柏木先生の本、何冊目だろうか?
このような形で、私は気に入った著者については、手に入る著作を乱読していきます。
この本で感動したのは、PP.11‐12の「人間の死亡率は100%」というところ。これは、サマセット・モームの残した言葉だそうですが、まさにその通り。人は、100%死ぬのです。ですから、必死に今を生きるのだといえるのでしょう。
そして、P.22にかかれているのですが、著者が勤務先の大阪大学人間科学部の150人の学生を対象に行った調査が凄い。「自分の肉親の臨終を実際体験した人」と聞いたところ、誰一人、手があがらなかったそうです。私も同じ。臨終の場というものを知りません。それだけ、「死」というものが、現実から遠くなっているのでしょう。
だからこそ、死について考える必要があると私は思っています。
※最近、ブログのテーマが暗くなって申し訳ないと思っています。しかし、これが、現在、私が取り組んでいる修士課程の学修なので、ご容赦願います・・・
このような形で、私は気に入った著者については、手に入る著作を乱読していきます。
この本で感動したのは、PP.11‐12の「人間の死亡率は100%」というところ。これは、サマセット・モームの残した言葉だそうですが、まさにその通り。人は、100%死ぬのです。ですから、必死に今を生きるのだといえるのでしょう。
そして、P.22にかかれているのですが、著者が勤務先の大阪大学人間科学部の150人の学生を対象に行った調査が凄い。「自分の肉親の臨終を実際体験した人」と聞いたところ、誰一人、手があがらなかったそうです。私も同じ。臨終の場というものを知りません。それだけ、「死」というものが、現実から遠くなっているのでしょう。
だからこそ、死について考える必要があると私は思っています。
※最近、ブログのテーマが暗くなって申し訳ないと思っています。しかし、これが、現在、私が取り組んでいる修士課程の学修なので、ご容赦願います・・・
やはり、ターミナルケアの本は、重く、苦しいものです。
ホスピスに入った患者さんの話として、「頑張ってね!」と励まされるのは、かなり厳しい言葉だという話が数カ所出ておりました。
カウンセラーは、うつ病の人に「頑張れ」と励ますのはタブーと教えられています。瀬戸際の状況で頑張っているのに、これ以上、どう頑張ればよいのか・・・という気持ちから、最悪、自殺する恐れがあるからです。
それとよく似たものでしょうか。これ以上、励まされても、どうすればいいのか分からない・・・ですので、健常者が、気楽な慰め言葉として「頑張れ」と励ますのは、ある意味、残酷な言葉なのです。
ホスピスに入った患者さんの話として、「頑張ってね!」と励まされるのは、かなり厳しい言葉だという話が数カ所出ておりました。
カウンセラーは、うつ病の人に「頑張れ」と励ますのはタブーと教えられています。瀬戸際の状況で頑張っているのに、これ以上、どう頑張ればよいのか・・・という気持ちから、最悪、自殺する恐れがあるからです。
それとよく似たものでしょうか。これ以上、励まされても、どうすればいいのか分からない・・・ですので、健常者が、気楽な慰め言葉として「頑張れ」と励ますのは、ある意味、残酷な言葉なのです。
この本も死生学特講の課題図書です。
この本の著者も、柏木先生と同じ淀川キリスト教病院に勤務されていた方です。この表題にもある「ホスピスチャプレン」という言葉に興味があったのですが、何の意味かよくわからない・・・
そう思って読み続けていると、P.209から「チャプレン」の仕事について書かれていました。「チャプレン」とは、施設付の宗教家のことで、欧米では神父か牧師のことを意味するそうです。日本におけるチャプレンには3種類あって、病院や福祉施設のチャプレン、学校チャプレン、刑務所チャプレンがあるそうです。
知らなかったな~
この本の著者も、柏木先生と同じ淀川キリスト教病院に勤務されていた方です。この表題にもある「ホスピスチャプレン」という言葉に興味があったのですが、何の意味かよくわからない・・・
そう思って読み続けていると、P.209から「チャプレン」の仕事について書かれていました。「チャプレン」とは、施設付の宗教家のことで、欧米では神父か牧師のことを意味するそうです。日本におけるチャプレンには3種類あって、病院や福祉施設のチャプレン、学校チャプレン、刑務所チャプレンがあるそうです。
知らなかったな~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
