人の夢と書いて儚いと読む。叶わないからこそ夢であり、叶わないと思っているからこそ夢である。叶う夢は夢に非ず。それはただの願望。ただの現実。
現実。せめて寝ている時に見る夢くらいは華やかであれと願うが、それすらも低確率という悲しい現実。見ても覚えてないし。
それに似た期待を込めるチャンスが年に2、3回くらいある。人によっては4回くらいあるのだろうか。
そう、ジャンボ宝くじである。
当たらない事がほぼ確定しているギャンブルになぜ乗るのか。いや、当たらない事がほぼ確定している時点でギャンブルでさえない。あの確率で当たる人とかホントなんなの。
宝くじの一等が当たる確率は、飛行機が落ちる確率より低いとか高いとか言われているが、それってあんまりだと思う。
片や3億を手にし、片や飛行機で墜落。とかくこの世は不公平である。
そう不公平だからこそ、人は神を生み出し、宝くじを生み出したのだろう。
3億円当たるのではないかという期待と夢を買うのである。
誰もが一度は自分が3億円を手にした光景を思い浮かべた事があるだろう。何に使おうか、毎晩10万使ってもなんちゃら、仕事やめてやる、知らない親戚が増えるみたいだからマンション買って引っ越そう、などなど。スーパーな戦闘民族並の無双状態。
ただし、この夢想無双状態になるのもタダではない。宝くじを買わなければ夢想する権利もない。買わなければそこで試合終了ですよ、というわけである。
そしてこの儚い夢物語は当選日をもって終了となる。当たるとか当たらないとか言うレベルですらない事を痛感し、神はただの紙に戻り、手元に残った6等300円の紙を自虐的な笑みを浮かべながら財布にしまう。
そうして宝くじを買うという行為をやめたのだが、先日図面屋Oさんと飲んでいる時に彼は言った。
「いや、俺がこのさき死ぬまでに3億円稼ぐ確率に比べたら、まだ宝くじ買った方が確率的にはアリでしょ」
なんだこの後ろ向きながら前向きな考え方は。
いや、でも僕がこの先、何かしらで3億円稼ぐ確率・・・・。チッチッチッチッチーン!ゼロです。いやいや失礼な。ゼロじゃねぇよ。犯罪的なアレすれば可能、という下らない可能性は省いたとして、確かに普通に生きていたらゼロであろう。
なるほど、確かに宝くじは確率的にゼロではない。天文学的数値とは言え、実際に高額当選している人もいるわけだし。
アリです。
というわけで、宝くじを買いました。それだけです。