コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

甘えてるわけじゃない

2011-10-26 02:40:00 | 親子コミュニケーション・Light

このブログで何度か「がんばれ」という言葉に関する思いを書いた。

で、今日こんなニュースが目に留まった。

 

医師の「頑張れ」は違法=症状悪化と賠償命令-大阪地裁

 自律神経失調症だった男性が、不用意な発言で症状が悪化し復職が遅れたとして、大阪府内の内科医に530万円の損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁の寺元義人裁判官は25日、「『頑張れ』などの発言は違法」として、60万円の支払いを命じた。

 寺元裁判官は、内科医が「病気やない、甘えなんや」「薬を飲まずに頑張れ」などと力を込めて言ったことについて、「安易な激励や、自助努力を促すような言動で病状が悪化する危険性を避ける注意義務に違反した」と述べ、発言と病状悪化との因果関係を認めた。(2011/10/25-19:53)

時事ドットコム

 

SNSなどでこのニュースについてのコメントを見ていると、この患者に同情するあるいは自らの自律神経失調症について語るものと、患者を批判非難するものとがあった。

 

で、いろいろ思わされるのだが、やはり「出来る」人が「出来ない人」のことを理解できず、自分のものさし・常識で測って相手を責める言葉は、見ていて非常に辛いということ。

「がんばれ」と言われて、その叱咤激励を力に変えて結果を出す人も確かにいるだろう。

「がんばれ」と言う言葉だけでも、人によっては「今・ここ・わたし」を認めてもらえず、もっと「何かしなければ”いけない”」としか取れない人もいるのだ。

そういう考え方を認めず、「こっちは善意で励ましてるのに、なんでやらへんねん」と気持ちを押し付けるのは、ひとつの暴力だ。

 

また、今回の記事からいくと、相手の状況・特性に沿わない形での言葉掛けになっているようだ。

自律神経失調症について、今ここで深く触れることはしないが、その状況を受け入れず、ある意味無視していることは、医者としては困ったものだ。

 

たとえば、小学生という状況のものに、「時速150Kmの投球をしろ」とか「100mを9秒で走れ」という人がいたらどうだろう。

それをプロの野球選手や、陸上の指導者が言っていたなら「そんな無茶な!」と思わないだろうか。

「頑張れない」状況の人に「頑張れ」というのはそういうことだ。

 

「頑張ってほしい」のはこちらの思いの表明、「頑張れ」は思いの押し付け。

 

 

まぁ、この裁判のニュースに関しては、この文章だけでは読み取れないことが多いので、単純にこの医者を責めようとは思わないが、ちゃんと裁判で判決が出たのだから”非”はあったんだろう。

 

たとえば、震災でまだ現実が受け止められない状況の方に、「頑張れ」という言葉はどうなんだろう。

もちろん、それ励みにする人もいるだろう。

しかし、そういう言葉によって、「悲しみ」を「悲しみ」として味わうことが許されない、悲しんでいることを責められていると受け止める人もいるんだということ…。

今起こっている感情に甘んじていたっていいじゃないですか。

 

ここで言いたいのは、この裁判を話題を通じて、「自分の思う”こうだろう”を、相手に押し付けてることがありますよ」ってこと。

 

親子間でも結構ある事例ですよ。

 

 

過去に、「頑張れ」をとりあげたエントリーはこちら

「がんばれ」と「がんばる」と「がんばった」

今ある状態を認めてあげる

 


幸せって? ~日本PTA近畿ブロック研究大会 in 福知山4

2011-10-25 03:41:25 | PTA

気が付けば、近P研究大会からもう1週間…それともまだ1週間なのか。

かなり記憶や、動いた心のありようは薄れてきてるけど、当初書きたいと思っていたことをなぞりながら、部分的には当時の感動のまま、部分的には時間を経て熟成された思いも交えて。

今、書けるところで書いておきましょう。

 

 

今回の記念講演の中で、前回書いた”違和感”以外にいろいろ動いた思い。

 

まず、「幸せ」って何だろうってこと。

塾での指導を通じて、子どもたちに勉強するという目的を持たせる過程で、保護者たちの声を多く聞かれたという。

その中で突き詰めればほとんどが「我が子に幸せになって欲しい」というものがあったらしい。

もちろん、そう思わない親はいないだろう。

(毎日のように悲しいニュースが入ってくるけど…)

しかし、最初は「だって良い会社に入らないと幸せになれないじゃないですか。そのためには良い学校に入っておかないと…」という声。

それが幸せ?

「だってお金がないと幸せになれないじゃないですか、そのためには良い会社…」

それが幸せ?

