遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

『納札 名物名所合せ』(1)

2021年01月06日 | 納札・紙物

以前、『納札 能楽合せ』を紹介しました。

納札を貼り合わせた折帳には、もう一つのシリーズ、東西名物名所合せの納札(千社札)が多量に貼られています。

先の能楽合せの札は、納札としては少し特殊な物でした。

それに対して、今回の『東西名物名所合せ』は、オーソドックスなスタイルの納札です。貼られた札は非常に多く、また、札に記された名所名物も、当時の世相を知るのに格好の資料でもあるので、私自身の勉強も兼ねて、ブログで少しずつ紹介していきます。

この札合せは、睦會(東京)と天愚會(大阪)が中心となって、東西対抗のような形で作られたと思われます。

 

 

 

 

折帳には、一丁札(4.8x14.4㎝)が、各頁に2枚ずつ貼られています。

最初に貼られた納札は、一丁札2枚分の大さです。ずっと後の方にも、この大きさの納札が数枚貼られています。

 

次の見開きから以降は、一丁札が頁に2枚ずつ貼られています。

 

東西名物名所合せの最初の納札です。

天愚會の催主の名が記されています。

描かれている名物は、雷おこし、ゆかりの助六。

【雷おこし】

有名な浅草名物のお菓子です。

【ゆかりの助六】

この納札で、竹の上に座っているのが助六です。後ろには、丸い物が転がり、桜の花びらが散っています。これは何?

ゆかりの助六は、歌舞伎十八番 助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)の主人公、助六から来ています・・・・捕り手に追われた助六は、とっさに手桶をかぶり、天水の中に隠れます。そして、機をみて水の中から現れ、手桶を後ろへ投げ捨てて、四方を窺う・・・・(本物の水をつかった「水入り」の場面)

納札に描かれているのは、この場面の助六を模したおもちゃです。

割竹の中心にある細竹を後ろへ倒し、少し割竹を叩くとバネのように細竹が戻り、人形がピョンと飛び上がって、反動で被り物が後ろに飛びます。納札に描かれていた丸い物は、手桶なのですね。

この種のおもちゃは「とんだり」とよばれ、江戸時代からある浅草名物です。

 

【阿弥陀池植木市】

大阪市西区、和光寺にある阿弥陀池は、上方落語「阿弥陀池」で知られています。仏生会(旧暦4月)の植木市は、大阪の名物行事として知られ、多くの人が訪れ、賑わいます。落語にも、植木市が出てきます。

【陶器神社の造物】

大阪市中央区、坐摩神社の末社陶器神社では、夏祭り時、せともの祭が行われてきました。その時、豪華な造物が展示され、人気を博しました。特に、藤娘の造物が有名です。

 

【蠣船】

川岸に船をつなぎ、カキ料理を食べさせる屋形船で、道頓堀のものが有名です。

江戸時代、18世紀初頭に、広島のカキ養殖業者が大阪へ船でやってきたのが始まりとされています。明治の初めころから、船上で本格的にカキ料理を出すようになり、大正時代には最盛期を迎え、大阪名物になりました。昭和になると次第に衰え、2001年に最後の牡蠣船が消えました。

この納札には、夜、川に浮かぶ屋形船が描かれ、提灯には「かきミ」と書かれています。納札が作られた大正時代が丁度最盛期(100隻)だったのですね。

【四天王寺聖霊會】(してんのうじしょうりょうえ)

四天王寺(大阪市天王寺区)では、 毎年4月22日、聖徳太子の命日を偲び『聖霊会 舞楽大法要』が開催され、重要無形民俗文化財の天王寺舞楽が披露されます。四天王寺の舞楽は、日本三大楽所(明治に宮内庁学部へ統合)の一つとして重要な役割を果たし、今も、由緒ある伝統舞楽を伝えています。

 

【今戸の焼物】

今戸焼は東京都台東区、浅草周辺、隅田川沿いで焼かれる陶磁器の総称です。安価な楽焼、素焼きの品物を生産し、江戸時代に人気を博しました。高級品ではないものの、簡素な彩色で洒落た小物、それが今戸焼の特徴です。幕末に最盛期を迎えましたが、現在も今戸焼は作られています。

【二井戸粟おこし】

二つ井戸は、阪市中央区にあった旧跡です。江戸時代、道頓堀の東に、二つ並びの珍しい井戸があり、浪速の名所になっていました。

「摂津名所絵図」(寛政8(1794)年)には、「二つ井 道頓堀の東、堀留町にあり 清泉にしてこの辺りの民家の用水とす」とあります。

明治にはいって、都市計画でこの井戸は撤去されることになりましたが、それを惜しんだ粟おこし屋の「津の清」が、井戸の枠を買い取って店頭に移設しました。以後、粟おこしも名物となりました。納札の絵には、箱に「二井戸西 津清」と書かれています。

