コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

コトバヲツグムモノ

2022-09-29 00:01:24 | 真宗カウンセリング
ネット上の友人たちから訃報の話題が届く
渦中の方とはいろいろ関わりはあるのだが、直接的な情報は届かない
杞憂であってほしいが、断片的な情報を懸案すると...心がざわつく


私にとって大きなきっかけを与えてくださったおひとり
仏教面でも、カウンセリング面でも、まぎれもない師である
さらにはそういうご縁から仲人をお願いした方でもある


物腰優しく、多くの方にとって「受け止めてくださる」存在であった
その一方で、私を信頼してくださり、師の赤裸々な悩みを聞かせてもらう関係でもあった


しかし、とある事件に巻き込まれたことで、師にも迷惑をかけることになった
本来なら、私が一番相談させていただく存在だったのに、トラブル当事者との関係性や、私が相談を受ける立場だったことから、「心配をかけたくない」という遠慮が勝り、師に対しても口を閉ざすことになってしまった
いや、口だけでなく、心を閉ざしてしまった


遠慮なくご相談させていただいたら、むしろ喜んでくださっただろうことは今ならわかる
しかし、師の体調や心身面を勝手に「慮った」まま、数年が過ぎていた


「私が相談を受ける立場を継続できていたら、心身を健やかにお過ごしいただけたんじゃないだろうか」
後悔は後悔を呼び、思いは師との関係を壊す元凶となった事件の当事者に向いてしまう


「守秘義務」の十字架を背負わされた鍵のかかった心は、唯一の開く機会をなくしてしまった気がする




仏教、心理の二つの柱を通じ、私を慕ってくれた若者と、私を導いてくださった師との別れ


一番近くにいたのを知っている人は多くいるはずなのに、一番遠ざけられてしまっている


数年間の隔たりはもう戻らない




もし、仏教面、心理カウンセリング面で、いろんな当事者と全く縁のない方で、その双方のマインドを持った方と出会えたら、唯一「心を開く」ことができるのかもしれない
それまでは「コトバヲツグムモノ」であり続けるのだろう


過去ログ見てみたら、ブログタイトルを変えたのが2016年年末


「フライングでリフレッシュ」

もう5年以上、昇華できないものを抱えたまま、さらなる重荷を抱えてしまいました


先生ごめんなさい
先生ありがとうございました



心を開く…?

2018-06-15 01:50:01 | 真宗カウンセリング

前々回触れた

「心を開ける場」を誤解

ということについて少し言葉にしてみたい

カウンセリングを学んでいて重要な要素のひとつに「心を開ける場・時間の提供」ということがある
受容、共感、純粋性などを学び、実践していくことで相手の方が「そのままのわたし」で居てもらえるように努力する
まぁ、努力しているうちはテクニックに固執して不自然なんだけど、相手の方を尊重するに越したことはない

なので、そういう学びの方が集まる場では、1対1のカウンセリングでなくても、その場にいる人を尊重しようと努めてくださる

が、こういう言葉を投げかけられる
「心を開いて話せる場を用意しましたので…」
グループの問題解決を図るミーティングなので、解答が求められる
そのために、心を開いて話し合おうというのだ

「心を開く」前提の場…
これは何かが違う
「私は心を開けているだろうか?」と自問の時間が続く
しかもその時は私が心を閉ざす要因となる人物も同席している
守秘義務などもあり、状況説明もままならない状態
自己一致のところで表明するならば「困ってます」の言葉になる
が、問題解決の場ではそれでは進展しようがない

「心を開く」ことを強要するのはとても危ういことだ

 

別の場面ではこういう言葉を投げかける方もいた

「私がこんなに心を開いているのに、どうして応えてくれないのですか」
まぁ、簡単に答を言うと、
「あなたが開いていると満足しているだけで、私が心を開ける状況を提供してくださってませんよ」
もちろん、言葉にはせず、ただ黙るしかなかったですけどね


相手の方が「心を開ける場」だと感じてもらうにはこちらも「心を開く」のは大事
が、そういたからといって「心を開く」かどうかは相手の方の自由だし、尊重すべきこと
もちろん強要することじゃない


カウンセリング、傾聴の学びを、テクニックが身についてことでマインドを見失う方が多いのは残念なことだ

まぁ、そこは皆が通る道ではあるけどね

 