 

この講演ではここまで突き詰めなかったけど、これは「子どもの幸せ」じゃなくて、こうなってくれたら「親が幸せ」ってこと。

自分の”欲”なんですね。

 

いや、欲があることが悪いんじゃなくて、むしろ浄土真宗にご縁のある私とすればそんな”欲まみれ”の自分を内省するところから一歩が踏み出せるんですが、そのことは今日は置いといて…

 

自分の”欲”であることを隠して、ごまかして、「子どものため」と思い込んでいるのは結構怖いことなんですよね。

 

と、講演の話に戻って、この”幸せ”ってことについて、ある映像(編集されたフラッシュ)を題材にされた。

それは、数年前の日航機事故(御巣鷹山)の話題。

異様な動きをする飛行機の中で、死を覚悟(予想)した方の家族への手紙が現場から回収され、その画像を読み込まれている。

残していく家族への「幸せを願った」言葉がつづられている。

その言葉の中に、「良い学校」「良い就職」「お金持ち」なんて言葉はひとつもなかったという。

「家族で仲良く…」そういう当たり前のことを当たり前でいて欲しいという願いだけ。

 

このことへの評論・解説は野暮なんで、皆様それぞれで。

 

 

この映像はとても感動的で、周りをみてもかなりの人がグッと来ている。

でも、ちょっと違う側面の気持ちも私の中には渦巻いていた。

 

それは、朝、会場に向かうバスの中でも感じたこと。

いや、朝感じたからこのときもそこに引き戻されたんだと思う。

それは、真実の重みがあるのに、過剰な演出はやめてほしいということ。

無意識にその”煽り”を受けて、心が動くことだろう。

そのことがとても気になり、むしろ警戒する私がいる。

 

朝のものは、仙台のPTAから送られた現状を映したビデオ。

写真をスライドショー形式で編集しているのだけど、そこに大げさなピアノの音楽がつけられている。

とても耳障りだ。

”現実”以上に訴えかけてくるものはないのに、無理やり五感に割り込んでくる。

 

講演会の映像では、日航機の手紙を、実際の手紙にかぶせてテキストが表示される。

その言葉だけで十分なのに、バックに歌が流れる。

オフコースの「言葉にできない」

わざわざその歌に煽られなくても、十分「言葉にできない」状況で、みな息を飲み込んでいるのに。

(もちろん、その歌は好きだし、歌に罪はない)

 

 

煽りもなにもいらない、ただ真実を語る言葉がどれだけ重たいかは、この研究大会の最後に訪れた。

ゲストとして、仙台のPTA連会長が挨拶をされた。

この講演の言葉も引用して(決して批判や批評ではない)

「子どもに親が愛情を注いで、そのコップを満たしてあげるという話がありましたが、仙台ではその親を一瞬でなくした子どもらが数百人います…」

そのことで何か訴えたり、何かを望んだり、何かを批判しているのではなく、ただ”現実”を述べられた。

 

 

このこともいつかブログにするかもしれないけれど、今日はここまでで。

同時に、福知山の話題も一区切りにしたいと思います。

 

前回も書きましたが、講演の内容は「高橋の聞いたところ」であって、レジュメに沿って正確に内容を記述しているものではありません。仙台のPTA会長の言葉も同様で、私の記憶しているところであって、正確じゃないことをご了承ください。

 


受容のコップ ~日本PTA近畿ブロック研究大会 in 福知山 3

2011-10-21 14:16:40 | PTA

延期になった運動会や、人権啓発運動の会議、真カ研の月例会や50周年準備の会議など、仕事以外にも様々な予定が重なり、近Pの話題がまとめられないまま日が過ぎていきます。

しかも、上記のこともあれこれ書きたくなってくるし…

 

PTAの会議などで出会った方々から「読んでますよ」と言われてうれしいですので、この話題だけは完結させないとね。

 

ということで、午後の部「記念講演会」のことについて。

午後の序盤は、役員紹介や祝辞、各種表彰などの式典が続き、ひと段落して講演。

講師は「木下 晴弘」氏。

 

内容は塾講師(難関中高に児童を送り込む有名塾)の経験から、子どもへの関わり方についての話題。

各地で講演実績があるようで、その語り口は興味を引くものがあるし、流暢で話術巧み。

差し込まれるエピソードも、持ってきた話題だけではなく「自分の体験」を中心に話されるので、重みがあります。

 

が、序盤のところで私にとってはちょっと違和感が。

 

塾講師時代、なんとか子どもに勉強をしてもらおうとしていた時期の話題で、最初は「そら勉強しろ、やれ話を聞け、何で付いてこない」と外部から煽っていたけど、全然反応がない。