【小倉屋びんつけ】

小倉屋は元々大阪心斎橋筋に. あった髪付け油の店です。上方落語「三十石夢の通い路」にも登場します。嘉永元年(1848)に暖簾分けによって昆布商となり、明治32(1899)年、戎橋筋に出店し、現在は、小倉屋山本として知られています。髪付け油の店はなくなりました。

 

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これは珍しい!第一回国勢調査の宣伝ビラ

2020年02月09日 | 納札・紙物

先回のブログで、大正9年10月1日に行われた、日本初の国勢調査の調査票を紹介しました。

国勢調査を行うにあたって、多くのポスターが作られ、啓蒙と宣伝が行われました。調査をおこなった調査員に対しては、記念品や徽章が送られました。これらは、まだ、比較的多く残っています。

さらに、この大規模な調査を人々に周知するため、飛行機からの宣伝ビラの撒布も行われました。今回紹介するのは、この時の品です。

前回紹介した国勢調査票とは異なり、いずれも、非常に程度が良いです。大切に扱われた調査票に対して、宣伝ビラは撒きっぱなしの消耗品ですから、現存する物はわずかだと思います。

 

                             8.9x14.2cm

異なる種類のビラ、5枚です。すべて、典型的なアールデコ様式のデザインです。

5枚に共通して書かれているのは、「国勢調査 10月1日」、「飛行宣伝」、「岐阜縣」、「航空第一大隊操縦」の語です。

 

すごいインパクトのデザインです。

 

谷岡ヤスジの漫画を思い出します「アサーッ!」(^^;)

 

国勢調査の日時、10月1日午前零時の夜間の雰囲気をよく表しています。灯台の光も効果的。左上に小さく飛行機が見えます。5枚のビラの中で、最もすぐれたデザインではないでしょうか。

 

「国勢調査は 善政の基礎を作る為め」

100年たった今でもそのまま通用するのが情けない(^^;)

 

「我國創始の一大事業」

当時の意気込みがうかがえます。

 

これらの宣伝ビラを撒布した航空第一大隊とはどんな組織だったのでしょうか。

戦前、日本では空軍は独立して存在せず、陸軍、海軍に航空隊が所属していました。陸軍は、空軍力を重視し、埼玉県に所沢飛行場を、次いで岐阜県鵜沼(現、各務原市)に飛行場を設けました。大正9(1920)年には、隣接する岐阜県那加(現、各務原市 )に大飛行場が開設され、大正6年に所沢飛行場に創設された航空第一大隊が、この大飛行場に移駐したのです。

大正9年6月に岐阜へ移駐したばかりの陸軍の主力航空隊が、10月1日の第一回国勢調査の宣伝ビラを撒布したのです。岐阜県下で、どれだけの範囲にどれだけのビラが撒かれたは不明です。

今回の品は、実際に撒かれて拾われたのではなく、何らかの理由で使われずに保存されていた物でしょう。100年前の品がこのような状態で残っているのは不思議ですが、宣伝ビラ、5種類全部に書かれた「航空第一大隊操縦」の語に関係があるかも知れません。岐阜に移ったばかりの航空第一大隊にとっても、この地で国家大事業に参加することには、大きな意味があったのではないでしょうか。関係者が記念としてとっておいた可能性は否定できません。

なお、各務原飛行場は、戦前、日本有数の空軍基地でした。そのため、戦争末期、米軍の激しい爆撃を受け、甚大な被害を受けました。この空襲では、岐阜県で、唯一、焼夷弾ではなく、1トン爆弾などの爆弾が使われました。現在この場所は、航空自衛隊の基地が置かれ、軍用飛行場となっています。

 

よく見ると、どのビラにも、小さく「西濃印刷」と記されています。現在も続いている老舗の印刷会社です。

 

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日本初の国勢調査票

2020年02月07日 | 納札・紙物

日本初シリーズの第2弾です(次があるかどうかわかりませんが(^^;)。

大正9(1920)年に実施された、日本初の国勢調査の調査票です。

5600万人ほどのデータを収集したので、相当数刷られらはずです。ですから、これが唯一ということはありえませんが、未記入の調査票が残っているのは稀だと思います。

大きな紙の両面を使っています。

印刷が大変薄くなっていて、かろうじて読み取れるくらいです。

通常の濃青色で印刷されたものもあるようですが、今回の品は橙(赤?)色なので、色の堅牢度が低く、退色がすすんでいます。

 

表(おもて)面に記入欄があります。裏(うら)面は記入例が列挙してあります。

 

       表(おもて)面(記入面)

            28.5x42.5㎝

 

記入欄は、上から順に、氏名、世帯に於ける地位、男女の別、出生の年月日、配偶の關係、職業及職業上の地位、出生地、民籍別又は國籍別。

10月1日午前零時でデータを記入(現在も、この日時が国勢調査の基準時)。

 

