コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

甘えてるわけじゃない

2011-10-26 02:40:00 | 親子コミュニケーション・Light

このブログで何度か「がんばれ」という言葉に関する思いを書いた。

で、今日こんなニュースが目に留まった。

 

医師の「頑張れ」は違法=症状悪化と賠償命令-大阪地裁

 自律神経失調症だった男性が、不用意な発言で症状が悪化し復職が遅れたとして、大阪府内の内科医に530万円の損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁の寺元義人裁判官は25日、「『頑張れ』などの発言は違法」として、60万円の支払いを命じた。

 寺元裁判官は、内科医が「病気やない、甘えなんや」「薬を飲まずに頑張れ」などと力を込めて言ったことについて、「安易な激励や、自助努力を促すような言動で病状が悪化する危険性を避ける注意義務に違反した」と述べ、発言と病状悪化との因果関係を認めた。(2011/10/25-19:53)

時事ドットコム

 

SNSなどでこのニュースについてのコメントを見ていると、この患者に同情するあるいは自らの自律神経失調症について語るものと、患者を批判非難するものとがあった。

 

で、いろいろ思わされるのだが、やはり「出来る」人が「出来ない人」のことを理解できず、自分のものさし・常識で測って相手を責める言葉は、見ていて非常に辛いということ。

「がんばれ」と言われて、その叱咤激励を力に変えて結果を出す人も確かにいるだろう。

「がんばれ」と言う言葉だけでも、人によっては「今・ここ・わたし」を認めてもらえず、もっと「何かしなければ”いけない”」としか取れない人もいるのだ。

そういう考え方を認めず、「こっちは善意で励ましてるのに、なんでやらへんねん」と気持ちを押し付けるのは、ひとつの暴力だ。

 

また、今回の記事からいくと、相手の状況・特性に沿わない形での言葉掛けになっているようだ。

自律神経失調症について、今ここで深く触れることはしないが、その状況を受け入れず、ある意味無視していることは、医者としては困ったものだ。

 

たとえば、小学生という状況のものに、「時速150Kmの投球をしろ」とか「100mを9秒で走れ」という人がいたらどうだろう。

それをプロの野球選手や、陸上の指導者が言っていたなら「そんな無茶な!」と思わないだろうか。

「頑張れない」状況の人に「頑張れ」というのはそういうことだ。

 

「頑張ってほしい」のはこちらの思いの表明、「頑張れ」は思いの押し付け。

 

 

まぁ、この裁判のニュースに関しては、この文章だけでは読み取れないことが多いので、単純にこの医者を責めようとは思わないが、ちゃんと裁判で判決が出たのだから”非”はあったんだろう。

 

たとえば、震災でまだ現実が受け止められない状況の方に、「頑張れ」という言葉はどうなんだろう。

もちろん、それ励みにする人もいるだろう。

しかし、そういう言葉によって、「悲しみ」を「悲しみ」として味わうことが許されない、悲しんでいることを責められていると受け止める人もいるんだということ…。

今起こっている感情に甘んじていたっていいじゃないですか。

 

ここで言いたいのは、この裁判を話題を通じて、「自分の思う”こうだろう”を、相手に押し付けてることがありますよ」ってこと。

 

親子間でも結構ある事例ですよ。

 

 

過去に、「頑張れ」をとりあげたエントリーはこちら

「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

今ある状態を認めてあげる

 


目と目がつながる

2010-08-07 23:25:55 | 親子コミュニケーション・Light
今週の木曜日、小学校で「オセロ・将棋大会」というPTA行事があった。
私はPTA役員の中でもイベント担当なので中心でお手伝い…といっても昨年までの状況がわからないので、先輩の言うとおりにあれやこれや。
事前に細かく教えてもらってるはずなのに、あれが抜けこれが忘れで右往左往。
でもなんとか無事終了しました。

この大会の開会式で校長先生に一言挨拶をお願いする。
夏休み気分もあるだろうし、これから始まる楽しいイベントに子どもらはかなり落ち着きがない。
進行の私はとりあえず大きな声で(できるだけゆっくりと)「こっちに注目してくださーい」と始動口調で呼びかける。
ある程度静かになってこちらを向くが、まだざわついている。
そんな中、校長先生の挨拶の最初の一言が素敵だった。

