先回のブログで、実業家、文人の原三渓が帰郷した時に詠んだ漢詩を紹介しました。その詩のポイントとなるのは、岐阜市の北部、金華山下の古い街でした。
そこで、岐阜市の古い地図がないかと、故玩館の奥をゴソゴソ探しまわりました。ガラクタの山から見つけたのが今回の品です。かなり希少な物と思います。
36.0cmx53.3cm。明治十六年。
西方から見た岐阜市街です。
濃赤黒部が公共施設、神社、古跡、桃色部は寺院仏閣、墓地を、斜線部が一般家屋を示しています。
北西の濃赤黒部は古城跡(岐阜城跡)です。岐阜城(稲葉山城)は関ケ原後に廃城となり、3㎞南の平城、加納城に代わっています(地図には入っていない)。
市街地は、金華山の西南山麓に広がっています。
明治十六年時点で、東西17町、南北19町、戸数2600、人口1万800人です。
戦国時代から江戸時代を経ても、あまり大きくは変化していないことがわかります。
「総名稲葉山、一名金花山」とあります。稲葉山の方が一般的だったのでしょうか。また、金華山ではなく、金花山という表記も今は見かけません。
当時、長良川には小さな木橋が二つ、渡船場が2か所あったことがわかります。
山麓には、稲葉神社と寺社群があります。
その向かい、長良川近くには、名刹、美江寺が。
最初の全体地図を見るとよくわかりますが、稲葉神社と美江寺はあい対しています。この界隈は、斎藤道三が自由市場を設け、市街地をつくろうとした所で、岐阜市の最も古い地域になります。その後、山裾を縫うように市街地が広がりました。先回のブログにあった水琴亭もそこにあります(この地図の時点は移築前、稲葉神社境内にあった)。
なお、初期の街づくりに大きな役割をはたした寺院、美江寺は、戦国時代、天文十(1541)年、斎藤道三が、西方10㎞の美江寺宿(故玩館はその西端)にあった伽藍美江寺から、天平秘仏 、十一面観世音菩薩(奈良時代)を、稲葉山の麓に移して、本尊として建立したものです。
抜け殻となった旧美江寺は廃寺となり、跡地は美江神社(下写、真正面)となっています(^^;
地図記号もあり現在の地図への発展していく途中という感じで面白いですね。(^^)
考えて見れば伊能地図からまだ200余年ですよね?かなり急激に進歩したように思います。
地図の歴史を知る上でも貴重な資料なのではないでしょうか!?
因みにカラーの印刷?なんでしょうか?
額に入れて飾っても様になりそうです(^^)
おいおい、江戸時代の地図も紹介していきます。
明治は、それまでの絵図から近代地図への過度期だと思います。現在の地図の原型は、明治15‐20年にかけて、陸軍参謀本部測量課が作成した日本地図です。
今回の品は、石版か銅版印刷によるものでしょう。色刷りは、江戸時代からの刷りを重ねる方法によっていると思います。