 

 

一 普通の世帯は、主人、妻、父、母、長男、雇人、来客などと書き入れること。

二 準世帯は、寄宿人、患者、宿泊人、船客、事務員、雇人、船長、船員などと書き入れること。

 

 

 

 

一 誕生の道府縣、郡、市町村の名を書き入れること。

二 誕生の市町村の名の明ならぬ者は、道府縣の名を書き入れること。

三 朝鮮、臺湾、樺太にて生れたる者は、夫々、朝鮮、臺湾又は樺太と書くこと。

四 外国に生まれたる者は、其の國名を書き入れること。

五 航行中の船舶内にて生まれたる者は、水上と書き入れること。

 

一 朝鮮人、臺湾人、樺太人、北海道舊土人は、夫々、朝鮮、臺湾又は樺太又は北海道と書き入れること。

二 外国人は、其の國籍を書き入れること。

 

 

                            裏(うら)面(記入例)

氏名、世帯に於ける地位、男女の別、出生の年月日、配偶の關係、職業及職業上の地位、出生地、民籍別又は國籍別について、七例が書かれています。

 

 

国勢調査票の項目や分類、但し書きなどを細かく検討すると、興味深いことがらが見えてきます。

世帯(ふつうのうち)で、主人、妻、父、母、長男などの他に、雇人、来客を書き入れるとの指示があるのは、当時の家庭内の人々の構成が、現在のものとは相当異なっていたからでしょう。

また、準世帯(世帯に似たうち)で、寄宿人、患者、宿泊人、船客、事務員、雇人、船長、船員などと書き入れるのは、宿、病院、船など、調査時点で、人々が居る場所をうち(家)に準じたものとみなしていたからでしょう。

航行中の船舶内で生まれた場合、出生地は水上と書くことになるのですが、そこまで厳密にする意味はよくわかりません。当時は舩中誕生が多かったのでしょうか(^^;)

 

朝鮮、臺湾、樺太など、当時の植民地、日本統治の時代背景が、国勢調査項目から見てとれます。

また、北海道の先住民を北海道舊土人として、朝鮮人、臺湾人、樺太人とともに、特別扱いしているのも国勢調査の特徴です。

これは、舊土人法の同化政策の根底に、国家による民族差別意識が置かれていたことをはっきりと表しているといえるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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現存、唯一?!日本初の知能検査キット『學齡兒童智力檢査函』

2020年02月01日 | 納札・紙物

無手勝流で蒐集した故玩館の膨大な我楽多を整理しつつ、ブログを書いています。

だまっていても歳は積み重なります。が、資力、気力、体力は齢に反比例して低下の一途、もはやそれなりの品をゲットする力はありません。

しかし、長年に染み付いた習性は消えず、ぶらぶらとネットオークション上を散歩しています。そして、ごくまれに、誰も手を出さないような品をお遊びで入札。

今回の品も、競争入札者はおらず、開始価格で落札できました。しばらくほおっておいたのですが、少し調べてみるとかなりのレア物であることがわかりました。

 

ドクトル三田谷啓 撰『學齡兒童 智力檢査函』です。 大正4年3月13日、兒童書院、南江堂、定価60銭。

          17.0x21.2x2.3cm

 

中味は・・・

ボール紙カード(12x19.2cm) 18枚

小ボックス  5個

△、□形 各1枚

 

中味を広げると・・・・

 

これとほとんど同じ品が、心理学の学会誌に紹介されていました。『心理学ミュージアム「これはなに?」』(心理学ワールド  54巻、2 - 3 、  2011年07月)鈴木朋子・岡村宏美・木下利彦(2009)(写真は「三田谷啓によるビネ式知能検査の改訂」『心理学史・心理学論』第 10/11 巻合併号 1-10 頁より転載)

   

日本で初めて発売された知能検査キット(大正5年、南江堂、1円20銭)で、東京大学総合図書館の所蔵品、現在、数点しか残っていない、と書かれています。

一方、今回の品は、大正4年3月、兒童書院・南江堂から、定価60銭で発売されました。東京大学総合図書館の所蔵品より、1年前の発売です。

したがって、今回の品が日本で最初に発売された『學齡兒童 智力檢査函』ということになります。

これは、ひょっとすると現存する唯一の品かもしれません。

三田谷啓は、大正4年4月15日に、著書『學齡兒童智力檢査法』を、兒童書院・南江堂から発行しています。つまり、ほとんど同時期に、『學齡兒童 智力檢査函』と『學齡兒童智力檢査法』を世に出したのです。この二つはセットとみなすことができます。