この本には、「うつ」についても書かれています。
P.79には、ユングが「うつとは創造的退行である」と提唱したことが取り上げられています。その人がもっているさらなる可能性を引き出すための「一時的退行」という意味だそうです。
P.79には、ユングが「うつとは創造的退行である」と提唱したことが取り上げられています。その人がもっているさらなる可能性を引き出すための「一時的退行」という意味だそうです。
何日続くかわからないけれど、人間学関連の本を「毎日1冊は読もう!」と決意した。
柏木先生の図書は死生学特講でも参考文献となっているもの。ホスピスの実態がよくわかる本です。
しかし・・・この本、実際の患者さんの写真が多数使われています。名前は「Aさん」「Tさん」と匿名になっているのですが、ご本人の元気そうな写真や、死の1週間前の写真も使われています。
ホスピスですから、死を前提とした場。読んでいて、辛いのですが、向き合わなければなりません。
柏木先生の図書は死生学特講でも参考文献となっているもの。ホスピスの実態がよくわかる本です。
しかし・・・この本、実際の患者さんの写真が多数使われています。名前は「Aさん」「Tさん」と匿名になっているのですが、ご本人の元気そうな写真や、死の1週間前の写真も使われています。
ホスピスですから、死を前提とした場。読んでいて、辛いのですが、向き合わなければなりません。
この本は死生学の参考文献である。
何気なく手に取ったこの本が、私を人間学へといざなった。感じるところは多々あるのだが、取り上げたいのはpp116‐117。以下に記載したい。
内容としては、著者が知り合いのシスター(アリス)から聞いた、アグネスという女性が「ベティー・イーディーの本」を読んで人生が変わったことについて書かれている。
>私たちのこの世の人生は成長のために与えられている。この世のすべての体験が益と
>される。この世で味わう苦痛は、じぶんの霊的な成長のために与えられるのである。
>私の人生に起こることすべてが、意味を持ち、私の成長を促してくれるのである。
>とくに、私の目を開かせてくれたのは、この本の次の一節です。
>「道に飛び出して、酔っ払いの車にひかれて死ぬことを選んだ人がいたとします。
>そんなひどい話があるかという気もするのですが、神の純粋な知識のなかでは、
>ひかれて死んだ人の霊は、いずれ起こるはずだった悲惨な事故から、その運転手を
>自分が救ってあげたとわかっているのです。人をひいた運転手は、その一週間後に
>また酔っ払って、十代の若者の群をはねて、無用の痛みや苦しみにあわせてしまうかも
>しれなかったのです。でも、この運転手はそうはならずにすみました。人をひいた罪で
>刑務所に入っていたからです。ひかれた人はこの世で自分の目的をこれで遂げることが
>できました。永遠の観点から見れば、若者たちは無用な苦しみをま免れ、運転手は成長
>を体験する出発点につかされたことになります。この世で、一見なんの脈絡もなさそう
>な体験をするようなときでも、きちんと導かれていくからです」
>この本によって私の生き方は変わりました。私は苦しみの意味を理解し、許す力を与え
>てもらったからです。そして生きる根源は『愛』につきることがよくわかりました。
>息子を失った苦しみが、ここまで私を成長させてくれたのです。あの世にいる息子とも、
>今は喜びのうちに一致しています。
一般的には、愛する人を事故で失った場合、怨みや悲しみ、無念さで、悲嘆に明け暮れることだろう。しかし、ここに書かれている考え方においては、死ぬこと自体、意味を持っていると言えないだろうか。例え、受け入れ難い、残酷な死であったとしても、神の知識の中では、そのことに意味がある。それによって、変わる未来があり、いかなる場合においても、決して、死は無意味なものではないという考え方。
また、その死に関わることで、自分自身の成長が成されるという点も、今までの私には考えられないことであった。
死を、恐れ、忌み嫌い、避けるのではなく、真正面から見て行きたい。そして、人間というものについて、もっと正しく理解したい。そう思った一冊でした。
何気なく手に取ったこの本が、私を人間学へといざなった。感じるところは多々あるのだが、取り上げたいのはpp116‐117。以下に記載したい。
内容としては、著者が知り合いのシスター(アリス)から聞いた、アグネスという女性が「ベティー・イーディーの本」を読んで人生が変わったことについて書かれている。