「はい、まだ先生と目がつながってないお友達がいますよ~」
そう、全員が先生のほうをしっかり見てくれるまで話を始めない。
そしてゆっくりと子どもたちを見回して、目が合っているか確認する。
友達のほうを向いているとおしゃべりをしているが、先生のほうを向きながら横の友達とおしゃべりする器用なことはできないしね。
そうして、皆が先生のほうを向いて落ち着いたら挨拶を始められた。

まぁ、実際は挨拶が始まってから横を向いてしゃべりだす子らもいるんだけど、ちゃんとゆっくり対応したら静かになることはできるんだ。
当たり前のようなことかもしれないけれど、最近の子らの様子を見ていると一瞬だけでも静かになって注目するってのはなかなか難しいことだと思う。

いや、今は大人目線でえらそうなことを言っているが、自分も子どものころは常に落ち着いているなんてできているはずがない。

しかったり、大声で命令するだけがやり方じゃなくて、こちら側からゆったりと相手をする…
そうすれば相手も応えてくれるはずだ。

勉強させていただきました。

わたしの気持ち

2010-06-25 10:08:58 | 親子コミュニケーション・Light

最近増えてるPTAがらみの用事…もうちょっと楽だと甘く見て引き受けてる私でした。
でも、そんな中で、いろんなお母さん方と話をする時間があり、いろんな子育ての様子を聞いて刺激を受けてます。

昨日もある方のお話を聞いてましたが、とてもお子さんといい関係だなと。
いくつかある話の中のひとつです。

最近お子さんの言葉遣いが気になってきたそうです。
一方ではその原因をいろいろ考える気持ちがあり、その辺を私と話していたんですが、もう一方でどう対応しているかという話になりました。

私を含め、多くの方は
「そんな言葉遣いはやめなさい!」
「なんでそんな言い方するの!」
あと関西特有の(ってこともないかもしれんけど)
「どの口がそんな言い方しとんねん!!!」とほっぺたをひねり上げる。
まぁこういう感じで、しかる・責める・しつける…

ところがそのお母さんの言い方は素敵です
「○○くんがそういう言い方すると、おかあさんとっても悲しいなぁ」
「そんな言い方されると、おかあさん怖くて怖くて泣きたなるわぁ」

もちろん、このやり取りだけで成立するのじゃなく、台詞以前に親子のいい関係が出来上がってるのだと思います。
男の子お二人だそうですが、隙を見つけてはくっついてくるそうです。
そのときの状況にもよるでしょうが、それをしっかり受け止めてあげている。
そんなにたいしたことじゃなくても、食事の後ひざに乗っかってきたらそのままひざに乗せたまま一緒にテレビを見る…そういう感じのことの積み重ねで、しっかりと関係が出来上がる。

一緒にお風呂に入ったり、こうしてひざに乗せたりの「からだのふれあい」はとっても大事ですよね。

だから、おかあさんの気持ちの言葉がしっかり伝わる。
相手に「どうしなさい」ではなく、自分のメッセージを伝えること。


普段、なかなかそういうことはできないかもしれませんから、最初は形からでも練習してみることは大事です。
今日行われる、「聞き方・伝え方の学び」ではそういう練習もやっていきます。
今回は無理でも、毎月行いますのでぜひご参加ください。

今日はこのお母さんの気持ちを、参加する皆さんで分かち合いたいなと思ってます。京都支部学習会 


言いたいのか、伝えたいのか

2010-05-14 12:12:57 | 親子コミュニケーション・Light
昨日、娘が体調を崩して学校を休みました。
火曜日に発熱で一度休んで、水曜日は運動会…それは少し回復したんで参加したんですが、結構寒かったりしたんでまた調子を崩したんでしょう。

そのときに私はいなかったんですが、連れ合いが学校を休むかどうかたずねたときに、どちらともつかない態度に次第にイライラしてきたようです。
(まぁ、本人はしんどいんだから頭もそうそう回ってなかったと思います)

連れ合いとしても、欠席ならば学校に連絡をしなければいけないし、自分の仕事に出かける時間もあるので余裕は無かったんでしょう。
「言わずにおれなかった」という表現をしてましたが、少しきつい言い方をしていたようです。

ここでいつも思うのですが、この「言わずにおれない気持ち」にはいくつかの複雑な思いがあるようです。

言いたい事を「言いたい」のならば、相手の状態がどうあれ、こちらの感情のままに(感情を満足させるために)一方的に投げかけることに主題があるのでしょう。
相手が泣こうが困ろうが怒ろうが、私が「言い切る」ことができれば、それでOKのはずです。
乱暴な言い方をすれば、内容が伝わらなくてもいいんです。

