江戸時代の観世流謡曲「勧進帳」伝授の誓約状(免状?)の雛形です。
能の謡いには、等級の別があります。観世流では、5級から1級へと進みます。これら平物(ひらもの)を卒業すると、さらに、「準九番習」、「九番習」、「重習」へと難易度が高い謡い(免状もの)となります。重習に入るのが、最上級の謡いです。
「勧進帳」は、能『安宅』の中で弁慶が巻物を読み上げる場面の謡いです。通常の音曲の謡いではなく、読み物です。長文の勧進帳を高らかに読み上げるのですが、言葉の調子だけで、弁慶の力強さと迫力を生み出すのは大変難しく、重習となっています。
今回の資料は、江戸時代(寛政年間)に、「勧進帳」を伝授される際、誓約状の形式をとった免状(雛形)と考えられます。
33.0 x 45.7 ㎝
一札之事
一 勧進帳 一曲
右今般御傳授被成下忝仕合奉存候
然ル上者前々誓紙ニ書顕候通私之相傳
仕間舗候尤被仰聞候心持之事並
覚書等他見他言不仕急度相守違犯
仕間處候仍而一札如件
年号
寛政十年 何 何某
戌午五月 実名書判
何 何月
観世織部殿
同 三十郎殿
取次 片山九郎右衛門殿
奉書ニ認ル 上包美濃紙 相掛
一札 性名実名
一札の事
一 勧進帳 一曲
右、今般御傳授成しくだされ、かたじけなく仕合わせに存じ奉り候。
然る上は、前々誓紙に書き顕し候通り、私の相伝え仕りまじく候。尤も、仰せ聞かされ候心持の事、並びに
覚書等、他見他言仕らず、きっと相守り、違犯
仕りまじく候。よって一札件の如し。
年号
寛政十年 何 何某
戌午五月 実名書判
何 何月
観世織部殿
同 三十郎殿
取次 片山九郎右衛門殿
奉書ニ認ル 上包美濃紙 相掛
一札 性名実名
差出先は、観世織部、観世三十郎となっています。江戸時代、観世宗家の多くは織部と名乗りました。また、幼名が三十郎の人も多くいました。その中で、寛政十年ごろの人に絞っていくと、19代宗家観世織部清興(宝暦11年ー文化12年(1761-1815))と20代宗家観世左衛門左近清暢(天明元年ー天保元年(1781-1830))に行きつきます。
19代宗家の時代に、宗家親子に対して、この一札は出される予定のものだと考えられます。
片山九郎右衛門は、観世流の名家、片山家の当主(代々)です。片山家は、江戸時代、禁裏能を務めるなど、京都を中心に活躍し、関西の観世流を担ってきました。
取次とあるので、観世宗家に重習い「勧進帳」の伝授を申請する際、片山九郎衛門が間に入ったと考えられます。伝授を受けるのは、京都やその近隣の人でしょう。
ところで、この場合、免状はあったのでしょうか。
現在では、謡曲の中級からさらに上級を目指して、準九番習から上の等級の謡いを学ぼうとするときには、原則として、師範の許可が要ります。めでたく習得できれば、免状を授かります。お茶やお花と似ています。
しかし、大正、昭和の謡曲免状は多数残っていますが、江戸時代の物は寡聞にして見たことがありません。江戸時代、能は武家の式楽であり、能楽師は、幕府や大名から禄を受けて生活していました。能や謡曲を大っぴらに教え、免状を与えることは憚られたのではないでしょうか。そのかわりに、今回の品のような、伝授を受ける者が宗家に対して誓約状と誓紙を提出したのではないでしょうか。
謡曲と同様、江戸時代は、小笠原流などの礼法を武士から町人まで多くの人々が学びました。その時に出された、折形などについての免状は多く残っています。それらについては、いずれブログにアップします。
また、ただ、揃っているだけでなく、それを読み下し、自身で研究も出来るんですから凄いです。
館主兼キュレーターの面目躍如たるものがありますね(^-^*)
ご都合主義のキュレーターです(^^;
「伝授された事柄は、絶対に外へは漏らしません」という誓約書は、なんとなく鍋島を連想させますね(^.^)
なるほどですね(^_^)
鍋島藩窯の職人に召し抱えられるに際しては、そのような誓約書を差し出していたのかもしれませんね。
もっとも、職人は、文字等読み書き出来なかったでしょうから、誓約書を読み聞かされ、それに血判でもして差し出したのでしょうか、、、。