守秘ということについて

2017-05-01 21:53:12 | 真宗カウンセリング

前回、身体の不調について少し言葉にできた。

このブログタイトルにしたテーマ、噤(つぐ)んでいたものが少し紡(つむ)げた感じだ。

で、なぜ口を噤(つぐ)んでいたのか…
ちょっと言葉にしてみたくなった。

カウンセリングに関わりだして大事にしていることのひとつ、それは相手の「秘密を守る」ということ。
当たり前のことでもあり、意識し続けなければならないこと。
「守秘義務」と呼ばれるものだ。

学びの当初、カウンセリングの場に関わる当初は、かなり意識的にそのことに向き合った。
おかげで、いつしかそれは自然と身についたものになる。

そうすると、それがカウンセリング的な関わりでなくとも「個人的な話は、第三者には話さない」ということになってくる。

「当たり前」とは言いながら、私の周りにいる、個人のプライベートな悩みなどに向き合う「宗教家」「カウンセラー」の中にこれを守らず「あの人はこれこれこうらしい」なんてことを平気で漏らす人がいる。
なので余計に私は過敏に「口を噤む」人になってしまった。

カウンセリングに関わる人が集まった場で、私の個人的な病気・精神状態を話したことがあるが、別の方から「高橋さん○○なんやって?Aさんが言うてたで」なんて形で耳に入ってきたら、もうAさんには「ここでは自由にお話しください」ということはできなくなる。
(まぁ、もとからそういう人だと知っていたから、ストレス源であるその人と距離をとるために大事な居場所から離れる羽目にbなったのだが)

また、別件でBさんとCさんの相談事に乗っているときに、BさんからCさんの情報を聞く。どこからその情報を聞いたのかというと、二人の共通の友人でもある有名カウンセラーDさんが、CさんがDさんに相談した内容をBさん(当事者でもあるのに)に教えているのだ。

まぁ、この話も先の話も、口づてで聞いた話なので証拠はない。
問題追求しても「言った言わない」の押し問答になるだろう。

なので私のスタンスは「守秘」であり、「口を噤むもの」
噂話は「その人がそう感じているもの」として聞き、真相が知りたければ直接本人の口から聞く。

また、なにか情報が必要ならば、「直接本人の口からきいてください」としか言えない。

 

まぁ、そのことで「受け止める一方」となり、たまってくることでしんどくもなるんだけど、酒の勢いで人の秘密を暴露したり、無責任に放言することになるよりは、一人で抱えるほうがよい。
そのうち、誰もいない丘に登って、穴穂って「王様の耳は…」なんて叫んでるかもしれないが(笑)

と、これだけでも、結構「噤んで」いたものを「紡いで」いるかもしれない。

このまま調子に乗ったら、私が数十年ため込んだ「守秘」が漏れ出すかもしれないので、ちょっと自戒を。

 


「傾聴」について

2012-06-28 00:12:54 | 真宗カウンセリング

最近、いろんな出来事のなかで「傾聴」についていろいろと考える。

その根底にあるのは、隔週で行なっている「新しい傾聴を生み出す会」の活動。
そして、5月から始まった真宗カウンセリング研究会のミニカウンセリング。

これまで、カウンセリングの学びの軸足は真宗カウンセリング研究会で、「傾聴」に関してはとてもベーシックな「傾聴」をすすめてきた。
聴き手の思いは交えず、ひたすら話し手が話したいようにすることを大事にし、こちらから何かを促すことなく、話し手が自分で話す言葉のなかで気付きを得ていく。
いや、言葉にするととても難しくなるのだが。

そこに、「新しい傾聴を生み出す会」ではそのベーシックなものを大事にしながらも、「ケースによっては少し逸脱することもあって良いのでは?」という視点でいろいろと試している。
一例としては、なにか「答え・指針」を欲しがってカウンセリングを受ける方に、なんらかの「お土産」を持って帰ってもらうことは果たしてダメなのだろうか?という感じ。

このことを改めて意識したのは、最近あったやり取りのなかで、「ただ『傾聴』してもらうのではなく、情報交換や聞かせてもらうことを望んでいたかもしれない」といわれた言葉。
私としては、やはりまだベーシックなところを大事にしていて、詮索やアドバイスをすることには抵抗があることに気付いた。
相手の方のことをしっかりわからない状態で、自分の想像の範囲の答えを返すことが適しているのだろうかという疑問。
いや、もしかしたら、ただ単に自信が無いだけなのかもしれない。