>私たちのこの世の人生は成長のために与えられている。この世のすべての体験が益と
>される。この世で味わう苦痛は、じぶんの霊的な成長のために与えられるのである。
>私の人生に起こることすべてが、意味を持ち、私の成長を促してくれるのである。
>とくに、私の目を開かせてくれたのは、この本の次の一節です。
>「道に飛び出して、酔っ払いの車にひかれて死ぬことを選んだ人がいたとします。
>そんなひどい話があるかという気もするのですが、神の純粋な知識のなかでは、
>ひかれて死んだ人の霊は、いずれ起こるはずだった悲惨な事故から、その運転手を
>自分が救ってあげたとわかっているのです。人をひいた運転手は、その一週間後に
>また酔っ払って、十代の若者の群をはねて、無用の痛みや苦しみにあわせてしまうかも
>しれなかったのです。でも、この運転手はそうはならずにすみました。人をひいた罪で
>刑務所に入っていたからです。ひかれた人はこの世で自分の目的をこれで遂げることが
>できました。永遠の観点から見れば、若者たちは無用な苦しみをま免れ、運転手は成長
>を体験する出発点につかされたことになります。この世で、一見なんの脈絡もなさそう
>な体験をするようなときでも、きちんと導かれていくからです」
>この本によって私の生き方は変わりました。私は苦しみの意味を理解し、許す力を与え
>てもらったからです。そして生きる根源は『愛』につきることがよくわかりました。
>息子を失った苦しみが、ここまで私を成長させてくれたのです。あの世にいる息子とも、
>今は喜びのうちに一致しています。
一般的には、愛する人を事故で失った場合、怨みや悲しみ、無念さで、悲嘆に明け暮れることだろう。しかし、ここに書かれている考え方においては、死ぬこと自体、意味を持っていると言えないだろうか。例え、受け入れ難い、残酷な死であったとしても、神の知識の中では、そのことに意味がある。それによって、変わる未来があり、いかなる場合においても、決して、死は無意味なものではないという考え方。
また、その死に関わることで、自分自身の成長が成されるという点も、今までの私には考えられないことであった。
死を、恐れ、忌み嫌い、避けるのではなく、真正面から見て行きたい。そして、人間というものについて、もっと正しく理解したい。そう思った一冊でした。
武蔵野大学の学園祭である「麻耶祭」の後、家族で近くのサイゼリアで昼食をとった。
相変わらず、店内は混雑しており、店員は4つ、5つと注文品を抱えて店内をせわしく、動き回っていた。その配膳技術に、ちょっと、感心してしまう。
「ミラノ風ドリア」が確か、300円しなかったと思う。そう、299円だ。実際、ミラノに行ったことがないから、イタリア人がこのような食事をとっているのか不明であるが、確かに安い。
牛丼も300円前後、回転寿司なら5皿で500円程度。昔と比べて、物価は上がっているはずだが、外食は逆に安くなっているのではないか?家でちょっとした食事を作る方が高くつく。そんな時代になってしまった。
外食が安くなるのは消費者にとっては有難い限りだが、アルバイトやパートといったスタッフの低賃金、あるいは名ばかり店長の残業代カットによって、実現している低コスト体制の結果だとすれば、素直に喜べない一面もある。
現代のように美食化した日本においては、ファミレスの食事は、均一的で、それなりの味と言えるのかもしれないが、考えようによっては、これほど衛生的な食事は昔の王侯貴族ですらムリであっただろう。味も、化学調味料が発達しており、我々にとっては馴染みの味も、きっと至高の味に思えるにちがいない。それがいいのか、悪いのかは別にして。
我々が、一般的に感じている生活も、100年、200年前には、一部の上流社会の人間しか経験できなかったものなのである。自家用車を持っているとか、高層の建物に住むとか、海外旅行に行くとか・・・そうそう、本を読むとか、大学に行くとか。テレビや携帯電話なんて、存在すらしていなかった。
便利な時代だからこそ、有難味というものを忘れがちになってしまう。夜になっても明るいから、オバケやモノノケもいなくなってしまった。
それだけではない。本来なら、命を落とす病気ですら、治ってしまう時代となった。大昔は、出産は大きなリスクを伴い命賭けであった。しかし、今では、命を落とす方がレアとなり、そのような事態が発生すればニュースとなる時代となった。
このような時代となって・・・何かにつけ感動を失い、人生において喜怒哀楽が少なくなったと思うのは私だけだろうか?