しかし、「伝えたい」(聞いて欲しい)のならば話は変わります。
こちらの言い方に、相手の様子を盛り込んで話す必要が出てきます。
こちらが乱暴な態度に出て、相手が心を閉ざせば、いくら丁寧に伝えようとしても、言葉は伝わりません。
「言わずにおれない」というときはおそらく何らかの感情が動いていますから、最初はこちらの「思い」で言葉を発し始めるでしょう。
そこで、そのまま自分の感情を押し付けるのではなく、一度相手が「聞けている」かどうか確認する「一息」が必要になってきます。
そのことを思い出せるかどうか…確かに感情的になっているときは難しいと思います。
だから、自分のためにも「一息」つく。

私は「言いたい」のか「伝えたい」のか。

伝えるということは、双方向のコミュニケーションです。
相手がそこに「居る」ことをしっかり認識して、「寄り添う」気持ちを思い出してください。

でも実際は「伝えたい」のに、相手をどこかに置いといて自分の感情とお付き合いしちゃいがちです。
伝わらなかったことで、余計に困ったり悲しくなったりして、さらに感情がかき混ぜられて「自分でも何がしたいのか分からない」ことになっちゃいませんか?

もちろん、「言わずにおれない気持ち」の中身は複雑で、簡単に分析することは出来ないでしょう。
ましてや感情が燃えたぎってるときにはなおさらですね。

まぁ、分析することはしなくても、一息ついて、声のトーンを落として、ゆっくりと話するようにする…
コミュニケーションって事から行くと、自分のためにも一息つくのは大事ですよ。

授業参観日をめぐる雑感

2010-04-25 03:36:06 | 親子コミュニケーション・Light
金曜日は小学校の授業参観日でした。
午前にはPTAの役員会、午後には学級委員選挙の開票と、お手伝いも盛りだくさんだし、PTA役員になったことで今まではスルーあるいは連れ合いに任せていた学級懇談会にも顔を出してみました。

おかげで、いろんなことを思わせてもらえます。

授業参観をして、上の子の4年生のクラスはずいぶんおとなしくなった印象があります。
まぁ、ちらちらと横や後ろの親を探して見るのは相変わらずですが、そこそこ静かに授業を受けてます。
もう4年生にもなり落ち着いてきていることと、先生がちょっと厳しい感じがあるからかな。

下の子の2年生のクラスは、昨年はまだまだ1年生成り立てで、授業参観にもなれてなく、かなり緊張した感じだったのが、2年生になり学校にもなれ(舐め?)先生が話しているときは前を向くものの、各自で考える時間なるととたんに横や後ろをむいておしゃべり。
まぁ、内容は「自分は分かった。お前は?」ってな感じで授業に関することなんでまぁいいのですが、当然それだけで終わらず「お前のかあちゃん来てるぞ」「あのおっさんは誰?」ってな話題も当然花盛り。
参観日以外はそんな話題もする必要は無いでしょうけどね。

で、私としてはその後の懇談会がなかなか考えさせられるものがありましたね。
一通り先生から報告や方針の説明があったあと、参加した保護者に「おうちでの様子を教えてもらったり、ご質問があれば」と順番に話して行きます。
そのなかで漢字の学習方法について話題になりました。

主旨としては「昨年までと漢字学習のやり方が変わったので、子どもが戸惑っている」というものです。
私としては先生ごとに個性や方針があるだろうし、学習要綱の最低限があればいいんじゃないの?って感じでしたが。
ところが、何人かの方が同じことを話題にされます。

PTA役員会での話題でもあったのですが、この「今までと変わる」ということが気になる人が多いんでしょうね。
まぁ振り返れば私も「今までがんばってきた」ということが変えられると「私のやってきたことって…」とショックを受けたり面白くなかったりします。
で、お母さん方もおそらく「今までと変わると”わたし”が困る」ということがあると思うのですが(当然、子どもの戸惑いもあるでしょうが、子どもが戸惑って親が困るんですね)伝え方が「今までと変えて欲しくない、同じにして欲しい」という”要求”になるものですから、ちょっと緊張した場になってきます。

先生としては「こういう理由でこういう方法を取っています」と説明もあるのですが、「今までと同じに」という大前提が先にあるとその言葉もなかなか届かないようです。
で、一旦先生も要求を受け取るのですが、「私も困っている」と後から順番がくるお母さんも同じ話題になります。

