コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

仙台訪問(PTAフェスティバル)3

2012-11-29 23:55:33 | PTA

荒浜小学校では校長先生が案内をしてくださった。
パッと見はしっかりとした建物が残っている。
しかし、1階部分の窓の破損などが震災の被害を訴えている。
なにより校舎だけがぽつんと残り、周りには何もない状況…

1階から順番に説明を受けながら進む。
建物と言うハードの被災状況だけでも心が痛む。
玄関から入ると天井に無数の傷がある。

流れてきた様々なものが傷つけていった跡だ。

2階に上がると、廊下の一番はしにあるベランダが目に飛び込んでくる。
鉄の手すりが折れ曲がっている。
この階にいた先生が目撃したものは、どんどんまして来る水かさ、やがて2階にも浸水してくる、そしてベランダの向こう側から押し寄せてくる家。
なんとか3階に駆け上がり無事だったそうだ。

4階は被災した地域の方が避難してとりあえず命をつないだ場所。
仲間を励ましたり、気遣ったり、そして救助されたあとに残された感謝の言葉などが残っていた。

屋上から見る周囲の風景は、更地にしてこれから発展していく再開発地区のようだ。
しかし実際は危険地域として、この周囲に生活圏は作れない。

一通り見せていただいた後、じっくりと校長先生のお話を聞かせていただいた。
夕暮れの学校は、電気が通っておらず明かりは一切ない。
見せてくださる資料を、見学者の携帯ライトが照らしながらのお話だった。

当時の状況などいろいろお話いただいたのだけれど、一番最初におっしゃった感謝の言葉が印象的で、マスコミなどのどんな言葉よりも響いて離れないもの。

「皆様のおかげで、やっと普通のことを普通にできるようになりました」

ここでおっしゃった”普通”は、1年8ヶ月経って、ほかの学校に場所を借りながら「授業に子どもらが出席してこれる状況」のこと。
そういう最低限のことすらままならなかったんだと言うことがこの言葉には込められてるように聞こえた。

本来の家があり、本来の学校があり、本来の級友が集う…それが”普通”だという感覚の私がいる。
さまざまな支援が行われ、1年半以上経って「復興」という基準で語られるようになっているけれど、実際はまだ「復興」以前の状態であるということを思い知らされた。

もちろん、東北の方々は復興にむけて一生懸命前を向いておられるし、力強さも感じる。
でも、「復興が進んでいるから、私たちの支援はもう良いかな?」なんて錯覚するのならば、それは怖いことだ。
それはなにも、瓦礫の撤去や整地が進み、建物が補修されることが、復興が進んだということではない。
ランドセルが被災地の子どもに行き渡る事が復興が進んだということではない。

私たちが”普通”と思うことが、被災地の方も「これが普通」だと思えるような状況になって、やっと一歩進めんるんだと思う。

今回被災地を訪問して、今後いろんな場所でこの経験を話させていただく機会があると思う。
ひとつは女川町で感じた、人が生活していた空間を肌で感じたこと。
もうひとつはこの校長先生が伝えてくださった「普通」をめぐる思い。
せめてこの二つは、私なりの言葉で伝えてみたい。

 


仙台訪問(PTAフェスティバル)2

2012-11-18 23:51:52 | PTA

先ほどバスを降りていた場所から見上げていた高台の病院へ移動する。
倒壊していたビルを含め、あたりが見渡せる場所だ。

今は静かな"広い”港。
しかしここには"街”があり”人々”が存在していた。
この高台まで水が来ていたということだ。
この女川町での被害、約600名
ネット上で調べるとただの数字だが、この空間にはそれだけの命を飲み込んだ事実があった。
なにもない広さが、メディア・ネットを通してみる絵とはちがう、空気・感覚を伴った形で迫ってきていた。

この高台の端に立てられた慰霊碑が生々しい。

なんともいえない感じを引きずりながら、再び仙台市内への道に着いた。
その道の両側には1階部分が壊れたままの建物がこれでもかと続いていた。


だが、先ほどの港で感じた衝撃を超える感じはない。
ただの無機物な感じだ。
そう、港では”生命の感覚”と対峙させられていたのだ。

仙台市に戻ると、荒浜小学校を案内していただいた。

つづく

 