しかし、ある方に相談したところ、「自分からモチベーションを起こさないと長続きしない」という視点を得て、内から自発的にやる気を起こす関わり方を模索されたという。

このこと自体はすごく共感できて、カウンセリングで心を開いてもらう場合でも、外からねじ込むんじゃなくて、ゆっくり相手との関係を築くことで、話し手が自発的に話すのを待つことに通じる。

ただ、違和感の部分は、そういう「自発的」を起こさせるには「どうしたらいいか」ということを考え見つけたという発想。

 

私的には、「自発」を「待つ」ということがとても大事にしているけれど、ここでの話は「起こさせる」という。

まぁ、受験という「目的」があるかぎり、期限は決まっているし、勉強というやることもはっきりしている。

なので、その「期限のある目的」に向かうには、待っている時間はないし、待っていて「自発」が起こる保証はない。

頭では理解できるが、普段カウンセリング仲間との話で「目的・時間に追われるのは、さびしいこと」という話題をよく話している。

人生・人格形成という面で言えば、一時の「受験時」に達成すべきことよりも、より深いものがあるから、時間制限せず「待っていたい」

 

先生の話を批判するわけではなく、私のこだわりの部分での違和感なんですけどね。

 

そうは言いながらも、共感できる話題がぞくぞくと続いていく。

中でも、「受容」(この言葉は使われなかったけれど)の話題は、普段感じていることを分かりやすく説明してくださった。

 

「人に与えたものは必ず自分に帰ってくる」という考え方を人生観とすること。

”成功者”は、「~して欲しい」という考え方から「~してあげよう」という考え方に変わる人ということだそうだ。

まぁ、この”成功者”も何を持って”成功”とするのかが問題にはなるが、ここでは何かを「成し遂げた人」という意味で。

例としては「松下幸之助」さんや「イチロー」さんの名前が挙がっていた。

「あげる」という与えることをするから、めぐりめぐって自分の元へ入ってくる。

どうすれば「与える」ことが出来るかというと、まずは自分の「自己受容」のコップが満たされていること。

コップは二重構造になっていて、外側の大きなコップの中に「自己受容」の小さなコップがある。

この小さなコップが満たされてあふれることで、やっと外側の他者への関心に水が満たされていく。

そこがあふれると、それは他者へ振舞われる。

そのコップに注がれる水は「感謝」であり、なにより「許し」の心だと。

 

 

このことは私が真宗やカウンセリングで学んできたことからとても共感できる。

やっぱり、まず自分が「許して欲しい」のだ。

許される経験なしで、他者を許すことは出来ない。

私の場合は宗教的な「許し」を体感させてもらえることがとても大きい。

 

この講演では、そのことはまず「親が愛情を持って、子どものコップを満たしてあげる」ことを大jにして欲しいと結ばれた。

そう、子どもの問題は、まず親の関わりが重要だ。

 

このことは、どの講演でも言われることであるにも関わらず、いまだに「子どもの問題」「学校の問題」「社会の問題」と原因を外において「親」という自分を抜きにして考えがちだ。

実際は、こういう研究大会や各趣講演会に参加する方は意識が高く、うなづいて自覚されるのだが、そのことを知らないままの親が周りを責めていく。

そういう「親」自身がまず「許される」ことを体験しないと始まらないのかもしれない。

 

そう、目的は責めることではなく、知らないままに人に知ってもらって、「自分を許す」ことから。

 

 

もうちょっと、この講演で感じたことがあるけれど、まずはここまでで。

(はやく区切りつけないと次の話題に進めないというジレンマもあるけれどね)

なお、講演の内容は「高橋の聞いたところ」であって、レジュメに沿って正確に内容を記述しているものではありません。ご了承ください。


少し具体的に ~日本PTA近畿ブロック研究大会 in 福知山 2

2011-10-18 16:03:28 | PTA

 

午後のプログラムについて書こうと思ったが、午前の分科会で教えてもらった「ハートフルワーク」の内容について書いておきたくなった。

 

先のエントリーで、「体験・体感」ということを書いたけど、具体的にどういうことをしているのか。

 

試み全部を説明はできませんが、印象に残ったものから。

 

見え方に関するものは、大型ペットボトルを真ん中で切って(怪我しないように切り口はビニールテープで加工する)飲み口の小さい穴と、切り口の大きい穴の望遠鏡のようなものを作ります。

で、小さいほうから覗いて見るのは当たり前なんで、その逆、大きい口のほうを両目にあて、小さいほうを景色側にして見ます。

つまりは視界を狭めるんですね。

 

そうして近くにあるポスター(質問を書いてその答えを考えさせたりするようです)を見る。

普段は少し顔を動かすだけで全体を把握できるけど、この状態だとかなり動かさないと全部を把握することはできない。

ポスターいっぱいの動物を数える作業なんかしたら、一度数えたものがどの部分か分かりづらく苦労するようです。

 

