コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリング・ワークショップ

2009-10-29 23:48:34 | 真宗カウンセリング
さて、週末はいよいよ「真宗カウンセリング・ワークショップ in 福岡」ですね。
世話役を3人にして、多くの参加を…と意気込みましたが、やや少な目の定員割れ。
しかし、面白いもんで、多ければ多いなりの、少なければ少ないなりの、「いま・ここ・わたし」が集まった関わりになれるというのがね。

私はすでに知っている方ばかりの参加なので、最初から気兼ねなく入っていけそうです。


最近…いや、ここ数年ずっと、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」と、それぞれだったり組み合わさったりしながら、いろんな関わりを持ってます。
私自身は”ひとつ”なんだけれど、外からの関わり方によって私の中の”現れ方”が違ってたりします。
でも、それは側面が違うってだけで、本質はおなじ”わたし”だってことがますますハッキリしてきます。

よく、「法座は厳しい」「ワークショップはゆったり」というイメージの方が居られますが、確かに進行の仕方はそういう面があるかもしれません。
法要や法話があって、限られた時間に多くの方と関わる「法座」
二日間など、いくつもセッションのある「ワークショップ」

「法座」は毎回顔ぶれが変わって、前回の時間からつながってる話題になっても数名は流れがわからず、そこにも気持ちが取られる。
その分、時には有無も言わさず、「無常」を突きつけられることもある。
限られた時間に”要”を聞いてもらわないと、次の時間にはリセットされることもあるから。

「ワークショップ」は、その時間に大きな変化が無くとも、ゆっくりゆっくり居所を確認しながら、気付きを待つ。
ただ、わずかの変化でも”成長”として受け入れられる。

と、こういうイメージが多いようだけど、じつはこれは全然本質じゃない。
むしろこういうイメージに捉われて参加していては、自分の尺度で聞いたり成長したりする、自己満足で終わってしまう。
どちらが”自分向き”だと選り好みしている時点で、肝心の”法”が疎かかになってしまう。

法を前面に出すことで、仏願に出会うその人を尊重するか、その人を尊重して、そこにかかる願いに気付いていってもらうか。
主役はお一人お一人。
目的は仏願に出会うこと。

そこに”法”があり、そこに”機”があることになんの違いもない。


などということを、最近やっと「この身」に現れる”相”を通して味わえるようになってきました。
そうです、二つを分けて理解に勤め、それをひとつにしようと躍起になっていたのは何を隠そうこの私自身なんです。


と、そんな思いを抱きながら、福岡へ向かいます。

興味をもたれた方、ぜひ次回はご一緒しましょう。
年末までに来年度の計画を立てますので、ご要望があればぜひ。

京都では、毎月小さな集まりは行っています。

味わい と 根拠

2009-10-27 00:32:37 | 真宗
先日あった集まりで「還生回向」についての話題になった。
私なりの思いが湧いて話していたのだが、いろいろと面白い気付きになった。

ひとつはその”姿”というか、私にとっての現れ方として。

こういう仏教においての大事な話題というのは、個人的な思いで語るのはとても危険で、やはり「お聖経のどこそこに書かれている」という根拠を示して、その前後の流れも踏まえて「こう説かれている」ということを違えず示す必要がある。
しかし、その手順からそれないようにすればするほど、そこに示される”お心”よりも、正しく理解しているかどうかに重点を置いてしまう。
言葉のうえで矛盾しているような話になってしまうと不安にもなるし、比較のレベルで「どちらが正しい?」というところに捉われてしまう。

実は私は、そういう「お聖経に照らして」というのがとても苦手で、お味わいを大事にしてしまう傾向がある。
言葉の表面に現れていることよりも、そこから伝わってくる感覚を大事にしてしまうというか…
私の中ではそれでOKなんだけど、それを人様に伝えようとするとなかなか難しい。
ひとつは私の味わいを上手く言葉にしきれないということ。
たとえば「あったかい感じ」というものが在ったとして、その”あたたかさ”は「暖かい」であったり「温かい」であったり「あたたかい」であったり…私自身がつかみきれないものを、言葉にするのはとても難しい作業だ。
さらには、仮にぴったりの表現ができたとしても、それを受け取る人がどのような「あたたかい」で受け取るのかわからない。

