高札場の実際
明治初期の高札場の様子を描いた錦絵です。
明治政府は、江戸幕府の高札場をそのまま使っていたので、この絵は、江戸時代の高札場の様子を表していると考えて良いでしょう。
日本橋は五街道の起点であったので、特に立派な高札場が設けられていました。とにかく高い。人々を見下ろす位置にあり、江戸幕府の権威を象徴しています。
このような重要な高札場は、大高札場とよばれ、江戸には6カ所ありました。そのうちでも、日本橋の高札場は、最も重要とされていました。
描かれている高札は、地面にさしてあるように見える物が数点あります。が、よく観察すると、やはり、柱に掛けて固定されています。
一方、現在、全国各地、特に、旧街道筋では、街興しの一環として、高札場の復元がなされています。
この写真のような高札場が当時としては平均的な規模のものだったでしょう。基本的には、各村に一カ所。人の多く集まるところや往来の激しい場所に設置されました。
火事と御高札守護役
宿場や町中など、家が密集している場所に、高札場は設置されました。このような所は、高札場には適していましたが、その一方で、火事が頻発しました。そのため、大きな高札場では、火事の際、高札を避難させる役割の人が決まっていたようです。
残された文献資料はわずかですが、そのうちの一つ、岩国藩柳井町(現、山口県柳井市)の大野家文書をもとに、火事の際の高札についてみてみます(『御高札守護役 大野家文書』柳井市立柳井図書館、2003年)。
柳井奉行(代官)所があった柳井町(現、岩国市柳井)には、奉行所の脇に巨大な高札場が設けられていました。
柳井奉行所脇の高札場は、巾7m、高さ3mもの巨大なものであり、16枚の高札が掛けられるようになっていました。
これは、当時、最大級の規模の高札場ではないかと思います。
この高札場の管理を、奉行所から命じられたのが大野家です。大野家には、当時の貴重な文書が多く残されて、高札や高札場管理の様子を知ることができます。
染物屋を生業とする大野家は、代々、御高札守護役をつとめていました。
御高札守護役の任務は、高札場の管理全般でしたが、特に重要なのは、大風、火事などの緊急時に、高札を避難させることでした。
大野家文書の中に次のような一節があります。
「・・・・・・右御高札守護役仕候ニ付、平生心得の事、万一出火の節ハ第一遠近を聞き、風なみに気を付、近火は申ニ不及、遠火たり共風なみ悪くして、はげ敷時ハ、本人の儀ハ早束御高札をはずし、御蔵番所へ届け、御蔵の戸まへニ置、夜中成ば此方の烑ちんを燈、気を付候事。依て手伝役えも早束被参候様、手堅く申合置候事也。」
「御高札守護役を仰せつかっているのだから、常日頃からその事をわきまえ、万一出火の場合には、まず、火事が遠いか近いかを感じとり、風波に気をつけて、近火は当然だが遠火であっても、風波が激しい時は、直ちに高札をはずし、御蔵番所へ届けて、御蔵の戸の前に置き、夜中なら提灯をともして、用心すること。手伝い役もすぐに馳せ参じる事ができるように、しっかりと打ち合わせをしておくこと。」
御高札守護役は、どんな火事にも細心の注意をはらい、緊急時には、急いで高札をはずさねばならなかった。
巾7m、高さ3mにもなる巨大な高札場から、16枚もの高札をはずして避難させる作業は、時に、命がけであったでしょう。
夜中は、退避させた高札の傍に、提灯を置いて用心をした。
「御高札」守護とあるように、高札は大切に扱われたのです。
手伝い役もいたらしい。
このように緊急時の対応が求められたのですが、そのためには、毎日、常に気を配っておかねばなりません。大変、神経をつかいます。家を空けることもままならない。
高札を守る責務は非常に重く、大野家歴代当主は大変な役目を負っていたのです。
そんなわけで、大野家四代勘右衛門は、他の人に役を変わって欲しいと奉行所に願い出ました。
しかし、結局、適当な人材がいないと慰留されてしまうのです。
やめたいけど、やめさせてもらえない。
高札守護役はつらいよ!