また、そおっと横に着ぐるみを着た人が座る。

視界が広いと気付きやすいですが、狭いとなかなか気付かない。

で、声をかけられて横を向くと「あらびっくり!」ってことです。

 

 

このことを通じて、逆に、「じゃあ、そういう状況の人に伝達するにはどういう心がけが必要か」ということを考えます。

「見えているだろう」というこちらの思い込みで行動するのではなく、正面に回って「ここにいますよ」とこちら側が配慮してアプローチする。

それだけでコミュニケーションが変わります。

 

身体的に視界が狭い場合だけじゃなく、何かに夢中になって注意力の視界が狭くなっている人にも考慮すべきことですよね。

 

テレビに夢中になっている子どもに、後ろから声をかけて反応がないとき、ただ叱るのではなく「意識できていない」ことを悟って、正面に回って声をかける。

以前、発達障害の話題でも触れたと思いますが、「聞こえていない」のではなく、音は届いていても「意識できていない」…意識の視界が狭くなってる状況があるってことです。

 

 

 

あと、先にゴムがついて分厚くなっている軍手(安全作業用でしょうね)をはめて、枠内にシールを張るという細かい作業させて見るワークがありました。

 

指先が器用な人と、意識はできても指先がついてこない人…

ご年配の方が、こちらは普通だと思ってる作業に時間がかかるときに「なんでそんな簡単なことができないの」っていらついたりすることありませんか?

 

ハートフルワークの中で行っていたのは、その動かしにくい手先に加えて、周りから「はやくはやく」「もっときれいに」と意識的に追い込むこともしていたそうです。

児童にとっては、うまくできない他の子に「なんでできないの」といらついて急かすことがどれだけ相手を追い込むことを体験できるのでしょう。

またもう一方で、そう急かす役割をした保護者は、普段自分が子どもらに「はやくはやく」とか「もっと上手に」と追い込んでいることが自覚できるようです。

 

親として「この作業ならこれくらいできる」という思い込みの枠がどれだけ子どもを苦しめているか…今回は「意識的に追い込む」ということですが、発表者いわく「得意分野」と自嘲されてました。

無意識に子どもらを追い込んでいることに気付かれたんですね。

 

 

たとえば、休みの日に子どもたちと楽しみたくてお出かけをします。

早く用意をして、早く出発して、いっぱい遊んで”楽しむ”事が目的です。

しかし、用意がなかなかすすまず、いらついて急かしだす。

「はやくはやく」「なんでそんなことができないの」

”子どもと楽しむ”という目的が、”私の計画どおりにことを進める”目的に変わってしまったとき、”子どものため”が”私の思い通りのため”に変わってしまってます。

子どもも泣きそうになるでしょうし、親もいらつくし…これは楽しめませんよね。

 

こういう”目的が変わる”って話は、午後の講演会で話題にされたものです。

 

 

他にも、ひとりはすべて「ぴかぴか」もう一人は「うらうら」しか言葉を話さず、後はイントネーションや身振り手振りで意思を伝えるゲームや、多人数が一度に違うことをしゃべって、その中から目的の言葉を話している人を探すワークもありました。

 

 

 

こういう体験型の「自分の知らない感じ方」の学びは、以前子どもが生まれる前の父親教室でおなかに重りをつけて行動して妊婦さんの苦労を味わうワークがありました。

また、日曜礼拝という集まりで、目や耳をふさいで、誘導されることで、普段と違う視覚聴覚の世界を体験することも参加したことがあります。

 

まずは「自分の感じ方が誰にでも通用するものではない」ということを知ること。

そして、実際に不安・不自由を感じている人の言葉に耳を傾け、自分なりの共感・想像ではなく、相手の訴えたいことを真摯に聞かせてもらうこと。

 

なにか、そういう学びのきっかけができればいいなと思ってます。

 

うーん、課題は山積みで、どれを優先するかが難しいのですが、こういうときは意外と外からふとしたきっかけ・流れが現れたりするものです。

まずは、そういう兆しに気付けるような、オープンでニュートラルな状態でいることからですね。

 

今晩、エンカウンターグループがあるので、こういう感じを言語化して見たら、何か新たな気付きがあるかもしれません。

 

 

これだけでも近P研究大会に参加した意味がありましたね。

 


感じ方はひとつじゃない ~日本PTA近畿ブロック研究大会 in 福知山 1

2011-10-17 20:39:07 | PTA

 

 

 

16日、近Pの研究大会に参加してきました。

8月にあった広島での全国大会も参加したかったんですが、単Pの重要行事「夏祭り」と日程が重なり断念しています。

 

