コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真宗カウンセリングワークショップ その2

2008-09-30 00:28:59 | コミュニケーションワーク
今回のワークショップで感じたこと、体感したことをもう少し言葉にして見ます。

カウンセリングの研修会に参加しだしてから、ミニカンやエンカウンターグループの研修会を何度か体験して来ましたが、この1年は月例会の参加だけに終わっています。

それまでは自らが体感し、出会って、気付く過程から、ロジャースさんの論文を通してその意味を裏付けていく過程に移っていました。
その一方で、実際の聞き方がどうなのかをチェックする機会がなくなっていました。

それまでの体験で身についた部分は、普段のさまざまなコミュニケーションで活きてきてはいるのですが、やはりチェックは必要です。

具体的には、ミニカンの15分ほど決められた時間を「聞くことを意識する」という訓練されていたものが、少し雑になっている自分を発見しましたね。
幸い、これまで経験させてもらっていたものがあるので、「できていない」自分に気付くことができたし、すぐに「自分の気持ちは置いておいて、聞く」ということを意識しだしていました。

しかし、かつてはその「徹する」ということを過大視していた自分に、「自分の心に起こっている動きを一旦受け止める」事の大事さも加わり、

聞く
触発されて起こってくる心の動きを受け止める
それを表に出すかどうかを考える
留めておいて、相手の方の気付きに任せる

ということを意識していました。

実際はそうスムーズにはいかず、留めておいたものに意識が引きずられたり、表に出したい自分に任せて口に出していたりもしました。

やはりそこには操作的、支持的なものが混ざりますから…

でも、そうやって動いてみて、そういう操作・支持をしていたということが気付けます。
勉強であり、体験ですね。

それがあらわれた場面があります。
聞き手がじっくり待って、話し手が自分から気付いて言葉に出していくことができたという場面。
一段落ついた後に、他の参加者が「上手に引き出しておられました」ということをおっしゃった。
わたしは「引き出したのとは少し違って、ひたすら待っていることで、自ら気付いていかれた」と言っていたんですね。
これって、このわたしの行為が、その「上手に引き出しておられました」といわれた方が自分で気付いていくのを待たずに、教えようとしている姿ですね。
恥ずかしい話です。

しかし、そのことがより深く「成長を待つ」ということの意味をわたしに刻んでくれました。
理屈の理解ではなく、体験的に受け止めたんですね。

それは、単に「待っている」という形や手段ではなく、そのことで話し手のなかに起こってくる動きを大事にしていくことだし、そういう自らの気付きがどれだけ大きな意味を持つか…
さんざん、ミニカウンセリングで私自身が体感させてもらったことなんですけどね。

しかし、今まで2時間くらいの研修でしていたことを、二日間、計5回のワークで気持ちを集中させるのはとてもエネルギーの要ることでした。
べつに、集中しなければならないと追い込んだつもりはないのですが…
今回はそうやって力をいれて参加する”時”だったんでしょう。
疲れはあっても、とてもいい時間だったんですから。

これから、ちょっと違ったかたちで、カウンセリングを、法座を見直していく作業が待っている気がします。

まずは、10月の法座担当の準備に現れてきそうですね。

真宗カウンセリングワークショップ

2008-09-29 00:23:15 | コミュニケーションワーク
昨日・今日と真宗カウンセリングワークショップでした。
とても濃密な二日間。

世話役ということで、準備の時点からいろいろと動く心境があったんですが、今はそういうことを追っかける感じの気持ちじゃないですね。
もちろん、それも貴重な流れなんで一度押さえておきたいとは思っています。

でもそれよりも、”今の感じ”を、ぶれる前に言葉にしておきたいなと思っています。
内容の流れや具体的なこと抜きの”感じ”なんで、人には伝わらないと思いますが、それよりも自分のために出しておこうという。

”熟成されていく”という言葉がまずあります。
カウンセリングを通じて、出来上がっていく”関係”ということをいろいろ考えているのは私にとって大いなる学びです。
そこを順番につづると長くなるので今は割愛。