こういう懇談会ですから仕方ないんですが、先生が一人で振り、一人で受ける「1対多」のしかも司会的役割なしですから、上手く回らないんでしょうね。
(私も「でしゃばったらまずい」と隅っこでおとなしくする性質なもんで…)
また、表面上は「学習方法」という手段についてやり取りしていますから、「困ってる」という気持ちを確認して受け取る手順が抜けます。
そうするとその手段という要求が呑まれるまで満足できないんでしょうね。
気持ちを受け取ることが出来れば、手段については「考慮します」でいけるかもしれません。

まぁ、気持ちのところでしっかりと受け止めるコミュニケーションをするには、感情を整理する第三者が間に入るか、あるいはじっくり時間をかけて「気持ちを表明しても大丈夫」という場が熟成されるまでの関係をつくるかでしょうね。
というか、そういうことがとても大切なんだと。

今回の懇談会で、先生の方針として一番に「話の聞ける子になってほしい」ということをあげてくださってました。
もちろん、「学習の基本としてまず話を聞かなければすすまない」ということもあるでしょう。
それもこみで、「話を聞く」ことを大事にしている私としては、当たり前のようなこのこともしっかりと言葉にして下さったことがうれしかったですね。


先生もおかあさんも、「子どもを大事に」ってところで一致はしているはずです。
まだまだ関係が始まって1ヶ月。
双方、「こうあってほしい」という要求は多々あるでしょうが、押し付け合いじゃなく、「じゃあどうしようか」という方向で関係が深まっていけばいいなと思ってます。

PTA役員のほうも、まだあまりでしゃばることは出来ないと思ってますが、今までの流れは受け止めながら、その是非だけにとらわれるんじゃなくて「じゃあどうしようか」という方向に向けていけてる気がしてます。

今年、PTA役員になったという”流れ”は、こういうことの渦中に関わっていく”流れ”なのかな、と少し感じてきました。

明日は日曜礼拝。
今年PTA役員をご一緒させてもらってるお母さんがたと、この日曜礼拝でもすでにご縁があったことが分かりました。
こんなちょっとしたことで、関係が深まった気がするのも面白いことです。

物事にはいろんな側面がある

2010-04-23 00:05:03 | 親子コミュニケーション・Light
今年は雨の日が多いような気がします。
毎週木曜は息子らがお習字を習いに行っているのですが、今日は雨の中歩いて行く事になります。
そんなときの次男(小学校2年生)との会話で、ハッと気付かされたことがあります。

私「また雨やなぁ」
息子「雨やなぁ」
私「雨が多いといややなぁ」
息子「でもみかんの木とかは喜んでるしなぁ」

ひとつの出来事を、どうしても自分中心に考えて、自分の損得・善し悪しで判断してしまいがちです。
でも、あるものには損なことでも、その出来事がないと困る側もあるわけです。

普通に通勤する人は雨じゃないほうがいいんですが、作物を作っている人には雨も必要です。
傘屋さんなんかは雨がないと困りますしね。

さらには、そんな人間の損得を超えた、自然の営みもあります。

息子相手に、折にふれてそういうことを教えてきたつもりです。
そのことが刻み込まれていたのでしょう。
しかし、教えた側はもう損得に取り込まれてしまってます。

今日は息子に教えられました。

抱える 放す

2010-04-15 09:35:01 | 親子コミュニケーション・Light
息子の学校でPTA役員になり、いろいろな作業のお手伝いにいっています。
いやぁ、みなさん大変なお仕事を裏方としてがんばっておられます。

作業をしながら、それぞれの子育ての話が聞けたりします。
同じ年代の子どもを育てる人たちの話が聞けるのはとても楽しいですね。

おそらくPTAの役員をされる方々は、ほとんどはそれまでされていた旧役員さんたちとつながりがあって、誘われたり頼まれたりして活動されていると思います。
つながりがある…結局的に活動される…
そういう人たちは自分の抱えてる疑問や問題を、小出しにしながら放せる。
つながりがあると聞いてくれる人がいるんですよね。

一方で、目の前にある名簿を見ていると小さな学校でも多くの子どもがいる…ということは子育てしてる親がいるんですね。
今日は学級委員選挙の名簿作成でしたが、やはりこのご時世働いている親が多く、学校の役はなるべく当たりたくないという思いがあるようです。
そうやって忙しくされていると、他の親とのつながりも少なくなったりする。
小出しにすれば軽くなる問題も、一人で抱え込むと重くなってくるでしょう。