最近、自然を愛でることがありましたか?
私は月を見るのが好きである。富士山を眺めるのが好きである。青い空、白い雲も美しく感じるし、夕日や朝日に空が赤くなるのも好きである。
身近な自然を失い、それとともに人間も自然の一部であり、自然と共に暮らしてゆかざるを得ないことを見失っていないだろうか。自然あっての人間なのに、逆に、自然環境を破壊してゆく。
そうして、自然から搾取した結果が、大量かつ安価な消費財の生産につながっているのではないだろうか。
「男のくせに泣くな!」というのは、戦前の教育の遺産である。古典をひもとけば、いとも簡単に日本男児は泣き至る。自然の風景であったり、上手な管弦楽の演奏であったり、感動すれば涙がでるのは当然なのである。「もののあわれ」について、感じる機会が少なくなってきたのではないだろうか。
サイゼリアで家族4人で2,056円の食事をしておきながら、こんなことを言う資格がないのかもしれないが、ふと、思ったことを書き記す。
相変わらず、店内は混雑しており、店員は4つ、5つと注文品を抱えて店内をせわしく、動き回っていた。その配膳技術に、ちょっと、感心してしまう。
「ミラノ風ドリア」が確か、300円しなかったと思う。そう、299円だ。実際、ミラノに行ったことがないから、イタリア人がこのような食事をとっているのか不明であるが、確かに安い。
牛丼も300円前後、回転寿司なら5皿で500円程度。昔と比べて、物価は上がっているはずだが、外食は逆に安くなっているのではないか?家でちょっとした食事を作る方が高くつく。そんな時代になってしまった。
外食が安くなるのは消費者にとっては有難い限りだが、アルバイトやパートといったスタッフの低賃金、あるいは名ばかり店長の残業代カットによって、実現している低コスト体制の結果だとすれば、素直に喜べない一面もある。
現代のように美食化した日本においては、ファミレスの食事は、均一的で、それなりの味と言えるのかもしれないが、考えようによっては、これほど衛生的な食事は昔の王侯貴族ですらムリであっただろう。味も、化学調味料が発達しており、我々にとっては馴染みの味も、きっと至高の味に思えるにちがいない。それがいいのか、悪いのかは別にして。
我々が、一般的に感じている生活も、100年、200年前には、一部の上流社会の人間しか経験できなかったものなのである。自家用車を持っているとか、高層の建物に住むとか、海外旅行に行くとか・・・そうそう、本を読むとか、大学に行くとか。テレビや携帯電話なんて、存在すらしていなかった。
便利な時代だからこそ、有難味というものを忘れがちになってしまう。夜になっても明るいから、オバケやモノノケもいなくなってしまった。
それだけではない。本来なら、命を落とす病気ですら、治ってしまう時代となった。大昔は、出産は大きなリスクを伴い命賭けであった。しかし、今では、命を落とす方がレアとなり、そのような事態が発生すればニュースとなる時代となった。
このような時代となって・・・何かにつけ感動を失い、人生において喜怒哀楽が少なくなったと思うのは私だけだろうか?
最近、自然を愛でることがありましたか?