この二日間で感じたのは、「ここは何を言ってもいいし、自由に振舞っていい、そして守られた場であり時間です」ということ。
それを今までの研修会などでは、時間が限られ短いことでもあるので、「そういうルール」として決めていた感じがあります。
もちろん、今回も主旨の中のひとつとして、また大事なこととしてこのルールは明示されています。

でも、そういうこちらで決める・意識するということではなく、二日間ワークを進めていくことで、参加者の居場所が自然に「わきあがってくることをそのまま言葉にしていける」という空気・関係になっていったのを感じるし、関わり方はいろいろあれど「あなたを大事にする」「わたしを大事にする」ということが、知識や理解ではなく、深まっていく感じがありました。

わたしなど、ついつい自分が経験させていただいたことを「説明」することもあったのですが、そういうことなしでも、目の前で繰り広げられる”関わり”に自分も一緒に居て、体感として「気付き」「成長」していく姿を浴びています。

そこに法のお勧めが加わる場面もあるのですが、導いたり、引き出したりするのではなく、すべて自身の内側から「気付かせてもらっている言葉」としてあふれ出してくる、またそれをゆっくり待っている空気が尊かったです。

理屈や頭の理解のところでは、二日間じっくり時間があるからとか、この顔ぶれだからとかいう「条件がそろった」ということも出てくるのですが、それは条件ではなく、「それが今、ここのすべて」ということも言える気がします。

また改めて、振り返りながら大事なことを押さえたり、次のステップにしていったりということもすると思いますが、今は自分のうちにともされた灯をそーっと抱えていたいし、照らされる大きな光にも手を合わせていたい…。

いや、まったくもって言葉にすると独りよがりですね。

心にはいっぱいエネルギーをいただきましたが、身体のエネルギーは絞りつくしました。

ご一緒させていただいたみなさま、そしてM先生に感謝です。
そして南無阿弥陀仏

念仏することがご報謝…

輪読会法座

2008-09-24 01:30:21 | 真宗
今日は華光の「輪読会法座」
月に一度、華光誌の誌上法話などをテキストに行われている法座だが、平日の昼間に行われることが多く、なかなか参加できない。
しかし、今月は祝日だったのでおまいりすることができた。

「誓願不思議」というご法話を輪読したのだが、今月はその途中から。

阿弥陀仏の用意した「誓願」は、この私の「後生の一大事」にむけて、足りることなく満たされたものが用意されている。
私のほうで、思いや考えを及ぼす余地がない…それが不・思議、思議できようがない。
という話である。

そのことを元に、参加者で味わいを述べたりしていくのだが、余計な思い(計らい)が必要ないといわれているのに、それを分からないとか、分かろうとするとか、自分のありようを問題にしだす。

「聞につきる」と先生がおしゃった上で、「自他力廃立」の話をされているのに、そのまま聞かずに心の動きを待ったり、追ったりしてしまう。

「南無」と弥陀のほうから頼んでいるのに、「南無」となれないわが身を探る。


元々、この私が仏法を聞こうとするのは、この苦しみ、迷いの世界からなんとか逃れたくて、その手段を求める…あるいは、いずれ落ちるであろう地獄というところが、なぜかしら怖くてなんとかそうならないでおきたいともがく、そういう思いがあるはずだ。
そこに、迷いから離れる術、地獄行きの身であっても大丈夫な術があるぞと。
もうそのための(思惟も)願も行も終えて、その結実として南無阿弥陀仏を用意してあるぞと。
自分では何もできないことを知り尽くした上で、これを受け取っておくれよと。
自分の求めていたものが一番簡単な状態で用意されているというのに…
なにを値踏みする必要があるのだろうか。

そういう、謗って謗って迷い続けている姿だということも、微にいり細にいり教えてもらっている。
もう頭を下げるしかないんですけどね。

もう、こんなあてにできない自分自身に見切りをつけて、「南無」の声にこたえるしかないんですが。
まだそこで「南無にこたえたらいいんですね」と自分のありようを見てしまう。
こたえるしかないと聞いたなら、うんもすんもなく「南無」と頼むしかない。
その頼む先が、願も行も具足し、機も法も一体となった「南無阿弥陀仏」

