カウンセリングの研修会に参加しだしてから、ミニカンやエンカウンターグループの研修会を何度か体験して来ましたが、この1年は月例会の参加だけに終わっています。
それまでは自らが体感し、出会って、気付く過程から、ロジャースさんの論文を通してその意味を裏付けていく過程に移っていました。
その一方で、実際の聞き方がどうなのかをチェックする機会がなくなっていました。
それまでの体験で身についた部分は、普段のさまざまなコミュニケーションで活きてきてはいるのですが、やはりチェックは必要です。
具体的には、ミニカンの15分ほど決められた時間を「聞くことを意識する」という訓練されていたものが、少し雑になっている自分を発見しましたね。
幸い、これまで経験させてもらっていたものがあるので、「できていない」自分に気付くことができたし、すぐに「自分の気持ちは置いておいて、聞く」ということを意識しだしていました。
しかし、かつてはその「徹する」ということを過大視していた自分に、「自分の心に起こっている動きを一旦受け止める」事の大事さも加わり、
聞く
触発されて起こってくる心の動きを受け止める
それを表に出すかどうかを考える
留めておいて、相手の方の気付きに任せる
ということを意識していました。
実際はそうスムーズにはいかず、留めておいたものに意識が引きずられたり、表に出したい自分に任せて口に出していたりもしました。
やはりそこには操作的、支持的なものが混ざりますから…
でも、そうやって動いてみて、そういう操作・支持をしていたということが気付けます。
勉強であり、体験ですね。
それがあらわれた場面があります。
聞き手がじっくり待って、話し手が自分から気付いて言葉に出していくことができたという場面。
一段落ついた後に、他の参加者が「上手に引き出しておられました」ということをおっしゃった。
わたしは「引き出したのとは少し違って、ひたすら待っていることで、自ら気付いていかれた」と言っていたんですね。
これって、このわたしの行為が、その「上手に引き出しておられました」といわれた方が自分で気付いていくのを待たずに、教えようとしている姿ですね。
恥ずかしい話です。
しかし、そのことがより深く「成長を待つ」ということの意味をわたしに刻んでくれました。
理屈の理解ではなく、体験的に受け止めたんですね。
それは、単に「待っている」という形や手段ではなく、そのことで話し手のなかに起こってくる動きを大事にしていくことだし、そういう自らの気付きがどれだけ大きな意味を持つか…
さんざん、ミニカウンセリングで私自身が体感させてもらったことなんですけどね。
しかし、今まで2時間くらいの研修でしていたことを、二日間、計5回のワークで気持ちを集中させるのはとてもエネルギーの要ることでした。
べつに、集中しなければならないと追い込んだつもりはないのですが…
今回はそうやって力をいれて参加する”時”だったんでしょう。
疲れはあっても、とてもいい時間だったんですから。
これから、ちょっと違ったかたちで、カウンセリングを、法座を見直していく作業が待っている気がします。
まずは、10月の法座担当の準備に現れてきそうですね。