私は月を見るのが好きである。富士山を眺めるのが好きである。青い空、白い雲も美しく感じるし、夕日や朝日に空が赤くなるのも好きである。
身近な自然を失い、それとともに人間も自然の一部であり、自然と共に暮らしてゆかざるを得ないことを見失っていないだろうか。自然あっての人間なのに、逆に、自然環境を破壊してゆく。
そうして、自然から搾取した結果が、大量かつ安価な消費財の生産につながっているのではないだろうか。
「男のくせに泣くな!」というのは、戦前の教育の遺産である。古典をひもとけば、いとも簡単に日本男児は泣き至る。自然の風景であったり、上手な管弦楽の演奏であったり、感動すれば涙がでるのは当然なのである。「もののあわれ」について、感じる機会が少なくなってきたのではないだろうか。
サイゼリアで家族4人で2,056円の食事をしておきながら、こんなことを言う資格がないのかもしれないが、ふと、思ったことを書き記す。
人間学の学習を真剣にスタートしてまもない状況だが、「生きること」とは「よりよく死ぬこと」のための準備期間ではないかと思いはじめてきた。
今までは、よりよく生きるために、生涯学習へ取り組むことを提唱してきたが、生きることが「よりよく死ぬ」ことなら、「更によりよく死ぬ」ために、生涯学習に取り組むこととなるのだろうか・・・
家にある本を含めて、一気に人間学関連の書籍を30冊程度読んだのだが、多くの本に共通している言われていることがある。それは、日本では「死」ということが忌み嫌われ、口にすることすら避けられるということである。
よく日本では「言霊」という表現がなされ、タブーを口にすると現実になると言われることがある。だから、「死」という表現が避けられるのだろうか?
自分自身を振り返ると、「安楽死」等、「死ぬこと」に対する教育を受けた記憶がない。実際、教育を受けたのかもしれないが、頭の中に、これっぽっちのカケラも残っていない。生きている以上、死は必ず訪れる。しかし、その時に、どのように立ち向かうか、どう振る舞うかについて、私には一切の知識がないのだ。いや、想像すらしたことがなかった。
実際、今までに近親者で亡くなったのは、「祖母(父方)」「祖母(母方)」「伯父」「従姉」しかいない。しかも、死に目に立ち会ったのはゼロ。また、祖母は共に、死の予兆がない、いわゆる「ポックリ死」であり、従姉は事故死である。伯父は入院していたが、ほとんど接触がなかった。
死ぬ瞬間に立ち会ったことがないことと、死ぬことは苦しいことだというのを知らないから、死ぬことが大変だとは思わなかった。いや、死を想像することすら避けてきたのかもしれない。
鎮痛剤やモルヒネを使わなければならないほどの苦痛や、食べること・飲むことすら激痛が走る状況や、体中にチューブ類が挿入・装着されるスパゲティ症候群・・・死の前の段階に、そういう過程があるなんて知らなかった。なんと、のん気で、世間知らずだったのだろうか。
「死にたい、死にたい」と言っている患者が、いざ、症状が悪化して手術の段階になると「先生、命だけは助けてください!」と懇願するケースがあるそうだ。しかし、実際、その立場になったことのない私が、その生への執着を笑うことができるのだろうか。
脳死は人の死とするのが常識となりつつあるが、脳死患者から臓器を取り出そうとするとき、死んでいるはずなのに、メスを入れると血圧が上昇することがあるそうだ。脳死者は本当に臓器を摘出される時、苦痛を感じていないのか・・・
一方で、臨死体験というのもある。死は苦痛のはずなのに、死と隣合わせの際に体験する臨死体験では、非常に心地よい状況となるそうだ。安楽というか、精神的にも満たされた状況だと生還した人々は共通に口にする。
今まで、生きること、死ぬこと、そして、人間とは何か、人間であるためにどうすべきなのか等々、人として当たり前過ぎて、考えたこともなかった。しかし、突き詰めて考えると、何も知らなかったテーマである。そう、私は無知なのである。何も分かっていないし、分かろうともしなかった。いや、できれば避けたかった。
この「人間学」というテーマを深めていくと、きっと、「哲学」になったり「宗教学」になったりするのではないかと思っている。
私も現在42歳。数えでは厄年を脱したが、この「42」=「死に」という語呂合わせからも、忌み嫌われる年齢で、人間学の必要性をやっと認識できたのは、幸運なのかもしれない。きっと、読み続ける文献や講義の内容のなかには「辛いもの」「耳を覆いたくなるもの」もあるだろう。しかし、あるがままの人間を理解するためにも、その内容を直視し、自分の考えを構築していきたい。
それが、半年かかって、ようやく到達した、私なりの「答え」であるから。
今までは、よりよく生きるために、生涯学習へ取り組むことを提唱してきたが、生きることが「よりよく死ぬ」ことなら、「更によりよく死ぬ」ために、生涯学習に取り組むこととなるのだろうか・・・
家にある本を含めて、一気に人間学関連の書籍を30冊程度読んだのだが、多くの本に共通している言われていることがある。それは、日本では「死」ということが忌み嫌われ、口にすることすら避けられるということである。
よく日本では「言霊」という表現がなされ、タブーを口にすると現実になると言われることがある。だから、「死」という表現が避けられるのだろうか?
