初期伊万里の中皿です。非常に味わい深い品です。
以前のブログで紹介した漁村風景中皿とよく似ています。
ズッシリと手取りが重く、甘手でジカンが縦横に走っています。
径 21.2㎝、高 2.7㎝
高台 径 10.0cm
中央が厚く、端は急に薄くなっています。
生がけ焼成で、初期伊万里に定番の降りものと陶工の指跡がみられます。さらに、窯の天井から滴れた雫によってできたと思われる丸い疵跡もみられます。
高台は低く削り出されていて、以前紹介した初期伊万里草花虫紋中皿に似ています。高台の内側には、わずかに砂が付着しています。
また、非常に鉄分の多い陶土が使われています。李朝の宝城手かと思えるほどの風合いです。
味わいのある山水絵付けですが、これは李朝の焼き物に多く見られる「三山風景」といわれるものではないでしょうか。
料治熊太他『日本の絵皿』(昭和48年)
料治熊太氏によれば、三山風景とは、道馬里窯から漢江、北漢山を望んだ光景のことです。伊万里焼は、秀吉の朝鮮出兵時に、日本へ連れてこられた陶工たちによって始められたわけですから、伊万里焼の初期絵付けに、彼の地の風景が描かれても不思議ではありません(骨董屋は、美保の松原と富士山だと言いますが、それはないでしょう)。この風景が、次第に和様化され、その後の陶磁器絵付けの定番、山水図になったとも言われています。
また、料治熊太氏は2匹の鮎が激流を遡る中皿を紹介しています。ジカンの入り具合なども含め、今回の品とよく似ています。そして、別の著書の中で、このような品が、初期伊万里から藍九谷へと移行する時期の皿だと述べています(本を探したのですが、見あたりません(^^;)。今時こんな分類は流行らないのですが、世間から遅れて生きている遅生には、こちらの方がピンとくるのです。
先に紹介した漁村風景中皿と同じく、今回の品で面白いのは、裏側のジカンです。
炎と土の芸術とは、このようなものではないでしょうか。
陶工の指跡もアートの一部?!
むらむらとした釉薬の下に、クッキリとした線で黒点を結んだ模様が浮かび上がり、古地図を見るような趣。
まだ土蔵の片付けには入ってませんが、こういうお皿があったら、汚いわ~~と捨てちゃうかも(;^_^A
そうはいえ、日常の仕事で、そこまでのお片付けに手が回らず・・・
こちらで学ばせていただいて、処分は簡単にしないようにします(;^_^A
ぜひ、隠れていた品々を暗闇から表へ出して、日用の器として使ってあげてください。
ただ、一般的な初期伊万里に比べると高台が大きいので微妙な時代なんでしょうか(初期は所有していないので・・・)
この磁貫とシミの感じは、李朝や土物であれば「景色」になるんですが、磁器の場合は欠点になってしまう
このあたりが難しいところなんですね~・・・
不完全な品でありながら、350年以上の月日を生き残ってきたことを思えば
決して「欠点」ではなく「景色」なんだと思います。
じっさいのところ、私は伊万里門外漢なので、シミやキズはあまり目に入りません。というより、アバタがエクボに見えてしまうのです(^^;)
藍九谷は、中国人技術者の指導を受けた陶工集団が焼いたもので、初期伊万里を焼いた陶工集団とは別な陶工集団が焼いたものだという研究結果を読んだような気がします、、、。
もっとも、最近、古伊万里の勉強をしていないので、記憶が曖昧ですが、、、。
その研究結果によりますと、藍九谷は、最初から薄作りで、造形もシャープだったとか、、、。
その説に従えば、この中皿は、やはり、初期伊万里を焼いた陶工集団の手になるものですが、藍九谷の影響を受けるようになった作品ということになるのでしょうか。
良い具合にジカンが走っていますね。
ジカンも、長い年月を経ますと、アートに見えますね(^-^;
けれど、その時には、「九谷」を使うと白い目で見られるようになるんでしょうね(^^;)
無手勝流(要するに我流)の遅生としては、未知の部分が多い方がロマンを掻き立てられます(^.^)