しかし、そういう苦しんでいる人の姿を通してでしか、私自身が何を聞かせてもらっているかを見つめなおすことができないんですねぇ…。
ほんと、たか上がりして、何人もの人を踏みつけているのが私です。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 28

2008-09-22 16:03:18 | 親子コミュニケーション

母親が子どもを殺害するという事件がニュースで騒がれています。
ここには「また」という言葉をつけたくなります。

今回は、一旦「子どもを狙った悪質な犯罪」という、周りの人にも恐怖を与える情況が先にありましたから、特にニュースで取り上げられたように思います。
実際、次の日には別のところで女の子が被害にあっているニュース飛び込んできました。

しかし、今朝になって「母親が殺害を自供」というニュースとなってひとつの結末を迎えました。

ネットでこのニュースを話題にして、多くの方のコメントが書き込まれるところがあるのですが、昼の時点で2000以上のコメントがついていました。
その全部を詳しく読んだわけではないのですが、その多くは「ひどい母親」という論調でした。

確かに、子どもを殺害するという行為に対しては、認めがたい行為だと思います。
しかし、そうまでせざるを得なかった、その方の”しんどさ”を無視したくありません。

誰かわからない人が子どもを殺し、まだその辺をうろうろしているかもしれない…とても恐ろしいことです。
このニュースは遠いところの話かもしれないが、今のご時世、近所にもそんな不審者が居るかもしれない…これも恐ろしいことです。
しかし、犯人が母親だと分かると、「あぁ、自分は絶対にこの母親のようなことはしない」と他人事にしてしまいます。

他にも、「虐待死」というニュースは、それこそ珍しくないくらいに目に付きますし、もう20にも30にもなる人が親を殺したり、親に殺されたりするニュースも目にします

「あの親は特別だ」…もちろん、自分がそんなことをするとは思いたくないですし、違うと思いたいですよ。

でも、まだ行動にはしてはいなくとも、心の中で子どもや家族を「いなければいいのに」と思ったことはないでしょうか。

別に、犯罪心理学を勉強したわけではないのですが、”殺す”とまでの行動をするときは何かしら「貯めきれない思い」があるんだと思います。
最初のちょっとした衝動で行為に及ぶのではなく、我慢して我慢して我慢し切れなかったときに自制を飛び出してしまう思いがある。

きっとみんないろいろ我慢していると思います。
それを周りに聞いている人が居たり、小出しにできたり、そうやって貯めることが避けられれば、大きな衝動には至らないんじゃないでしょうか。

それは子育てに苦しんでいる親も同じです。
逆に、子どももそうなんだと思います。

苦しんでいる親が、言いたいことを言える場を作りたいと思います。
また、子どもの話を少しでも聞いてあげる親になるためにどうしたらいいか考える場を作りたいと思います。

私自身、いついかなる振る舞いをするかわからない。
そのことを自覚し自省し、「そんなことはない」と決め付けない。
そんなことを、一人で考えるとつらいので、多くの人と分かち合っていければいいなと思います。

自分を大切にする…
大切にして欲しいという自分を見つめる…
そうすれば、相手も大切にして欲しいと思っていることにきっと気付けます。

ちょっと未消化でまとまりませんが、一度言葉にしてみて、私自身もう一度考えてみたいと思っています。


親子コミュニケーション 27 「話し手・聞き手のルール」
親子コミュニケーション 26 「葛藤ということ」
親子コミュニケーション 25 「成長を信じる関係」
親子コミュニケーション 24 「Keep On Smilin' 笑おうや」
親子コミュニケーション 23 「子どもの話したいこと」
親子コミュニケーション 22 「聞いてもらえる体制作り」
親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