まだ新米役員なんで、まずは必要な役割をこなすのが前提ですが、カウンセリングを学んで、いろいろと受けることが出来るようになってきた今、この役割を引き受けるという”流れ”に乗って、何か出来ることは無いかなと思ってます。

おりしも、連日のように「虐待」のニュースが飛び込んできます。
ほんとうか嘘か分かりませんが、みな「虐待してはいない」と言います。
そんな気持ちが無くても、虐待と言う行為をしてしまっているのならば…
抱えているものを放すことで、何かが変わってくると思います。

社会問題の解決なんて大それたことは出来ませんが、縁あって出会った目の前のお一人お一人くらいなら、思いを話す…重いを放す…そのお手伝いは出来るかなと。


今日も明日も ありがとう

2010-04-13 03:43:32 | 親子コミュニケーション・Light
バスを降りるとき、子どもが運転手に一言「ありがとう」と言って降りる。
病院などで診察を終えるときに先生に「ありがとうございました」と一言。
何気ない風景だけど、大事なことだと思う。

お客さんと接する仕事をしていると、こちら側が「ありがとうございました」というのは、「利用してくださってありがとう」ということで当たり前かもしれない。
しかしお客さんのほうから「ありがとう」と一言いってもらうとき、とてもいい気分になる。

子どもらと食事に行ったときなど、持って来てくれた店員に「ありがとう」と言うようにする。
子どももあたりまえのように「ありがとう」と言うようになる。
こちらから「ありがとうと言いなさい」と押し付けるのじゃなくて、常に言っていれば子どもも自然と言うのが当たり前だと。

普段から言う癖をつけないとなかなか口から飛び出さないが、ちょっと慣れると簡単に言える言葉。
もちろん、感謝の気持ちが加われば一番だが、まずは言ったとき、言われたときの心地よさを味わうことからでも。

ありがとう…

響きも良いとおもいません?

蛇足:タイトルにメロディが浮かんだ方は私と同年代以上かな(笑)

ウグイスの学び

2010-04-11 22:17:15 | 親子コミュニケーション・Light

先日、京都東山の将軍塚というところに車で出かけ、そこの駐車場に車を停めて、少し山の中を歩きました。
その日は天気がよく、山の自然も輝いて見えます。

喧騒からはなれた山の中では、はやくもウグイスの声が聞こえます。
ホーッ ケキョ
ケケキョ

私のイメージしてる「ホーッ ホケキョ」とは少し違います。

まだ子どものウグイスは正式(?)な鳴き方を知りません。
じゃあ自然にどのウグイスも「ホーッ ホケキョ」と鳴くようになるのか。
違いますよね。

親や先輩が「ホーッ ホケキョ」と鳴くのをまねして、いつしか鳴けるようになるそうです。

よく、子どもの言葉遣いなどを心配されている親御さんの話を聞きます。
そういう子どもたちは誰に習ったのか…
もちろん、テレビや友達の影響もあるでしょう。
しかし、一番身近な手本は他にあります。

親が使わない言葉遣いを、子どもに強要しても出来ないですよね。
気になったなら、まずわが身を振り返る。
そして、見本を示してあげられればいいですよね。


そのペースに寄り添う

2010-04-08 14:41:26 | 親子コミュニケーション・Light
先日ポカポカ陽気の日、車で信号待ちしてるときに見た風景。

ようやく自由に歩くことが出来るようになったかな、ってくらいの子どもが親とお散歩。
おそらくおねえちゃんかなって子は5mほど前を歩いてる。

その子は歩道の縁(車道からは離れてる花壇の縁)の上を歩くのが楽しそう。
ほんの少しの高さだけど、その子にはひざよりちょっと高いくらい。
一生懸命上っては歩いてる。

前ではおねえちゃんが「まだかな」って感じで振りかえって待ってる。
お母さんは急がすでもなく、少し後ろから見守って。

その子のペースに合わせて、待つおねえちゃん、寄り添うおかあさん。
ただそれだけの風景。
それが素敵だと感じた日。

その後、花壇のチューリップに気がついて駆け寄る子…

そこで信号が変わって、私は離れていった。

その子が目に留まらなければ、そのチューリップにも気付かず終わってたろうな…