そんなときに、ネットで知人が話している言葉に出会った。

「今までも当然みんなには聴いてもらってたはずなんだけど はじめてほんまに聴いてもらえた嬉しさがあって びっくりして 『聴くというのはこういうことなんだ』という衝撃があった」
純聞学 ホームページ

あぁ、こういうことだな、と。
何かを与えることではなくて、聞いてもらうことで「聴いてもらえた」と感じる体験。
いろんな情報を得ることよりも、まず先に「聴いてもらえた」という嬉しさ、そしてそこから始まる、自分自身を聴いていく事であり、そこからの気付き。

答えをもらうんじゃなくて、自分のなかにある答えに至るプロセス。

「傾聴」はテクニックや手法ではなくて、話し手がそう感じられることへのお手伝いなんだなと。

ミニカンで実践していくなかで、いろんな方が質問してくださることもこのあたりが絡んでくる。
そういう場面にご一緒させていただくことで、私も実感的に深めてもらえる。


いまだに、この「傾聴」のことをうまく言葉にして表わせられないでいる。
が、私のなかには確たるものが生まれてきている気もする。

まぁ、「傾聴」出来ていない場面に遭遇することで気付くことは多いんだけれど。

と、ここまで書いてみて、あらためて「傾聴」は「傾聴」として、その上でニーズに応えていくことも模索できればな、と。
「新しい傾聴」そういうものがあるのかないのか(笑)
 

そして、この探求はまだまだ続いていく。


あなたはここにいてもいいんですよ

2012-06-15 01:45:20 | 真宗カウンセリング

前回取り上げた「みんなで発達障害を考える会」のあと、ブログで書いたこと以外にもいろいろと思いがわいていた。

そういうものを抱えながら、火曜日にミニカン研修会に参加したけれど、終わってからサークル囲炉裏の方々と少し話をして、思いを言葉にして見ることができた。
もしかしたら否定的な言葉に取られるかもしれないと心配していたこともあるけれど。

じつは、この日のミニカン実践で、初めてペアを組んだ方に自分でも意外と思うことを話していた。
PTA活動でのことを話したのだが、そこに現れた私の根底にあるもの。
何かを表明しようとするとき、「うまく伝わらなければどうしよう」「否定非難されたらどうしよう」そんなことを次々考えてしまう。
そして「こう言われたらこう返そう」というシミュレーションを何十通りも考えていく。
実際にはほんのひと時で済む関わりの事を長い時間思い描くクセ。
それだけで疲れてしまう…でもやってしまう。
そんなことが浮き彫りにされてきていた。

そのせいか、終わってからのひと時では、そういう壁を取り払って言葉にすることが出来ていた気がする。


「発達障害」をめぐる取り組みで、この「考える会」には多くの方が参加されていた。
その目的であり効果として現れるのは、発達障害のことをよく知らない方、誤解している方に、少しでも正しく認知してもらうことの気がする。
もちろん、私も「よく知っていなかった」ことが浮き彫りにされたのは、前回書いたとおりだ。
また、当事者を家族に持つ方のしんどさを共有する場として、同じ境遇の家族や、そういう家族と向き合ってきた当事者さんとの交流の場というのはとても意味がある。

ただ、私が見受ける範囲では、こういう集まりに参加されている当事者さんは世間の場に出てくることが出来る(出来るようになった)方で、受け入れてもらえる場に出会えた方の気がする。
もちろん、そこまで様々な無理解に対する苦悩があったことだろうし、それは現在もいろんな場所で続いているのだろう。


もう一方で、まだそういう一歩を踏み出せていない当事者の方も一杯居られる。
そういう方が、自分のことを客観的に見つめる「正しい理解の場」も必要だ。
この「考える会」はそういう場になりえる。

しかし、その前段階として、「ゆっくり、ありのままで居られる場」ということに触れて、やっと自分を見つめることが出来るんじゃないだろうか。
それには、大人数で、プログラム的に進められるものではなく、それこそ囲炉裏や縁側のような”なんでもない居場所”ということじゃないだろうか。

非構成エンカウンターグループというのは、その一つの回答だと思う。
言葉で説明するのは難しく、実際に体感してもらうしかないのが難しいのだが。

「ただ何もしない」ということとはまた違う、ファシリテーターという存在によって守られる居場所。


うーん、やはり上手く言葉には出来ない。

そういうものを目指している、一つの集まりが6月の終わりに開かれる。
少人数による 真宗カウンセリングワークショップ。
まだ、参加者の募集をしています。

案内はこちら

 