真カ研月例会 9月

2008-09-18 16:47:16 | 真宗カウンセリング
真宗カウンセリング研究会の月例会でした。

7月は欠席、8月は月例会がお休みで、3ヶ月ぶりです。

相変わらず、家の事情などで開始時間には間に合わず、30分超遅れての参加です。

今回はロジャース氏の論文から「肯定的配慮」と「配慮の無条件性」という項目を輪読しての勉強会でした。

論文自体は「カウンセラーとクライアント」の関係についての記述なのですが、
「ひとりの人間として尊重する」
「どんな気持ちであろうと喜んで受け入れる」
「あるがまま」
というようなキーワードを聞くにつれ、弥陀の慈悲心に思いが寄っていきました。

こちらがどのような思いを持っていようとそれを否定せず、肯定的に受け止める。
そこにはなんら条件はなく、「もし…ならば」というものは一切介在しない。

普段の人間関係においてはとても難しいことですし、この「無条件で受け入れる」ということは私の心の動きからは想像できません。
常に「こうあってほしい」と「現実はこうだ」との差に苦しみ、葛藤しているのですから。
でも、それを「どんなお前であろうと、今すぐに飛び込んで来い」という弥陀の慈悲心を聞かせてもらっている身なれば、「無条件で肯定する」という温かみはわかります。
慈悲の場合は「配慮」という言葉はそぐわないですけどね。

では、無条件での「肯定的配慮」はできないのだろうか。
現実的に私を見てみると常にそうあるのは無理ですね。
家族との関係でも明らかに「こうあってほしい」という期待と評価から離れませんから。
しかし、そういう「配慮ができていない」ということをまず自覚すること、そして「肯定的配慮」を目指すものとして意識していくことはできます。

おそらく、「肯定的配慮をしなくちゃ」と力を入れ続けている間は、相手の話を聞くことからすら意識が離れているでしょうし、受容や共感から程遠い状態でしょうね。
むしろ、相手との関係が「あぁ、いい感じだ」と思えるときに、ほんの一瞬でも「無条件の肯定」ができているときなんだと思います。

あと、この「肯定的」という部分を、相手との関係ではなく自分自身の心の動きにも当てはめてみました。
いやぁ、肯定してないですねぇ…
「こうあって欲しい」「こうであったら」と常に今の自分に満足できずに、否定や葛藤に埋没しています。

ただ、そういう心の動きしかできない自分なんだということを「受け止める」ことは、カウンセリングを通じて成長させてもらえた部分でしょうか。

究極の「関係」作りを、阿弥陀仏を通して感じさせてもらえる…ただのカウンセリングではなく、真宗を心の中に内包した「真宗カウンセリング」ならではのものだと思いますし、故西光先生の提示してくださったもの、松岡先生の体感させてくださっているものがここにあるなと。

月例会の後、今月末のワークショップの打ち合わせをしました。
以前に広島や東京で行われたワークの話や、今後の話などを先生としている中で、いろいろと流れにのって動いていきたい気持ちが明確化されていきます。

まずは、今月末のワークですね。
楽しみです。

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 27

2008-09-15 01:47:26 | 親子コミュニケーション

先日、小学校の授業参観に行ってきました。

2年生の息子の授業を先に見に行ったのですが、国語の授業なのか各自が調べたことを班ごとに発表するということをしてました。

全部で8つある班を2つづつ向いあわせに座らせます。
4つの島ができますね。
それぞれで、一人づつ順番に発表していきます。
一人の発表が終われば、相手の班に質問があるか確認し、質疑が終われば次の人に移っていくと言うことのようです。

まだ小学校の低学年ですから、必ずしも理路整然と進んではいきません。
しかし、発表者はしっかりと発表し、聞き手はしっかりと耳を傾ける。
質問者は手を上げ、発表者に指名されてから話し始める。
しっかりとルール付けされていましたし、それを守っていました。

黒板には
「聞く人は相手の目を見て聞く」
「わかったときはうなづいて聞く」
などと、15項目くらい注意書きが貼ってありました。
(全部ひかえるか写真撮っとけばよかったですね)

コミュニケーションの大事な部分を、しっかりと教えてくれているんですね。
特に聞き手にとって、「最後まで聞いてから、発言する」ってことはとても重要なことでありながら、普段私たちができていないことですよね。
ついつい話し終わる前に、こちらの興味の部分を挟み込んでしまう。
発言者の権利を横取りしてしまうんですね。