自分自身を振り返ると、「安楽死」等、「死ぬこと」に対する教育を受けた記憶がない。実際、教育を受けたのかもしれないが、頭の中に、これっぽっちのカケラも残っていない。生きている以上、死は必ず訪れる。しかし、その時に、どのように立ち向かうか、どう振る舞うかについて、私には一切の知識がないのだ。いや、想像すらしたことがなかった。
実際、今までに近親者で亡くなったのは、「祖母(父方)」「祖母(母方)」「伯父」「従姉」しかいない。しかも、死に目に立ち会ったのはゼロ。また、祖母は共に、死の予兆がない、いわゆる「ポックリ死」であり、従姉は事故死である。伯父は入院していたが、ほとんど接触がなかった。
死ぬ瞬間に立ち会ったことがないことと、死ぬことは苦しいことだというのを知らないから、死ぬことが大変だとは思わなかった。いや、死を想像することすら避けてきたのかもしれない。
鎮痛剤やモルヒネを使わなければならないほどの苦痛や、食べること・飲むことすら激痛が走る状況や、体中にチューブ類が挿入・装着されるスパゲティ症候群・・・死の前の段階に、そういう過程があるなんて知らなかった。なんと、のん気で、世間知らずだったのだろうか。
「死にたい、死にたい」と言っている患者が、いざ、症状が悪化して手術の段階になると「先生、命だけは助けてください!」と懇願するケースがあるそうだ。しかし、実際、その立場になったことのない私が、その生への執着を笑うことができるのだろうか。
脳死は人の死とするのが常識となりつつあるが、脳死患者から臓器を取り出そうとするとき、死んでいるはずなのに、メスを入れると血圧が上昇することがあるそうだ。脳死者は本当に臓器を摘出される時、苦痛を感じていないのか・・・
一方で、臨死体験というのもある。死は苦痛のはずなのに、死と隣合わせの際に体験する臨死体験では、非常に心地よい状況となるそうだ。安楽というか、精神的にも満たされた状況だと生還した人々は共通に口にする。
今まで、生きること、死ぬこと、そして、人間とは何か、人間であるためにどうすべきなのか等々、人として当たり前過ぎて、考えたこともなかった。しかし、突き詰めて考えると、何も知らなかったテーマである。そう、私は無知なのである。何も分かっていないし、分かろうともしなかった。いや、できれば避けたかった。
この「人間学」というテーマを深めていくと、きっと、「哲学」になったり「宗教学」になったりするのではないかと思っている。
私も現在42歳。数えでは厄年を脱したが、この「42」=「死に」という語呂合わせからも、忌み嫌われる年齢で、人間学の必要性をやっと認識できたのは、幸運なのかもしれない。きっと、読み続ける文献や講義の内容のなかには「辛いもの」「耳を覆いたくなるもの」もあるだろう。しかし、あるがままの人間を理解するためにも、その内容を直視し、自分の考えを構築していきたい。
それが、半年かかって、ようやく到達した、私なりの「答え」であるから。