名乗りを捨てる

2012-05-07 01:13:34 | 真宗カウンセリング

 

GWも終わり、明日からPTA関連が慌しく動き出す。
いろいろするべきことが山積していて、これはこれで気持ちの張り合いがあり、充実感がある。

一方で、今までの関わりとの距離感が変わってきたことはここでも何度か触れているが、中途半端な位置づけが精神的に悪影響を及ぼしていることも感じている。
気持ちの中では方向性は決まっているが、「これこれしようと思う」というだけではどうもダメなようだ。
気持ちの踏ん切りをつけることだけでは、頭では切り替えても、腹底の方のもやもや感は払拭されず、たとえば単純作業時の”妄想”に現れて心悩ます。
(おかげさまで、気になって眠れないという性格ではない)
具体的にその「方向性」を決定付ける儀式が必要なのかもしれない。
そのこともある程度決めてはいるが、まだ実行できていない。

それとは別に、ここ1ヶ月ほど気にしていたことがある。
「カウンセラー」という名乗りについてだ。
私は数年前から「相談」を受けることがあり、話を聞かせてもらうことを大事にしてきた。
「カウンセラー」とはどういう人か…「クライエントが居て、継続的に話しを聞く人」というのがひとつの定義であるので、そういう意味ではカウンセラーとしての活動はしている。
しかし、「カウンセラーの資格」を認定している団体があるが、私はその資格は有してない。
私が所属している「真宗カウンセリング研究会」もその団体に属しているから、団体に所属する「真宗カウンセリング研究会」としてカウンセラーを名乗るには、資格の有無は重要になってくる。
ちゃんと資格を取っている人と同列に「カウンセラー」と名乗るのは、ちょっとおこがましいという気がしてきた。

また逆に、私の周りで資格を有して「カウンセラー」という名乗りの元に活動されている方も多く居られる。
その一部に、「身近な人を苦しめる」ことを平気で行う人も居たりする。
また、カウンセラーとクライエントの関係を超えた、感情の関わりをしてしまったり。
クライエントが心を開けば開くほど、そこに芽生える「依存」には心を配らなければいけない。
それが、逆に依存感情を取り込んでそれを超えた感情になってしまうとそれはカウンセリングではない。
(もっとも、当人はすでにカウンセリングの関係ではなく、ただの恋愛関係になっているんだろうけど)

こうなってくると、資格があるから「カウンセラー」と名乗るのも違うと思えてくる。
私としては、”実”の部分で、相談者に寄り添う聴き手でありたいと思っている。
資格やテクニックで「カウンセラー」であろうとは思わない。

こう考えてくると、「カウンセラー」と名乗ろうとするから、資格のある人におこがましいと感じたり、およそカウンセラーらしからぬ人と同列にされたりするのを困ったりするのだろう。


広く、職業として「聴き手」であるためには、わけの分からない名乗りよりは世間で通用するカテゴリーに属するほうが親切ではある。
が、私は開業しているわけでもなく、人づてで「高橋に話を聞いて欲しい」という方と関わりを持たせてもらっている。
なので、カウンセラーという名乗りにこだわりはない。
もちろん、関わりを持たせていただくのは「カウンセラー」の仕事として、精一杯関わらせていただく。
その”実”さえぶれなければ、名乗りはさほど重要じゃない。

かつて親鸞聖人が、僧籍を捨て「非僧非俗」として立たれた。
そして行なわれた活動は、そんじょそこらの「名乗っているだけの僧侶」には出来ない、本当の伝道活動だった。
名乗りではなく、”実”だ。

私は「カウンセラー」という名乗りを捨てようと思う。
なにか良い言葉があればそれを名乗っても良いが、「愚禿」を超える良い名は思いつかない。
(僧を捨てた親鸞聖人は自らを「愚禿」(愚かなはげ)と名乗られた)

名乗りはなくとも、私にカウンセリングをして欲しい、話を聞いて欲しい、という方が居られれば、”実”のところで、しっかりと関わらせていただきます。

 