あとは、相手の方を信じて、できる範囲で丁寧に表現する…
いや、人間同士の時点でそこのは限界がある。

かといって、黙ってしまうのではもったいない。
葛藤をしながら、動いていくしかない。



で、今回の「還相回向」についてだが、同じこの言葉をめぐって、二つの話を聞かれた方が少し混乱されて聞いてこられた
○私の知人に法を伝えたいと思うが、そういう心がおこるのを「還相回向」というのか
○私が食べる食べ物になって命を与える仏様の働きを「還相回向」というのか

残念ながら、これらのお話をされた先生方の根拠とされているものがぱっと浮かんでこない私だったりする。
しかし、この二つの話から湧き上がる「味わい」はある。

他人に法を伝えたいと思う心が起こったとしても、今の私には「欲」の心が混じっており、仏様と同じ心だとはとても言えない。
言い変えると、「あの人のご縁になった」というわたしが嬉しいのであって、その方に法が届いたことを喜んでいるのではない(もちろん、純粋にそういう思いで利他行に励んでおられる方もいるかもしれない)
しかし、この私がしっかり法を聞かせていただくことで、今の関係ではかなわなかったとしても、私が浄土に生まれさせていただいたあとで、その方がどの世界に迷っておられようと、そこに参ってお伝えする事が出来る。
その人ではなく、まず私の聞きようが問題になってくる。

一方で、その人に法を聞いて欲しいという純粋な願い…それは仏様にしかできない願い。
その願いのためには命も投げ出す。
食べ物となって施してくださるわけです。
それもほんの一回の自己満足で終わるなら意味が無い。
この私が法に出会うまで、無限とも思われる回数命を投げ出す。
それは無量寿だからできる所業ですね。

そう考えると、ほんの少し”仏心”を起こして利他行をしているつもりになっても、とてもとても…限りある行いでしかない。

でも、そんな真似事を通して”仏願”を味あわさせてもらう。
そこにはお聖経に書かれていることで理解できるようなスケール感のものじゃありません。

入り口としてお聖経などの言葉にうたれ、善智識の姿にうたれ、一心に向かっていく…
でも、それにうたれたこの私が”何を味わうか”が問われてくる。
知識を重ねるのでも、理解を深めるのでもない。


とても上手く言葉に出来ない味わいではありますが、”一味”といわれてうなづくしかないほどの、深いものがある。
それにただ頼ったり、安心したりするものじゃないが、言葉を超えたつながりがあることの心強さはある。

日曜礼拝 10月

2009-10-25 23:25:31 | 真宗

 

今日は日曜礼拝。
私の子どもは長男がインフルエンザ(もう熱は下がってるけど)の予後のためお休み。
少な目の子どもと、昨日別のところであった法座の流れもあるのか、今日の法話担当のTさん人気で大人が多目。

ご法話は「迷い」についてのお話から。
子どもらにとっては「迷子-不安」というところで、大人には「行き先がわからない-不安」というところで、自分は大丈夫と思っているけど「ほんとう?」というところを刺激してもらったんじゃないだろうか。
(もちろん、それ以前に大丈夫と思えていない人はそこのところを)

その後、子どもたちと分かれて大人の分級へ。
T先生もご一緒に座談会。
ありがたい時間でした。
そこで感じたあたりを…

迷いの話から、自分では行き先がわからないという流れがあり、「じゃあ頼りになるものは」と話が進んでいった。
そこで私の中にあふれてきた言葉があり、それを口にしてみた。

「こう聞いたらなにかがわかるんじゃないだろうか」「ああ聞いたら心境が変わるんじゃないだろうか」ということばかり追い求めてしまうのが私の姿。
知識を総動員して、感情を探りまわって、あてになるものを探し回る。
しかし、こんな私の中から出てくるものは、なんら頼りにならない。
そこに「どうかまかせておくれ」と「頼っておくれ」と用意されているものがある。
そこになんの躊躇が必要だろうか。

そこまで聞かされてもなかなか「南無阿弥陀仏」と称える事が出来ない。
「称えても何も起こらなければ…」「こんな心のままで称えてもいいものか…」
そんな気持ちがどんどん湧き上がってくる。

自分の身に起こることや、心に起こることなど「頼りにならない」と聞いているのに。

そう、私が聞かせてもらっているのは「南無阿弥陀仏」の功徳。
私のこの身、この頭、この心になんの力も無い。
力は「南無阿弥陀仏」に収められている。
私のこの身、この頭、この心になんの価値も無い。
価値は「南無阿弥陀仏」に収められている。