こういう形の大会には初参加です。

結果として、とても充実した日となりました。

 

午前は分科会で、私は「人権」をテーマとした分科会に参加。

パンフの研究課題には

「子どもの『いのち』を脅かす事件が多数起こっている現代社会において、ひとりひとりの尊厳と人権が尊重される社会の実現に向け、あらゆる人権問題の解決に向けた学習活動を促進し、人権尊重を日常の習慣として身につける人権教育の在り方を考える」

と記されています。

 

その分科会わけのシステムはよく分かっていないのですが、それぞれの分科会に担当している地区PTAがあります。

この第3分科会は和歌山県と神戸市。

それぞれの発表と質疑応対があるのですが、大まかなテーマとしての「人権」よりも、発表する地区PTAにある程度内容は任されているようで、最初の発表担当の和歌山県は「人権」という部分へは踏み込んでいない感じでした。

ただ、「地域との連携」という、私の学校や、先のエントリーで話題にした南P連でも重要課題として挙げられている部分に関わるところで、非常に興味もって聞かせてもらいました。

 

しかし、2番目に発表のあった神戸市のものは、私の期待していた「人権」に関わる試みについての話題で、食指の動くものです。

(まぁ突っ込んだところでは「人権」を正面から受け止めるところからは少しズレがありましたが)

 

神戸市のH小学校が、同地域の養護学校(支援学校)の協力を受け、4年生の授業を一こま使って「ハートフルワーク」という活動を行っているというものです。

ものの見え方や聞こえ方が、その人の個別な要素によって、誰もが当たり前と思っている感じかただとは限らない…そういうことを、体験的に学ぼうというもの。

4年生を対象にしているのは、「福祉」ということを学ぶ学年だから。

 

研究発表の内容は、その実現に向けてPTAが苦心している部分と、その達成感を中心に話されますが、私としてはその試みが関心の中心になります。

(もつろん、実現に向けてのPTAの動きも大きな関心ですが)

 

視界を狭めての見え方を体験し、そういう状態の人にはどういうアプローチを心がければよいのか…

そう、まず自分の五感の感じ方が当たり前じゃなく、そうじゃない感じ方もあるということをまず知るのはとても大事なことです。

このあたりは先日の「発達障害」の学びでも感じたところです。

 

こういう自分基準という枠を取っ払うことは、頭で理解していても(それすらしない人も多いのが現状ですが)体感的にわかりません。

それを少し実感的に知っている養護学校の方との交流で、そのきっかけをもらい、少しでも児童らに体験してほしいという願いには心が打たれます。

 

私自身、こういうブログを通じて、すこしでも違った見方があることを伝えようとしていますが、こういう実践的な試みの効果は見習いたいものです。

 

 

今回の研究発表では、いつまでも養護学校の協力負担をかけずに、自分たちで工夫して継続しているという話につながって行きます。

この部分では、確かに負担への配慮は大事かもしれませんが、自分たちの工夫で「養護学校の親やや職員たちが知ってほしいこと、訴えたいこと」が薄まってしまう危険さを感じていました。

時々は、この「知ってほしい、訴えたい」という根っこに立ち返ることも、継続していく上で大事なことだなと。

 

カウンセリングなんかでもそうなんですが、手法や効率にシフトしていくと、大元の理念が薄れてしまう場合がありますから。

 

と、これは批判ではなく、H小学校の試みを受け止めた上で、自分ならどうして行くかということまで思いをはせた上での自戒になってくると思います。

 

 

質疑応答で、この試みに対しての保護者の関心の具合を尋ねてみました。

こういう人権・差別意識の問題は、いくら学校で子どもに伝えていっても、家にいる親が違う考え・行動をもっていては子どもは混乱するだけですし、やはり”親”の影響力は強く、しらずしらず他を貶め、差別し、思いやる心から離れていく結果になります。

だから、実は親にこそこういうワークに参加してもらいたいですし、意識化してもらいたいという願いが私にはあります。

質問の答えとしては、継続していくことで関心を持つ(ワークに参加する)保護者は増えてきているというものでした。

その数字としてはまだまだ満足いくものではないでしょうが、一度に理解してもらうことは当然無理でしょうし、その数字だけで「意味がある・ない」ということを問うことは出来ません。

 

しかし、まず一歩を踏み出さないと何も始まりませんし、継続していくことはさらに大変なことです。

そういう意味で、H小学校のPTAさんにはとても敬意を感じています。

 

「このことを、ぜひ各校の方に伝えてほしい」という言葉が心に残ります。

そう、まずは伝えることからですね。

 

 

不思議なもので、私がこのPTA活動を始めてから、パズルのピースのようにいろんな出会いが生まれています。

そのピースをはめ込んでいくことで、つながりが生まれ、作品になっていくことでしょう。

ちょっと期待をしてしまってる私がいます。

 