真宗カウンセリング創立50周年記念交流会

2011-11-14 07:07:28 | 真宗カウンセリング

今年の大イベント(私的には)が行われた。

ここ数週間のブログにしたい出来事がいくつもあったけど、この準備で(当然他の仕事の合間なので)ゆっくりキーボードを打ち込む暇がなかった。

 

世話役の私としては、当日を無事迎えたことで終わったようなものだったけど…(笑)

しかし、イベントの準備というのは大変である。

もっと大規模のものだったら複数のスタッフで何度もミーティングして行うべしなんだろうけど、今回は大事業の割りに交流会の規模は控えめなんで、事前準備は基本私一人。

資料作成を(じつはこれが一番大変かもしれない)他の方にお願いした以外は、基本的な計画を世話役会でまとめたのと、案内の発送作業、当日の役割分担を相談してまとめたくらい。

でも、ひとりでやらせてもらったことで、自分のスケジュールでことが運べるので、私はそのほうが楽に動ける。

 

で、肝心の交流会の中身は代表やベテランさんにお任せして進行してもらうのだから、当日は楽なもんだ。

(しかも、PTAがらみのどうしてもはずせない野暮用があったので中座する始末)

 

 

特に大々的な記念講演や祝典を開かず、新旧の会員に集まってもらって、真宗カウンセリングとの関わりと思いを話してもらうだけ。

ところがそれが、単なる懐古ではなくて、真宗カウンセリングとの歴史を経た上での「今・ここ・わたし」を言葉にする作業で、まさに真宗カウンセリングのワークと呼べるもの。

故・西光先生の思いが結実しているのを感じる。

 

外に飛び出して、ますます活躍しておられる方も一杯居られる中で、こうやって50年続いてきたことで「ここに在る」ことを節目のイベントで発信することで、「今」を持ち寄って顔を合わせるだけで、つながりが生まれて、深まりが生まれる。

 

私自身、今後どのようになっていくのか分からない。

(自分の軸にあるものも、ちょっとしたきっかけで移り変わっていきますしね)

でも、こうやって”個”が集って、それぞれが経験を経た”今”でつながるの機会は大事にしたいですね。

 

午後にはお二人の方の研究発表があったけど、中座したんで中途半端にしか聞けてない。

レジュメをもらってるのと、音声の記録が手元にあるので、後でじっくりと…。

でも、ライブで聴くのとは違うから残念なことしたなぁ。

 

まぁ、とりあえずひとつ肩の荷が降りたんで、しばらくはのんびりと。

 

 

夜の祝賀会も幹事なんで浴びるほどは飲めなかったけど(いやいや、疲れてて飲めないかと思ったらビールのピッチャーいくつかあいてたから記憶にないところで飲んでるんだろうな)、幹事で座った端っこの席は少し前に活躍してた方たちが集まって談笑。

奥のほうの何十年も関わってこられた方々とは違うけれど、こうした先輩がたのバトンがあって、今があるんだよなぁと。

 

「新旧が交流するだけの質素なイベントで」とはいうが、その交流だけでも時間が足りないと思えるんだから、イベントは質であり、質は人が作るんだなと実感した日だった。

 


秋のカウンセリングシーズン

2011-09-27 18:01:41 | 真宗カウンセリング

先週の水曜日に真宗カウンセリング研究会の月例会、土曜日に「聞き方・伝え方の学び」と、私の中のカウンセリングマインドを刺激する集まりが続きました。

 

こういうときは、個別にどうこうというより、継続的にテーマが連なっていく気がします。

特に今回のように、理論と実践という二つの機会があれば、より深まります。

 

月例会でのロジャース氏の論文輪読では、相手の伝えたい”感情”を、聞き手が深く洞察して、表に表れる事柄だけでなく察知していくことの重要性が説かれていました。

話し合いの中でも、その重要性は十分認識できましたが、聞き手の能力が伴わないと「洞察・察知」が「想像・思い込み」になってしまう危険性を私は感じていました。

 

このことは「聞き方・伝え方の学び」において、初めて参加くださった方への説明の中で私の中に大きな位置を占めていたように思います。

 

その学習会では、3人組での聞き方・伝え方の実践をしますが、初めての方には「聞き方」をまず意識してもらうようにしています。

最初に「うなづき」があるかないかでの違いを、ベテラン参加者に実演してもらうことで観てもらいます。

そして、聞くときに「話し手を尊重する」事の大事さをお話し、実践のルール「あなたの時間です・自由にお話ください・秘密はお守りします」という宣言の意味をお話します。

そこに今回は、話しての話の中に”感情”の言葉が出てきたら積極的に「つぶやく」ことを意識してもらうようにお話しました。

 