で、ふと考えたんですが、私の子どものころ、こういう風に教えてもらってたんでしょうかね?
もし教えてもらっていても、すっかり忘れてしまっていますし、私はカウンセリングを学びだしたからその重要性がわかるようになっているだけで、そうでなければこういう教え方をしていることに興味を持たなかったでしょうね。

 発言者を尊重して、ひたすら聞く
 ”うなづき”や”つぶやき”で、同調する
 発言が終わってから、こちらの思ったことを伝える

まさしくミニカウンセリングで実践していることですね。

参観した親御さんたちが、どう感じたか、ぜひ聞いてみたいですし、こういうことを意識することの大事さを一緒に学んでいきたいですね。

親子コミュニケーション 26 「葛藤」ということ」
親子コミュニケーション 25 「成長を信じる関係」
親子コミュニケーション 24 「Keep On Smilin' 笑おうや」
親子コミュニケーション 23 「子どもの話したいこと」
親子コミュニケーション 22 「聞いてもらえる体制作り」
親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 26

2008-09-11 11:38:32 | 親子コミュニケーション

前回の「親子コミュ」にコメントをいただきました。
反応があるとうれしいですね。

>親子コミュニケーションシリーズを読んでいると、できてないことばかりで、
>頭が痛い!です。

このことは、実際に出会う方からもよく聞きます。
「できていない」っていうのは、やっぱり気になりますよね。

一応、「できてないことを責めるんじゃないですよ」とは書いていますが、そうは言っても責められているような気がするようですし、他でもない自分で自分を責めちゃいますからね。

で、「葛藤」ということを考えて見ます。
辞書によると
「心の中に相反する動機・欲求・感情などが存在し、そのいずれをとるか迷うこと。」(大辞泉)
となっています。

私がミニカンの研修会に参加したときに、ある先生からこういう風に教えてもらいました。

「こうなりたい」という理想の自分があって、「そうでない」という現実の自分があるときに、その差が葛藤となって苦しむ。
ほとんどの場合、理想の方を「正しい」として、現実を「駄目」と決めつける。
だから、今の自分を受け入れられず、理想ばっかり求めてしまう。

理想は理想として持つことは大事だと思います。
でも、今までの自分を振り返ってみてください。
ひとつ目標に達したとして、それで満足できているでしょうか。
スポーツなどの目標がハッキリ数字で現れるものでさえ、ひとつの目標に達したらもう次の目標を追い求めてしまいませんか?
私から見たら成功者で大金持ちの人でさえ、「もっともっと」の心が常にあって、満ち足りては居ないそうです。

この「親子コミュ」シリーズでも、「こうあったらいいですね」というものを書いていますが、それは「そうではない今の自分」ということをまず知ってもらうためのもので、それを責めるもんじゃありません。

「できていないこと」を知らないことには、始まりませんもんね。
それを知るってことが、かなり大きな一歩だと思います。

葛藤はとても苦しいことです。
まずは「現実の自分」を見つめた上で、そんな自分を優しく受け止めてあげることをしませんか。
「いまはこういう私なんだ」と。

そして、できることがあればそこからやってみる。
なにも、一回で上手くいくはずないですから。

今回いただいたコメントに書かれていた言葉です。

>「言ってごらん。待ってあげるから。」

素敵な言葉ですね。
これを自分自身にも言ってあげれると思います。

親子コミュニケーション 25 「成長を信じる関係」
親子コミュニケーション 24 「Keep On Smilin' 笑おうや」
親子コミュニケーション 23 「子どもの話したいこと」
親子コミュニケーション 22 「聞いてもらえる体制作り」
親子コミュニケーション 21 「私メッセージ」
親子コミュニケーション 20 「11~19のまとめ」
親子コミュニケーション 10 「1~9のまとめ」

 


知己 (自己を知る)

