【引用】
>クランボルツ教授の「予期せぬ出来事が人生やキャリアに
>果たす役割は大きい。ならば、積極的かつ肯定的にそうした
>出来事をとらえよう」と考えるのがハプンスタンス・アプロ
>ーチの考え方だ。
私の思っていたことを代弁してくれています。キャリアの形成は、ほんのちょっとした出会いやきっかけが原因ということです。
キャリア以外でも「人生の転機」っていうものは、ちょっとしたきっかけじゃなかったですか?読者は既にご存知の、私と家内との出会いが「偶然」であったのと同様、何事も、偶発的な出来事の重なり合い。しかし、後から振り返るとあたかも、それが必然だったように思えるのが、人生の面白いところ。
ちまたの人々は「運命の糸」とか言っているが、わたしは、これを「神の見えざる手」と提唱?している。「運命の糸」と言ってしまうと、なんだか、受身であるが、「神の見えざる手」の働きは、努力したり、積極的にかかわっていくといった自己の内面からの「作用」を行うことに起因するところが違う。
色々な人の話を聴いて、かかわりを持ち、学習して、意欲を持ち続けることが、何らかの、触媒となって、自己を「化学反応」させることが、「神の見えざる手の働き」ということだ。
子供が「自閉症的」といわれたのと同様、私も、学生時代までは「自閉的性格」であったので、人とかかわりを持つことが苦手であった。人の目を見て話すこともできないし、付き合いをする時間があったら図書館で本を読んだり、遺跡をめぐっているほうがずっと「楽」で楽しかった。(この、ブログの文章を見ても、その性格の一端がうかがわれる・・・)
社会人として、人とかかわっていかなければいけないのだが、かなり無理をしていたようだ。「喧嘩ばかりして、協調性がない」というのが、人事評価であった。上司も使いづらかったろう(謝)。
産能大学の通教に入ったのも偶然だし、その入学動機も偶然そのもの。多くの仲間を得ることができたのも偶然だし、行こうと思っていた大学院を変更したのも偶然。試験に合格できのも偶然だし、それ以前に「行くことについて反対はしない(しかし、応援もしない・・・)」という会社側の暗黙の了解を得ることができたのも偶然だ。
そうやって考えると、生命が生まれたのも偶然に他ならない。そんな偶然のつながりで生きているのが人間。壮大なスケールで展開された歴史の中に、自分という「必然」が「偶然」に生まれているわけだ。
そう考えると、ちっぽけなことで悩んでいるのがバカらしくなる。そして、なんやかんやと理屈をつけて、積極的に動こうとしない自分が恥ずかしくなる。
太古より、そのDNAというバトンを「偶然」にリレーしているのが我々である。いわば、聖火をリレーしているようなものだ。我々世代が担えるのは、よくて100年しかない。その中で、どれだけ、精一杯努力したかが、自分がリレーしている中での成果といえる。
積極的に最初の一歩を踏み出さないと、ハプンスタンス・アプローチの「ハプン」の部分は永遠にやってこない。
その一歩を踏み出すことを決めるのは自分である。
しかし、その一歩を踏み出した「勇気」を救うのは、人生のメンターであり「友」であるといえよう!