だから、こんな私の口から飛び出す「南無阿弥陀仏」が心強いし、力強いし、頼りになる。

こういう風に文字として書いてみると、法のことばかりでこの”機”は放っといていいように見えるかもしれないが、一つ大きな役割がある。
それはこの”機”をお目当てとして”法”が出来上がっているということ。
あてにも頼りにもならないこの身だが、それでもここに”在る”ということが、仏様が仏願を立てずに居れなかった根本原因。


心はふらふら、頭もあーだこーだ…そんな素性は変えようとしても変わらない。
しかし、そんな身からもお念仏は飛び出してくる。

唯、わが名を称えよ

我が身のありように見切りをつけて(だって変わらないんだもん)、呼び声に応える。
自力は捨てるものではない、他力の前に役にたたないと聞かされる。
捨てた覚えは無いが、役にたたないものならば片隅に残っていても用事はない。

最近ネットで見た書き込みと、今日のご縁とで、「お念仏を称える」ということの意味がとても深まりました。
皆様のおかげですね。

南無阿弥陀仏


真カ研 月例会 10月

2009-10-22 22:56:17 | 真宗カウンセリング

今月もテキストであるロジャース氏の論文「十分に機能している人間」を。

今回は小見出しも「十分に機能している人間」ということなので、この論文の中核に位置するのかもしれない。

内容的には、これまでの話を要約し、さらに次につながる部分。
様々な仮説に対して、証明していく作業があとに続くんだろう。

参加者の間で話題として盛り上がる部分が数箇所あったけど、私が印象的なのは、「セラピスト」と「診断家」にわけて、そこに起こっている出来事に対する評価が矛盾している例を挙げている場面。

ここでいう「診断家」は、ロールシャッハやTAT診断によってクライエントの状態を量る人のことで、その評価が時には適切なセラピィによる変化に対して、認知されなかったり逆の評価をされる事があるというもの。

で、私自身心理学を専攻したわけではないので、こういう診断方法は門外漢であるが、雑学的に知っている範囲でいくと「統計学的に、多数のデーターから適切と思われるカテゴリーに当てはめていく」というタイプだと認識している。

とすると、たとえば1000例中999例があてはまる評価があったとして、1例だけでも規格外のものがあったりする。
つまり、「他と比べてどう?」という相対的な評価方法をされるんだろうけど、この論文でロジャース氏が話してる「十分に機能している」というのは、「自分自身であるということ」であって、たとえ周りの評価がどうあれ、自分自身が「どのような選択もできる」ということ。

と、ロジャース氏の言葉を追っかけていくととてもややこしい表現になるが、それはできるだけ細かく伝えようとされているからだろう。

なので、私なりの解釈で行くと…
(つまりぜんぜんアカデミックでない”感想”)

自分自身に起こってくる出来事に対して、「いやだな」という感情があっても「あぁ、嫌だと思っている私なんだ」と受け止める事が出来るし、その「いやだ」という感覚が世間では「そんな風に思ってはいけません」というものであっても、「思ってしまっている」事を否定せず、その時点での自分を”大事”にできる。
そのうえで、「こう思わないほうがいいかな」という気持ちが出てきたならば、それはそれでその感情を尊重できるし、それまでの感情にこだわらない。

これは、世間的には「節操が無い」とか「優柔不断だ」などというレッテルを貼られるのかもしれないけど、そういう評価に縛られること無く「そのときの自分自身」でいる事が出来る。

うん、今の私には無理です。
周りの評価を常に気にしているし、自分自身に「どのようになってもいい」という自信が無い。
逆に周りの評価に合わせて、自分自身を隠して、無理に納得させている。

「十分に機能していない人間」あるいは「不十分に機能している人間」って事。

いや、これでも以前よりは結構自分自身にOKを出すようにはなっているんですが…


ただ、この論文の今回の部分で
「セラピィの仮説上の終結点を私なりに定義してみたが、ここでは、実際のクライエントはそこに接近するけど決して完全に到達することのできない極限として記述したのである」
とある。
理想ではあるけれど到達できない極みの境地。