2008-09-10 01:58:39 | 真宗カウンセリング

ここでも何度かお知らせした、今月後半にある真宗カウンセリングワークショップ(定員で締め切り済)だが、先日電話で参加を受けさせていただいた方から参加動機を記したメールをいただいた。

二人の方の言葉があったのだが、お一人は
「自分の思いばかりを押し付ける傾向を感じているので、じっくりと話を聞けるようになりたい」
もうお一人は
「自分の思いを伝えきれずに、思いに蓋をしてしまうことが多い」
と。

これって、どちらも自分に思い当たる節があります。
そういえば、私も最初の一歩は、「今の自分はこうなんだ」と自分を見つめる事から始まった気がします。

「あぁ、思いを押し付けて、相手の話を聞いていない」
「あぁ、聞こうと意識しすぎて、自分の思いを殺してしまう」
などといったりきたり。
でも、それまではその瞬間瞬間の自分の様子などほったらかしに「小手先のテクニック」に走っていたものを、「今はこういう自分なんだ」と振り返ることができるようになってきました。
これはミニカンで「振り返り」の時間を持って、自分を見つめる訓練をさせてもらってからですね。

同時に、仏教的な内省も、それまでの頭の理解や、物真似の状態から、少しずつでも本当の内省になってきたような気がします。

1泊2日という時間を通して、できればゆっくりと、そこに居る皆さんと一緒に自分というものを味わってみたいなと、楽しみが膨らんできています。


9月の日曜礼拝

2008-09-08 02:11:05 | 真宗

今日は日曜礼拝。
結構大人数の子どもたちと、初めて法話担当するTさん目当てか、いつも以上の多くの大人のお参りでにぎわった。
もっとも、数の多少が大事なんじゃないけれど、多くの人が同じところで同じお話を聞いているってのは、そのことからも味わうことがあったりする。

緊張しながらも初法話を担当したTさんのお話は、その言葉は使わなくとも無常・罪悪・因果の道理・本願のお心とフルコース。
私自身も経験しているが、じっくり練ってきたものを理路整然と話するのは難しく、結局最後は「私が聞かせていただいているもの」がそのまま飛び出してくる。
上手になどと計らう言葉よりよっぽど真実味がある。
ただ、私の子どもにどう聞こえていたかは、またじっくりと聞いてみたいところでもある。

そんな盛りだくさんのご法話だったけど、印象深かったのは2点。
今日のお話の主題であろう、「死んでいく」ということ。
数字を元にお話されるけど、この世界中で1分に二人死んでいるという事実。

そして最後に絞り出されるように伝えられた「どうか聞いてください」というお心。
T先生のお心であり、その身体を借りて飛び出してくる阿弥陀仏のお心。


そして、そういうご法話に会わせていただく私はどうかというと…
これが「自分が死んでいく」というところを実感できない私だとどんどん浮き彫りにされてくる。
1年に6千万人死んでいくと知らされても「そのうち何割かはあの国の戦争で、何割は貧困国の餓死で、身近な病気や事故で死ぬのはどのくらいだ?」などと自分抜きの話にしてしまう。

よく「無常をとりつめる」とか「罪悪をとりつめる」とか聞かせていただくけど、そうできない自分というのがますます浮かび上がってくる。
もちろん同時に、そういうやつこそが他力のお目当てなんだと聞かせていただくのでもある。
「無常・罪悪をとりつめさせられる」というのがすっきりくるか。
だからこそ、自分の「とりつまる・とりつまらん」などという思いとは別で、事実を事実として突きつけられ、「だからこそ聞いておくれよ」の声に頭が下がる。

一方で聴聞を難しくされている方々は、自分でなんとか「とりつまる」身になろうとがんばられる。
「自分が死んでいく」と実感できるようにがんばる、あるいは実感できないことを嘆く。
「変わらない自分」ということを理解できる身に「変わろう」とされる。