『學齡兒童智力檢査法』は、国会図書館アーカイブで読むことができます。その序文です。

「今予はビネー、ジモンの智力檢査法を紹介するに方り、これを我邦の事情に照らし、多少の改訂を行ひたり。 本書に附属して発行せしむるところの「智力檢査函」も、檢査法の改訂に基き予が特別に製造せしめたものに係る。・・・・・・・・・・」

これを読むと、『學齡兒童 智力檢査函』と『學齡兒童智力檢査法』はやはりセットとして、同時に世に出されたものであり、大正4年に発売された今回の品が、日本初の知能検査用具であることがわかります。

いずれにしろ、稀少資料であり、通常では内容を知ることはほとんど不可能ですから、今回の品の全体像をブログにアップしました。使用説明書がついていません(元々の仕様か、紛失かは不明)が、『學齡兒童智力檢査法』を手がかりにして、使い方を考えてみました。

三田谷啓 撰『學齡兒童 智力檢査函』の特徴は、フランスのビネ式知能検査法を、日本児童向きにアレンジしたことであり、年齢に応じて、様々な方法で、児童の智力を検査しようとするものです。

まず、日常を描いたカラーの絵カード3枚です。

 

3歳児対象。絵を見て、描かれている内容を了解するかどうか?

いま私がやっても、結構難しいです。3歳児にわかるのでしょうか。

調べてみると、これらの絵は、年上の6歳児、9歳児、11、12歳児の検査でも使われることがわかりました。例えば、6歳児では、絵の中に各人は何をしているか?という問いになります。

 

二人の女性のカード、3枚・・・・

 

6歳児:2つの顔の美の比較。綺麗な方を選ぶ。

 

一人の女性が描かれたカード、4枚。

 

児童向けにしては、意味深な絵です!(^^;) 

7歳児対象:問いは、「どこが欠けている?」でした(^.^)

 

 

7歳児。問、顔の掛けている部分は?

 

文章が書かれたカード、4枚・・・・

 

10歳児:語句を並べ替えて正しい文章にする。

 

3歳児。6綴の語句を反復する。例「山が見える」

5歳児。10綴の語句を反復する。

6歳児。16綴の語句を反復する。

10歳児。26綴の語句を反復する。

3歳児。2列の数字を反復する。例、13、25、48。

4歳児。3列の数字を反復する。

5歳児。4列の数字を反復する。

7歳児。5列の数字を反復する。

10歳児。6列の数字を反復する。

 

8歳児:読んだ内容を記憶しているか。

 

11、12歳児:物語中の空所を考えさせ、言わせる。

 

2本の平行線が引かれたカード、4枚。これらのカードは、女の人の顔のカードの裏側を使っています。

ドイツ語で、それぞれの線の長さ(㎝)が書かれています(手書き)。

対象年齢不明。線の長さを推定させる?

 

幾何学模様、4枚・・・・

5歳児。正方形、平行線の模写。

8歳児。これは何色?(左から色の識別)

 

三角形、長方形の紙片・・・・・

6歳児。三角形2個を組み合わせて長方形をつくる。

 

錘が入った小箱、5個(3,6,9,12,15g)・・・・・

4歳児。2つの重さの比較をし、軽重を答える。

9歳児。5個の箱を重さの順にならべる。

 

注意書きも入っていました。

「小箱の錘は、5種類の重さを厳密に作ったつもりだが、一時に数千個も作ったため、念のためチェックして過不足があるなら、規定の重さに調整してほしい」と書かれています。

この文面に従うなら、日本初の知能検査キット『學齡兒童 智力檢査函』は、数千セット作られたことになります。翌年の南江堂版を加えると、相当数の検査キットが世に出ました。しかし、100年以上たった現在、数点が残るのみとなったのです。

『學齡兒童 智力檢査函』を世に出した三田谷啓とはどんな人物なのでしょうか。

明治14(1881)年兵庫県に生まれ、苦学して大阪府高等医学校(現、大阪大学医学部)を卒業して内科医となり、精神病理学、治療教育学などを修得しました。その後、ドイツへ3年間留学し、ビゲ式知能検査法に出会い、帰国後、日本の実情に合わせた改訂版を出しました。それが、大正4(1915)年発行の『學齡兒童 智力檢査函』、『學齡兒童智力檢査法』セットです。大正8(1919)年には、日本初の公立児童相談所、大阪市立児童相談所の設立に参加します。昭和2(1927)年、三田谷治療教育院を開設し、以後、障害児の治療教育に専念したのです。昭和37(1962)年没。

このように、三田谷治は、児童福祉、障害児教育の草分け的存在であり、74冊の著書を著しながらも、あまり知られてはいません。かくいう私も、全く知りませんでした。まだ、障害児の治療、教育に光が当たっていなかった時代に、科学的方法で治療教育に挑んだ在野の実践者なのです。

やはり明治の人は、志しとスケールが違う。

 

 

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