うーん、やっぱり仮説上のものでしかないのか…
でも、限りなく接近できるものでもあるという。


この論文の仮説を論証する場面がこのあと続くので、来月以降もじっくり触れ合っていけば”接近”できるかもしれない。


寄り添うということ

2009-10-19 23:25:49 | 日常雑感

私が好きなあるアーチストが自死したというニュースを見ました。
原因のひとつに、「うつ」だったという事が報道されています。

どのような症状だったのか、死を選ぶほどだったのかどうかは私には計り知れません。
ただ、私は個人的に「自死」は駄目だと思っています。

「死にたいほど辛い」ということはあるでしょうし、周りの誰もそのことを本当に理解できないでしょうし、孤独なんだと思います。
でも、自分が「生きている」ことの裏にはどれだけの”おかげ”があるのか…そのことを思うと、やはり自分で命を絶つという行為は認められません。

そのことでもいろいろ書けるのですが、今回はこの話題をめぐってある方の言葉がネットのニュースに載っていたので、それを取り上げます。

その方は自死したアーチストの友人ということですが、以前に「うつ」であることを打ち明けられていたようです。
そのとき、その方がかけた言葉は
「気にするなよ、また飲みにでも行こう」
というものだったそうです。

友達思いのはげまし言葉ですね。
しかし、「気にするなよ」っていうのは辛い言葉だと思います。
指示的な言葉になってるんじゃないでしょうか。
気にしたくてしているわけじゃない…だれも好きでうつの症状になっているわけじゃありません。

もちろん、声をかける方は本当に心配になって親身になっているんだと思います。

「うつで辛いんだ」
というメッセージを受け止めたならば、どうしろこうしろではなく、
「そうか、うつで辛いんだね」
と、そのまま返すだけで十分だと思います。


鼓舞し励ましてあげることは、一見相手のためになっているようですが、そうとは限らないということ…
そういうこともあるってことを、知っているのと知らないとでは大きく違いがあるでしょうね。

寄り添うということはどういうことか…
いろんな場面につながることだと思います。


京都支部学習会 10月

2009-10-18 23:47:31 | 「聞き方・伝え方」学習会

 

学習会と銘打って始めての第2回。
前回は9月の初めでしたからちょっと間があいた間隔です。

今回は10名の参加、遠く福井から参加してくださった方も居られました。

前回のことをブログにしたものを読み返してみましたが、その後のいろんなワークや法座、出会いを通じて、私の中にもいろいろ変化が起こっているようです。
そういうことを場に打ち出してみて、またそのことからフィードバックしてくることを私の中に取り込んでいく…こういう風に動いてみてこそですね。

今回もお礼のあと2分間の黙想。
自己紹介を兼ねて、「今の感じ」を。
でもあまりこだわらず、「今、言葉にしたい日ごろの想い」もOKということで。
一見同じことのようですが、「今」ということにこだわるといろいろ意識されることもありますので、今回は「ゆるやかに」を私の中のひとつのテーマとして、提案の仕方を工夫してみます。

「聞き手・話し手」に別れての実践の前に、少し「聞く」についての味わいを話させていただきました。
ちょうど先日読んだ新聞の話題を切り抜いており、それを読ませていただきます。
ある方が「傾聴ボランティア」をされて感じておられることの話題です。
相手の方の言葉に、励ましや叱咤をするのではなく、ただただその言葉を受け止めていく…
すごく具体的な話題として、これからの実践に関わる話になったと思います。
(ネット上に話題が載っていれば紹介できるのですが)

そのあと先月と同じように3人組になってミニカウンセリングの実践。
1セッション10分を提示しましたが、「長い気がする」のご指摘で5分に。
そしてじっくりと分かち合いに時間をとりました。
(ここが先月の反省ですね)

何人かの方が体験的なところで話をしてくださったのと、逆に具体的な疑問を話してくださったので、そこにお応えさせてもらうことで、この集まりに対する私の気持ちが明確になってきました。

そこでは二つの事を話していました。

ひとつは、実践は1対1だけれど、そういう場面をうまくこなすのがゴールじゃなくて、法座での多くの人との関わりの中で、その時点の「話し手」の方を大事にすることを学んでいきましょうということ。
この学習会のきっかけは「グループ(支部)でもうちょっと上手く分かり合えたら」という思いから始まったものがあります。
そのために、その時点の「話し手」の方を大事にしてあげられれば。
まずは”形”からになっちゃいますが、そこを意識する事が出来れば、「同じ考えじゃない人」も「初めて会った人」も、大事に話を聞くことから始める事が出来ます。