 

京都の小P連で何度かご一緒し、ふとした話題からつながりを持った会長さんもこの分科会に参加されていて、名刺交換と言葉を交わさせてもらいました。

不思議なつながりでご縁が出来た支援学校の会長さんとも、行き返りのバスでご一緒し、帰り際に声を掛け合っています。

 

私一人で一歩を踏み出すのは大変ですが、無理せず足場を固めるところから…理想の到達点もイメージしながら動いてみたいなと。

 

 

 

午後のプログラムもいろいろ刺激がありましたが、まずはここまで。

 

追記:神戸市PTA協議会のサイトにこの分科会の様子がアップされていました。

http://www.pta-kobe.jp/cgi-bin/news/index.cgi?mode=preview&select=1318819691


忙しいとは「心を亡くす」と書く。でも忙しくても心は充実

2011-10-15 21:30:59 | PTA

ここ数日、休日出張があったり、会議の議事録作成やレポートの必要な仕事があったりと、PCの前には座ってるのですがブログにまで手が回りません。

 

その間、ひとつ重要な出来事があり、そのことをめぐっていろいろ思いは動いています。

 

前にレポートした小P連の交流会の後、まずは4日に学校運営協議会の理事会。

ここで、小P連交流会でのワークで話題になったことを含め、今後の学校運営について話し合われ、交流会で受けた刺激を客観的に眺めることが出来ます。

その夜には真カ研のエンカウンターグループ。

交流会で受けた刺激と、翌日に控えた南P連の会議のことが私の中心にあり、エンカウンターでそのことを口にしていました。

 

そして翌5日に「南支部PTA連絡協議会PTA会長会議」が行われます。

今年の4月に、この南P連会長を引き受けることになり、小P連で他地区の活動を聞くにつけ、何か動きが取れないかと模索していました。

それは私の独断専行的な思いがつよかったことが後で分かるのですが、賛同者も居たことに心強さを感じ、なんとか開催にこぎつけたものです。

結果は、とても有意義なものになり、先の交流会で感じた「必要性」を十分に味わえるものです。

 

PTA役員にはPTA役員の悩みがある。

それを横の連携で共有し、分かち合って、次の一歩につなげる。

まさしく、つながりの必要性を感じる話題でした。

 

この会議の中で、私は知らず知らす「操作的」に動いていたようです。

しかし、後半自由に話し出してからが真骨頂で、私の作為を超えたところで会議が動いていきます。

最初からそういう風にすればよかったと思えるくらい、自由に悩みを話し合う時間が濃かった。

 

課題は、そういう場を持つまでの調整的な部分で、そのためには現行システムをちょっと変える必要があるかなと。

私がリードして動く方法も進めていますが、そこにこだわらずに、あせらず、それこそシステムを固める時点でつながりが育てば良いなと。

私の中では、システム完成より、そこに至るプロセスの方が楽しめる気がします。

 

そのことを次の日、6日にあった小P連理事会でおぼろげに感じ、さらに新しい刺激を受け、その夜にミニカン継続学習会に参加します。

 

そのミニカンの15分間を通して、先に書いた「作為的に動いていた」自分を見つめなおすことが出来、「そうしなくてもちゃんと動いていく」ことを感じていたことに気づき、それまで高揚していたものがゆっくりと腰を落ち着けて受け止めなおすことが出来ます。

 

その会議の議事録をまとめて、次の一歩にすすみたかったのですが、金曜日に息子のことで学校へ行き、担任の先生と話し合い。

普段、ゆっくり相手に出来ていない分、”サイン”を送ってきた息子に付き合ってゆっくり話を聞きました。

この先生との話し合いもとても大事な時間になってます。

 

その週末は日曜に区民体育祭、翌祝日は広島まで車で日帰り出張。

世間では連休ですが、ゆっくり休むことも出来ません。

 

11日は夏祭りの総括会議があったのですが、来年の担当者に出席をお願いして私はエンカウンターグループへ。

そこでまたじっくりと前週のことを振り返る時間を持ち(流れ的に話題として口にはしませんでしたが)、13日は来週にある地域の「きずなフェスティバル」の会議。

14日は午後に京都支部の「聞き方・伝え方の学び」を開催し、夜には「きずなフェスティバル」の件でコーラス部にお邪魔して打ち合わせ。

 

で、今日15日、小学校の運動会の予定が雨で延期。

思わぬ時間が転がってきたので、満を持して会議の議事録を作成。

これが書き終わったことで、やっとこのブログのように振り返ることが出来ました。

 

 