そんなことを、後の座談も含めて聞かせていただいた。

あともうひとつ、ご法話の中で「なむあみだぶつ」と黒板に書かれた。
お話も後半で、小さい子どもらは少々疲れ気味で気持ちもよそに移りかけていたが、そういう風に黒板に書かれたら、それが小さい声であっても「なむあみだぶつ」と声にして読んでいた。
それはすごく簡単なこと。
意味や仕組みは分からなくても「なむあみだぶつ」と教えられて、そのままその口から飛び出すままに称える「なむあみだぶつ」
そこに、尊いものを感じた。
まずは、称えるが先。
「呼んでおくれよ」の声に応えるだけ。

それがもの足りるとか、もの足らんとか、大人の方がややこしいね。


会合のことと、法座のことと、つれづれに…

2008-09-07 00:14:10 | コミュニケーションワーク

今までも何度か話題にしたが、町内の役員でいろいろな会合に参加している。
今日は自主防災の集まりで「煙探知機」の設置義務に対する、地域一括購入の説明会。

で、こういう会合でいつも思うのだが、みな人の話を聞かない…聞かなすぎる。
音として聞いているいないで言えば聞いているんだろう。
しかし、自分の都合のいい聞き方をするし、なにか質問しようと思っている人はそのことに心が捉われているから、すでに説明されていることでも「自分の質問したい言葉で」一度外に出さないと回答に興味を示さない。

そんなやり取りを聞いているうちに、「この人は質問の答えがほしいのか、それとも不信感を吐き出したいのか」疑問に思えてくる。
おそらく後者なんだろう。
もっとも本人は質問しているつもりだろう。
しかし、吐き出したいんだから、どんな答えが返ってきても満足できない。

そこで、私のやり取りも含めて、私の周りのコミュニケーションに意識のある人がどういう風にしているのかを思い返してみた。

今日の会合では、質問に対して主催者側が一生懸命回答しようとしていた。
それはしごくまっとうで、丁寧な回答だった。
しかし、一生懸命答える、あるいは主催側の理屈を主張するばかりの印象がある。
なぜかと考えると、一度質問者の「質問の内容」を受け止めるという行為が抜けているからじゃないだろうか。
さらに一歩進めば、質問者の「質問したい気持ち」を受け止めることができれば違って来たんじゃないだろうか。

法律で決まった防災の機器を買わされる。
お金が絡むから、「義務なのか」とか「その価格は適正なのか」などという、なんとかしてお金を払わずにすまないかという方向の質問が多かった。
そこには「ちょっと困っている」という気持ちがあるようだ。
それを置き去りにして、表面の言葉にだけ答えているもんだから、質問者もなかなか納得しない。
回答者は、しっかり質問に答えているのに何が問題なんだ?という気持ちになってくるだろう。

と、こうして書いていると、法座で私がよく陥る場面に似ている。
自分のことを置き去りにして表面的な質問をされる方がいる。
そこには、そういう質問をしてなんとか手がかりにしようという何らかの”気持ち”があるはずなのだが、表面の言葉に応えてしまって、どんどん表層のやり取りになっていく。
質問者もこちらも、上滑りしていることに気づきだしても、なかなかそれをやめることができなくなる。
「そういう質問をしたくなったのは、どういう気持ちがあるんですか?」
と、ちょっと向きを変えることができれば、
「困っているんです」とか「怖いんです」だとかの気持ちの言葉が飛び出してくる。
千のうわべの言葉より、その一言の方がよっぽど重みがある。
その人がそこに”居る”

で、今日の防災機器の話だが、義務だとか、手間がかかるだとか、普及率はどうだとかの問題は表層のことだ。
消防の人が主張していたのは
「この機器を設置することで、家族の危険を減らすことができるんです」
ということだ。
この本当に自分の言葉として語られていることが受け止められない人たち。

思いが受け止めてもらえずに、耳を向けられない人。
そういう人たちの気持ちを受けとめきれずに、主張を受けとめてほしいとする人。
ちょっと、コミュニケーションに気を配れば、本質が伝わるのに…
もったいない話だ。

 

そういうコミュニケーション術を、講習の形でいろんな会合の場で広めて生きたいと思ってるんだけど…
どうやって宣伝すればいいんだろう?
http://homepage1.nifty.com/MANU/others/lecture.htm