また一番曲者なのが「ほとんど同じ考え」の人との関わり。
心境が近いと「わかるわかる」となって、自分の思いとその人の思いを混同させます。
大まかには同じかもしれませんが、決して同じと言うことはありません。
でも、その少しの違いを誤魔化しにかかってしまうと、本当のその人の気持ちとはかけ離れていきます。
だから、自分の思い…「そうそう」も「違う違う」も横において、まずはその方の言いたいこと・思っておられることを”そのまま”聞かせてもらう。
このことを知っておくのは大事なことだと思っています。

もうひとつは「真宗カウンセリング」に関しての思い。
進行上、どうしても「カウンセリング」の言葉を使いますので、逆に「今生事」「後生事」をわけて考えなければと思ってしまう方が居られます。
かくいう私がずっとそうでしたから。

そこでカウンセリングの基本は「Person-Centered Approach」であり、そこにいる”人”を大事にしていくこと。
それが、法座での関わりであれば、放っておいてもお互いが「仏願」に照らされた同士の関わりになる…今生事の話をしていても、そこにほとけさまに照らされた私が語る今生事ですから。
だから「Dharma-based Person-centered Approach」(仏法を根底にした人間尊重のアプローチ)という「真宗カウンセリング」を先生方が立ち上げてくださり、あたりまえのように法座で仏法の話を”関わりながら”すすめているんですね。
無理やり、「カウンセリングの勉強は仏法の話をしたら駄目」なんて決めることは無いですし、勝手に「仏法に触れている私」が出てきますしね。

私自身がこのことを言葉に出来たことで、この集まりを継続していくエネルギーがあふれてきましたし、どういう形であれやっていけるなという芯が生まれてきました。

参加の皆様に感謝です。

来月は11月7日土曜日に行います。

京都支部学習会11月の案内

 

 

 


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 43

2009-10-12 00:50:15 | 親子コミュニケーション

 

このテーマは久しぶりです。

今日、保育園の運動会を観に行ってきました。
うちの子は春に卒園しましたが、いっしょにすごいした役員さんたちが多く残ってるのと、先生方の顔もみたかったし。
息子の同級生も多く観に来ていて、楽しんでたようです。

そんな中でのひとこま。

先生方は、グラウンド内で出番のときはとてもにこやかですが、準備の場所では結構大変な様子です。
ベテランの先生だと、その辺はもう余裕でしょうが、若い先生はかなりてんぱった様子。
まぁ仕方ないですね。
そういう中で、中堅の先生方(私自身4人通わせましたから、中堅といっても新人の頃から知ってたりします)が、すっかり逞しくなって…

ある先生が、かけっこの前に子どもらを整列させていました。
並んだ子どもに一言
「こけてもいいしな!」
にっこり笑いながらのこの一言、私は素敵だと思いました。

「がんばってはしる」とか「上手にやる」とかいうことを求めてしまいがちですが、それでなくても緊張してる子どもにプレッシャーですもんね。

もちろん、鼓舞して「がんばれ」っていうのもアリだとは思います。
でも「こけてもいい」っていうのは、とてもほほえましかったんです。

どのようなことでも「それでもいいんだよ」と受け止めてあげる。
大事なことだと思います。

そういう言葉をかけてあげられるくらいに、ちょっと余裕の出てきた先生…ベテラン先生から受け継いだものでしょうし、次の若い世代に引き継いでくれるでしょう。

私の子どもらは、この先生方に育ててもらって良かったと思ってます。

  42-追い込む言葉
  41-会話と言語発達
  40-31~39のまとめ
  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ

  番外編

 


ミニカン継続学習会 10月

2009-10-10 00:32:45 | ミニカウンセリング

 

木曜日はミニカン継続学習会でした。

毎週連続のエンカウンターグループが始まっているのですが、私は今回は不参加。
こちらの学習会がとても楽しみでした。

今回の参加は4名、世話人二人を加えて3組です。

お二人の方と実践をしたのですが、カウンセラー役のときは二人二様ではありますが、ともに興味のある話題。
以前はこういうときにカウンセラーに徹して、話題内容関係なしに聞くのか、あるいは興味のあるところで共感して聞いていくのか、ちょっと迷った事があります。
結果、そのときの気分はいろいろあるので、そこに捉われず自然のままでいること…がいまのところ出来ることかなと。
ということで、興味に引きずられながらも、ゆっくり聞かせていただきました。

仏法に関わる話になると、どうしても言いたい気持ちが出てきます。
特に自分の領解と違う話だったりすると、「それでいいのかな」と。
しかし、こういうカウンセリングの実習という気持ちから入っているときは、そういうときにちょっと”待つ”気持ちが生まれます。