これだけの出来事があふれているので、ブログに仕切れません。

(この合間に、本業もあれば副業の夜勤もあるし…)

 

さて、その中身で書きたいことはおいおい書いていくこととして、明日は小P連から、日本PTA近畿ブロック研究会に参加してきます。

会場は福知山。

ちょっと朝早いので、この後シャワー浴びたら一杯飲んで寝ることにします。

 

 

 

なんとか、明日の予定の前に振り返っておくことが出来たので、明日は新しい刺激を一杯もらってこようかなと。

 

(来週は運動会が水曜日に延期になったために、火曜から水曜の予定がえらいことに…)


小P連 交流会 2

2011-10-05 17:10:24 | PTA

 

ちょっと予定が多く、書きたいことがあるのになかなか打ち込むことが出来ませんでした。

刺激を受けるINPUTに対して、OUTPUTにかける時間の確保がままならない状態ですね。

しかし、時間は経過すれど、私の中で経験となって、一つ一つの出来事が身についていっている気がします。

 

ということで、刺激を受けた直後と今とで多少”熱”の具合が変わってるかもしれませんが(しかも途中まで打ち込んでるんで、前後半で勢いが変わってるかも)小P連の交流会の話題を。

 

花背山の家の施設見学(雨のため本館と宿泊棟だけですが)と昼食を終え、午後のプログラム「ワークショップ」へ。

参加者を8つのグループに分けて、基本的に同じ課題「PTA活動に対する悩みを打ち明け合おう」ということで、同時に「子どもたちのかけがいのない未来のために、何を伝えていきたいか」というものを掲げている。

 

グループのメンバーは事前に組まれており、バスの乗車時にはグループごとに固まり、車内で自己紹介や歓談を済ませている。

また、食事もグループで固まってとっているので、この時間までに少しは(初対面よりは)縮んだ距離感で。

 

 

事前に、グループのリーダーを承っていて、同時にこのワークの進行役もすることになっていた。

グループ内の進め方は、「リーダーに一任」ということだったので、同じグループになった方には申し訳ないが私流の進め方をした。

 

こういうワークのときは、”通常”は「課題を出し、問題点を絞って、検討し、対応策を導く」というのが理想だと思う。

しかし、私の場合は参加者が抱えているものを”打ち出す”というプロセス部分を大事にしたく…というか、そのプロセス部分が好きだ。

乱暴な言い方をすれば、短時間で結論を導くことはこだわらない。

 

ということで、備品としてポストイットが支給されていたので、ブレーンストーミングとKJ法を参考に進めることにした。

 

悩みを打ち明けあおうという趣旨にしたがって「PTA活動で困っていること」をテーマに5分間(2分延長したが)各自ポストイットに自分の思う「困っていること」を1枚1テーマで書き出してもらう。

順番に発表してもらい、発表者と同じあるいは似たことを書いていたらその人にも表明してもらう。

こうやって問題点を羅列しながら、似たものをまとめて問題を絞り、どのテーマを掘り下げるか検討して進めようかなと。

 

ところが、最初のテーマを出された方がその思いをじっくり打ち出してくださった。

私にはそれが楽しく、またその方の熱が心地よく、課題の表明だけできることをせず、じっくり打ち出してもらうことにした。

その流れに反応して、ほかの方もどんどん「抱えている」ものを打ち出していってくださった。

そう、対応策を導くより、「今・ここ」にいる一人一人が、「今・ここ」に持っているものを共有してすごす時間…結構心理的なワークになったかもしれない。

 

悩みの中心は、「あいさつ」ということを通じての今の子どもたちのありようだったり、PTA役員のなり手を捜す困難さから、自分たちの活動が知られているのだろうか?というものまで。

具体的な解決策まで行かなくても、各自が行っている努力なども共有しているだけで、それぞれが打ち出し・受け止めることが、そこにはあった。

 

あまりに楽しくて、全員の課題発表すら終わらないうちに、規定時間が来てしまった。

(時間配分できなかったのは私のミス、ごめんなさい)

 

結局まとめ切れなかったので、発表役の方には申し訳なかったが、成果発表のトピックには現れない部分での充実が、このグループにはあったと思う。

 

トピックに対する思いもあるんだけど、これまた流れの部分だけで長くなっちゃった。

結構大事な課題だったんで、親子コミュニケーションのテーマとして後日取り上げる手もあるかなと。

 

 

 

このワークをはじめるにあたって、「誰かの意見を非難・批判することはやめて、『私はこう思おう』というかたちでお願いします」ということだけ一言言わせていただいた。

ほんのそれだけのことでも、「あぁ、そういう進め方は大事ですね」と気づいて下さる方が居られた。

ちょっと僭越なところもあるかもしれないが、自分の”学び”を信じてこういうことは打ち出していってもいいなと思える。

 