仙台訪問(PTAフェスティバル)1

2012-11-16 00:04:40 | PTA

先週末、仙台市でPTAフェスティバルが行われた。
京都市PTA連絡協議会常任理事としてお手伝いに赴いた。

ちょうど一年前の仙台PTAフェスティバルに参加した方々の話を聞いたことを思い出す。
(一年前のアップはこちら)
そのとき、直接肌では感じていなかったが、肌で感じてこられた方々の言葉を通して感じたものはあった。
心打ち振るわせた人がいるという事実。

今年もPTAフェスティバルの前日に視察があるというので、それも含めてご一緒させていただくこととなった。 

 

まずは仙台空港に降り立つ。
 

東北地震の被害映像の中でも印象的だった空港が飲み込まれていくシーン。
しかしそこにあったのは、普通に機能している空港であり、3階ロビーから見渡せる風景は、どこでも見られる地方空港のもの。
 

「あぁ、復興は進んでいるんだな」という印象を受けた。
1階ロビーには巨大なタペストリー。
仙台の人々はがんばっているんだという力強さを感じた。
 

同行するほかの都市の到着を待ち、お迎えのバスが来て出発。
運転・ガイドは仙台市PTA会長自らしてくださる。
そして、空港ら離れて5分もしないうちに、目に飛び込んできたものは未処理の瓦礫の山。

ただ単に空き地に集められているのではない。
もともと建屋があった場所が”空き地”になり、そこに集められているのだ。
復興が進むためのステップ…このころはまだそういう風にしか思えなかった。

高速に乗り、市内を北へ進む。
この高速道路が高架ではなく盛り上げた形で高い位置を走るように作られているおかげで、海側から来る津波を食い止めて、街側の被害を食い止めたと聞いた。
比較的新しい家は、波を受けて助かったのか、震災後新たに建てられたのか。
少し進むと波にやられてまだ復旧できていない田畑の風景が続く。


ボランティアさんたちによって、大きな瓦礫や細かい瓦礫が撤去されてやっと田畑の姿になって居るが、耕作ができる状態ではまだないという。
対して、波が食い止められた街側は青い田畑が見かけられる。
雑草も生い茂っている。
 

しばらく進み、仙台市を抜けるあたりになると仮設住宅の姿が見られるようになってきた。
 

写真はうまく取れなかったが、途中にある学校にプレハブの校舎が建っていた。
地震の影響で、校舎を耐震補強するための仮校舎かと思っていたら、その先に仮設住宅が。
これから行く海に近いあたりで被災した方々が、海から離れた内陸で生活されていると聞く。
道沿いに、1kmほど仮設住宅が続いただろうか。

おそらく先ほどのプレハブ校舎は、仮設住宅生活している児童が増えたために建てられたものだと、あとで思いが至った。

やがて、入り江となった海に面したところに出てきた。
このあたりでは家は残っているが地盤沈下でしっかり造成された道路部分から数十センチ沈み込んでいるそうだ。
 

やがて目的地の女川町がせまってきた。
道の両側に並ぶ、もともと家が建っていた基礎部分が続く。


そして目の前に現れたのが広い広い海に面した土地。
一見、埋め立て造成地にみえるが、ここは港であり駅前であり、栄えていた場所だと聞く。
「そのビル、おかしいと思いませんか?」とガイドさんの問いかけ。
ここに来るまでの市街地で「工事でシートがかぶされたビルがいっぱいあります」と聞いていたので、このビルも緑のシートをかぶせて工事中なんだと思っていた。


「見えているのは屋上部分です」
しばらく意味がつかめなかった。
そして横をすり抜けるときに、ビルが横倒しになっていることが理解できた。

進むと、ほかにも同じようなビルがある。

バスを降り、見学した。
水際まで平坦な更地。

そこにぽつんと残る横倒しの廃墟。


説明によると、後ろに見える高台の施設、そこの2階まで水がきたそうだ。
 

車に乗り高台にある総合体育施設へ。
ここが当時の避難場所であり、現在は仮設住宅になっている。


再び海側へ回り込むと、そこは瓦礫置き場。
先ほど更地のようになっていた場所は、これだけの瓦礫が撤去されて更地になっていた
ということだ。

 

 つづく