初めての方には当然難しい注文なんですが、今回初参加のお二人はともに「話を聞く」立場のお仕事を経験されており、今までの経験と照らし合わせて「簡単じゃないこと」ということに気づかれました。

あたりまえのように「出来ている」つもりで居ることと、「出来ていない」と気づくことには大きな違いがあるように思います。

 

月例会での話題にも上がったのですが、私はこの伝え返しのことも「オウム返し」という言葉で通用するのだと思っていました。

しかし、西光先生がこの言葉を「嫌っておられた」という話を聞かせてもらい、単なる言葉返しの「オウム返し」と、相手の話をしっかり聞き、寄り添っていく態度の「伝え返し」とは違うということを認識しました。

もちろん、今私がやっているのは「伝え返し」なんですが、技術的なことだけじゃなく、そのマインドの部分におごりや不誠実があれば、話にとっては「オウム返し」となんら変わることはなくなるでしょう。

 

形から入ることは重要ですし、出来ないよりは出来る方がいいですから、まずは「言葉を伝え返す」ことを意識してもらい、それが技術ではなく相手の”尊重”ということにつながっていけば、コミュニケーションは深まっていくことだと思います。

 

月例会と学習会の両方に参加された方のお話も通じて、「洞察・察知」と「想像・思い込み」の違いを、初めて参加された方とのお話で「オウム返し」と「伝え返し」の違いを、誰よりもこの私がもう一度学ばせてもらう機会でした。

 

 

 

そして、今晩からは「エンカウンターグループ」10週間が始まります。

毎週、カウンセリングを意識させてもらえる機会があるのはとてもうれしいことですね。

 

この流れは、10月後半の「真宗カウンセリングワークショップ」へと続いていきそうです。

こちらはまだ参加者募集しておりますので、興味のある方はぜひ。

第13回 真宗カウンセリングワークショップ

 


法座でのコミュニケーション

2011-05-07 00:16:11 | 真宗カウンセリング

今回の法座の中で、もうちょっとだけコミュニケーションを意識したらいいのになって思わされることがいくつかあった。

幸い、少人数の座談会であったことと、司会役という立場でもあったので、気になったことを言葉にして伝え、少しだけ進行の整理をさせてもらった。

 

ある方(発言者)が今の気持ちをゆっくりと話されている。

最近あった出来事(震災)に絡んで、その後の心境を話されているのだ。

そのうち、その震災に対して、ある方(Aさん)が反応したネット上の言葉をとりあげ、その発言者が「どうしてそんなことを言ったんだろう」ということを話された。

そして、そのときから続く”感じ”を言葉にしようとされていた。

そのとき、ある方が「きっとAさんはこういうつもりで言ったんですよ」とフォロー(?)を入れる。

また別の方も「そうそう、Aさんがそう言われた事情にはこういうことがあって…」と。

この発言者よりも、周りの方は多少事情を知っているかもしれない。

しかし、今大事にすべきは、この発言者の”今の感じ”であって、Aさんへの誤解を解いたり、Aさんの代弁をすることではない。

(ましてや、この場にAさんは居ないのだ)

 

そのAさんの発言をめぐる話題を通じて、震災と仏法の話が出来ないこともない。

そこから仏法の深い部分に触れていくことも出来るだろう。

しかし、一生懸命”今の感じ”を言葉にしようとする過程だったことを大事にしたかった私は、お二人の発言を止めさせてもらって、発言者の言葉に戻すことをさせてもらった。

 

結果として、このときの短い時間ではこの発言者が劇的に心情を変化させていかれることはなかった。

しかし、ここに居ない方の話題中心に、ワイドショー的に「私は事情を知っている」「私はこう想像する」なんて展開よりは、じっくり向き合ってもらえる時間が持てたのではないかと思ってる。

 

 