 

この話し合いで受けた刺激と、課題を持って、昨日は「学校運営協議会」、今日この後「南P連会議」、明日は「小P連理事会」と続く。

 


小P連 交流会 1

2011-10-01 17:07:08 | PTA

昨日書いたとおり、花背山の家での交流会に参加しました。

花背山の家は長期宿泊研修の会場になっているところで、私自身は5月に自校の長期宿泊研修にボランティア参加して以来2度目の訪問。

天気はあいにくでしたが、素敵な交流が出来ました。

 

集合は京都市役所前、9時10分。

当初の予定だった7月の時は、私が所属している部会が早めに行って受付役ということで、8時45分集合。

私の勘違いで、この役割もそのままスライドしてると思って、8時半には集合場所へ。

思い込みってのは怖いものです。

まぁ、遅い時間を想定しているよりは良かったし、早めに来られていた理事会の役員さんたちともいろいろ話できたんで無駄ではないですね。

 

事前に班のリーダーを引き受けていたので、バスに乗り込み班の自己紹介やスケジュールの確認。

後半は山道になるので早めに必要な出来事は済まし、後は近くの席の方々と交流。

 

この交流会は、普段の理事会と違い会長に留まらず多くの役員さんたちも参加。

(残念なことに私が所属する南支部からは私一人だけ…この辺に課題あり)

交流会に参加される方はやはりそれなりの意識を持っておられるので、最初からPTA活動に関する具体的な話題で盛り上がります。

 

1時間強バスに揺られ、会場の花背山の家に到着。

入所式のあと、K小学校校長先生のお話で、長期宿泊研修の取り組みの講義。

7月の予定ではこの時間で野外炊飯カレー作りの交流予定だったけど、今回は他の利用者との兼ね合いで変更。

でも、この講義がすごく刺激になった。

 

私自身、自校の長期宿泊学習にボランティア参加したので、事前のミーティングから当日の内容まで詳しく聞いていた。

しかし、このあたりは学校ごとの裁量なのか特色なのか、K小学校の取り組みはちょっと違っていた。

「いたれりつくせり」ではなく、「子どもたちに考えさせる=自立を目指す」趣旨をしっかりと軸においた計画で、聞くだけで体力的に負担がかかりそうなものだが、「ぜひやりたい」という熱意と、それを理想に終わらせず実現するための事前折衝や準備などをしっかりした上での「負担」であって、「無茶」とはちょっと違う。

(一番実現したかった小学校から花背まで”歩いて”入所の計画は無茶だったようで断念されたが)

自然体験を重視した、山登りや山中キャンプ場での宿泊は、K小学校の児童が普段から長距離を歩いて登校する子が多いという条件もあるだろう。

市街地で平坦な通学路しか経験していない学校ではちょっと基礎条件が異なってくる。

 

学校行事でのこういう場合の考え方は難しいものがあると思う。

保護者としてはやはり危険・無理は避けたいと思うし、付き添い側が徹底的に配慮して、子どもの負担を減らす方向を考えると思う。

 

たとえば、今回のK小学校では、途中一泊するキャンプ地に持っていく荷物を「自分たちで考えてリュックに詰めなさい」という指導がされたようだ。

不安からか、着替えから寝具から一通りつめないと気がすまない子が居る。

もちろん、荷物は多くなり、山歩きの際に重さが負担になる。

「自分で考えてつめるんやから、重たくても自分で持って行きや」という指導になる。

一方タオル一枚だけつめて「僕は着替えへんからこれだけでいい」という子が居る。

「自分でそう思ったんやったら、足りひんもんがでてきても文句言うなよ」と笑顔で受け止める。

 

私の学校だったら、しおりなどにしっかりと必要なものを記載して、誰もが必要なものだけそろえて出発するように指導してもらうことを望むだろうし、実際そういう対応だったと記憶してる。

 

どちらが良い悪いではなく、「そういう考え方もあるな」とK小学校の試みに関心を持った。

 

もちろん、そういう考え方で動くためには、ただの思い付きではなく事前に校内で十分検討し、PTAとも話し合いを重ねて来られ、また山の家の専門家に意見を聞き折衝されたたのだろう。

この長期宿泊というイベントだけでなく、普段から教職員やPTAとの関係をしっかり築かれているからこそだと思う。

(校長先生の人柄も多分にあるとお見受けする)

 

ただ、面白いからと真似するわけには行かないことでもあることは承知の上で、でもこういう考え方をしている学校もあるよってことは、機会を見つけて自校や支部のPTAに紹介してみたいと思っている。

 

まだ午前のイベントの話だけだけど、長くなったんで今日はここまで。