実践体験を3回、振り返りをし今後を相談するのを1回の6回連続のプログラム。

今日は、実践体験の1回目ということで、はじめて人前で店員体験をする二人の若者に、私たちが客として応対してもらいました。
緊張しながらも、事前に教えられている接客マナーを実践しながら、人前で仕事をするという体験をしていました。

私自身、接客のバイトや仕事は結構してきていますが、これには向き不向きがあって、コミュニケーションの苦手な人にはかなりハードルの高いプログラムでしょうね。
でも、誰かが押し付ける体験学習ではなく、自分の意思で一歩踏み出そうとしているので、がんばろうという気持ちが伝わってきました。

今回、スタッフの方からの説明と、質疑のやり取りを通じていろいろ感じたことがあります。

以前、このブログで別のプログラムを講義で聞いて、「目的に引っ張りあげるプログラム」という印象をうけてちょっと違和感を感じたことを書きましたが、今回のプログラムは一応「就職支援」という側面はあるものの、一気に「社会活動できるようにする」ものではなく、傷つき悩んで「どうにもできない」という人の「相談を受ける」ことからの延長で「ちょっと試してみる?」という立場だろうなと。
本人の気持ちをできるだけ尊重しようという気持ちを感じたし、実際に動いてみて感じる「しんどさ」や「悩み」をできるだけ聞いてあげる時間も大事にしている感じも受けましたね。

前回のカウンセラーさんとの実習でも感じましたが、大きな枠としての支援は「社会に卒業していく」ことを目標にしながらも、実際の現場では「今、ここ」のその人を大事にしてあげようという緩やかさを持っているんだなと。
今回、サポートステーションの所長さんが同行してくださったのですが、以前の講義では「引っ張りあげる」「押し上げる」という目標を持って「地域若者サポーター制度」をはじめようとしているいるような印象を持っていました。
しかし、今回少し話する時間があり、「まず現状を広く知ってもらいたい」ということを大事にされていて、対策・対応よりも、まず受け入れることの大事さを軸に置かれているんだなと感じましたね。
ただ、行政が絡み、予算が絡むと「数字で表す実績」を求められるのが世の常ですので、いろいろ大変でしょうけどね。

今日、応対してくれた若者の話に戻ると、ちょっと会話した人の話で「やっぱり仕事に向いてないかな」という言葉があったそうです。
その言葉に対して、多くの方は「そんなことないよ」とか「大丈夫がんばって」という声をかけたり、思ったりしたそうです。
確かに、そうやって鼓舞してあげるのも大事でしょうけど、誰かがまず「そう、向いてないと思ってるんだ」と、その子のありのままの思いを受け止めてあげることも必要だろうなと思っています。
もしかしたら、そう返されて自分から「でもやってみる」という気持ちが生まれるかもしれませんし、周りが引っ張りあげるより、はるかに自分で決めた気持ちのほうが強いはずですしね。
あるいは、「向いてない」という思いから抜け出せないとしても、「私は大丈夫だと思うよ」というメッセージの方が寄り添っていけるんじゃないかと思いますね。

他の話題でも感じたんですが、何かに傷つき動けない人に、ただただ「それは気の持ちようだ」とか「でもがんばれ」というのだけでは、届かないと思うんですね。
「いま、そこにいる」そのままを尊重していくこと…あらためて感じています。

他にもいろいろかくネタはあるのですが、今回はこの辺で。

「ニート」という言葉で社会的に括られてしまっている「いろんな思いのパーソン」がその人の数だけ種類があるという現実。
家族という組織だけではどうしようもない、コミュニケーションが難しくなっている現実。
一方で、なにか道をつけることができないかと取り組みが行われていること。

知っていたけどもっと深く知れたことや、知らなかったことがあるということを、このサポーター研修で知りましたね。