先回のブログで、実業家、原三渓の春景山水図を紹介しました。
今回は、江戸後期、美濃を代表する南画家、高橋杏村の花鳥画です。杏村は、三渓の母方、祖父です。
全体:71.6㎝x192.8㎝、本紙(紙本):58.6㎝x130.3㎝ 。元治元(1864)年。
【高橋杏村】文化元(1804)年―慶応四(1868)年。江戸時代後期の南画家。美濃國神戸(ごうど)村(現、岐阜県安八郡神戸町)生れ。名は九鴻、字を景羽、號は杏村、爪害、塵遠草堂等。画を中林竹洞、書を頼山陽に学ぶ。山水、花鳥画を得意とした。また、漢詩、漢学にも通じ、私塾「鉄鼎学舎」を開き多くの門人を育てた。長女、琴は、美術愛好家の実業人、原三渓の母。
穏やかで素直な筆致の日本画です。
高橋杏村は、山水画、花鳥画共によくしましたが、一般には、花鳥画が好まれたようです。
群鳫報聲
甲子桃花月寫於塵遠
草堂 杏村 印 印
雁たちが、互いに呼び合っている図です。
「塵遠草堂」は、杏村の号の一つですが、彼の住居(画室)に付けた名称でもあります。
桃花月とありますから、3月、北へ帰る頃の雁の群れですね。
優しいタッチは、温順高雅であったという杏村の人柄を反映しているのでしょう。
原三渓は、やはり祖父の血を引いているのですね。
この辺りの旧家は、美濃の南画家、高橋杏村の花鳥画と尾張の医師、儒家、永坂石埭の漢詩、山水画を蔵していることが多いです。
こんな雁をごちゃっと描くのですから、まちがいなく杏村は優しいと思います🍀✨✨✨
書は・・師事しただけあって頼山陽に似ているな~と💡
「鉄鼎学舎」っていう名前の私塾が気になりました🐻←素養があってもなかなかつけられないですよね!こういう名前・・
以前、紹介されました「永坂石埭の扁額」を改めて拝見しました。
遅生さんは、幼い頃から、そうした精神性の高い環境の中で育ってきたのですね(^_^)
この葦雁図は何時の頃手に入れられたのでしょうか、、、?
北へ帰ろうと誘っているのでしょうか、雁たちがざわざわし始めている感じも受けます。
鉄鼎は杏村の号でもあったので、鉄鼎学舎と名付けたのでしょう。
尤も、鉄鼎というネーミングには少々驚きます。
ちなみに、故玩館には鉄製の鼎(瓶掛)があります。粗大ゴミ予備軍です。青銅製の鼎の方は、贋物だったのでネットオークションで売りました(^^;
いい掛け軸ですね!(^^)
濃淡だけでこの表現力は素晴らしいですよね。
伊万里の藍色の濃淡に似たような所を感じるました。笑
さらに鳥文様好きなので花鳥図はとても惹かれます(^^)
杏村と同じで、幕末~明治初期には、求める人が多かったのでしょう、かなりの作品が存在します。今は誰も振り向きません(^^;
葦雁図は家にあった物なので、いつ頃入手したのかわかりません。これまた石埭と同様、当時は、それなりの値だったと思います。
陶磁器蒐集も、鳥に焦点をあてると面白いと思います。
伊万里焼は、北前船で大量に運ばれましたから、日本海側には良い品が残っているはずです。
私の知合いの奥さんは、富山県の豪農の出。驚いたことに、蔵にあったと言って、鶉絵の皿を見せてくれました。山下朔郎の本にある、初期から藍九谷へ移行する時期のあの名品です。
秋田も可能性大だと思います(^.^)
故玩館は、やはり、当時の旧家の面影を色濃く残しているのですね(^-^*)
でも、昔は、そんじょそこらの家では、一級品の掛軸は無理でした。見栄をはっても大ヤケドをするだけ。そこで、地元作家の着実な品を求めたのだと思います。
この傾向はずっと続いていて、私がガラクタ集めを始めた頃、「掛軸は無数にあって、どういう物を集めたらいいかわからない」と骨董屋の親爺に言ったら、「地元にゆかりの物を集めるのも一つですよ」と言われました。ナルホドと妙に納得しました(^.^)