もしかしたら、私が話したいことを伝える時があって、それは今じゃないかもしれない。
その方とのご縁が整ったときに、その機会は訪れるだろうし、なによりその方は今大きな気付きと大きな翻りの時を迎えられている。
私があれこれ話すよりも、その方の中でしっかりと動いているものがある。

その時点では”待つ”ということしかありませんでしたが、今はそういうことだったのかなと思っています。

クライエントとして話をさせていただいたのは、今思っていることだったのですが、話しているうちに前回書いた「徳 と 名利心」のことにつながっていきます。
このブログに書ききれていなかったことまで思いが深まっていきました。
人に話してみてこそですね。
その内容も書きたかったのですが、今日はミニカンの話題で終わらせますのでまた機会があれば。

話したあとの振り返りで、カウンセラー役の方から思わぬ言葉をいただきました。
その言葉はわたしは使っていなかったのですが、カウンセラーさんが感じられたことを言葉にしてくださったもの。
その言葉がすごくわたしにはストーンと納まり、「そういう私の状態があるんだ」と気付きます。

いろんな話題を、あちこち行きつ戻りつしながら、最後はお念仏を喜んでいるところに話がつながったのですが、「安定されているんですね」と。
私としては、あっちふらふら、こっちふらふら、揺れに揺れまくっているんですが、それは「南無阿弥陀仏」がどっしりと底にあって、その上でふらふらしてることを許してもらってるんですね。
そんな自分の状態を、この言葉で返してもらえたのはすごく嬉しいことです。

そんな気持ちを持っていたので、もうお一人の方との実践でも変化がありました。
今まで「この話題はずっと触れずにおこう」としていたものに、少し手をかけて言葉にしてみました。
「安定している」と言われたことに、ちょっと頼ってみた感があります。
そのことで問題が改善されたり、一歩踏み込んだりするというものではないのですが、そのことをめぐる様々な思いを、とりあえずは言語化して見る事が出来た…まぁ、私なりの一歩ともいえますか。

そのことがどう動くかは別問題として、そういう私がその時にいたという事実だけです。

先月の円座禅から、いろんな集いや法座を通ってきた”歴史”を抱えた今の私。

あえて言葉にすると、”そのままのわたし”でいられた時間でしたかね。

大事な時間でした。


東京支部法座 ~徳 と 名利心~

2009-10-07 23:46:15 | 真宗

前回話題にした東京支部法座の二日目午前に行った輪読を通じて感じたこと。

ご法話は2009年3号の華光誌誌上法話「全徳施名のこころ」

そのお味わいはそれぞれだと思うので、その中身は皆様ご自身で読んでいただくとして、その”徳”というところをめぐっての思い。

じつは私はよく「徳のある顔をされているねぇ」などとほめてもらう。
今回もある同人がにこやかに私の顔を覗き込んで「ほとけさんみたい」と言ってくださる。
まぁ、まんざらでもない。
というのはウソで、そういう言葉によって心のうちがざわついてくる。

この誌上法話で語られる”徳”というのは、仏様の慈悲であり、それを南無阿弥陀仏にこめてすべて下さるというもの。
とてもとても私が備えられるものじゃない。

そんな私が「徳のある顔」といわれている表情の正体は何か。
それは「良く見られたい」という欲による作り物だ。
「がんばっている」
「尽くしている」
「えらいなぁ」
こう言ってもらうのが大好きなくせに、さらにそれを「いえいえそんなこと無いですよ」と謙遜してさらに重ねて「良い人」ぶる。

五欲の中の「名利欲」そのもの。

ではやめれば良い。
という訳に行かない。

ある意味においては、私自身は「欲のため」動いていることでも、その現れることは誰かのためになっていることもある(と思う)
私もうれしい、相手もうれしい…であるならば、そういうのも捨てたもんじゃない。

と、ここに大きな落とし穴がある。

誰かのためになっていようとも、そこに「欲の心」が混じるのならば、それは罪悪である。
いくら善行として収めようとも、そこにわずかでも「欲」があるのならば「雑毒の善」でしかない。
ほんの一滴でも毒が混ざれば、その水は飲めないのだ。
結果、それは地獄一定のため作りにしかならない。

私の損得は、どこまで行ってもその「欲」から離れることは無い。
まったくもって救いようの無い話(文字通りね)

