無知の涙

おじさんの独り言

もののけ姫

2014年07月07日 | 漫画やアニメ

先週の金ローで放映された、もののけ姫を観ました。

もののけ姫を見ると、どうしても宮崎監督とエヴァの庵野監督との師弟対決を思い出してしまう。

公開は1997年でしたか。何がキッカケだったか思い出せないけど(そもそもキッカケなんてあったのだろうか?)、雑誌などのインタビューで互いに批判し合うようになった2人。エヴァは観たけど3分しか観なかったね(見るに堪えなかった)、という宮崎監督に対し、宮崎監督はトトロ以降つまらなくなった、という庵野。当時の事なので、言い回し等は微妙に違うかもしれないけど、まぁニュアンス的にはそんな感じだったと思います。

当時スキゾ・エヴァンゲリオン、パラノ・エヴァンゲリオンとかいう本が出ていて、それを買って読んだらそんな感じでけっこう宮崎監督批判をしていて、当時あまりそういうアニメ界についてほとんど何も知らない僕はこんなこと言って大丈夫なの?とハラハラしたものです。大丈夫ではなかったからこその師弟対決でしょうが、読み物としては面白かった。今読んだらもっと面白いと思うが、どこいっちゃたかな。というか、それがもう17年前とは。

あれを読んだキッカケでエヴァがというか、庵野監督がガンダムの影響を受けている事を知り、1stガンダムを見直す事になって、どんどんロボットアニメにハマっていくことになった。良くも悪くも。

まぁ個人的な話はいいとして、1997年映画公開当時、それぞれのポスターに掲げられた作品のキャッチコピーも対照的で面白かった。みんな、死んでしまえばいいのに、という庵野に対し、生きろ、という宮崎監督。

 

結果は言うまでもなく、興行収入で宮崎監督の圧勝。その興行収入は200億に迫ったと思うが、意外に宮崎監督にとってはこの師弟対決は良かったのではないでしょうか。確かに庵野の言うとおり、トトロ以降もあまり良い作品がない(個人的にはトトロもどうかと思うが)、庵野監督が言うパンツうんぬんの比喩はよく分からないが、無難にまとまりつつあったような気がする。ナウシカやラピュタを見た時の心が震えるような感動がない。それは宮崎監督自身も分かっていたのではないだろうか。図星を突かれたことによる怒り。

なので、もともと対決する気まんまんだったのは宮崎監督だけで、庵野はそれどころではなかったような気がするけど。今では宮崎監督と庵野は仲が良いみたいですね、風立ちぬの声優もやっていたし。

そんなもののけ姫ですが、ちゃんと観たのはこれで2回目。最初に観た時は正直面白くも何ともないという感想だったけど、今回観たらすごい面白かった。当時は前述した師弟対決の事もあり、最初からやや否定的な目で見ていたからわからなかったなぁ。


もののけ姫も割と救いのない話で、人は豊かになる為に自然を壊してゆくが自然もまた保つ為に人を殺す。いつか人は自然を滅ぼすが、また人も滅ぶだろう、何故なら人は自然に生かされているからである、宮崎監督の中で一貫しているとも言える、人と自然は共存していかないといけないというメッセージがこめらているように思う。

2014年に至った人類にとってそのメッセージは割と救いがなく、人類の環境破壊は留まる事を知らず、それが要因で招いているであろう異常気象は年々頻度を増し、もたらされる被害も大きくなっているように思える。発展途上国や後進国が更に発展していけば、問題は更に深刻なものとなるはずである。

ただ物語のうえでそれでも自然はアシタカに生きろという。これは人として生かしたのか、自然と人との調停役として生かしたのか謎であるが。 それを希望と捉えるのか、絶望と捉えるのか、作品を見た人それぞれに委ねられていると思います。

人間の本質として生すなわち欲望であり、欲望こそが生である。良い悪い、好む好まぬというレベルではなく、本質としてそういうものだという話。これに加えて人間は高度な頭脳を持っている為、自意識を持つようになる。この自意識が欲望すらも進化させ、やがて他者との壁を作り、国境と言う壁を作り、小さくも大きくも常に利害が絡むため争いが絶えない。

ガンダムユニコーンEP4のジンネマンとバナージの会話にもあったように、人はどんどんそのシステムを複雑にしてしまい、生きること自体を難しくしてしまった。もののけ姫でいうところの、シシガミの首を取り、生あるものが滅びるまでそれは決して終わらない。

ここらへんのことを見事に表現した作品がグレンラガンだと思うが、話が逸れすぎるのでまたの機会に。

一方エヴァはといえば、キャッチコピーの強烈さから徹頭徹尾救いのない話のように見えるが、意外と最後は光明を見出す。もののけ姫と辿り着くところは変わらないのだが、前面に出しているテーマと作品が実際に持つ深層テーマとしては真逆なものを感じるあたり、それぞれの性格的なものが伺えて面白い。

旧劇のエヴァでは最後にシンジが僅かであるが生きる事への希望を見出す。もののけ姫の自然と人と言うテーマに対し、あくまでエヴァは人と人である。

個の壁をなくし1つの生命体へと進化させる人類補完計画は、人を傷つけ、大切なものを何一つ救えずに手からこぼれ落ちてしまい、またそれによって自分も深く傷き、すっかり現実を見失ったシンジが望んだ世界そのものでもあった。

だが彼は気づく。ここは違う、と。他者との関わりを今一度望めば、再び心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖が始まるのよ、というレイの言葉に、シンジは答える。相互理解、人と分かり合えるかもしれないという希望は見せかけなんだ、自分勝手な思い込みなんだ、いつかは裏切られるんだ、僕を見捨てるんだ。でももう一度会いたいと思った。その気持ちは本当だと思う、と。

ここは旧劇唯一の希望的な場面であり、心に残っている。テレビ版の最終2話ぶんを詰め込んだ形になっているが、ようやく自分の存在を肯定し、生きるという事とはそういう事を繰り返して行くのだということをシンジが認識し肯定した瞬間である。

その割にオチには一切の救いがなく、あの状態でのシンジが望んだのに生き残った他者はアスカ以外はいない感じで、せっかく希望もなんとなくブレてしまったような形になってしまい、当時はすっかり興醒めしてしまった。分かりやすく、凡庸な形にしてくれれば、もう少し素直に時間をかけずにこの作品の良さを理解したのだが、庵野監督自身の感情が入り込み過ぎてどうも作品として捉えるのに時間がかかってしまった。エヴァというのはそういう作品であり、またそうであったからこそ、それまでのアニメの概念的なものをぶち壊して成功を収めた要因であるから、仕方がないと言える。何度も言うように作品は監督のものである。気に入らないなら肩をすくめてその場を立ち去るしかない。

とまぁ長々と書いてしまいましたが、2つの作品が持つテーマは正反対のようでありながら、実際は同じところにある。人間が持つ内面と外面というそれぞれの視点から表現方法はだいぶ変わるが、提議していることは変わらない。面白いなと改めて感じました。

宮崎監督はあくまでエヴァを3分しか見ていないと断言しているが、デイダラボッチ?や作品が持つグロテスクな部分等、けっこうエヴァを意識しているところがあると思われ、本当に見ていないか怪しいところではある。

矢で射ぬかれて、あんな刀剣を使用したような切断面になるのだろうか。生と死を分かりやすくする為とはいえ、わざわざ表現をグロテスクにしているような気さえする。子供の時に観たら軽くトラウマになっていたと思います。