また別の場面。

発言者が今の感じを言葉にする過程で「以前はこうでした」ということをいろいろと振り返って折られた。

長く求めてこられた方が、かつてあった心情の変化を吐き出すことで、それらが駄目だったことを確認する作業だ。

そのときある方が横からそっと肩を抱きながら「うん、私もそうだった」と寄り添っていかれた。

不安を持ちながら話する方に、「あなただけじゃない、私もそうだったから大丈夫」という風に、そこに居てあげることは大事なことだと思う。

しかし、そこにもう一言付け加えるものがあった。

「うん、私もそうだった。○○さんはこういう気持ちだったんでしょ」

これは想像であり、自分も似た経験があったからきっと一緒だという決め付けになる。

発言者と、この言葉をかけた方は生きてきた年月も環境も、ましてや聴聞暦はまったく違う。

経験が違うのだ。

 

発言者の言葉を通じて、自分の聴聞を振り返り、「私はこうだった」ということならば問題はない。

また、まったく違う言葉ならば「私は違う」と発言者もはっきり自覚できるだろう。

しかしこの「似たような感情」は一番やっかいで、発言者が思っている感情が、その”似た感情”にすりかえられてしまうおそれがあるのだ。

ここは、じっくりと発言者が自分の言葉にするのを待っていてほしい。

 

自分の経験でもそうだが、自分自身で何とか言葉にしてみても、それを口に出したとたんになんかスッキリせず、また違う言葉を捜す作業を繰り返してだんだんとはっきりしたものになっていく事が何度もあった。

そこに他人の言葉が入ると、自分の中からおぼろげに出てきている感じが外の言葉に固定されそうになる。

 

コミュニケーションの手段の中には、聞き手が流れの中で言葉を駆使して、発言者が言葉にするのを補助・援助するものもある。

しかし、それは発言者がとことん「言葉にする作業」をした上のことで、時間がないからとか、待ってられないからという聞き手の事情で行われるものではない。

 

 

発言をさえぎった方には申し訳ないが、私はこの”待つ”というスタンスを大事にしていきたい。

なので、じっくり関われる極少人数の座談が最近は一番心地よいのだが、そうとも言ってられない事情もあるので、少し悩みどころだ。


テレビで見たカウンセラーの話題

2011-04-23 00:00:30 | 真宗カウンセリング

 

先日、ふっとテレビを見ていたら、夕方に放映している関西ローカルの情報番組が目に留まった。

あるカウンセラーを取り上げると言うので、興味深く拝見した。

 

そのカウンセラーさんは自らカウンセラー活動をしながら、大学で学生に指導もしているようだ。

その、学生さんに向けての言葉がなかなか深く、勉強させられた。

 

「聞いてあげるではなく、聞かせていただく」

「相手の話に”だって”だとか”でも”だとか挟まない」

 

そのほかにもいろいろあったが(すぐにブログに書き留めればよかったんだけど)パーソン・センタード・アプローチや傾聴のことを、自然な言葉で伝えておられる感じだ。

 

不登校の子を持つ親御さんたちに、定期的に集まりを持って接したりもされている。

アドバイスをするよりも、その苦しみを聞かせてもらうことに重きを置かれている。

 

このコーナーは、東北の震災に対して、カウンセリングが必要なことを訴えるためにこの先生の活動にスポットをあてていた。

 

復興という言葉の元に、心のケアまで急いで効率的にしようとする動きが、行政や教育の立場の視点だが、本当に必要なことはとても非効率的で時間のかかる、こういう「とことん聞いて吐き出してもらう」ステップなんだと思う。

 

ただ、1つだけこの番組の取り上げ方で気に入らない部分がある。

この先生は、ガンで余命2ヶ月と診断されているそうだ。

本人がそのことを看板にしているのならば、番組に非はないと思うが、話題を盛り上げるためにそういう看板をくっつけたのだとしたらちょっと寂しい。

 

この先生は「命ある限りカウンセラー活動を続ける」とおっしゃっていた。

それは、今この瞬間の、カウンセラーであることに命をかけているということで、余命が2ヶ月だからその2ヶ月すべてを賭けるということとは少し違うはずだ。

余命2ヶ月と言う状況でなくとも、命ある限り活動を続ける覚悟を持っておられると思うのだ。

だから「余命2ヶ月のカウンセラー」ってタイトルは無粋。

 

余命を知らないだけで、だれしもいつ死期が訪れるか分からない。

(本当に余命2ヶ月が保障されるのならばこんなありがたいことはない)

 

好きな番組の好きな方が担当されたコーナーだけにちょっと残念。

(でも、石田さんの視点は大好きなんでこれからも応援しますよ)

 

お知らせ

今までの「親子コミュニケーションの心がけ」をインデックス作りました。

左側のリンクからご覧ください。