そんな私に「徳」などあろうはずが無い。

では、私からにじみ出るものがあるとすれば…
それは「全徳」が施された「名」すなわち「南無阿弥陀仏」を称えさせていただくことで、それをおすそ分けしていくことだ。
私がいただいた「南無阿弥陀仏」は無量の命の賜物。
だから、私が周りの人にどれだけおすそ分けしようが、私のものはなくなりはしない。
そうやって、先達から受け継いできたものが私に届き、私から同行へ。
その同行におすそ分けする行為が、同時に私自身がもう一度聞かせてもらうことになる。
つまり…
やっぱり私一人のための南無阿弥陀仏。

と、そんなことを一人で留めずに、こうやってブログで外に出していくことこそ「名利の欲」だったりする。
どこまで行っても…

「悲しきかな愚禿鸞、
 愛欲の広海に沈没し、
 名利の大山に迷惑して、
 定聚の数に入ることを喜ばず、
 真証の証に近づくことを快しまざることを。
 恥づべし、
 傷むべし。」
          『教行信証』親鸞聖人

うーん、私の場合は恥じたり傷んだりすることも「おぉいいところに気が付いてるな」とまたまた「名利の心」で受けてしまう。
底なしやねぇ


東京公開法座・支部法座

2009-10-06 01:57:52 | 真宗
二日間の東京公開講演会・支部法座にお参りして来ました。
公開講演会は今年で3年目ですが、私は初回と今回の2回参加。
いずれもお手伝いとして狩りだされているのですが、そういう役割でもないとなかなか時間とお金をかけて東京までおまいりしようと思いません。
京都にいると法座のご縁が一杯ありますしね。

でも、そういう京都の法座にはあちらこちらからお参りに来られます。
うーん、本当に頭が下がります。

一方で、東京まで馳せ参じて聞かせてもらうと、それはそれは大きな意味があります。
出会うって言うのは、出かけていって会うことですから、この身体を持ち出していくことで…ね。


公開講演会を開催することの意味、お聞かせいただいた講演・法話の中身についていろいろ書きたい事が出てきます。
支部法座のほうでも、輪読形式やご法話、また座談のことでも多くの気付きがあります。
どこから書こうか迷うほどですね。

まだ疲れも残ってたりするので、今日は軽め(?)の話題から。


二日目の午前は、華光誌を使っての輪読形式で「誌上法話」を読んでいくのですが、すでに法話として話されたことを読んでいくので、もう一度ご法話を聞かせていただくのと同じことですね。

そのときに気になる事がありました。
人によってはかなり読み間違いが多かったりします。
まぁ読めない仏法用語や漢字などは仕方ないことです。
年配の方だったり、目が見づらく読みづらいなどのこともあるでしょうから、そういう物理的な事情も仕方ないでしょう。
(ありがたくなって声が詰まって読めなくなるというのは別ですしね)

じゃあ何が気になるのか。

これは私自身もそうなんですが、口に出している部分よりも先に目が違うところを追って行ったりしてるんですね。
先に目が追って「こう書いてある」と頭に叩き込んで口に指令を出して声にしている。
この「こう書いてある」が曲者で、ときに間違ったままそれを気にせずに…いや、間違っていることを知らずに声にしている。

もうこうなると文字を追っているだけで、そこに書かれていることの意味がなくなっている…

これって、輪読だけのことじゃなくて、聴聞なんかにも当てはまるんじゃないでしょうかね。
頭のほうで「こういうことを言われているんだろう」と決め込んで聞いてませんかね。

先生を通して届けられる「仏願」を、「そのまま」聞くことが聴聞なのに、覚えたり理解したりすることに気持ちが行って、その言葉すら「そのまま」聞いていない。

文字という形で、そこに”在る”お話でさえ、そのまま読まずに自分の思い込みで読んでしまうんですから。

まぁ、輪読会という形なんで、順番に読み進んでいかないといけないプレッシャーなんかもあるかもしれません。
上手に読まなくちゃっていう”欲”もあるでしょう。

でも作品を読んでいくことを目指してるんじゃなくて「法座」のご縁として、文字になっている仏願に触れさせていただくのですから、立ち止まったり味わったりしながらでも、まずはその文字を「そのまま」にしっかりいただくことを大事にしてもいいんじゃないかと思います。


また、そういう風にしか読んでない・聞いていない”わたし”だということを見つめなおしてみることもいいんじゃないでしょうかね。